夏侯淵
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夏侯 淵(かこう えん、? - 建安24年(219年)1月)は、中国、後漢末の武将。字は妙才。曹操と夏侯惇の従弟に当たる。正妻は曹操の妻の妹(一説では丁氏とも)。軍の拠点間の迅速な移動や奇襲攻撃や兵糧監督などの後方支援を得意とし、その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた。
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[編集] 略歴
[編集] 曹軍の主将
曹操が県の長官の件で罪を受けた時その身代わりとなった事がある。黄巾の乱の時に曹操が兵を挙げると、兵を率いて随行し、やがて陳留・潁川の太守に任命された。
その後、曹操軍の主力の一人として曹操に従って転戦し、その勇将ぶりで、都度、戦功を立てた。ある時は先鋒として速さをもって敵に当たり、ある時は後方を固めて軍を支援した。
官渡の戦いの後は、兗州・豫州・徐州の兵糧を取り仕切り、曹操軍の勝利に貢献した。また、各地での数々の反乱を平定し、曹操の勢力下の治安維持に貢献した。 建安14年(209年)、廬江の雷緒を破る。その後、徐晃とともに太原の賊を攻撃し、二十余りの屯営を陥落させ、頭目の商曜を斬首した。
[編集] 征西将軍
建安16年(211年)、曹操軍の韓遂・馬超らの征伐に従軍した(潼関の戦い)。その後、夏侯淵は実質的に曹操軍の西方司令官として、張郃・徐晃らとともに涼州の諸勢力を討伐し、楊秋を降伏させ、梁興・宋建を滅ぼし、羌族の諸部族を降伏させた。
建安19年(214年)、趙衢・尹奉らが馬超討伐を計画、西城で挙兵した姜叙と通謀。馬超をだまして姜叙攻めに出撃させ、その後方で馬超の妻子を殺害した。馬超は漢中へ脱走したが、張魯に兵を借り、戻ってきて祁山を包囲した。姜叙らは夏侯淵に助けを求め、諸将は太祖の命令を待つべきと意見した。夏侯淵は「公のおられる鄴までは往復四千里、返事を待っているうちに姜叙らは敗北してしまうだろう」と言い、出陣した。馬超は夏侯淵軍の先鋒の張郃に攻められ、戦わずして逃走し、劉備の元に身を寄せた。
韓遂を討伐するために、韓遂軍の勢いを避けて、その後ろにいる韓遂に味方する羌族を攻めて大いに破り、救援に来た韓遂を大いに破り、韓遂に味方する氐族を降伏させた。
このように夏侯淵は涼州の馬超・韓遂らの勢力を壊滅させて、涼州を平定した。
建安20年(215年)、漢中の張魯が曹操に降伏すると漢中の守備を任され、征西将軍になった。
[編集] 定軍山に散る
張魯の降伏後、劉備は漢中を奪取し、そこを拠点にさらに北上して魏を滅ぼすという戦略の下漢中攻撃を開始した。夏侯淵は指揮下の張郃や徐晃をたくみに繰り出し蜀軍と一進一退の攻防を数年に渡り続けた。 しかし、陽平関を奪われるなど徐々に追い詰められ、建安24年(219年)、劉備の部隊はついに定軍山の本営にまで至り、夏侯淵は自らこれと対峙した。劉備は夜間に攻撃を開始した。夏侯淵は張郃に東方の陣営を守らせ、自分は南方の陣営を守ったが張郃が苦戦したため、自分の兵の半分を援軍に向かわせた。法正の策により劉備は半減した夏侯淵の本隊を攻撃した。劉備はまず夏侯淵の本営より十五里離れたところの逆茂木を焼き払った。夏侯淵は兵士四百人を率いて自らこれを修復にあたったが、黄忠は高所に昇り背後から夏侯淵を攻撃した。夏侯淵は黄忠の軍を更に迂回することに成功し背後から黄忠を攻撃したがこの攻撃は失敗し、打ち破られ夏侯淵は戦死した(定軍山の戦い)。諡は愍(びん)侯とされた。
夏侯淵はしばしば戦勝を収めているものの、曹操は「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは知略を用いよ」と戒めていた。
[編集] 『三国志演義』における夏侯淵
『三国志演義』では、曹操の親族、夏侯惇の弟として早くから登場し、剛直な猛将で弓術に長けていた。銅雀台落成の余興では、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露。
彼の戦死を聞いた曹操は嘆き悲しみ、激怒したという。
[編集] 家系図
● ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ● ● ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓ 夏侯惇 夏侯廉 夏侯淵 ● ● ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓ ┃ ┃ 夏侯充 夏侯楙 夏侯子臧 夏侯子江 ● 夏侯衡 夏侯覇 夏侯称 夏侯威 夏侯栄 夏侯恵 夏侯和 夏侯尚 ● ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 夏侯佐 ● 夏侯玄 夏侯徽 夏侯儒 ┃ 夏侯湛
[編集] 宗族
- 子
- 姪
- 張飛妻

