曹彰
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曹 彰(そう しょう、? - 223年5月)は、後漢末期から中国の三国時代の魏の皇族、武将。字は子文。または「曹章」とも表記される。
曹操の四男(卞氏の子としては次男)。魏の初代皇帝・曹丕の同母弟。また、曹植、曹熊らの同母兄。子は曹楷、孫は曹温(邯鄲王)、曹悌(梁王)ら[1]。娘は王昌(字は公伯)の妻。
彼の腕力は人並み以上に優れており、猛獣と格闘することができたと言われるほど武勇に長けていた。また、弓射と馬車の操縦が上手かった。父が魏王に封建されると、鄢陵侯に封じられた。
代郡の烏丸討伐などの異民族の反乱鎮圧で、田豫と共に大いに活躍し、父の曹操から「黄鬚」(こうしゅ、虎髭を生やしたような勇者の称号)と大いに賞賛された。鮮卑族の軻比能は曹彰の武勇に恐れをなし、魏に服従した。
曹操臨終の際には長安に駐屯していたが、曹操は早馬で彼を呼び寄せた。曹操の死に間に合わなかったが、洛陽に到着した曹彰は曹操死後を取り仕切っていた賈逵に曹操の持っていた璽綬のありかを尋ね、賈逵に「貴方の尋ねるべきことではない」と反論されている。
兄の曹丕にはその優れた武勇を警戒されて冷遇される。曹丕が皇帝として即位すると、任城王に昇格となったが、223年に洛陽で急死した[2]。その死後、威王と諡された。
また、反三国志では魏の武将の中で最後まで生き残る数少ない人物の一人である。

