文醜
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文 醜(ぶん しゅう、? - 200年)は、中国の後漢時代末期の武将。
[編集] 生涯
| 姓名 | 文醜 |
|---|---|
| 時代 | 後漢時代 |
| 生没年 | 生年不詳 - 200年(建安5年) |
| 字・別号 | 〔不詳〕 |
| 出身地 | 〔不詳〕 |
| 職官 | 将帥→騎将 |
| 爵位・号等 | - |
| 陣営・所属等 | 袁紹 |
| 家族・一族 | 〔不詳〕 |
袁紹配下の将。袁紹軍の中では顔良と並んで勇将と称され、孔融が曹操に対して出兵を諌めたときには武の代表として名が上がっている。なお、顔良と文醜は同格の人物とされるが、顔良が歩兵を率いたのに対して文醜は騎兵部隊を率いており、立場はおそらく異なる。
建安5年(200年)、それまでにらみ合っていた袁紹と曹操が激突し(官渡の戦い)、袁紹軍は白馬に於ける初戦で勇将顔良を討ち取られた。曹操軍は白馬から引き上げ、黄河に沿って西に移動したが、袁紹はそれを追って黄河を渡り、南岸の延津に到達する。そして騎将の文醜と当時袁紹の客将となっていた劉備に曹操を追撃させた。
これに対して曹操は、参謀荀攸の策略を採用し、輜重隊をおとりにして文醜を誘った。これに文醜は引っかかって輜重隊を襲うが、このことがもとで陣形が乱れた。曹操は手薄になった文醜の部隊に攻撃を仕掛け、文醜は混乱の中で戦死した。顔良、文醜と名だたる将軍2人を立て続けに失い、袁紹軍は大きく動揺したという。
曹操の参謀荀彧は、上記の孔融に対し、「顔良と文醜は匹夫の勇のみです。一戦にして生け捕れます」と答えたが、まさにその通りとなっている。
[編集] 演義
『演義』では、身の丈8尺、顔は獬豸(かいち・伝説上の神獣)のような姿とされる。顔良とは兄弟同然の親友という設定。
初平3年(192年)の界橋の戦い前後から登場する。界橋の戦いで公孫瓚に向かって突進し、後一歩でこれを生け捕るところまで追い詰めるが、袁紹の下から出奔していた趙雲に阻まれ、取り逃がす。
白馬の戦いで顔良が討ち取られると、仇を討つために劉備と共に出陣し、史実同様に輜重隊の罠にかかり敗走する。追撃してきた曹操配下の張遼を弓で射落とし、さらに徐晃をも退けた。だが関羽には打ち負けて、逃げようとする所を追いつかれて背後から斬殺されてしまう。

