陳蘭

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陳 蘭(ちん らん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将揚州廬江郡の人。『後漢書袁術伝では、「陳簡」とされている。

[編集] 正史の事跡

姓名 陳蘭
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 陳簡(別名)
本貫・出身地等 揚州廬江郡
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁術→〔独立勢力〕
家族・一族 〔不詳〕

三国志』魏書袁術伝等に登場する。陳蘭は雷薄と同僚で、共に袁術の部曲であった。袁術は帝位を僭称したものの、暴政を敷いたため人心を失い、呂布曹操との戦いに敗れて零落する。一方、陳蘭と雷薄は、袁術の下を出奔し、灊山(せんざん)に立て篭もっていた。建安4年(199年)、袁術は雷薄と陳蘭を頼ってきたが、陳蘭らは袁術を受け入れなかった。袁術はやむなく従兄弟の袁紹の子の袁譚を頼り、青州へむかったものの病死することになる。

建安5年(200年)頃、陳蘭・梅乾(梅成のことか、あるいは梅成の縁者か)・雷緒(雷薄本人か、あるいは雷薄の縁者か)は、廬江太守李術(または李述)が揚州刺史厳象を殺して管轄地域が混乱した隙に、数万人の兵を集めて長江・淮河一帯で暴れまわった。

その後、曹操の命を受けた張郃張遼楽進臧覇らの討伐を受け、陳蘭は険阻な要害である灊山に立てこもり、呉の韓当の救援も受ける。しかし、張遼の猛攻の前に敗北し、張遼の手で盟友の梅成と共に斬られた(『三国志』魏書張遼伝,楽進伝,張郃伝,臧覇伝)。なお陳蘭の没年は、『三国志』の各記述から、建安13年(208年)から建安16年(211年)までの間ということしか分からない。

[編集] 物語中の陳蘭

三国演義』では、はじめ袁術に仕え、呂布との戦いでは第5軍副将として参加したが、呂布の部将魏続宋憲に迎撃されて敗退した。袁術が皇帝を僭称して暴政を繰り広げるようになると、同僚の雷薄と共に袁術を見限って出奔し、嵩山に立てこもった。建安4年、上述のように零落した袁術から財宝や糧秣を奪い取り、袁術は料理人にも見捨てられ吐血し果てることになる。『演義』では陳蘭の末路には触れられない。

[編集] 参考文献

  • 三国志』魏書17張遼伝、楽進伝、于禁伝、張郃伝
  • 同魏書6袁術伝
  • 同魏書15劉馥伝
  • 同魏書18臧覇伝
  • 後漢書』列伝65袁術伝
  • 三国演義
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