明帝 (漢)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
明帝 劉荘
後漢
第2代皇帝
王朝 後漢
在位期間 57年 - 75年
都城 雒陽(洛陽)
姓・諱 劉荘
嚴(厳)
諡号 孝明皇帝
廟号 顕宗
生年 28年
没年 75年
光武帝
陰皇后
皇后 明徳馬皇后
陵墓 顕節陵
年号 永平58年 - 75年
※改名前の名は(よう)である。

明帝(めいてい)は、後漢の第2代皇帝。

生涯[編集]

皇太子となる[編集]

光武帝の第4子。28年建武4年)、生母の陰貴人は元氏(現河北省石家荘市元氏県)にて劉陽(明帝)を産んだ。10歳にして『春秋』に通じ、父に才能を愛された。

39年(建武15年)、劉陽は東海公に封じられる。41年(建武17年)に、郭皇后がそのわがままな性格から光武帝に疎まれるようになり、皇后を廃されて中山太后とされ、陰貴人が皇后となる。この年、光武帝の子のうち、皇太子劉彊を除く九国公は爵を進めて王とされ、劉陽は東海王となる。

劉陽にとって異母長兄である劉彊は母郭皇后が廃されたため、常々皇太子を辞したいと願い出ていた。建武19年(43年)に光武帝は遂に許し、皇太子は東海王となり、代わって劉陽が皇太子に立てられることになり、同時に諱を陽から荘に改めるように命じられた。博士の桓榮に師事し、『尚書』を学習した。

即位[編集]

57年建武中元2年)の光武帝の崩御にともない、皇太子であった劉荘が即位した。このとき30歳であった。

父の施政方針を継承した政策を実施したが、外交面では光武帝の消極策を改め、前漢武帝以来となる西域への積極的な進出を再開した。この対外政策により班超が活躍することとなった。

明帝の時代に仏教が正式に伝来したと伝えられるが、詳細は不明である。仏教伝来伝説は白馬寺の創建と『四十二章経』の伝来に関する伝承となっている。また異母兄の楚王英による「黄老とともに浮屠(仏陀)を崇拝した」という事跡に関する記述が、『後漢書』「顕宗孝明帝紀第二」の本伝に見えている。

治世の特色[編集]

明帝の治世は、光武帝、章帝と並び、約200年続いた後漢朝では安定した全盛期を現出した。馬皇后(光武帝配下の武将馬援の娘)は陰皇后とともに賢夫人とされ、自制によって外戚勢力が抑制されていたことがその理由として考えられている。和帝以降は幼少の皇帝が続き、幼少の皇帝の外戚勢力と宦官勢力とが政争を繰り広げ、結果として後漢の滅亡の大きな要因となった。

明帝は、父の光武帝よりも若くして48歳で病没しており、以降の後漢王朝の歴代皇帝の中で、50歳以上存命したのは最後の皇帝・献帝のみである。

年譜[編集]

中元2年2月、皇帝に即位した。年は30であった。母の陰皇后を皇太后とした。3月、父の光武帝を原陵に埋葬し、世祖の尊廟を奉った。

夏4月、明帝は詔勅を出した。

秋9月、焼当羌が隴西に侵攻し、郡兵が戦ったが允街において敗北した。隴西の囚徒に対して罪の減免と税の免除を行った。謁者の張鴻を遣わして羌の反乱軍を允吾において攻撃させたが大敗し、張鴻は戦死した。冬11月、中郎将の竇固を遣わし、捕虜将軍の馬武等2人の将軍を監督させて焼当羌を征伐された。

12月、明帝は詔勅を出した。

永平元年春正月、明帝は公卿を率いて原陵に赴いた。

夏5月、太傅の鄧禹と東海王の劉彊が死去した。司空の馮魴を遣わし、節を持たせて喪事を監督させた。升龍に対し旄頭、鑾輅、龍旂を下賜した。6月、東海恭王を葬った。

秋7月、捕虜将軍の馬武等は焼当羌と戦って、大いに破った。隴右において士卒を募り、銭三万を下賜した。8月、山陽王の劉荊を広陵王に任じ、就国させた。

この年、遼東太守の祭肜は鮮卑を使い赤山の烏桓を攻撃し、大いに破り、その渠帥を斬った。越巂姑復夷が叛いたが、州郡は之を討ち平定した。

永平2年春正月、光武帝の宗祀を明堂に於いて行った。

3月、明帝は辟雍に臨み、初めて大射礼を行った。

秋9月、異母兄の沛王の劉輔、楚王の劉英、異母弟の済南王の劉康、淮陽王の劉延、甥の東海王の劉政(劉彊の子)が来朝した。

冬10月、明帝は辟雍に行幸し、初めて養老礼を行った。詔勅を出した。

中山王の劉焉が始めて就国した。

西方に巡狩し、長安に行幸、高廟を祀り、十一陵に於いて有事を遂行した。館邑を歴覧し、郡県吏と面会し、労賜作楽した。

11月、使者を遣わして中牢祠において蕭何霍光を祀った。明帝は陵園に詣で、其墓で過式した。河東に進んで行幸し、官吏に身分に応じて施しをした。その月のうちに明帝の車駕は宮中に帰還した。12月、護羌校尉の竇林が罪に問われ獄死した。

この年、始めて五郊において迎気した。少府の陰就の子の陰豊が妻の酈邑公主を殺害し、自殺させられた。

永平3年春正月、明帝は詔勅を出した。

2月、太尉の趙憙と司徒の李訢が免職となり、左馮翊郭丹が司徒となり、南陽太守の虞延が太尉となった。貴人の馬氏が皇后に冊立され、皇子の劉炟が皇太子となった。施しが実行された。

夏4月、皇子の劉建を千乗王に、劉羨を広平王に封じた。

秋8月、大楽を大予楽に改めた。日食が起きた。明帝は詔勅を出した。

冬10月、光武廟において蒸祭をし、初めて『文始』、『五行』、『武徳』之舞を奏した。車駕に皇太后を従えて章陵に行幸し、舊廬を観た。12月、自ら章陵に至った。

この年、北宮及諸官府を起こした。京師及郡国7つにおいて大水があった。

永平4年春2月、明帝は詔勅を出した。

秋9月、千乗王の劉建が死去した。

冬10月、司徒の郭丹、司空の馮魴が免職となった。河南尹の范遷が司徒に、太僕の伏恭が司空となった。12月、陵郷侯の梁松が罪に問われ獄死した。

永平5年春2月、驃騎将軍の東平王の劉蒼が罷免され帰藩した。琅邪王の劉京が就国した。

冬10月、へ行幸した。趙王の劉栩と鄴で面会した。

11月、北匈奴が五原に侵攻した。12月、雲中に侵攻したが、南単于が之を撃退した。

永平6年春正月、沛王の劉輔、楚王の劉英、東平王の劉蒼、淮陽王の劉延、浪邪王の劉京、東海王の劉政、趙王の劉盱、北海王の劉興、斉王の劉石が来朝した。

2月、王雒山で寶鼎が出て、廬江太守が之を献上した。夏4月、明帝は詔勅を出した。

冬10月、魯国に行幸し、東海恭王の陵を祀った。沛王の劉輔、楚王の劉英、済南王の劉康、東平王の劉蒼、淮陽王の劉延、琅邪王の劉京、東海王の劉政と会見した。12月、明帝は戻って陽城に行幸し、使者を送って中嶽を祀らせた。明帝の車駕は宮中に戻った。東平王の劉蒼、琅邪王の劉京が車駕に従い来朝し、皇太后と面会した。

永平7年春正月、皇太后の陰氏が死去した。2月、光烈皇后を葬った。

秋8月、北海王の劉興が死去した。この年、北匈奴が遣使をし和親を乞うてきた。

永平8年春正月、司徒の范遷が死去した。3月、太尉の虞延が司徒に、衛尉の趙憙が行太尉事となった。

越騎司馬の鄭眾に命じて北匈奴への報使とした。初めて度遼将軍を設置し、五原曼柏に駐屯させた。秋、郡国14で雨水があった。冬10月、北宮が完成した。辟雍、養三老、五更に臨んだ。詔を出し、死刑囚の死一等を免じて度遼将軍の軍営へ送り、朔方、五原の辺県に配置させた。

日食が起き、明帝は詔勅を出した。

北匈奴が西河諸郡を侵攻した。

永平9年春3月、明帝は郡国に詔を出し、死刑囚の罪一等を免じて五原、朔方に住まわせた。

夏4月、明帝は郡国に詔を出し、公田を貧人に下賜した。また、司隸校尉、部刺史に令を出した。

この年は大有年であった。四姓小侯に学校を開設させ、『五経』の師範を設置した。

永平10年春2月、広陵王の劉荊が罪を得て自殺し、国は除かれた。

夏4月、明帝は詔勅を出した。

閏月、明帝は南方へ巡狩し、南陽に行幸し、章陵を祀った。日北へ至り、また舊宅を祀った。明帝は雅楽を楽しんだ。戻って南頓に行幸した。

冬11月、淮陽王の劉延を呼び平輿で会見し、沛王の劉輔を呼び睢陽で会見した。12月、明帝の車駕は宮中に帰還した。

永平11年春正月、沛王の劉輔、楚王の劉英、済南王の劉康、東平王の劉蒼、淮陽王の劉延、中山王の劉焉、琅邪王の劉京、東海王の劉政が来朝した。秋7月、司隸校尉の郭霸が罪に問われ獄死した。

永平12年春正月、益州の徼外夷哀牢王相が內屬を率いてきた。永昌郡を設置し、益州西部都尉を廃止した。夏4月、将作謁者の王呉が汴渠を修理し、滎陽から千乘までの海口を通じさせた。

5月、明帝は天下に施しを実行し、詔勅を出した。

秋7月、司空の伏恭が罷免され、大司農の牟融が司空となった。冬10月、司隸校尉の王康が罪に問われ獄死した。

永平13年春2月、明帝は藉田を耕した。3月、河南尹の薛昭が罪を問われ獄死した。

夏4月、汴渠が成立し、明帝は滎陽に行幸し、河渠へ巡行した。明帝は詔勅を出した。河を渡り太行に登り、上黨まで行幸し、明帝の車駕は宮中に帰還した。

冬10月、日食が起きた。明帝は詔勅を出した。

11月、楚王の劉英が謀反を計画し、廃立され国を除かれ、涇縣に移された、連座した者は数千人となった。この年、斉王の劉石が死去した。

永平14年春3月、司徒の虞延が免職となり、自殺した。夏4月、鉅鹿太守の南陽の邢穆が司徒となった。前の楚王の劉英は自殺した。夏5月、故の広陵王の劉荊の子の劉元壽を広陵侯に封じた。

初めて壽陵を作った。

永平15年春2月、明帝は東方に巡狩した。偃師に行幸した明帝は詔勅を出した。沛王の劉輔を呼び睢陽で会見した。彭城まで行幸し、下邳に於いて自ら耕した。

3月、琅邪王の劉京を呼び良成で会見し、東平王の劉蒼を呼び陽都で会見し、広陵侯とその三人の弟を呼び魯国で会見した。東海恭王陵に詣でた。明帝は孔子宅を訪問し、仲尼及七十二弟子を祀った。親しく講堂へ幸き、皇太子、諸王に命じて経を説いた。東平に行幸した。大梁から定陶まで行幸し、定陶恭王の陵を祀った。夏四月、明帝の車駕は宮中に帰還した。

信都を楽成国に、臨淮を下邳国に改めた。皇子の劉恭を鉅鹿王に、劉黨を樂成王に、劉衍を下邳王に、劉暢を汝南王に、劉丙を常山王に、劉長を済陰王に封じた。

冬12月、奉車都尉の竇固、駙馬都尉の耿秉を遣わし涼州に駐屯させた。

永平16年春2月、太僕の祭肜を高闕に、奉車都尉の竇固を酒泉に、駙馬都尉の耿秉を居延に、騎都尉の來苗を平城に遣わし、北匈奴を征伐させた。竇固は天山において呼衍王を破り、伊吾廬城に兵を留め駐屯した。耿秉、來苗、祭肜は功が無く帰還した。

夏5月、淮陽王の劉延が謀反を計画したが発覚した。司徒の邢穆、駙馬都尉の韓光が連座し獄死した他、関係者の多くが誅殺された。日食が起きた。6月、大司農の西河の王敏が司徒となった。

秋7月、淮陽王の劉延が阜陵王に改封された。

9月、明帝は郡国の中都官に詔令を出し、死刑囚を罪を減免して軍営に編入し、朔方、敦煌に配置した。

この年、北匈奴が雲中を侵略してきたが、雲中太守の廉范が之を擊破した。

永平17年春正月、甘陵に於いて甘露が降った。北海王の劉睦が死去した。2月、司徒の王敏が死去した。3月、汝南太守の鮑昱が司徒に任命された。

西南夷が哀牢、儋耳、僬僥、槃木、白狼、動黏諸種を前後して貢納してきた。西域諸国が子を人質に送り入侍させてきた。

秋8月、武威、張掖、酒泉、敦煌及張掖属國に命令して、囚人らの罪を一切免じて軍営に編入させた。

冬11月、奉車都尉の竇固、駙馬都尉の耿秉、騎都尉の劉張を遣わして敦煌を出て昆侖塞に赴かせ、蒲類海上に於いて白山虜を撃破し、車師に侵入した。初めて西域都護、戊己校尉を設置した。この年、天水郡を改名し漢陽郡とした。

永平18年春3月、明帝は詔勅を出した。

夏4月、明帝は詔勅を出した。焉耆、亀茲が西域都護の陳睦を攻撃し殺害した。北匈奴と車師後王が戊己校尉の耿恭を包囲した。

秋8月、明帝は東宮前殿に於いて死去した。48歳であった。

妻子[編集]

后妃[編集]

[編集]

  • 千乗哀王劉建
  • 陳敬王劉羨
  • 彭城靖王劉恭
  • 楽成靖王劉党
  • 章帝劉炟
  • 下邳恵王劉衍
  • 梁節王劉暢
  • 淮陽頃王劉炳
  • 済陰悼王劉萇

[編集]

  • 獲嘉長公主
  • 平陽公主
  • 隆慮公主
  • 平氏公主
  • 沁水公主
  • 平皋公主
  • 浚儀公主
  • 武安公主
  • 魯陽公主
  • 楽平公主
  • 成安公主

参考資料[編集]