甘寧

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甘寧
GanNing.jpg
三国志演義の甘寧の肖像画
折衝将軍、西陵太守、前部督
出生 不詳
益州巴郡臨江県
死去 不詳
ピン音 Gan Ning
興覇
主君 独自勢力 → 黄祖孫権

甘 寧(かん ねい、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。孫権に仕えた。興覇(こうは)。益州巴郡臨江県(現在の重慶市忠県)の出身。子は甘瓌・甘述(『晋書』「甘卓伝」)。孫は甘昌(『晋書「甘卓伝」』)。曾孫は甘卓(『晋書』「甘卓伝」)。『三国志志に伝がある。

経歴[編集]

孫権に従う以前[編集]

先祖は南陽郡の人であったが、巴郡に移住してきたという(『呉書』)。甘寧は計掾(会計報告係)に推挙され、蜀の丞となったが、しばらくして官を棄てて家に帰った(『呉書』)。

若い頃より気概があって遊侠を好み、不良の若者を集めて武装させ、彼らの頭領となった。仲間達は皆、羽飾りを背負い、鈴を常に携えていたので、民衆は鈴の音を聞いただけでそれが甘寧一味だと分かったという。派手な装いで外出し、陸路や水路を闊歩した(『呉書』)。人に出会った時は、地方の長官だろうと自分達を盛大に歓待させ、そうしない者には手下を使って財産を奪わせた。また自分が属する地方の長官の領内で犯罪があれば摘発と制裁を行った。このような生活が20年ほど続いたが、あるとき、乱暴をパッタリと止め、いくつか書物を読むようになったという。

194年興平元年)、劉焉が没し、子の劉璋が跡を継いだ際、李傕漢中に派遣した扈瑁に呼応した劉璋の将軍である沈弥らと共に、劉璋に反逆したが敗れ、荊州へ逃亡した人物の中に甘寧という人名がある(蜀志「劉焉伝」の注に引く『英雄記』)。

甘寧は荊州の劉表に身を寄せて南陽に住まうようになった。しかし、任用されなかったので、劉表の部下の江夏太守黄祖の元に身を寄せたが、一般の食客としての扱いであった。『呉書』では、以下のように説明されている。

甘寧は手下や食客800名を連れた上で身を寄せたが劉表は文を重んじ武を軽視したため、甘寧は任用されなかった。甘寧は劉表が大成せずやがて滅んでしまうだろうと確信し、巻き添えを避けるため江東に移ろうとしたという。しかし、劉表の部下の江夏太守黄祖の軍勢が夏口に駐屯していたため通過できず、そのまま黄祖の下に留まった。冷遇されたまま3年ほど経過した。後に黄祖の軍の将として、対立する孫権の軍に敗れた黄祖を救援し、その殿を務め、追跡してきた孫権の将である凌操を討ち取るなどの手柄を立てたが、甘寧の待遇はその後も変わらなかった。

都督である蘇飛は甘寧を重用するよう黄祖に諫言したが、黄祖はかえって甘寧の食客を引き抜こうとし、甘寧の食客らは減少していった。甘寧は黄祖の陣営を離反することが出来ずに悶々としていたが、蘇飛の助けにより邾(ちゅ)県の長に推挙され、黄祖の下を離れることができた。甘寧は、かつての食客や新たに部下となった者達数100人を引き連れて、県に向かった。

やがて甘寧はそこを出奔し、孫権に降った。

孫権配下として[編集]

甘寧が身を寄せると、周瑜呂蒙が連名で推薦した為、孫権は旧臣同様に甘寧を遇する事にした。この際、甘寧は、まず劉表と黄祖を討って荊州を押さえ、さらに巴蜀(益州)をも攻め、天下に覇を唱えるという「天下二分の計」ともいえる戦略を提言した。国内の反乱を心配する張昭はこれに反対したが、甘寧は張昭に堂々と反論し、孫権も甘寧の言葉を気に入り、杯を与えて信頼を示した。

208年建安13年)、甘寧は黄祖攻めに従軍した。江夏で黄祖を討ち破った際、かつての恩人であった蘇飛は生け捕られてしまったが、蘇飛はこっそり人を遣わして甘寧に助命を願った。甘寧もまた蘇飛の恩を忘れず、孫権の前で頭を打ち付けて涙ながらに蘇飛の助命を嘆願したため、孫権はこれを容れている(『呉書』)。孫権は黄祖の軍を吸収すると、甘寧に兵士を与えて当口に駐屯させた。

劉表の勢力を吸収した曹操と孫権が戦った赤壁の戦いでは周瑜に随行して曹操を烏林で打ち破り、続いて南郡の曹仁攻略に参加した。甘寧はまず夷陵を奪取すべきとの計略を立て、すぐに手勢1000人程を以って陥落させたが、逆に曹仁から5000から6000の兵士を繰り出されて包囲された。甘寧は猛攻に何日も耐え、平然と談笑して屈しなかった。使者を出して周瑜に状況を知らせたところ、周瑜は呂蒙の計略(「呂蒙伝」を参照)を採用し、凌統だけを留守に残し、その他の諸将を率いて甘寧を救援し囲みを解いた。そして決戦の末、曹仁を撤退させることができた。

214年(建安19年)、曹操の揚州における拠点である皖城攻撃に従軍した際には、呂蒙により升城督(攻城隊長)に任命され、城壁をよじのぼって官吏兵士を先導し、あっさりと敵将の朱光を捕らえた。論功行賞の結果、呂蒙が第一、甘寧はそれに次ぐものとされ、この時に折衝将軍を拝命した。

215年(建安20年)、孫権と劉備が荊州返還を巡って緊張状態になると、魯粛に随行して長沙の益陽を守り、関羽と対峙した。関羽は軍勢3万を号し、精鋭5000人を以って夜半に上流の浅瀬を押えると喧伝した。甘寧はこのとき、300人の兵士を率いていたが、あと500人の兵士を与えてくれれば、関羽の動きを止めるか、さもなくば捕らえることができると進言した。魯粛は甘寧に1000人の選抜兵を預けた。甘寧は夜中に出陣すると、それを聞いた関羽は軍営を瀬に築いたが(関羽瀬)、結局渡河を断念した。孫権は甘寧の功績を称え、西陵太守に任じて陽新・下雉の両県を領させた。

それからまもなくして、孫権は十万の大軍を動員して合肥を攻めた。しかし軍中の疫病などもあって攻めあぐね、結局撤退した。この時孫権が、呂蒙・蒋欽・甘寧・凌統とわずかな手勢しか連れていないのを見て、合肥を守備していた曹操軍の張遼は突如急襲をかけてきた。甘寧は凌統らと共に奮戦し、弓を引い敵を退けるとともに、沈黙する音楽隊に向けて音楽を鳴らすよう鼓舞した。こうして孫権は辛うじて危機を逃れることが出来た。

216年(建安21年)[1] に曹操が濡須へ侵攻した際には、甘寧は前部督となった。孫権は甘寧に特別に酒と米を与えた。甘寧は100人ほど集め、酒食を振舞うと、曹操の陣営に夜半奇襲をかけることを提言した。このとき、渋る部下の都督に対し「将軍である俺ですら死を覚悟しているのに、お前らがそうでないとは何事か」と号をかけ、兵士にまでも自らの酌で酒を振舞って隊を鼓舞したという。こうして結成した決死隊により夜襲をかけると敵兵は混乱し、動揺して引き下がった(『江表伝』によると、1ヶ月後に退却)。孫権は喜び、軍勢2000人を加増した。このとき、「孟徳(曹操)には張遼がいて、私には甘寧がいる。丁度釣合が取れているな」と甘寧の武勇と豪胆さを賞賛したともいう(『江表伝』)。

甘寧は粗暴で殺人を好んだものの、しかし爽快な人柄で優れた計略を持ち、財貨を軽んじて士人を敬い、手厚く勇者たちを育てたので、彼らの方でもまた役に立ちたいと願った。 凌統とは、かつて甘寧が父の凌操を戦死させたことから不仲であり、甘寧は凌統と会おうとはせず、孫権の方でも凌統に自重するよう求めていた。

あるとき、呂蒙の家で酒宴が催されたとき、凌統が刀を持って舞を始めると、甘寧も双戟を持って舞を始めた。呂蒙は刀と楯を持って2人の間に割り込んだ。孫権は凌統の気持ちの深さを知り、甘寧を半州に移してそこに駐屯させることにした。あるとき、甘寧の料理人が小さな失敗をして、呂蒙の下へ逃げ込んだ。呂蒙は甘寧の激しい性格を知っていたので、決して料理人を殺さないと誓わせ、口添えした上で料理人を帰した。ところが、甘寧はこの料理人を樹に縛りつけた上で射殺してしまった。これには呂蒙も激怒して甘寧を処罰しようとしたところ、呂蒙の母は「天下の大局は難しいところに来ています。内輪もめをしている場合ではありますまい」と諌めたので、呂蒙は気持ちを改めて和解を持ちかけた。甘寧は涙ながらにこれを受け、事なきを得たという。

夏口の守備を任されていた孫皎の指揮下におかれたが、年下の孫皎に軽く扱われたため激怒し、陸口の呂蒙の指揮下に変更してもらいたいと孫権に嘆願した。孫権は孫皎に訓戒を与えた(呉志「宗室伝」)。

没年は不明。孫権は甘寧の死去を痛惜した。

甘寧の兵は潘璋が引き継いだという(「潘璋伝」)。また、丁奉は甘寧の軍にいたことがあったという(「丁奉伝」)。

甘寧の死については、『三国志』呉志「甘寧伝」では単に「卒去」となっているのに対し、唐代の『建康実録』では215年(建安20年)の冬に卒去したとなっている。つまり「宗室伝」や「潘璋伝」の記述と、『建康実録』の没年は一致しないということである。

子の甘瓌は罪を犯し、会稽に流罪になった後で病死した。『晋書』によると、その他の子として甘述がおり、甘昌・甘卓と続いた。甘卓は東晋の建国に尽力したが、後に王敦に討たれている。

演義では[編集]

小説『三国志演義』では若い頃は徒党と組んで江湖一帯を縦横に荒らしまわり、「錦帆賊」と呼ばれる河賊であったとする。

やがて曹操が荊州に進出すると、甘寧は対決を主張。赤壁の戦いでは黄蓋の「苦肉の計」に闞沢に協力し、曹操を欺く計略に参加。偽って投降してきた蔡中を利用して、敵陣深くに潜り込んで火を放ち、さらに逃げる曹操に追いすがり損害を与える。

凌統とは黄祖征伐の後で命を狙われるなど仇敵視されていたが、のちの濡須口の戦いでは凌統の危機を救い、楽進を弓矢で退ける。このことを知った凌統がかつての恨みを水に流し、二人は固い親交を結ぶことになっている。最後は、劉備との夷陵の戦いにおいて病床の身を押して出陣し、劉備に協力した蛮将沙摩柯の矢を受け戦死している。

脚註[編集]

  1. ^ 「武帝紀」と「呉主伝」によると、曹操は213年(建安18年)正月にも濡須口を攻めている。216年の濡須の戦いでは呂蒙が指揮官に任命されているため甘寧の奇襲は孫権自らが参戦し、曹操が1ヶ月の対峙の末に撤退したとある213年の戦いとも考えられる。ただし、213年に奇襲を行ったとすると『江表伝』の張遼の件と辻褄が合わない。

関連項目[編集]