張遼
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張 遼(ちょう りょう、169年 - 222年)は、中国、後漢末期の丁原、何進、董卓、呂布、三国時代の魏に仕えた武将。字は文遠。雁門郡馬邑県(現/山西省朔州市朔城区)の出身。子は張虎、孫に張統がおり、兄に張汎がいる。
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[編集] 経歴・人物
[編集] 雁門の勇
前漢の聶壹(じょういつ)の子孫に当たるが、聶壹が武帝の密命を受けた王恢と共に匈奴との交易を利用して、騙し討ちを画策したことから、彼の一族全体が単于の恨みを買っており、復讐を避けるために姓を「張」に改めた。
同郷の丁原に見出され、武勇を買われてその家臣となった。後に丁原と共に洛陽に上り、大将軍何進に仕えることになる。何進の命で丁原と共に河北に赴き、そこで傭兵を募って都に帰還したが、その時には何進は既に宦官に殺害されていた。実権を掌握した董卓が呂布をそそのかして丁原を殺害させると、今度は董卓の武将となった呂布の直属の家臣となる。このように、丁原の将として仕えた後は、都の権力闘争のまま済し崩し的に主君を転々と替えている。192年、董卓が呂布・王允らに殺害されると呂布に従って、共に長安を出奔した。 呂布の下では騎馬兵を率い、その主力の一隊として活躍する。呂布が下邳で曹操に敗れて処刑されると、麾下の将兵と共に曹操に仕えた。
[編集] 曹操配下として
200年の官渡の戦いでは、当時曹操の客将となっていた関羽と共に先鋒を務め、劉備の元へ帰る関羽を見送りに行ったりと関羽とは敵ながらも親交があった。また、戦役中に反乱を起こした昌豨を説得して降伏させたが、利益を期待させて投降させるのは大将のやり方ではないと、後日曹操から叱責を受けている。
袁譚・袁尚との戦いでは、趙国・常山郡を制圧するなど功績を挙げ、黒山賊の孫軽らを降伏させた。また江夏の諸県を平定した。蹋頓(蹹頓)ら烏丸との戦いでは、曹操から指揮の旗を授けられ、先鋒として北伐の主力を指揮し、勝利に貢献した。さらに反乱を起した陳蘭・梅成を斬り、その後、赤壁の戦いに前後する戦役にも従軍した。
[編集] 合肥の武神
215年、張遼は楽進や李典らと共に合肥に駐屯していたが、孫権が十万の大軍を率いて侵攻してきた(合肥の戦い)。李典と張遼は元来不仲で折り合いが悪かったが、国家の危機にあって私怨は関係ないとし、共同してこれに当たった。三者は「張遼と李典は城を出て戦い、楽進は城を守れ」という曹操の指令に基づいて作戦を立て、張遼は李典と共にわずか八百の兵を率いて出陣し、敵軍の出鼻をくじくことにした。張遼は夜中に敢えて自らに従うという精兵を選別し800人を集め、牛をつぶして将兵に振る舞い、翌朝出撃した。
張遼は先頭に立って敵陣に突入し、敵兵を数十人殺し、二人の将校を斬り、孫権の将旗の近くまで来たので、驚いた孫権は戟を持って戦いつつ逃走した。この時、孫権麾下の陳武が戦死し、徐盛が傷を負った。張遼軍は牙旗を奪ったが、賀斉に奪い返された。張遼は孫権の軍勢が丘に逃げたのを見ると、孫権らに「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。孫権は張遼らの軍勢がきわめて寡兵であることを見てとり、大軍をもって何重にも囲んだが、張遼は配下の兵と共に囲みを破って脱出した。しかし、この時張遼は逃げ遅れた配下の兵士達がいることに気付き、引き返して包囲の中に突入し、配下を助け出し、さらにまた包囲を破って脱出した。この日、張遼らは半日間の間戦い続けたとされている。
この余りに苛烈な攻撃に孫権軍はすっかり意気消沈し、この奮闘に勇気づけられて曹操軍の将兵は城を守り通した。結局、孫権は十数日間ほど合肥城を包囲したが、落す事はできずに撤退した。
これを見た張遼は楽進らと共に城から出て追撃した。この時、孫権は最後衛で配下の武将らとともに撤退の指揮を執っていた。退路には川が流れており、逍遥津という橋がかかっていた。この時、逍遥津の北には孫権とその近衛兵千余人と、呂蒙・蒋欽・凌統・甘寧が残るのみであった。張遼は敵軍深く斬り込み、孫権軍は凌統が死にもの狂いで殿軍を務め、これに応戦した。孫権は命からがら橋まで退却したが、橋はすでに曹操軍に撤去されており、孫権は飛騎してこれを越えたと言われる。張遼らは凌統の配下の兵をほぼ撃ち破り、凌統は全身に傷を負いながら、孫権が退却したことを知ると泳いで逃げた。
張遼はこの戦いの中で一時孫権に肉薄しながらも、孫権軍の陣容や隊列が自軍の攻撃で乱れ切っていたため、誰が孫権なのかは分からなかった。戦いの後、孫権軍の降兵から自らが目撃した「赤髭で背が高く、短足で馬を巧みに操り、騎射のうまい将軍」が孫権自身であったことを知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って捕まえ損ねたことを惜しんだ。
このように張遼はあと一歩のところまで孫権を追い詰め、常人離れした武威で孫権軍の心胆を寒からしめた。この戦功で征東将軍に任命された。孫権はこの戦いでよほど張遼を恐れたようで、後年、病身の張遼を相手にする際も「張遼、病むと雖も当るべからず。これを慎め(張遼が病んでいるのだとしても軽々しく挑んではならず、これには危機感を持って当たらなければならない)」と言い、その猛将ぶりを部下に戒めている。ちなみに三国志演義でも同じく合肥の戦いで張遼の活躍ぶりが描かれているが、むしろ表現の苛烈さは史実が勝り、演義の方が活躍描写が過小化しているという、極めて珍しい例になっている。
220年に曹丕が王位に即くと、前将軍に任じられた。曹丕が帝位に即くと、晋陽侯に封ぜられ、食邑千戸を加増されて、以前と合せて二千六百戸となった。
222年、江都で孫権と対峙中に病死した。齢54。死後、剛侯と諡された。
[編集] 張遼に関する言説
張遼は、その名将ぶりから魏将の中でも極めて人気が高い武将の一人である。清末民国初の文学者古直は『曹子建詩箋』において、曹植「白馬篇」が207年に製作されたことから、詩中に詠われる武者のモデルは張遼でないかと主張している。
また『蒙求』には「張遼止啼」という標題があり、張遼の武勇は江東にも広く轟いたので、江東の子供が泣き止まない時も「遼来遼来(張遼が来るぞ)」と言えば必ず泣き止んだ、という逸話が紹介されている。
[編集] 『三国演義』中の張遼
小説『三国志演義』では、第十一回に呂布の武将として登場する。第十九回、下邳落城の場面で命請いする呂布を叱りつけ、曹操を罵って自ら頸を延べるが、関羽のとりなしによって助命され、曹操の部下となる。これは後に曹操が決死の関羽を包囲した際に説得にあたり助命する伏線となる。
第五十三回では合肥で孫権軍を破り、夜襲を企てた猛将・太史慈を討ち取る。これは『三国志』本伝に見える荊州での逸話を利用した創作である。
上述「合肥の戦い」の模様は第六十七回で描かれるが、上述の通り、この戦いに関しては『三国演義』よりもむしろ『三国志』本伝の方が大々的に張遼の活躍を描き出している。
第八十六回において、曹丕の親征に徐晃と共に従い、呉との戦いで丁奉の矢を受けて、その傷が原因で死去したことにされている。

