賀斉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
賀斉
山陰侯・後将軍
出生 不詳
揚州会稽郡山陰県
死去 黄武6年(227年
公苗
主君 孫策孫権

賀 斉(が せい、? - 227年)は、中国後漢末から三国時代武将公苗会稽郡山陰の人。賀輔の子、賀達、賀景の父、賀質、賀邵の祖父。賀循の曽祖父、賀隰の高祖父[1]

元の姓は慶氏であり、賀斉の伯父の慶純は学者として名があり、安帝の時代に侍中江夏太守を務めた人物である。安帝の父の名を避けて賀氏に改めた。賀斉の父の賀輔は永寧県の長を務めている[2]

略歴[編集]

196年孫策が太守王朗を追放し会稽郡を治めるようになると、賀斉は孫策から孝廉に推挙された。王朗の残党の商升が孫策に反旗を翻すと、孫策は永寧県の長であった韓晏という人物を南部都尉に任命し討伐にあたらせ、その後任として賀斉を永寧県の長に任命した。 後に韓晏が商升に敗北すると、孫策は今度は賀斉を南部都尉に任命した。 商升は賀斉の声望に恐れをなし盟約を結ぶことを申し出てきたため、賀斉は手紙を送り降参を勧めた。商升は降伏するつもりであったが、内紛が起こり、商升は殺害され、主戦派のグループが主導権を握った。 賀斉は兵士が少ないことを理由に討伐をせず様子を見ることにした。 まもなく、主戦派の内部でも対立が生じたので、賀斉は山越を唆し、対立を内部抗争にまで発展させた。反乱軍の力が弱まったところを見定めて賀斉は軍を動かし、一度の戦いでこれを破り降参させた。

その後、建安・漢興・南平で反乱が起きたため、203年に賀斉は建安に軍を進駐させ、都尉の役所を設置した。会稽郡の役所は管轄の各県に指示し、5千の兵を徴発し軍団を組織させ、各県長を軍指揮者とし賀斉の統制下に置かせた。

不服従民達はそれぞれ漢興・大潭・蓋竹に本営を置き、それぞれ1万戸から6千戸を率いて余汗まで兵を進めてきた。 賀斉はまず漢興の不服従民達を討伐するつもりであったが、寡兵で大軍の相手をせねばならないため、松陽県の長である丁蕃に命令して余汗の備えに置こうとした。 しかし丁蕃は、元々同僚に過ぎなかった賀斉の指示を受けることを嫌い、命令を拒否した。賀斉は已む無く丁蕃を斬ったため、以後、彼の命令に抵抗する者はいなくなった。賀斉は軍の一部を余汗に置き、漢興の不服従民達を討伐し、敵を殲滅又は降伏させた。 次に大潭の不服従民も討伐し、敵を殲滅又は降伏させた。反乱の頭目は悉く捕虜となり、討ち取った首は6千にもなった。賀斉は戦後に行政機構を再編成し、一万の兵士を軍団に加えた。この功績により平東校尉となった。

205年、賀斉は会稽南部から上饒の討伐に行き、分割して建平県を立てた。

208年、賀斉は威武中郎将に昇進し、丹陽・黟・歙を討伐した。武彊・葉郷・東陽・豊浦を降伏させ、上表して葉郷を昇格させ始新県を立てた。この後、歙と黟の不服従民が反乱を起こし、それぞれ1万戸から2万戸を率いて安勒山・烏聊山・林歴山に立て籠もった。林歴山は各所に要害がある難所であったが、賀斉は裏手から奇襲をかけて敵を混乱させ要害を突破し、多数の捕虜と7千の首級を得た。賀斉は上表し、歙県を分割して新定・黎陽・休陽・并・黟・歙の6つの県を立てるべきと進言した。孫権はこれを受けて、歙県を分割し新都郡を置き、賀斉をその太守とし、始新に役所を置き職務を行わせると共に、偏将軍の位も加えた。

211年、呉郡の余杭で平民の郎稚が反乱を起こし、一族郎党を含めて数千人を集めたが、賀斉は郡の兵を率いて即座にこれを鎮圧した。賀斉は上表し、余杭を分割し臨水県を立てさせた。

賀斉は命令を受けて孫権に伺候したが、郡に帰還する時には孫権から熱烈な歓迎を受け、車への同乗も許可された。

213年、豫章東部の平民達が反乱を起こすと、一万人ほどの規模となった。賀斉はこれを討伐し、首謀者達を斬り捕虜を多く得た。降伏者の中から勇敢な者を選び出し軍団に加え、残った者は県の戸籍に編入した。この功績で賀斉は奮武将軍に昇進した。

215年合肥の戦いで魏王曹操と孫権が戦った時は後詰めを務めた。さらに、逍遥津の戦いで曹操の将軍張遼の攻撃に遭い、命辛々退却してきた孫権を船に迎え入れた[3]。また、徐盛が敵兵と戦って負傷し、将軍の旗指し物を奪われたが、賀斉は兵を指揮して徐盛を救い、旗指し物を取り戻した。

216年、鄱陽の不服従民が曹操の印綬を受け反乱を起こし、陵陽・始安・涇県もそれに同調すると、賀斉は陸遜と共にそれを討伐し、数千人を斬って反乱を鎮圧、これにより丹陽の三県も降参した。そして降伏者の中から8千人の精鋭を募り、軍団に加えた。この功績で安東将軍・山陰侯となった。

222年が三方面から侵攻してきた時、揚州方面から侵攻してきた曹休を迎え討つため、呂範や徐盛が洞口に向かったが、天候の悪化で軍に大きな被害が出た。しかし賀斉は遠方から来ており、新市の防備を任されていたため、この被害を受けずに済んだ。呉軍が曹休の軍勢を撤退させることが出来たのは、無傷であった賀斉軍の存在が大きかった(洞口の戦い)という。この功績で後将軍に昇進し、仮節を与えられ徐州となった。

戯口の守備の将に晋宗という者がいたが、彼は魏に寝返り、魏から蘄春太守に任命され、安楽を襲撃するなど国境を脅かしていた。孫権は晋宗を苦々しく思っていたが、223年に曹休の脅威が去ったのを受け、孫権は晋宗の討伐を賀斉に命令した。賀斉は糜芳や鮮于丹を率いて蘄春を攻撃し、晋宗を生け捕った。

賀斉はその4年後の、227年に死去した。

人物[編集]

非常に派手好きな事でも有名であり、常に上質で豪華な武具を着飾って戦に赴いた。自身だけではなく配下の軍装も豪奢に飾りつけ、遠目に見るだけで彼の軍と分かるほどであったという。 洞口の戦いにおいても、賀斉の軍は武器甲冑や軍用機具はとびきり精巧で上等のものを揃え、船には彫刻・彩色を施し透かし彫りで飾り付け、青い蓋を立て赤い幔幕を垂らし、大小の楯や矛には花文様を彩り鮮やかに画き、弓や矢はすべて最高の材質のものを用い、蒙衝や戦艦の類いは遠くから見ると恰も山のようであったという。 曹休はその威容に畏れをなし、そのまま軍をまとめて引き返した。

小説『三国志演義』には登場しない。

脚註[編集]

  1. ^ 虞預の『晋書』によると、父の賀循が亡くなると、西晋の臨海郡の太守となったと記されている。
  2. ^ 同じく虞預の『晋書』より。
  3. ^ 江表伝