田豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細

田 豊(でん ほう、? - 200年)は、中国後漢時代末期の政治家、武将。元皓[1]冀州鉅鹿郡の人とも、また勃海郡の人ともいわれる。[1]

正史の事跡[編集]

初期の事跡[編集]

姓名 田豊
時代 後漢時代
生没年 生年不詳 - 200年建安5年)
字・別号 元皓(字)
本貫・出身地等 冀州

鉅鹿郡?,勃海郡?)

職官 冀州別駕
爵位・号等 -
陣営・所属等 韓馥袁紹
家族・一族 〔不詳〕

若いころから権謀術策に長じ、博学多才の人物として名を知られていた。最初は茂才に推挙され、侍御史に昇進した。宦官の専横などを見て朝廷に嫌気が差し、官職を辞して郷里に引き上げた。その後、袁紹の参謀として仕えるようになる。

初平2年(191年)、袁紹が韓馥から冀州を奪った際には、これに抵抗する耿武閔純を、袁紹の命令により殺害している。またこの時に、田豊は別駕(従事史)に任命された模様である。同年冬、公孫瓚と界橋で戦った際に、公孫瓚軍の兵から袁紹と共に取り囲まれる危地に陥った。この時、田豊は袁紹を物陰に隠そうとしたが、袁紹は兜を脱ぎ捨ててその場に踏み留まった。

興平2年(195年)頃と思われるが、田豊は献帝を迎え入れるよう袁紹に進言したが、受け入れられなかった。その後、田豊は袁紹に数々の献策を行い、公孫瓚などを攻め滅ぼす上で貢献している。建安4年(199年)に、対曹操の戦略をめぐって、田豊は沮授と共に持久戦略を主張したが、袁紹は審配郭図らが唱える短期決戦戦略を採用した。

官渡の戦いと最期[編集]

建安5年(200年)正月、曹操が劉備と戦って許都を留守にしていたとき、その背後を襲撃するよう進言した。しかし、袁紹は息子の病気を理由に出撃しなかったため、田豊は杖で地面を叩いて悔しがったという。その結果、劉備は敗走を余儀なくされている。同年2月、今度は出撃しようとした袁紹に対し、持久戦を主張して懸命に諫止したが、袁紹の怒りを買って投獄されてしまった。

田豊が危ぶんだ通り、同年10月に、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗してしまう。その後、袁紹は田豊が自分を笑い者にすることだろうと猜疑し、これを殺害してしまった。なお『三国志』袁紹伝の注に引く『先賢行状』によると、田豊と犬猿の仲であった逢紀の讒言が原因であるとしている。

後世の評価[編集]

田豊は、沮授と並ぶ袁紹軍の2大知将と評することができる。後に曹操は「もし袁紹が田豊の献策を用いておれば、予と袁紹の立場は全く逆のものとなっていたであろう」と語っており、『三国志』魏書袁紹伝の注によると、歴史家の孫盛は「田豊・沮授の智謀は、張良陳平に匹敵する」と賞賛している。

田豊は、袁紹に先見性のある進言を何度も行ったが、剛直な性格で歯に衣着せぬ厳しい発言をしたため、次第に袁紹に疎まれるようになった。この点については、曹操の参謀荀彧が「剛情で上に逆らう」と指摘した通りである。また、『三国志』の注釈者である裴松之も「主君を誤ったがために忠節を尽くして死ななければならなかった」と慨嘆している。

物語中の田豊[編集]

小説『三国志演義』でも、正史のほぼ全ての事跡について史実通りであり、暗君に忠義を尽くして悲劇的な最期を遂げた人物として描かれている。ただ最期の場面では、田豊は官渡での敗北を聞いて、すでに自身の運命を悟り、獄中で自害し果てていたことになっている。

脚注[編集]

  1. ^ a b 《先賢行状》

参考文献[編集]