鍾ヨウ

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本来の表記は「鍾繇」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
鍾繇
Zhong yao.jpg
鍾繇像。代の『三才図会』の想像による。
  太傅・定陵侯
出生 元嘉元年(151年
豫州 穎川郡 長社県
 (現・河南省許昌周辺)
死去 太和4年(230年
ピン音 Zhong Yao(チョン・ヤオ)
元常
諡号 成侯
主君 献帝曹操曹丕曹叡

鍾 繇(しょう よう)は、中国後漢末期から三国時代の政治家・武将・書家元常豫州穎川郡長社県(現在の河南省許昌周辺)の出身。鍾皓の曾孫、鍾迪の孫。鍾毓・鍾劭・鍾会の父。孫に鍾豫・鍾駿・鍾邕(「鍾会伝」)・鍾毅(「鍾会伝」)・鍾峻(「鍾会伝」)・鍾辿(「鍾会伝」)・鍾徽(王渾妻の父 『晋書』)等。鍾瑜は族父。鍾演は弟。郭援は甥(姉の子)。『三国志』魏志に伝がある。

目次

[編集] 先祖

新唐書』の「宰相世系表」は、鍾繇の先祖を末から楚漢戦争期の将軍鍾離昧とする。昧の次男の鍾離接が潁川郡長社県に移住して、鍾離から一字省いて鍾氏に改姓したとし、鍾接の子孫の鍾皓、孫の鍾迪、その子鍾繇と列挙している。しかし、接から皓までの間に何代もの隔たりがある上、『三国志』「鍾繇伝」注に所引の『先賢行状』および『後漢書』鍾皓伝では、鍾繇を鍾迪の孫とするなど、「世系表」の記述と食い違っており、この系譜は信憑性に疑問がある。

曽祖父の鍾皓は荀淑や陳寔と共に、名士の代表として並び称された人物であり、李膺とも縁戚関係があったが、後漢朝が宦官勢力の台頭により腐敗すると、党錮の禁により名士は弾圧され、祖父の鍾迪は仕官できなかった。

[編集] 経歴

[編集] 若き日

子供の時に、族父の鍾瑜に連れられて洛陽に行ったとき、人相見に出会い、出世の相と水難の相があることを告げられた。まもなく溺れそうになったため、人相見の言葉が当たっていると判断した鍾瑜は、鍾繇への援助を惜しまないようになったという。

最初は孝廉に推挙された。の陰修は穎川太守であったころ、郭図荀攸荀彧ら多くの優れた人材を世に送り出したとして評判を博したが、その中には功曹であった鍾繇も含まれていた(謝承『後漢書』)。

尚書郎・陽陵県令に任じられたが、病気のため退職した。その後、三公の役所に招聘され、廷尉正・黄門侍郎となった。

[編集] 曹操に仕える

当時献帝長安にあり、李傕郭汜という将軍が朝政を牛耳っており、政治は混乱していた。関東は事実上分断されていたが、軍閥の中から頭角を現した曹操は、兗州の牧の地位に就くことが認められたので、長安に初めて使者を送った[1]。李傕と郭汜はこれを訝しく思い、曹操の使者を留め置いて妨害すべきだと考えたが、鍾繇が曹操のために弁護したため、使者は目的を果たすことができた。曹操はかねてより、荀彧が鍾繇をたびたび褒めていたことを知っていたが、この話を聞き鍾繇に興味を持つようになったという。

鍾繇は李傕らの手から献帝を守り、策略を駆使して長安を脱出するのに貢献があった。御史中丞となり、侍中尚書僕射へ昇進し、以前の功績も取り上げられ東武亭侯とされた。

[編集] 関中を統治する

献帝を迎えた曹操だったが、山東での戦乱はいまだ止まない一方で、関中には馬騰韓遂が勢力を保っていたため、鍾繇を侍中のままで司隷校尉を兼任させ、持節を与え関中方面の軍事と統治を任せた。鍾繇は特に法令に拘束されない権限を持つようになった。

長安に到達すると、馬騰・韓遂を説得して、曹操に従わせることに成功した。馬騰・韓遂は子供を人質として朝廷に参内させた。

曹操が袁紹黄河を挟んで争ったときは(官渡の戦い)、鍾繇は馬を2千余頭集め、曹操に送り軍役に立たせた。曹操は鍾繇を前漢蕭何に準えて功績を称えた。

建安7年(202年)、袁尚と手を結んだ匈奴単于呼廚泉)が平陽で反乱を起こし、鍾繇は平陽を包囲した。袁尚の部将の郭援(鍾繇の外甥)は平陽に救援に向かった。諸将は郭援の勢いが盛んであることを理由に撤退を主張したが、鍾繇は関中の不安定な状勢を考えると撤退は難しいと説得し、また縁戚でもある郭援の性格を熟知していたことから、必ず打ち破れると鼓舞した。一方で張既に命令して、馬騰に曹操に服従して郭援を討伐するように説得させた。馬騰は説得に応じ鍾繇に援軍として、馬騰の子の馬超龐徳ら一万余人を送った。鍾繇は馬超・龐徳とともに郭援と戦ったが、郭援が川を渡りきる前に攻撃して大いに破り、郭援を討ち取り、呼廚泉を降伏させた。郭援を直接討ち取ったのは龐徳であり、首級を見せられた郭援の叔父であった鍾繇は号泣したが、陳謝する龐徳に対しては、郭援は謀反人であるのだから謝罪の必要はないと言い、公私の別を明らかにしたという(「龐徳伝」)。

河東太守を長く務めた人物に王邑がいた。鍾繇は杜畿を新たに河東太守に任命し、王邑に印綬を渡すよう圧力をかけたが、王邑は鍾繇の意に反し、直接朝廷に出向き印綬を渡した。鍾繇は面目を潰された形となったが、王邑は人望が厚く、朝廷に対して功績もある人物であったため処罰を求めるわけにもいかず、代わりに自分自身を処罰することを求めた。詔勅により辞任の申し出は却下された(『魏略』)。

まもなく河東の有力者である衛固が、張晟・張琰・高幹と結び反乱を起こした。曹操は再び張既を用いて馬騰らを呼び集めさせた。鍾繇は将軍を引き連れてただちに衛固らを鎮圧した。

長安遷都以来、洛陽の人口は激減していたが、鍾繇は洛陽に関中の住民を移住させ、また犯罪者逃亡者を住まわせることにより、洛陽の人口を回復させた。後に曹操が関中を討伐できたのは、この鍾繇の政策のおかげであった。鍾繇は前軍師となった。

建安16年(211年)、鍾繇は張魯討伐の名目で馬超ら関中の諸将に対し、強引に人質を要求する提案を曹操に対して出した。関中の内政を担当していた衛覬はこれを諌め、荀彧を通じて曹操に翻意を促したが、結局、鍾繇の強硬路線が採用され、結果的に馬超や韓遂ら関中の諸将の反乱(潼関の戦い)を招き、死者は5桁に上ったという(「衛覬伝」が引く『魏書』)。

[編集] 魏の重臣へ

曹操が魏王となると、魏の大理となった。その法の運用ぶりは、王朗と並び称されたという(「王朗伝」)。また、毛玠が讒言により弾劾されると、その取調べに当たっている(「毛玠伝」)。あるとき曹操は、死刑の代わりに宮刑の復活を提案したところ、鍾繇は死刑の代わりとして肉刑を復活させるべきと意見したが、民への影響を案じた意見が多く一時沙汰止みとなった。

太子であった曹丕とは親しく、五熟釜を貰ったり、玉玦を贈ったりした仲であった(『魏略』)。孫権が臣下の礼をとり、関羽の首を送ってきたとき、手紙を交換し対応を相談し合ったこともあるという(『魏略』)。

鍾繇は相国にまで昇進したが、かつて推挙した西曹の魏諷が建安24年(219年)に反乱を起こし、連座により一時免職となっている。曹丕が魏王となると再び大理となり、曹丕が皇帝に即位すると(文帝)、太尉・平陽亭侯となった。鍾繇の功績に報いるため、封地を分割して、弟の鍾演とその子と孫を侯に取り立てている。

文帝は、以前の鍾繇の肉刑復活論に理解を示していたため、群臣達を集め何回か議論をさせた。戦により一時沙汰止みとなった。

曹叡(明帝)が皇帝となると、太傅・定陵侯となった。

明帝期の太和年間に、鍾繇は上奏し、死刑の代替としての肉刑の復活を再び主張し、足切り・鼻削ぎなどの肉刑を受けても、子は作れるとして人口減対策にもなるとも唱えた。しかし、司徒の王朗は肉刑の弊害(特に「肉刑が復活した」とだけ伝わった場合の呉の民に与える影響)を憂慮し、死刑そのものを減らすのが目的ならば、他の手段をとるべきと意見を述べた。この論議には100人ほどの参加者があったが、王朗の意見を支持する者が多かった。明帝は呉と蜀の平定が先決だとして、再び沙汰止みとした。

このころ、張氏を溺愛したため、別の側室である孫氏は嫉妬し、張氏を毒殺しようとした。鍾繇はこれを咎め、孫氏と離縁し、ますます張氏を愛するようになり、ついには末子となる鍾会をもうけている(「鍾会伝」が引く鍾会の自伝)。またあるとき、離縁した妻と復縁することを文帝から命じられたため、憤激して自害しようと山椒を目一杯喰らって咽喉に支障を来し、口が利けなくなったともいう(「鍾会伝」が引く『魏氏春秋』)。

太和4年(230年)、80歳で死去した。諡号成侯。大理(廷尉)であったことの公正さが評価されたためという(『魏書』)。

爵位は子の鍾毓が継ぎ、末子の鍾会も魏の重臣となった。鍾毓は頭の回転と話術で父と同じ風格を持っていたとされ、夏侯玄の取調べに当たるなど、父と同じく廷尉の職にあったこともある(「諸夏侯曹伝」)。晩年は都督となり、徐州荊州の諸軍事の職にあったが、景元4年(263年)に死去した。孫の鍾駿が跡を継いだ。

景元5年(264年)に鍾会が蜀で反乱を起こし殺害されたとき、鍾毓の子のうち、鍾会に随行していた鍾邕も殺害され、その他の子達(鍾毅・鍾峻・鍾辿)も皆収監された。一族はそのまま連座して処罰されるところであったが、鍾繇と鍾毓の功績に免じて一部が許されている(「鍾会伝」)。

また、鍾毓・鍾会以外にも氏名不詳の子がおり、鍾繇から見て曾孫に当たる女子が、西晋の重臣である王渾の妻となっている(『晋書』)。

[編集] 逸話

元司徒の趙温が死去したとき、吉黄が喪にかけつけようと法に違反したため、司隷校尉の鍾繇は吉黄を法に従って処断した。その弟の吉茂は兄の死去に慟哭したが、三輔で清廉と評判が立っていたため、鍾繇はその年の末に吉茂を推挙した。後に吉茂の同族の吉本が乱を起こしたとき、鍾繇は相国になっていたが、吉本と吉茂の縁は既に遠くなっていると弁護したため、吉茂は連座を免れたという(「常林伝」が引く『魏略』「清介伝」)。

また、三輔が乱れて以来、学問に精通し『春秋公羊伝』を窮めていた厳幹に対し、司隷校尉であった鍾繇は『公羊』を好まず、『左伝』を愛好していたため、厳幹としばしば議論をした。頭の回転が速く能弁である鍾繇に、厳幹は訥弁であったため議論で勝てなかったが、厳幹は鍾繇が上役だから議論に屈服しただけであると言い返したという(「裴潜伝」が引く『魏略』)。

荀彧を尊敬し、顔回と同等の人物と賞賛し、後々まで荀彧の才能を称えた(「荀彧伝」)。

荀攸と親友であり荀攸の死後、その家族の面倒を見たという(魏志「方技伝」)。荀攸の才能を賞賛し、その兵法をただ1人知っていたが、それを記録することが終わらないうちに死去したため、荀攸の兵法のほとんどは後世に伝わらなくなったという(「荀攸伝」)。

陳寿は鍾繇のことを、道理に通じ、司法の才があったとして称えている。

[編集] 三国志演義

小説『三国志演義』では、長安太守として登場し、父の復讐に燃える馬超の猛攻にさらされ、弟の鍾進(架空の人物)が龐徳に討たれるなどなすすべなく大敗する。しかし、その後は史実同様、有能な政治家として活動する。曹叡の時代、諸葛亮の北伐に曹真が連戦連敗し、魏が危機に追い込まれると、引退状態であったが老体に鞭を打って現役復帰し、先に左遷された司馬懿を登用するように進言している。

[編集] 鍾繇の書

書家としても、小楷書法でその名を残しており、隷書行書に巧みであった。楷書が特に有名であるが、三国時代には楷書という言葉がなく、後世の書家によって楷書に当てはめられたものであり、隷書と楷書の中間のような書体である。これを「鍾繇体」という。鍾繇の楷書は、書聖王羲之をはじめ非常に多くの書家が学んでおり、現代でもよく学ばれている。

作品には、『急就章』・『薦季直表』・『宣示表』・『賀捷表』・『墓田丙舎帖』・『上尊号奏』などがある。

[編集] 脚注

  1. ^ 『世語』によると、曹操は長安に従事の王必を使者として送っている。

[編集] 関連項目

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