駱統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

駱 統(らく とう、193年228年)は、中国三国時代の武将。公緒揚州会稽郡鳥傷県の人。父は駱俊。子は駱秀。

生涯[編集]

父は国の相に昇進した後、陳国に侵攻した袁術に殺された。生母は駱統が八歳の時、華歆の側室となっていった。駱統は生母と別れて、父の正室である義母と食客達を引き連れ、故郷に帰ることになった。故郷では飢饉に苦しめられたが、駱統は自分の食事を減らしてまで、義母や後家となっていた姉によく仕えた。

20歳の時に、会稽太守となった孫権に仕えた。孫権は駱統の行政手腕を見るため、彼を鳥程県の相に任命した。駱統は、ここで優れた行政手腕を発揮し功を挙げたため、喜んだ孫権から功曹に任じられ、騎都尉とされた。さらに孫権の従兄弟孫輔の娘を娶る事まで許された。

駱統が数十もの上書を行ない、孫権の施策を是正することに務めたため、孫権もこの意見を受け入れた。建忠中郎将となり、弓兵三千人を率いた。淩統が亡くなると、その軍勢の指揮を任された。この頃に伝染病が流行すると、駱統は民衆が疲弊するのを見て憂い、上疏を行なって孫権を感嘆させた。

222年蜀漢劉備が侵攻してきた時、陸遜に従ってこれを破るという功績を挙げ、偏将軍となった。同年、が濡須に攻め寄せてきた時、曹仁が部将の常雕に命じて川の中洲を攻撃してきたが、駱統はこれを厳圭と共に撃退した。この功績により、新陽亭侯に任じられた。

その後、濡須の督として防衛を任されるなど、軍事面でも孫権から厚い信任を受け、重用された。

228年、36歳の若さで病死した。

小説『三国志演義』では、名前しか登場しない。