夏侯玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

夏侯 玄(かこう げん、209年 - 254年)は、中国三国時代の武将・政治家。太初。父は夏侯尚。生母は徳陽郷主(曹真の妹)。妻は李恵姑[1]。同母妹は夏侯徽司馬師の前妻)。従兄弟は曹爽。娘は和嶠(和洽の孫)の妻(傅暢『晋諸公賛』)。『三国志』「諸夏侯曹伝」などに記録がある。

生涯[編集]

20歳で散騎侍郎・黄門侍郎に任じられた。曹叡(明帝)に目通りした際、毛皇后の弟である毛曾と同席させられた事に対し嫌悪感を露わにしたため、曹叡の不興を買って羽林監に左遷された[2]

夏侯玄・李勝・鄧颺・諸葛誕ら当時の名士は、互いに称号を付け合っていた。夏侯玄も「四聡」の1人に数えられた。しかし曹叡は、これを軽薄な評判を持て囃す風潮として嫌い、彼らを免職にしたという[3]

正始年間初期、曹芳(斉王)の治世下で曹爽が政治の実権を握ると、曹爽の縁戚である夏侯玄も出世し、散騎常侍・中護軍に昇進した。

当時、曹爽の側近であった何晏と並ぶ評判を有していた。夏侯玄は何晏・司馬師とも交際し、何晏から司馬師と同じ優れた人物であると評価された(『魏氏春秋』)。一方、傅嘏には評価されなかった(「傅嘏伝」)。

中護軍としては蒋済の後任であり、当時横行していた賄賂の風習を、夏侯玄の代になってもやはり止めさせる事ができなかったと言われている(『魏略』)。しかし人を見る目があったため、優れた人物を武官に抜擢したことにより、自らの周囲が俊英や豪傑ばかりになったとも伝わっている(『世語』)。

ある時、司馬懿から政治について意見を求められると、九品官人法を批判した上で中正官の権限縮小を主張し、さらに地方制度の抜本的な改正意見も述べた。司馬懿は夏侯玄に返書を送り、優れた人物が出ない限りその政策は実施できないだろうと述べた。夏侯玄はさらに返書を送り、司馬懿の消極的な姿勢を非難した。

その後、征西将軍・仮節都督諸軍事に昇進した。友人であった李勝を長吏に採り立て重用し、244年に李勝の進言を受けて曹爽と共に蜀漢へ侵攻したが、輸送に苦しみ大きな被害を出し、何ら得る事無く帰還したため多くの批判を受けた(興勢の役)。

249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。この時、夏侯覇から共に蜀へ亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。

その後、夏侯玄は曹爽との関係を理由に抑圧され、不遇の日々を囲った。人事にも関与せず、美女を側室に置こうともしなかったという(『魏略』)。司馬懿が死去すると友人の許允が安心したが、夏侯玄は「あなたはなんて見通しが利かないんだ。あの人(司馬懿)は今回このようなことがあったというのに、私を以前から付き合いのある家の後輩として遇してくれた。しかし、子元(司馬師)・子上(司馬昭)が私達に対して遠慮すると思うか」と述べ、許允の見通しの甘さを予測した(『魏略』)。

中書令の李豊は、司馬師に信任されていたにも関わらず、夏侯玄に心を寄せていた。司馬師を誅殺し、夏侯玄に大将軍として政権を握らせようと考え、張緝らと計画を巡らした。しかし計画が事前に露見したため、司馬師に機先を制されて夏侯玄らは捕らえられ、廷尉であった鍾毓の元に送られてしまった。夏侯玄は鍾毓の取調べの時にも堂々としており、作成した供述書を鍾毓が涙を流しながら見せると、黙って頷いたという(『世語』)。

結果、夏侯玄は李豊らとともに大逆罪に問われ、刑法により三族皆殺しとなった。46歳であった。斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。

後に反乱を起こした毌丘倹・諸葛誕は、ともに夏侯玄の友人であった(「毌丘倹伝」・「諸葛誕伝」)。

正元年間に入り、功臣達の家系を継がせることになった時、夏侯玄の従子(おい)である夏侯本は跡継ぎとして認められ、昌陵亭侯に封じられた上で300邑を領した。

夏侯玄は学者としても秀でており、「楽毅論」・「張良論」・「本無肉刑論」を著した。その文章は筋が通っており、世間に広く伝わったという(『魏氏春秋』)。

小説『三国志演義』にも登場する。李豊らとともに司馬師の誅殺を企てるが発覚し、司馬師を罵倒しながら処刑されている。

評価[編集]

多くの州郡を治め、そこで法律を制定し教化を施した。その統治は後世の手本になったという(『世語』)。

また、度量が大きく、世を救う志が大きい人物であったともいう。

陳寿も、夏侯玄の優れた才能と功績は認めつつも、曹爽の誤りを正す事ができなかった点を批判し「悲劇的な最期を迎えた事も仕方がなかったのではないか」と、批評している。

逸話[編集]

名士としての誇りが高く、鍾会陳騫が交際を求めたものの断られたという逸話がある(『世語』『世説新話』)。

また、司馬師にもその名声の高さをかねてから畏れられており、司馬昭が夏侯玄の命乞いをした時、司馬師は「趙儼の葬儀において、数百人の参列者が揃って夏侯玄のところへ挨拶に出向いた時の事を忘れたか」と叱り付けたという(『魏氏春秋』)。

脚注[編集]

  1. ^ 真誥』巻12・稽神枢第2
  2. ^ 孫盛『雜語』によれば、美男子で有名だった夏侯玄と、風采のあがらなかった毛曾が同席したことを、当時の人々が「葦が玉樹にもたれ掛かる」と評したためだともいわれる。
  3. ^ 郭頒『世語』。なお、この記事では「散騎常侍の夏侯玄」とあるが、正史の本文に従うと、夏侯玄が散騎常侍になったのは曹叡の死後である。