安帝 (漢)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
安帝 劉
後漢
第6代皇帝
王朝 後漢
在位期間 106年 - 125年
都城 雒陽(洛陽)
姓・諱
諡号 孝安皇帝
廟号 恭宗
生年 94年
没年 125年
清河孝王・劉慶
左姫
陵墓 恭陵
年号 永初107年 - 114年
元初114年 - 120年
永寧120年 - 121年
建光121年 - 122年
延光122年 - 125年

安帝(あんてい)は、後漢の第6代皇帝。第3代皇帝章帝の孫。父は清河孝王劉慶。母は左姫。

生涯[編集]

即位[編集]

父は元々章帝の皇太子とされていたが、讒言により廃されて清河王に落とされていた。

幼いときから学問を好み、和帝にも可愛がられていた。

和帝の没後、殤帝が迎えられ、和帝皇后の鄧氏が臨朝しその弟の車騎将軍鄧隲と共に朝政を運営していたが、延平元年(109年)、殤帝がわずか2歳にして死去すると、13歳の安帝が擁立された。鄧氏の臨朝は継続し、鄧隲が朝政を運営した。

同年の9月には西域で反乱が勃発し、12月には実父の清河王が死去した。

永初107年)元年、2月には清河国が分割される一方、9月には鄧氏の母の陰氏に新野君が与えられた。この月に西域都護が廃止された。秋9月、太尉の徐防、司空の尹勤が免職され、張禹と周章が後任とされるが、11月には周章が帝位の廃立を目論んだとして誅殺された。この間、10月には国からの使者が来訪している。12月、司空の後任として張敏が迎えられた。

天災と反乱[編集]

永初2年(108年)春正月、鄧隲が冀西において種に敗れた。冬10月には征西校尉の任尚が平襄において先零羌に敗れた。11月には鄧隲は大将軍に任命され、任尚を隴右に残し京師に帰還した。先零羌の反乱は収まらず、三輔や益州が被害にあった。

永初3年(109年)春正月、安帝は元服した。先零羌討伐に騎都尉の任仁を派遣したが、戦況は不利であった。高句麗の使者が来た。この頃の後漢帝国には飢饉が蔓延していたが、3月にはとうとう京師にまでそれが及んだ。司徒の魯恭が免職となり、4月に夏勤が後任となった。安帝の実家の清河王家の継嗣が死去したため、5月に楽安王家から後継を迎えた。秋7月には海賊の被害が出て、侍御史の龐雄に州郡の兵士を率いさせこれを討伐した。9月には烏桓鮮卑が反乱し、五原郡に被害がでた。冬10月には匈奴の南単于が反乱を起こし、中郎将の耿种を派遣し、11月には車騎将軍の何熙をも遣わした。12月には引き続く天災により、幷州と涼州ではひどい飢饉となっていた。

永初4年(110年)春正月、前年の海賊の被害が拡大していたため、御史中丞の王宗と青州刺史の法雄に討伐させ、これを破った。また、度遼将軍の梁慬と遼東太守の耿夔に命じて匈奴の南単于を攻撃させた。2月には初めて長安に雍二営都尉が設置された。3月に匈奴の南単于は降伏したが、先零羌は引き続き猛威を振るっていた。秋7月には騎都尉の任仁は獄に下され死去している。この間、劉珍と五経博士に命じて東観の経典を校定させた。冬10月には新野君とされていた陰氏が死去した。

永初5年(111年)春正月、日食が起きた。太尉の張禹が免職となり、李修が後任となった。先零羌の活動は続き、漢人にもこれに与する者が現れ始めた。

永初6年(112年)、天候の不順は続き、夏4月に司空の張敏が免職となり、劉愷が後任となった。各地で反乱が続き、冬11月には護烏桓校尉の呉祉が投獄され死去しているが、先零羌の頭目が死去するなど、弱体化の兆しが見え始めた。永初7年(113年)秋には、護羌校尉の侯覇と騎都尉の馬賢が先零羌を破っている。

元号が永初から元初に改められたが、天候の不順は続いた。先零羌も勢力を盛り返し、9月には武都と漢中に拠って隴道を断ち、涼州刺史の皮陽と狄道で戦った。この月に太尉の李修が免職となり、司馬苞がそれに代わった。

元初2年(115年)3月、先零羌が益州に侵攻し、中郎将の尹就がこれを討伐した。夏4月、貴人であった閻氏(えんし)を皇后とした。6月には太尉の司馬苞が死去し、秋7月に馬英が後任となった。この間、蝗や地震の被害が京師を襲った。冬10月に中郎将の任尚に乱れていた三輔に駐屯させた。右扶風の仲光、安定太守の杜恢、京兆虎牙都尉の耿溥が先零羌と奚城において戦ったが大敗した。左馮翊の司馬鈞らが投獄され自殺した。12月には武陵蛮が反乱を起こした。司徒の夏勤が辞職し、司空の劉愷が司徒、袁敞が司空となった。

元初3年(116年)春正月、蒼梧、鬱林、合浦の蛮が反乱し、2月に侍御史の任逴が派遣され州郡の兵士を指揮しこれを討った。5月には武陵蛮が再び反乱を起こし、州と郡が討伐にあたった。先零羌に対しては度遼将軍の鄧遵が南匈奴を率いて討伐に向かい、霊州で戦いこれを破った。6月には中郎将の任尚が先零羌を奚城において撃破した。秋7月には武陵蛮が平定され、冬11月には蒼梧、鬱林、合浦の蛮夷が降伏した。12月に、任尚は先零羌を北地において撃破した。

元初4年(117年)春2月、日食が起き、夏4月に司空の袁敞が死去した。同月に鮮卑が遼西に侵攻したが、遼西郡は烏桓と協力しこれを撃退した。護羌校尉となっていた任尚は9月、刺客を送って先零羌の頭目を殺害し、12月には騎都尉の馬賢と共に富平上河で先零羌の軍勢を大いに破り、隴右を平定した。

元初5年(118年)春正月、長らく動静が不穏であった越巂夷が反乱を起こし、永昌、益州蜀郡の夷もこれに呼応し、益州刺史の張喬がこれを討伐した。夏6月には高句麗と穢貊玄菟郡を攻撃した。この間も天災が続き、倹約を励行する詔勅が発布された。元初6年(119年)春2月には、人材を求める詔勅も出された。秋7月、鮮卑が馬城を侵略し、度遼将軍の鄧遵は再び南単于を率いてこれを撃破した。

永寧元年(120年)3月、沈種羌が張掖に侵攻した。6月に護羌校尉となっていた馬賢がこれを討ち破った。この間、夏4月に劉保が皇太子となった。冬10月に司空の李郃が免職となり、陳褒が後任となった。この間、日食と長雨の被害が続いた。12月に司徒の劉愷が罷免され、楊震が後任となった。

親政の確立[編集]

建光元年(121年)春正月、幽州刺史の馮煥が二つの郡の太守を率いて高句麗と穢貊を討った。

成人後の安帝は外戚の鄧氏に反発するようになり、その影響からか生活に乱れが生じていた。また閻氏(えんし)を立后するが、安帝との子をもうけた他の后妃を殺害するなどを行っていた。

3月、長く臨朝して政治の実権を握っていた氏が死去すると、鄧隲は大将軍を辞任し、特進待遇となった。安帝は、4月に実父や実母らに皇帝や皇后を追尊する一方で、楽成王の劉萇や罪に問い侯に降格させている。5月には閻氏や宦官李閏らの助力を得て、鄧隲や鄧遵ら、鄧一族を粛清し、また、平原王の劉長を罪に問い侯に降格させた。秋7月には大赦が実行された。太尉の馬英が死去し、前の司徒の劉愷が太尉となった。

この間、夏4月に穢貊が再び鮮卑と組んで遼東に侵攻し、遼東太守の蔡諷は戦死している。また、遼東属国都尉の龐奮が偽の璽書を受けて玄菟太守の姚光を殺害するという事件が起きている。8月には護羌校尉の馬賢が焼当羌と金城で戦った。鮮卑が居庸関に侵攻し、9月に雲中太守の成厳が戦死し、鮮卑と烏桓校尉が馬城において衝突し、度遼將軍となった耿夔がこれを救援した。鮮卑の動きは収まらず、玄菟郡を攻撃した。冬11月には漁陽に営兵が初めて設置された。冬12月、高句麗と馬韓と穢貊が玄菟城を襲い、夫餘の助力を得て州郡の力を合わせてこれを破った。

延光元年(122年)、天候の不順は続き、夏4月に司空の陳褒が免職となり、5月に劉授が司空となった。高句麗が降ったが、虔人羌が反乱を起こし、穀羅城を攻撃した。度遼将軍の耿夔がこれを討ち破った。冬10月、鮮卑が鴈門・定襄を攻撃した。11月には鮮卑は太原を攻撃した。一方で焼当羌が降伏してきた。

延光2年(123年)、冬10月に太尉の劉愷が罷免し、司徒の楊震を太尉にし、劉憙を司徒とした。11月に鮮卑は南匈奴に曼柏で敗れた。蜀郡の西部に属国都尉を設置した。

延光3年(124年)春2月、安帝は東に巡察し、祭祀を執り行った後、3月に京師に帰還した。太尉の楊震が罷免され、石為が後任となった。

5月には南匈奴が叛いたが、匈奴中郎将の馬翼がこれを討ち破った。6月には鮮卑が再び玄菟郡に侵攻した。秋7月には右校、左校令の丞官を復活させた。8月には耿寶を大将軍に任命した。9月に、元の皇太子の劉保を済陰王とした。冬10月に長安に行幸した。

延光4年(125年)2月に安帝は南に巡狩したが、3月に客死した。32歳であった。従兄弟の北郷侯・劉懿(章帝の孫で済北王劉壽の子)が擁立され、閻皇后が皇太后として臨朝し、兄の閻顯が車騎將軍としてそれを助けた。

夏4月、太尉の馮石を太傅にし、司徒の劉熹を太尉に、参録尚書事で前司空の李郃を司徒となる一方,大将軍耿寶、中常侍樊豊、侍中謝惲、周広らが罪に問われ、樊豊、謝惲、周広は獄死し、耿寶は自殺した。安帝は恭陵に葬られた。廟号は恭宗。

治世[編集]

摂政をしていた兄妹は他の外戚に比べて良質であり、氏は班昭に私淑して経書の講義を受けたりした人物であった。兄の鄧隲も1万戸の領地を受けた後で更に3千戸の加増を申し渡されたときに固辞して受け取らなかったという。氏の摂政時代には匈奴の進入や天災が相次ぎ、決して平和な時代ではなかったが、氏は節約に励んで懸命に政治に当たったという。ただし官僚との連絡役として宦官を重用したことが、後に宦官の専横を許すこととなったといわれる。氏の粛清の後は、宦官と閻氏一門が専権を振るうことになる。

安帝の時代には西域都護が匈奴により攻撃され、西域は匈奴の手に落ちた。他にも西の族など周辺民族が相次いで反乱を起こすなど、後漢の衰退が明らかになってきた。

参考資料[編集]