呉の滅亡 (三国)

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呉滅亡
戦争:呉滅亡
年月日279年11月~280年3月15日
場所荊州揚州一帯(現在の安徽省湖北省湖南省江蘇省等)
結果を滅ぼし、中国を統一した(三国時代の終焉)。
交戦勢力
指揮官
司馬炎
賈充
孫皓
戦力
160,000 50,000
損害
不明 不明
三国時代

呉の滅亡(ごのめつぼう)とは、三国時代の最終期の戦争である、西晋)がを滅ぼし中国を統一した歴史事象であり、その戦いについて説明する。

概要[編集]

265年の朝廷を掌握した司馬昭を滅ぼした後に病没し、司馬昭の息子の司馬炎(武帝)が権力を継承した。司馬炎は同年に曹奐(元帝)禅譲を受けて皇帝に即位し、晋王朝を建てた。その後、279年に司馬炎は6方向より呉を攻めるように命令した。晋軍は破竹の勢いで呉軍を破り、280年3月15日に孫皓が降伏したことにより、中国を統一した。

過程[編集]

晋王朝成立[編集]

司馬炎(武帝)

263年、魏の実権を掌握していた司馬昭は、鍾会鄧艾を派遣して蜀漢を滅ぼすことに成功し、司馬氏の勢力は一段と強まった。司馬昭はこの機会に呉の制圧をも目論んだが、鍾会・姜維が蜀の地で反乱を起こして鄧艾を含む数多くの将士を失い、呉を滅ぼすための十分に強大な水軍の保持に欠けていた上、蜀滅亡後の混乱に便乗して永安に攻めてきた呉軍を追い返すので精一杯だった。そのため呉の制圧計画を一旦中止し、国内の慰撫に努め、国力を蓄えた。さらに、降伏した蜀漢の後主劉禅を安楽公に、蜀から魏に降伏した重臣達もそれぞれ侯に封じ、益州の地を安定化させることで、呉の人心を買おうとした。

264年3月、司馬昭は晋王に即位したものの、翌265年8月病没したため、息子の司馬炎が相国の地位と晋王の位を継承し、併せて魏の朝廷の実権を掌握した。同年12月元帝から禅譲を受け、国号をに改めた(歴史上、西晋と呼ぶ)。司馬炎は呉に講和の使者を派遣し、時間稼ぎを行なった。一方の呉は孫権の治世の晩年から後継者争いが発生し、国力は低下していった。3代皇帝孫休の時代に、いったん落着きを取り戻したものの、264年に孫皓が皇帝に即位すると事態は一変した。孫皓は愚昧かつ非道な人物であり、享楽に耽り酒色に溺れ、宮殿造営などの土木工事を行い、諫める忠臣らを殺したため、怨嗟の声は上は朝廷の官人から下は民衆にまで広がった。

呉攻略の準備[編集]

司馬炎は時間稼ぎに成功すると、将軍の選抜と軍隊出動の準備を行った。269年羊祜を都督荊州諸軍事に任命して襄陽に駐屯させ、衛瓘を都督青州諸軍事に任命して臨淄に駐屯させ、叔父の司馬伷を都督揚州諸軍事に任命して下邳に駐屯させた。羊祜は兵を訓練し食糧を蓄え、さらに呉の民心をつかむことにも成功した。さらに272年、王濬を益州刺史に任命し、大型船の建造と水軍訓練の密命を下し、呉攻略の準備を図った。王濬が造船した大船は、全長120歩・収容人数2000人、櫓や四面に大門を配し、馬が駆けることも可能で、さながら河の上の城のようなものであったという。こうした大船を大量に造り、晋は強大な水軍を作り上げた。278年、羊祜が没すると、杜預が後継に就任し、来るべき戦の準備を進めていった。

一方、呉の皇帝孫皓は、晋の戦備に対しまったく警戒しておらず、長江の天嶮を頼りにするばかりで防備を増強せず、何回も晋に軍を派遣した。陸遜の次子の陸抗は晋が呉を滅ぼす準備をしていると察知し、建平郡(現在の重慶市巫山県)・西陵郡(現在の湖北省宜昌市西陵区)に兵力の増強を要求した。また建平太守の吾彦も、長江に木くずが流れてきていることから、王濬が蜀で船を建造していると推測し、孫皓に対し「晋は必ず呉を攻める心づもりです。建平の兵を増強すべきです。建平が陥落しなければ、(晋軍は)長江を渡ることはできません(晋必有攻呉之計、宜増建平兵。建平不下、終不敢渡)」と述べたものの、孫皓はこれらの警告を無視した。さらに274年、陸抗が憂慮の中に死去すると、呉の中で晋に対抗できる名将はいなくなった。

攻略開始[編集]

西晋軍による呉攻略の図

279年、王濬と杜預は司馬炎に、呉討伐の時期が来たと上申した。12月、司馬炎は賈充を大都督に、楊済を副統領に任命し、各軍は攻勢を開始した。羊祜が生存中に策定した作戦の計画に従い、20万余の軍勢が、6方向より呉に侵攻を開始し、迅速に各地の呉軍の連携を断ち、各個撃破していった。司馬伷は下邳から涂中へ向かい、王渾寿春(現在の安徽省六安市)に出撃した。王戎は項城より武昌に進攻し、胡奮江夏(現在の武漢市江夏区)から夏口(現在の武漢市武昌区)に進撃した。杜預は襄陽から江陵(現在の荊州市江陵県)を目指し、王濬と唐彬は水軍を率い、蜀から長江を下っていった。張華は軍全体の進攻を統括した。晋軍の西部方面からの軍が主に攻撃を担い、東部方面からの軍は呉軍の主力を牽制する責任を担った。各軍は協調行動をとり、司馬炎は、建平にいる王濬の軍に杜預の監督を受けるよう命令し、建業(現在の南京市)攻略は王渾が指揮することとなった。

279年12月には王濬・唐彬率いる7万の軍勢が長江沿岸を攻略し、280年正月には王渾軍は既に長江を渡り、建業攻略の準備を始めた。孫皓は慌てて、丞相張悌に対し沈瑩孫震等を率い3万の軍勢で晋軍の長江渡河を迎撃するよう命令したが、結果は晋軍の大勝に終わった。これで張悌・沈瑩・孫震といった呉軍の将軍や兵士5,800人が惨殺されたため、呉は朝廷内から民衆まで大いに震え上がった。王渾軍は建業に接近し、配下の部将はすぐに建業攻略を王渾に建議した。しかし、王渾は司馬炎の長江以北を守ることという命令に従い、配下武将の建議を拒否、長江以北に軍隊を駐留させ、王濬軍を待つこととした。また司馬伷軍は長江付近に至り、建業を脅迫し始めた。

2月、王濬・唐彬率いる軍が、丹楊を攻撃し、西陵峡に進出した。呉軍は長江に鉄鎖を設置し、また、鉄の錐を長江に放ち、晋軍の前進を食い止めようとしたが敵わなかった。王濬は予め、大筏数十個を作り、筏の上に草で作った人形を配置し、筏を先行させ、鉄の錐を取り除かせ、火を用い鉄鎖を溶かした。晋軍は障害を順調に取り除き、西陵、夷道、楽郷、江陵へと進撃した。さらに胡奮も江安を攻め、ほとんどの戦は晋軍の勝利に帰した。

天下統一[編集]

司馬炎は王濬を都督益梁二州軍事に任命し、王濬と唐彬は継続して東方へ軍隊を進め、巴丘を攻略し、また胡奮と王戎には共に、夏口・武昌から長江を下り建業を攻撃するよう命令した。また、別動隊として杜預は南下し、零陵(現在の湖南省永州市零陵区)、桂陽衡陽を占領した。王濬はこのとき、命令に従い夏口を攻略し、その後、王戎とともに武昌を奪取したため、晋軍の主力は長江の上流地域を完全に制圧した。

3月、王濬軍は三山に達した。孫皓は張象に軍を率いさせ抵抗を試みたが、呉の将兵に既に戦意はなく、旗を振り晋軍に投降した。このため孫皓は、さらに陶濬に2万の軍を率いさせ抵抗しようとしたが、その兵たちも出撃前に殆どが逃亡し、陶濬は寡兵で出撃し戦死した。ここに至り、呉には守備する将兵がいなくなってしまい、各方面から進撃した晋軍は建業に到達した。孫皓は薛瑩、胡衝の計略により、投降する旨の書を持った使者を王濬、司馬伷、王渾に派遣し、離間策を試みたが徒労に終わった。3月15日、孫皓は片肌を脱いで後ろ手に縛らせた格好(肉袒面縛)[1]で投降、王濬は捷報を上表した。

呉の滅亡により、後漢末期から続いていた群雄割拠・三国鼎立の時代は終わり、中国はふたたび統一国家となった。

晋の勝利の情報が司馬炎に届くと、司馬炎は涙を流して盃を取り交わし、「これは羊太傅(=羊祜)の成功なり、惜しむらくは、彼が自分自身で見ることができなかったことだ(此羊太傅之功也、惜其不親見之耳!)」と言った。また、この戦に参加しなかった呉の驃騎将軍孫秀(呉から投降していた)は、朝廷から帰る時に長江がある南の方向を向き、「昔、討逆将軍(=孫策)が壮年時代に一校尉から呉を作り上げた。しかし、今、孫皓が降伏することで江南を捨てる!悠悠なるかな蒼天、孫皓は何と言う暗君か(昔討逆壮年、以一校尉創立基業;今孫皓挙江南而棄之!悠悠蒼天,此何人哉![2])」と泣きながら言った。

重要参戦人物[編集]

漢詩[編集]

西塞山懷古(劉禹錫
原文 書き下し文
西晉樓船下益州 西晋の楼船 益州より下り
金陵王氣黯然收 金陵の王気 黯然として收まる
千尋鐵鎖沈江底 千尋の鉄鎖 江底に沈み
一片降旛出石頭 一片の降旛 石頭より出づ
人世幾回傷往事 人世 幾回も往事を傷み
山形依舊枕江流 山形 旧に依りて江流に枕す
今逢四海爲家日 今逢ふ 四海を家と為す日
故壘蕭蕭蘆荻秋 故塁蕭蕭たり 蘆荻の秋

脚注[編集]

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  1. ^ 川本(2005)p.50
  2. ^ 詩経』国風「王風」の黍離(しょり)の一節、この状況にふさわしい亡国の歌である。

参考文献[編集]

日本語版に使用したもの
中国語版に記載されていたもの