李厳
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李 厳(り げん、? - 234年)は、後漢末期に劉表・劉璋に仕えた、後に蜀漢の政治家・武将。字は正方。子は李豊。後に“平”と改名する。
[編集] 略歴
南陽郡の人。若い頃は劉表に仕え、柹帰県令などを歴任した。劉表の死後、荊州が混乱すると益州へ逃れ、成都県令などの官職に就いた。劉備が益州に侵攻した時は綿竹関を守っていたが、すぐに投降し裨将軍に任じられた(『三国志演義』では劉備と対峙し、黄忠との一騎打ちでも引き分ける実力を見せるが、諸葛亮の策によって捕らえられ、劉備の説得により降伏する)。成都占領後には犍為郡太守・興業将軍に任じられ、諸葛亮・法正・許靖と共に蜀科の制定に尽力し、蜀漢の方向性を決定させた。218年馬秦、高勝らが、柹で反乱を起し、資中県に到達。郡管轄の兵五千人を率い、これを討伐。馬秦、高勝らを処刑し晒し首にした。222年、永安宮に呼び寄せられ、尚書令に任命される。劉備の臨終の際には枕元に呼ばれ、諸葛亮と共に、劉禅を補佐するよう遺詔を受け、中都護となり、内外の軍事を統括。永安に留まり鎮撫に当たった。
劉禅が即位すると、223年都郷侯・仮節となり、光禄勲の位を付加される。224年には越嶲郡の南蛮の首長高定の軍が新道県を包囲、救援に向かい勝利した。この功により、輔漢将軍の官位を付加される。226年前将軍に昇進し、白帝城で対呉方面を担当した。230年、驃騎将軍となり、秋8月に曹真が三方の街道から漢水に向おうとしたため、(諸葛亮の命により)兵2万人を率い漢中に赴き、政務を取り仕切った。翌231年、諸葛亮の出征時に、漢中において全ての軍需輸送を総監督し管理する。この時「李平」と改名している。しかし長雨による兵糧輸送の滞りを理由に、遠征中の諸葛亮を呼び戻した。この時に事態の隠蔽と諸葛亮に対する誣告を行ったことを罪に問われ免官、庶民に降格され、梓潼郡に流された。
諸葛亮は李厳の地位を剥奪したが、息子の李豊は罪に問わず、手紙を送って父の汚名を返上すべく仕事に励むよう諭している。罪に問われた李厳の方も、諸葛亮ならばいずれ自分を復帰させてくれると期待していた。だが234年、諸葛亮の死を聞くと、諸葛亮の後継者たちでは自分が復職することはあるまいと嘆き、諸葛亮の後を追うように死去した。嗣子の李豊が家督を継いだ。
李厳はかつて諸葛亮に手紙を送り、王を称して九錫を受けるよう勧めたことがあったという。これは諸葛亮に将来の簒奪を勧めたものとも取れる行為であるが、諸葛亮は返書で「魏を滅ぼし、あなた方と共に昇進の恩恵にあずかることにでもなれば、その時には九の特典どころか十でも受けますよ」と李厳の申し出を受け流す形で拒絶している。
[編集] 参考文献
- 「正史 三国志 5 蜀書」 (陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7

