文醜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細
文醜
後漢
将帥→騎将
出生 不詳
死去 200年建安5年)
ピン音 Wen Chou
不詳
主君 袁紹

文 醜(ぶん しゅう、? - 200年)は、中国後漢時代末期の武将。文丑(ぶんちゅう)ともいう。

生涯[編集]

袁紹配下。袁紹軍の中では顔良と並んで勇将と称され、孔融曹操に対して出兵を諌めたときには、将帥の代表として名が挙がっている。なお、顔良と文醜は同格の人物とされているが、顔良が歩兵部隊を率いたのに対し文醜は騎兵部隊を率いており、立場はおそらく異なる。

建安5年(200年)、それまで睨み合っていた袁紹と曹操が激突し(官渡の戦い)、袁紹軍は白馬に於ける初戦で顔良を討ち取られた。しかし曹操軍が白馬から引き上げ、黄河に沿って西へ移動したため、袁紹はそれを追って黄河を渡り、南岸の延津に到達した。そして、文醜と当時袁紹の客将となっていた劉備に、曹操を追撃させた。

これに対して曹操は荀攸の策略を採用し、輜重隊をおとりにして文醜を誘った。文醜はこれに引っ掛かり輜重隊を襲ったため、このことが元で陣形が乱れた。曹操はこの機会を逃すまいと、手薄になった文醜の部隊に攻撃を仕掛け、文醜を混乱の中で戦死させた。顔良・文醜と名だたる将軍2人を立て続けに失ったことで、袁紹軍は大きく動揺したという。

曹操の参謀荀彧は、上記の孔融に対し「顔良と文醜は匹夫の勇のみです。一戦にして生け捕れます」と述べたが、まさにその通りとなった。

演義[編集]

小説『三国志演義』では、身の丈8尺、顔は獬豸(かいち、伝説上の神獣)のような姿とされる。顔良とは兄弟同然の親友という設定。

初平3年(192年)の界橋の戦い前後から登場する。界橋の戦いで公孫瓚に向かって突進し、後一歩でこれを生け捕るところまで追い詰めるが、袁紹の下から出奔していた趙雲に阻まれ取り逃がす。

白馬の戦いで顔良が討ち取られると、仇を討つために劉備と共に出陣し、史実同様に輜重隊の罠にかかり敗走する。しかし、追撃してきた張遼を弓で射落とし、さらに徐晃をも退けている。だが関羽には打ち負けて、逃亡時に追撃を受け背後から斬殺されてしまう。

参考文献[編集]