袁紹

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袁 紹(えん しょう、? - 建安7年(202年5月)は中国後漢末期の武将政治家本初(ほんしょ)。

豫州汝南郡汝陽県の出身。大将軍何進と協力して激しく宦官と対立し、董卓の乱の際には首都の洛陽より奔って河内にて兵を挙げた。後に河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて自らの優柔不断さが原因で曹操に敗れた後、病死した。

目次

[編集] 出自・血縁

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後漢時代に四代に渡って三公を輩出した名門・袁家の出身であり、その存在自体が周囲に影響力を持っていた。

袁紹は袁成の子であり、袁術は袁成の弟・袁逢の子であるとされている。ただし、『魏書』(王沈撰)や『後漢書』(袁山松撰)によれば、袁紹は袁術の異母兄弟であるという。また、王沈らの説に基づけば、袁紹は袁逢の庶子で、伯父の袁成の養子となって後を継いだという。

袁逢・袁隗の次の世代の袁氏宗族の長は袁紹と袁術のいずれか(あるいは異母兄(袁術と同母兄弟)の袁基)と目されており、都にいた地方の豪族子弟はこぞって両家に赴いた。しかし袁紹は袁術よりも名望高く、例えば何顒許攸らは袁術の門に赴かなかった。袁術はこれが面白くなかったようで、袁紹を嫌っていた。

叔父に袁隗、息子に袁譚袁煕袁尚らがいる。また袁買という人物には「袁紹の庶子」「袁尚の兄の子」という二説がある。

[編集] 生涯

[編集] 名門の実力者

『三国志』魏書袁紹伝によると、出仕する前は遊侠を好み、張邈(孟卓)、何顒(伯求)、許攸(子遠)、伍孚(徳瑜)、呉子卿(諱は不詳)らの名士と「奔走の友」の交わりを結んだ。 霊帝時代の大将軍の何進との縁もあり、若い頃から侍御史になり、中軍校尉、やがて司隷校尉まで登る。霊帝の死後、何進にすみやかに宦官を排除するよう進言したが、受け入れなかった何進は逆に宦官によって殺されてしまう。袁紹はこれを機に兵を動かし、宮中の宦官らを殺害、死者は誤って殺された者も含め2,000人に及んだ。

その後、漢の実権を握った董卓は、少帝を廃して陳留王(献帝)を立てようとした時、太傅の袁隗を叔父に持つ袁紹に相談を持ちかけた。袁紹は表向き賛成したが、そのまま冀州に逃亡した。董卓はこれに激怒したが、その後、名門である袁氏の勢力を恐れて、袁紹を勃海郡の太守に任命している。190年橋瑁の呼びかけ(小説『三国志演義』では曹操の呼びかけ)で諸侯が董卓征討の兵を起こし、連合軍が結成されたときは、きっての実力者だった袁紹が盟主に推挙された。この時、盟主に袁紹を推挙したのは、曹操だったといわれている。

連合軍は董卓軍と攻防するも、諸侯はそれぞれ自らの理を重視して行動しており、果敢に攻めいるものは少なかった。袁紹は諸侯を完璧にとりまとめることはできず、諸侯は足の引き合いを始め、連合軍は攻めあぐねる。次第に袁紹は孫堅、曹操と作戦面で対立するなど連合に不協和音が目立ちはじめ、劉岱と橋瑁が反目したり、兵糧が尽きたりなどして、最終的に董卓の長安遷都をきっかけに連合は瓦解した。

[編集] 勢力拡張

董卓征討軍が解散したのち、袁紹は同じく名門袁家の出で、勢力を誇る袁術と対立を深める。諸侯はそれぞれが袁紹か袁術と盟約を結んだ。このとき、袁紹と同盟したのが曹操・劉表韓馥など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚陶謙などである。袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、大司馬劉虞の擁立を計画したが、袁術や公孫瓚はこれに強く反した。191年に謀略をもってして韓馥より冀州牧の地位を譲り受けとなる[1]192年兗州において曹操と共に袁術を打ち破り、袁術を寿春へ退かせた。197年に大将軍に任じられた。

袁術と手を結んだ公孫瓚は、かねてより異民族への方針を巡って関係の悪化していた劉虞を殺害、袁紹と公孫瓚の対立はさらに激化する。袁紹は公孫瓚と交戦し、公孫瓚の従弟の公孫越を殺害。これに激怒した公孫瓚に対して袁紹は講和を図ったが、結果的には総力戦に発展。192年、界橋の戦いにおいて袁紹は麹義の活躍により辛くも勝利を収めるが、その後の追撃で公孫瓚の籠る城を落とせず、退却したところを逆に追撃されて大敗を喫する。公孫瓚は南進して諸郡を攻めるも、袁紹は数万の軍を出動させる構えを見せ、2年余りの長期戦と化す。結果的に袁紹は自領を守りきった。

その後、鮑丘の戦いで配下や劉虞の旧臣が公孫瓚を破ると、公孫瓚は10年は籠ることのできると言われる難攻不落の易京城に籠城。袁紹は城外の張燕・公孫続と城内との連携作戦を察知し、これを破る。199年、地下道を掘り進めて易京を陥落させて幽州を手中に収め、公孫瓚を滅亡に追い込む。更には息子達に軍を預けて青州并州にも勢力を拡大し、肥沃な河北四州を治めることに成功。同時代屈指の一大勢力を築きあげた。

[編集] 曹操との決戦

その後、河南一帯を統一した曹操と対立を深める。中原の二大勢力となった両者の対決は必至であった。200年には、持久戦を主張する沮授田豊の言を退け官渡の戦いと呼ばれる一大決戦に臨んだ(田豊は元々、曹操が河南攻略のために転戦していた留守を狙い、電撃戦で洛陽を奪取すべしという策を進言していたが、袁紹は息子の病気を理由にこれを退けていた。その間に曹操は河南を統一してしまったため、やむを得ず田豊は持久戦主張に策を切り替えたがこちらも袁紹は受け入れず田豊を投獄し、結果的に時勢を読み切れずに機を逃がす)。

緒戦こそ白馬・延津で顔良文醜らが討ち取られるなど出鼻を挫かれたものの、兵力・物資で勝る河北軍はじりじりと陣営を圧迫し、一時は撤退を考えさせるほどの状況に曹操を追い込む。しかし、陣中の不和から最古参の重鎮の許攸が曹操軍に寝返り兵糧庫の所在を暴露。それを焼き打ちされたことが大きな打撃となり、また高覧張郃らの寝返りなどもあって結果的には冀州に敗走した。

この官渡の戦いで曹操と袁紹の勢力差が逆転したといわれることが多いが、敗戦後に冀州の各地で袁紹に対する反乱が勃発したとき、袁紹はこれらを全て平定している。また、曹操も袁紹存命中は侵攻しなかったため、敗戦後もその国力・勢力は曹操を上回っていたと思われる。

しかし、曹操との戦いで敗れた苦痛から病に倒れ、建安7年(202年)5月に死去した。

[編集] 死後

袁紹は生前に明確な後継者を選んでいなかった。このことが彼の死後に災いして、袁氏勢力は長男の袁譚派(郭図辛評ら)と末子の袁尚派(審配逢紀ら)に分裂する。袁譚、袁尚は相続を巡り骨肉の争いを繰り広げ、その間隙を曹操に付け込まれ、各個撃破される形で袁氏は滅亡した。

[編集] 評価

三国志』の編者である陳寿は「袁紹の威容は堂々としていて名は世に知れ渡り、河朔に割拠した。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、謀を好みながら決断力に欠けていた。良い人物がいてもこれを用いることが出来ず、良い言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。長子を廃して庶子を後継に立て、死後に国を失ったことも不幸な出来事とは言えない」と評している。なお、陳寿は袁紹と劉表を似た者と考えていたらしく、上の評をこの2人に対して送っている。曹操や孫権の後継ぎ争いの際にも、袁紹と劉表は悪例として諫言の引き合いに出された。

『三国志』の記述は、すなわち曹操の一族を中心にした立場を取っており、曹操の仇敵に対しては実質以上に貶されている可能性もあるが、概ね決断力の無さや器量の不足を指摘されている。

[編集] 脚註

  1. ^英雄記』によれば、逢紀は袁紹に「公孫瓚に韓馥を攻めさせて、韓馥が臆病な気持ちになったところを、使者を派遣して利害損得を説明させれば、韓馥は冀州を(袁紹に)譲るでしょう」と語った。