虞翻

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虞 翻(ぐ ほん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物で、の重臣、儒学者、易学者。仲翔。虞光の玄孫、虞成の曾孫、虞鳳の孫、虞歆の子、虞汜・虞忠・虞聳・虞テイ(テイは日丙)の父。

[編集] 経歴

会稽郡余姚の人。易経に詳しい学者であり、智謀に優れた人物であったという。会稽郡の役人となり太守の王朗に仕える。王朗が孫策に敗北して南へ逃げると随行して守護したが、王朗の勧めで会稽に戻り、孫策に招聘されて仕官に応じた。

孫策配下では引き続き会稽郡の事務を担当する一方、豫章太守華歆を説得して降伏させた。孫策が死ぬと、引き続いて孫権に仕えた。曹操からも招かれたが、応じなかった。孔融張紘からその才能を高く評価され、また陸績とは親友の仲だった。

虞翻は自分が正しいと思ったことは何でも言う剛直な人物であり、劉備から寝返った糜芳や、関羽に降伏した後孫呉が保護した于禁を面罵した記録が残っている。主君の孫権に対しても、悪いところがあれば遠慮しなかった。孫権が呉王になると、祝いの宴会が開かれた。酒好きの孫権は自ら酒を勧めて回ったが、虞翻は酔いつぶれた振りをして呑もうとせず、孫権が通り過ぎるとまた平然と起きあがったため、孫権の逆鱗に触れて処刑されそうになる。この時は劉基の取り成しで助命されたが、のちに神仙について孫権と張昭が話題にしたのを小耳に挟み、「死人たちが神仙について語っております。(不老不死の)神仙などいるはずがないでしょうに」とからかった。こうしたことが度重なったため、孫権は虞翻を殺しこそしなかったが、僻地である交州に左遷されてしまった。交州では数百人の門下生を相手に光孝寺(広東省広州市)で学問を教えていた。その後、二度と中央に戻ることなく生涯を終えたと言われている。

三国志演義』では王朗に対し孫策に降るように進言して逆鱗に触れ、王朗の元から去る(吉川英治の小説では、この時飼っていた小鳥を自らの境遇になぞらえ「好きなところに行くが良い」と青空に放つ)。また華佗の友人ということになっている。

[編集] 虞氏易

虞翻は家伝として前漢今文学の孟氏易を治め、八卦十干五行方位を組み合わせた象数易を伝えた。その著書『易注』は散逸したが、断片がの李鼎祚『周易集解』に収録された。またの黄奭(こうせき)『漢学堂叢書』、孫堂『漢魏二十一家易注』にも集められている。恵棟や張恵言らによって研究され、前漢の今文易復元の足がかりとされた。

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