何進

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何 進(か しん、? - 光熹元年(189年8月29日(旧暦))は、中国後漢末期の武将、政治家。遂高。南陽(河南省南陽)宛の人。霊帝の皇后何氏の異母兄。父は何真。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)。孫に何晏

[編集] 略歴

何氏の家は元は屠殺業であったとされる。

十常侍の一人にも数えられる同郡出身の宦官郭勝の後押しがあって異母妹何氏霊帝の宮中に入り貴人となったため、取り立てられ郎中となり、虎賁中郎将を経て潁川太守に転じた。光和3年(179年)に宋皇后が廃され妹が皇后に立てられると、中央に戻り侍中となり、将作大匠、河南尹となった。

中平元年(184年)、太平道張角による黄巾の乱が勃発すると、何進は大将軍となり、近衛兵を率いて首都の洛陽を守備し、兵器を修繕し軍備を整えたり、密偵の馬元義を捕らえる功績を挙げ、慎侯に封じられた。皇甫嵩朱儁盧植董卓らの働きにより黄巾の乱は鎮圧された。

黄巾の乱の鎮定後も各地で乱が続いた。中平5年(188年)、霊帝による軍制改革が行われた[1]、西園三軍(西園八校尉)を設置し、霊帝自身が無上将軍と称し、さらに上軍校尉に寵愛する宦官の蹇碩を据えて、司隷校尉以下を総領する権限を与えた。この総領の対象には、大将軍である何進自身も含まれていた。

霊帝の後継をめぐり劉弁劉協が争い、それぞれを支持する皇后何氏と霊帝の母董氏の間で激しい対立があった。上軍校尉蹇碩は董重と組み劉協を支持したが、中軍校尉の袁紹は何進と積極的に結びついて蹇碩らと対立した。

中平6年(189年)4月の霊帝の臨終時、蹇碩は劉協を後継とするように霊帝から遺詔を与えられたという。蹇碩は霊帝が崩御した後、董重と組んで何進の誅殺を企てたが、司馬の潘隠が何進と親しく、計画を密告したため失敗した。5月に劉弁が即位すると、十常侍の趙忠を初めとする宦官の主流派は蹇碩を見捨て、何進に与した。その結果、ついに蹇碩ならびに董氏一党は排除され、6月には董太后も河間に戻され、死去した。

少帝の即位後も、それまで朝野に鬱積していた不満が爆発し、特に宦官が世論の批判を浴びるようになった。そこで何進は蹇碩に殺されかけた怒りもあって宦官の排除に乗り出し、袁紹ら幕僚たちを集めて積極的に諮ったが、何皇后や弟の車騎将軍何苗は宦官を擁護したため、何氏同士で対立が生じる構図になった。

何進が争いに及び腰になると、袁紹は地方の諸将を都に呼び寄せて太后らに圧力をかけることを提案する。これに対して盧植や主簿の陳琳が反対し、典軍校尉曹操も反対した(王沈の『魏書』)。再三の袁紹の催促の結果、何進はこれを容れ、王匡橋瑁鮑信張楊張遼、曹操に兵士や兵糧を集めさせると共に、丁原や董卓といった地方の将軍を呼び寄せた。また、袁紹が大将軍の命と偽って各地に指令を出したこともあった。

このような緊迫した情勢のため、袁紹は何進に対して宮中に軽々しく入るべきではないと忠告していたが、8月に何進は無警戒に宮中に参内したところを宦官の段珪畢嵐が率いた兵によって取り囲まれ張譲に罵倒されながら嘉徳殿の前で殺害されてしまった。

張譲らは何進を殺すと、を偽造し、宦官らに親属していた少府許相と太尉樊陵を利用し都の兵を握ろうとした。このとき、命令を疑う尚書に対し、何進の首を示したという。しかし、まもなく何進の部下達の反攻に遭う。虎賁中郎将の袁術が兵を挙げ、何進の部曲呉匡らとともに宮中に突入し、何太后の身柄を確保したが、皇帝と陳留王(劉協)の身柄は宦官に奪われた。袁紹は叔父で太傅袁隗ならびに盧植とともに、許相らをおびき出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬った。こうして宮中から宦官とそれに味方する勢力は一掃された。皇帝と陳留王の身柄を奪って逃走した宦官の残党達も、変を知り軍を率いて上洛してきた董卓に自殺に追い込まれ、皇帝と陳留王は董卓に保護され都に戻ることが出来た。この混乱の中で、何苗も呉匡により殺害され、何氏は大きく勢力を弱めた。

[編集] 脚注

  1. ^ 石井仁窪添慶文らによる霊帝時代の再評価を目指す研究成果に基づく。『後漢書』何進伝によると、大将軍の司馬である許涼と伍宕の進言により、何進が霊帝に上奏しその裁可を得た上で実行したことになっている。

[編集] 参考資料

  • 後漢書/卷69
  • 石井仁『曹操 魏の武帝』(新人物往来社、2000年)
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