呂布

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呂布(吕布)
Lü Bu archer.png
弓を射る呂布
後漢
左将軍・温侯
出生 不詳
并州五原郡九原県(内モンゴル自治区包頭市
死去 建安3年(198年
徐州下邳国
ピン音 Lǚ Bù
奉先
別名 飛将
主君 丁原董卓献帝袁術袁紹張楊→独立勢力

董卓の養子

呂 布(りょ ふ、? - 建安3年(198年))は、中国後漢末期の武将・群雄。奉先并州五原郡(現在の内蒙古自治区内)の人。『後漢書』巻75 「劉焉袁術呂布列傳」 第65[1]、『三国志』巻7 魏志「呂布伝」[2]に列伝がある。

戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇った。『三国志演義』等、三国志関係の物語等では最強の武将として描かれる。

事跡[編集]

董卓政権下[編集]

呂布は勇猛さと武芸の腕前を買われ[3]、当時并州刺史だった丁原に、主簿[4]として仕えた。丁原は呂布を個人的に親愛したという。

中平6年(189年)、霊帝が死去すると、宦官十常侍外戚何進洛陽を舞台に政争を繰り広げた。丁原が宦官の殺害を計画した何進と共謀し、執金吾に任命され軍隊を率いて洛陽に入ったため、呂布も同行した。

何進と十常侍が共倒れとなると、洛陽に入城した董卓は丁原の軍勢を奪うため殺害を目論み、その下にいる呂布に謀反をもちかけた。呂布は丁原の主君何進が頓死した事から最早丁原に見込みが無く、董卓についた方が将来が明るいと考えて(高島俊男の『三国志 きらめく群像』頁63)丁原を斬り[5]、その首と丁原の部隊を手土産にそのまま董卓に仕えた。董卓は呂布を非常に重用し、養子として信頼の厚さを示した。呂布は、董卓から丁原が就いていた騎都尉に任ぜられ[6]、まもなく中郎将に累進して、さらに都亭侯に封じられた。

呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢時代に活躍した李広に準えて飛将と呼ばれた。絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺警護させた。

初平元年(190年)、反董卓連合が結成されると、曹操等が独断で成皋を制圧すべく出陣してきた。呂布は一軍の将として曹操を迎撃し、曹操が破れるとこれを追撃して大打撃を与え(『後漢書』「呂布伝」渡邉義浩の『ビジュアル三国志3000人』頁54)、曹操は後に袁紹と連合した(『後漢書』「袁紹伝」『資治通鑑』巻第59)。

翌2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに対し、胡軫・呂布らを討伐軍として派遣した。しかし、呂布は胡軫に反感を抱いていたため、胡軫の作戦を失敗させようとし、誤情報を流した。このため胡軫の作戦が失敗し(『三国志』呉志「孫堅伝」が引く『英雄記』『後漢書』「董卓伝」)、董卓軍は華雄を討たれるなど、孫堅に大敗したという(陽人の戦い)。この戦い以降、董卓軍の形勢不利が固まったため、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた(『三国志』『後漢紀』「後漢孝献皇帝紀巻」第27)[7]

董卓暗殺と三日天下[編集]

呂布(肖像)

董卓の抹殺を目論む王允は、董卓の信任を受けつつも密かに士孫瑞らと謀議を巡らしていたが、一方で呂布と同郷であったため親しくしていた。あるとき呂布が、董卓に殺されかけた話[8]を王允にしたところ、王允は呂布に董卓暗殺を唆した[9]。呂布は決断すると、士孫瑞や王允と董卓暗殺計画を共謀する様になった。初平3年(192年)4月[10]、董卓が皇帝の病の快癒を祝う為宮殿に向かうと、呂布は李粛等十人を衛士と偽って宮門に待ち伏せさせた(『三国志』魏志「董卓伝」『資治通鑑』巻第60)。董卓は宮殿に参内、その際馬が進まなかった為恐れて引き返そうとし、計画は失敗に終わりかけたが呂布が進む様説得(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『後漢書』「呂布伝」『後漢紀』「後漢孝献皇帝紀巻」第27)した為董卓は引き返さず、宮門に入った。そして李粛等が董卓を刺すと董卓は呂布に助けを求めたが、呂布によって殺され暴政は幕を閉じた。

自らを養子にまで迎えていた董卓の暗殺に加わった理由については、些細な事で董卓に手戟を投げられた事を恨んでいた他、董卓の侍女[11]と密通していたため、それが露顕し処罰されることを恐れて暗殺に加わったと史書は記す。また、董卓が本拠地を呂布の率いていた并州人の根拠地に近い洛陽から長安付近の郿に移して并州人の募集が困難となる事で、呂布自身の有する武力(つまり并州人の軍団の力)に重大な低下が生じ、やがてそれを握る呂布自身も不要となり、それが上記の些細なトラブルと重なって将来的に自身が没落する原因となるのを呂布が確信した(上谷浩一の論文『呂布叛逆考』)事が理由とも言われている。

董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を掌握し(『三国志』魏志「呂布伝」『資治通鑑』巻第60)、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、假節を与えられた(『三国志』魏志「呂布伝」『後漢書』「呂布伝」『資治通鑑』巻第60)[12]。しかしその後、王允が呂布の将校・公卿に褒賞を与える等の献策を悉く退ける等して軽んじ、呂布も董卓殺害の功を誇ったため、両者の仲は次第に悪くなっていった(『後漢書』「王允伝」『資治通鑑』巻第60)。また、王允が呂布の涼州軍を許すべきと言う勧めを退けた事が原因の一つとなり(『後漢書』「王允伝」)[13]、董卓の軍事力の基礎であった郭汜李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜と一騎打ちしてこれを破る(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『ビジュアル三国志3000人』頁73)[14]等したものの、呂布配下の蜀兵が李傕等の兵を城に引き入れた(『後漢書』「董卓伝」『資治通鑑』巻第60)為防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。

呂布は数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。

中原を彷徨う[編集]

呂布はまず荊州に赴き、袁術にもてなされたが、配下の略奪等から次第に疎まれ(『後漢書』「呂布伝」『資治通鑑』巻第60)、次に袁紹を頼った(『三国志』魏志「呂布伝」)。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は四営屠各・雁門烏桓と結び、1万の精鋭と数千の騎兵を有していた(『三国志』魏志「呂布伝」『後漢書』「呂布伝」『ビジュアル三国志3000人』頁55『三国志 きらめく群像』頁71)[15]。しかし呂布は赤兎に跨り、側近の魏越成廉等数十人と共に突撃を1日に3・4度かけ皆が敵の首を持って帰還、それを十数日にかけて反復した。これにより黒山賊は撃破され(『三国志』魏志「呂布伝」『後漢書』「呂布伝」)[16]、以後百万を誇った黒山賊は離散し、十余万までに減った(『三国志』魏志「武帝紀」「張燕伝」『後漢書』「公孫瓚伝」満田剛の『図解 三国志 群雄勢力マップ』頁23)。その後、袁紹に兵力の補充を要求したが、その将兵がまたも略奪などを行なった[17]ため、ついに袁紹の忌むところとなり、呂布もそれを察して彼の下を離れようとした。袁紹は呂布の逆襲を恐れ、呂布に刺客を送るが失敗し、呂布も袁紹の元から逃走した[18]

冀州を出ると、その次は河内張楊を頼る[19]。張楊は、長安の李傕と郭汜が呂布は賞金首だということを通達していたため、諸将と共謀して呂布を殺そうとした。しかし呂布がそれを察知し、張楊に自らの捕縛を教唆したため、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちを宥めるため、呂布を潁川太守に任命したという(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)。張楊の下を離れ流浪の途中で、陳留太守張邈の下へ行き、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。

張邈は曹操の親友であったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命令で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという[20]興平元年(194年)、曹操が徐州陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超陳宮は張邈を説得し、呂布を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。

張邈に迎え入れられた呂布は、濮陽を守っていた夏侯惇の留守を突きこれを占拠した(『三国志』魏志「夏侯惇伝」『資治通鑑』巻第61)。一時は策を用いて夏侯惇を捕虜にしたが、韓浩の働きで奪還された(『三国志』魏志「夏侯惇伝」)。また呂布が濮陽を落とすとほとんどの郡県が呂布と張邈に呼応し、呂布は77城を手に入れた。しかし荀彧等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった(『後漢書』「郡国志」によれば、兗州の領城は80で有る)。

曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略(台湾三軍大学の『中国歴代戦争史』第四册の頁69)を取り[21]、曹操が攻撃してくると自ら武勇を振るってこれを連破した(『三国志』魏志「武帝紀」「典韋伝」「程昱伝」)。この戦いの間に曹操は袁紹に投降して兵5千を借りると(昭明太子の『文選』巻44、陳琳の「為袁紹檄豫州」そして同巻で李善が引く謝承の『後漢書』この記述の他にも、范曄著、吉川忠夫訓注の『後漢書』「袁紹伝」頁537も文選の注釈を記し、胡三省の『資治通鑑音注』巻第61では、呂布が兗州を襲い取ったこの時期に曹操は、初平元年袁紹に従って以来再び連合したとする。また、裴松之も『三国志』魏志「袁紹伝」に『魏氏春秋』に有る陳琳の檄文を載せている)再び濮陽を攻撃した、しかし100日以上経過すると、両軍は旱魃蝗害によって兵糧が不足しはじめたので、呂布は山陽に駐屯した。

その後、呂布は1年以上に亘り激戦を繰り広げたが、袁紹軍の協力を受けた(渡邉義浩の『図解雑学 三国志』頁70、『ビジュアル三国志3000人』頁56)1千未満の曹操軍に1万余りの兵を率い向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。

徐州を支配[編集]

呂布は劉備の元を訪れると、妻の寝台に劉備を座らせて自身の妻に挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ。劉備は呂布の言葉に一貫性が無いのを見てとり、内心彼を不愉快に思った(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『資治通鑑』巻第61)。

まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠下邳を奪い取った(『三国志』魏志「呂布伝」蜀志「劉備伝」『後漢紀』「後漢孝献皇帝紀巻」第29『華陽国志』巻6「劉備伝」)[22]。そして行き場を無くした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にして共に袁術を撃ち、小沛に駐屯させて自らは徐州牧を自称した(『資治通鑑』巻第62)[23]。その後袁術は6月に陳宮等と共謀して呂布軍を転覆しようとしたが、呂布がすんでの所で逃れた為失敗(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『資治通鑑』巻第62、陳宮が関与したと言う記述は実際にはされていないが、『朱子語類』巻134で朱熹は、司馬光は権謀を嫌い、それに関する著述を大部分削除したと書く)。袁術は呂布が自らに害をなす事を恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせる事を提案した。呂布もそれを承認したという(『後漢書』「呂布伝」『資治通鑑』巻第62)。

その後、袁術が紀霊らに歩・騎兵あわせて3万を率いさせ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。呂布軍の諸将は「将軍は既に劉備を殺そうとしていたのですから、袁術に手を貸すべきです」と救援に反対した。しかし呂布は「いや、もし袁術が劉備を撃破すれば、北の泰山の軍閥と連携することになり、わしは袁術らに包囲されてしまうことになる。救援せざるをえない」と主張し、歩・騎兵1千人余りを率いて劉備の援軍に駆け付けた。紀霊たちは呂布が現れたと聞くや兵を纏めて攻撃を中止していた。このため呂布は、両陣営の将を安屯に集めさせ和解させようと図った。呂布は「劉備はわしの弟だ。弟が諸君らのせいで困っておるので、助けに来たのだ。わしは合戦を好まず、和解を喜ぶ性格なのだ」と言い、軍候に命令してを陣営の門に植えさせた。「わしが戟の小支を射るのを見よ。一発で当たれば兵を引いて去れ。引かぬというのなら好きにやれ」と言い、呂布は矢を放って戟の小支に見事に命中させた。諸将はこれに驚愕し、皆引き揚げていった。

その後、呂布は1万の兵を集めた劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った(『三国志』蜀志「先主伝」『資治通鑑』巻第62)。

呂布は徐州に居た頃、河東に居た献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧が無いので救援を送れなかったがかわりに使者を送った。朝廷は呂布を平東将軍・平陶侯に任命した(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『資治通鑑』巻第62)。

最期[編集]

その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけた。だが徐州と揚州が連合する事を恐れた[24]陳珪に諫言された呂布は、以前袁術に受け入れられなかった事を恨んで(『三国志』魏志「呂布伝」『資治通鑑』巻第62)[25]袁術の使者を捕らえると、書簡と共に曹操に送った。その後曹操は呂布を左将軍に任じ手紙を遣わすと、呂布は大いに喜んで陳登を使者に遣わし、手紙と章で返礼した(『三国志』魏志「呂布伝」に引く『英雄記』『資治通鑑』巻第62)[26]。しかし使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍を率いさせ、連携して呂布を攻撃した。この時呂布は3千の兵と4百の馬しか持っていなかった為(『後漢書』「呂布伝」、『資治通鑑』巻第62)に陳珪を責めたが、彼の策略を受けた呂布は書簡で楊奉・韓暹を袁術から離反させ、彼等を率いていた張勲を大敗させた。また、追撃して袁術の10人の武将と殆どの兵を殺害すると(『資治通鑑』巻第62)、逆に袁術の鍾離まで進撃し、手紙で袁術を挑発し騎兵と共に悠々と引き揚げたという(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『資治通鑑』巻第62)[27]。袁術はこの大敗と、後の曹操戦での敗北によって勢力を大きく損失した(『三国志』魏志「袁術伝」『ビジュアル三国志3000人』頁115)。

この間に、独立勢力の臧覇によってキョ城が陥落した。その後臧覇は呂布に賄賂を贈ろうとしたが、呂布は自らこれを求めようとした。高順がこれを諌めたが呂布はこれを退け臧覇を攻撃するも攻め落とせず、引き返した(『後漢書』「呂布伝」『資治通鑑』巻第62)。また高順は常に、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言う事を聞いていつも口にする誤りを改める様にと諌めていたが[28]、呂布はその意見を採用せず、あまつさえ陳宮等の反乱後高順の兵を奪い取り、自分の親族で有る魏続に与えた。そして戦争になると高順に魏続の配下の軍を指揮させたが、高順は終生恨みを抱かなかったと言う。

張勲を破った後、楊奉・韓暹は徐州と揚州の間で略奪を繰り返していたが、やがて飢餓に陥って劉表のもとに行きたいと呂布に願い出た。呂布がこれを拒絶すると、楊奉等は劉備に呂布討伐を提案した。しかし楊奉は劉備に殺され、韓暹は逃亡中屯帥(県尉)張宣に殺された(『資治通鑑』巻第62)。

建安3年(198年)呂布はまた袁術と通じ、部下の高順を派遣して小沛の劉備を攻撃した。曹操は夏侯惇を派遣して劉備を救援させたが、高順に敗退した。9月に小沛は再度陥落し、劉備の妻子も再び捕虜となり、臧覇等が呂布に呼応した(『三国志』魏志「武帝紀」「荀攸伝」が引く『魏書』魏志「臧覇伝」『資治通鑑』巻第62)。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ[29]。10月曹操軍が彭城を落とすと陳宮が呂布に迎撃する様進言したが、呂布は泗水を越えた所で迎え撃つと言って聞かなかった(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『献帝春秋』『資治通鑑』巻第62)。そして呂布はしばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、成廉を捕らえられると今度は下邳に籠城して出てこなかった(『三国志』魏志「武帝紀」『資治通鑑』巻第62)[30]。これに対し曹操が書簡を送ると呂布は降伏しようと言う思いに至ったが、陳宮等が反対し、呂布に騎兵を率いさせて曹操の糧道を断とうとしたが、呂布が妻の反対によって断念(『資治通鑑』巻第62)。更に呂布が密かに袁術に援軍を求めたところ、袁術は以前の呂布の背信を持ち出し消極的な姿勢を採ったが、王楷許汜の説得により軍勢を整えると声援を送った。呂布は袁術が娘を送らなかった為に援軍が送られなくなる事を恐れ、娘を背中におぶり馬で敵中突破して袁術に援軍を求めようとしたが、失敗した(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『資治通鑑』巻第62)。

包囲して後、呂布が固守した事で下邳を攻め落とせず(『三国志』魏志「荀攸伝」「郭嘉伝」)、相次ぐ戦いに疲弊した軍を憂い1ヶ月近くで撤退を計ろうとする曹操に対し、曹操軍の荀攸郭嘉沂水泗水の水を曳き込み、呂布軍を下邳城ごと水攻めにして消耗させる策略を考案し、実行に移されると(『三国志』魏志「武帝紀」「荀攸伝」『資治通鑑』巻第62)、呂布は曹操軍の兵士達に対し自首する事を願い出たが陳宮に阻止された(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『献帝春秋』『資治通鑑』巻第62)。そして呂布が侯成を禁止されていた酒を勝手に醸造し、宴会を行ったかどで叱咤した後、これを憤り恐れた侯成と諸将が反乱を起こし、陳宮・高順を捕縛して曹操に差し出した上で降伏した。追い詰められた呂布は残った部下とともに白門の城楼に上ったが、包囲が厳しくなると部下に自分の首を斬り曹操に降るよう命じた。だが部下達にはそれを遂行出来なかったため、呂布もついに降伏した(『後漢書』「呂布伝」『資治通鑑』巻第62)[31]

呂布が曹操に「(曹操)殿が悩みとしていたのは私一人でしょう。それが降伏したなら天下に心配事はもう有りますまい。殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下の平定は容易なことです」と語ると、曹操は呂布の縄目を緩めさせようとした(『三国志』魏志「呂布伝」『資治通鑑』巻第62)。しかし劉備が、呂布が丁原と董卓を裏切って殺したことを挙げて曹操を諌めたため、曹操も頷いた。呂布は「劉備こそ一番信用できない男である」と主張したが、縛り首に処され、重臣の陳宮・高順らも斬首された。呂布の首はに送られ、その後に埋葬されたという。

評価[編集]

呂布の武力は当時の人々から「人中の呂布」と呼ばれる程優れていた。これは後世の学者も認める所で有る[32][33][34][35][36]。ただしの于慎行の様に「呂布は剣客の勇のみ。大豪にあらざるなり。其の性決し易かれど、謂うところに常なし」と批判する者も居る[37]。また狡猾で幾度となく主に対し裏切りを重ね、『三日天下』とは言え[38]一時は国家の政権を担う立場にまで登りつめた。しかし元々名士に相手にされる階層では無かった事から[39]彼等と妥協せず、自分の価値観に基づく政権建設に向かい、その維持に失敗した(渡邉義浩の『「三国志」の政治と思想 史実の英雄達』頁34)[40][41]。 呂布の生涯を陳寿は「虓虎(吠えたける虎)の勇猛さを持ちながら、英雄の才略を持たず、軽はずみで狡猾、裏切りを繰り返し、利益しか眼中に無かった。歴史上、彼の如き人物が破滅しなかった試しはない[42]」と評し、『後漢書』もまた呂布の評を袁術の次に載せ「呂布もまた変節を繰り返した。」としている。

フィクション[編集]

中国では古くから雑劇京劇や、『三国志平話』・『三国志演義』などで描写されてきた。

三国志演義[編集]

三英戦呂布

「軍門に戟を射る」等、小説『三国志演義』ではそのまま使用された挿話も多い。身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、煌びやかな鎧をまとうという、豪壮な武者として描かれている。猛々しく華やかに、また欲望に弱く、董卓と対立した義父の丁原を赤兎馬欲しさに殺す様に、判断力に欠ける点など人間的な面も際立たせ、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。また、彼の驍勇無双振りを最もよく表す描写としては、虎牢関の戦いにおいて張飛と互角の打ち合いをし、関羽・劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が特に有名である。

また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり、怒鳴り散らしていたため人心を失い、自分を戒めるために禁酒令を出したが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに対し腹を立て、百叩きの刑としている。それが恨みを買う一因となって、酒に酔って寝ていた所を侯成・宋憲魏続に捕らえられてしまう。 陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われたため、曹操に処刑を決意されてしまう。これに激怒した呂布は「この大耳野郎が。陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたのか!この恩知らずめ」と口を極めて劉備を罵ったが、同じくして処刑のために連行されて来た張遼に「見苦しい」と罵られている。主を殺して裏切り、自分の武勇のみで乱世を生き抜いたため、最期は部下に裏切られその生涯を終えたことになっている。


脚注[編集]

  1. ^ 『後漢書』巻75 劉焉袁術呂布列傳”. 中國哲學書電子化計劃. 2010年7月31日閲覧。
  2. ^ Wikisource reference 陳壽. 三國志/卷07. - ウィキソース. 
  3. ^ 『三国志』魏志・呂布伝『後漢書』呂布伝「驍武をもって并州に給す。」
  4. ^ 『資治通鑑』巻第59と『後漢紀』「後漢孝霊皇帝紀」下巻第25によれば、呂布は部曲司馬だったとされる。
  5. ^ 高島俊男はこれを同書で聡いと評す。
  6. ^ 『三国志』魏志・呂布伝「刺史丁原、騎都尉となり、河内に屯す。…卓、布をもって騎都尉となし、これを愛信し、誓いて父子となる。」
  7. ^ その際呂布はまた洛陽で孫堅と戦ったが、敗れた(『後漢書』「董卓伝」『資治通鑑』巻第60)と言う記述も存在する
  8. ^ 董卓は一時の怒りから呂布に手戟(小さな剣)を投げつけたが、体術に優れていた呂布が見事にかわしたため、事なきを得た。
  9. ^ 呂布が董卓との親子の誓いがあることを気にすると、王允は姓が別であるから遠慮はいらない、と説得した。
  10. ^ 『三国志』魏志が引く「武帝紀」『後漢書』「董卓伝」『資治通鑑』巻第60
  11. ^ 三国志演義』の王允の養女貂蝉のモデル。
  12. ^ 一方『後漢紀』「後漢孝献皇帝紀巻」第27『通典「職官16」は呂布が奮武将軍・假節を与えられ、開府する事を三公の如く許されたとしている
  13. ^ ただし『資治通鑑』巻第60では、呂布が涼州の部曲を皆殺しにする様王允に勧めている。
  14. ^ 渡邉義浩は将軍は前に出て戦う事はしないとし、一騎打ちが春秋時代から行われなくなったともする(ファミ通Appの『【三国志を抱く】第一人者に聞く、『三国志』って奥が深い!(その2)』)が、この一騎打ちや常山での戦いは『ビジュアル三国志3000人』にも記されている。高島俊男も『三国志 きらめく群像』の頁422で、中国では普通の将軍とはかなり性質が異なる、先頭に立って敵陣に突入する将軍として呂布と孫策の名を挙げている。
  15. ^ ただし『後漢書』「袁紹伝」『資治通鑑』巻第60は張燕の軍勢を精鋭数万余り、騎兵を数千としている。
  16. ^ 『三国志』魏志「呂布伝」の注に引かれている『曹瞞伝』によると、愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという。
  17. ^ ただし『三国志』魏志「臧洪伝」では、臧洪が呂布は軍兵の貸与を申し出ただけで有り、死刑に値する人物で有っただろうかと陳琳への返書で疑問を述べている(この返書は『資治通鑑』巻第61にも採用されている)。
  18. ^ 呂布は袁紹軍の兵士の眼を欺くため、帳の中で音楽を演奏させ、袁紹軍の兵士が眠った隙をついて脱出した(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『後漢書』「呂布伝」『資治通鑑』巻第60)。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたと言う(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』『資治通鑑』巻第60)。ちなみにこの時冀州の兵力は百万である。
  19. ^ 『後漢書』「呂布伝」では、袁術、張楊、袁紹の順で頼ったと、記述されている。『資治通鑑』巻第60も似たような記述がある。尚、『後漢紀』「後漢孝献皇帝紀巻」第27は、呂布が長安から出ると袁紹のもとへ馳せ参じたと記す。『ビジュアル三国志3000人』頁55も『後漢紀』と同様で有る。
  20. ^ 以前、袁紹は張邈と口論になり、曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に「張邈はわしの親友であるので、許してやって欲しい。今は仲間割れをする時ではない」と反論したので、張邈は曹操に恩義を感じたこともあったとされる。
  21. ^ 曹操はこれに対し、「呂布は一旦兗州を手に入れたのに、要害(亢父と泰山の街道の事)に布陣して我々を迎撃せず濮陽に駐屯した。彼の無能が知れる」と言った(『三国志』魏志「武帝紀」『資治通鑑』巻第61)。
  22. ^ この時下邳城内で曹豹が呂布に呼応したとされる(『三国志』「劉備伝」『華陽国志』「劉備伝」)。
  23. ^ 劉備の家族は捕虜となっていたという。
  24. ^ この時、呂布は徐州を、袁術は揚州を領していたと『資治通鑑音注』巻第62は書く。
  25. ^ 『資治通鑑』の、呂布と袁術に関するこの記述は明らかに矛盾している。
  26. ^ その際、呂布は徐州牧に任じられなかったため、陳登等に激怒したと正史に有るが、『三国志』呉志「張紘伝」の引く『呉書』や呉志「孫策伝」の引く『江表伝』においては、呂布が徐州牧になっていたとされている。尚『江表伝』の記述は『資治通鑑』巻第62でも採用されている。ちなみに資治通鑑は呂布が陳登に激怒したと言う記述の後に江表伝の記述を載せている。
  27. ^ 呂布が朝廷に対し孫策の抱き込みを提案し、成功した(『三国志』呉志「孫策伝」が引く『江表伝』『資治通鑑』巻第62)と言う記録も有る。
  28. ^ 『三国志』魏志「呂布伝」が引く『典略』『ビジュアル三国志3000人』頁118によれば、呂布は陳宮の献策を全て却下したとする。
  29. ^ この時の兵力差は曹操曰く数倍で有るが(『魏武帝註孫子』謀攻・第三)、『三国志』魏志「国淵伝」によれば当時の公文書は常に戦果を十倍水増ししていたとする。
  30. ^ この際陳登が呂布に背いたと『三国志』魏志の「呂布伝」『資治通鑑』巻第62『ビジュアル三国志3000人』頁56は記すが、『文選』巻44の陳琳が記した『檄呉将校部曲文』には内通者の名前として陳登は載っていない。『後漢書』「呂布伝」にも謀反の記述は無く、高島俊男は『三国志 きらめく群像』の頁101で、後漢書の著者范曄はありそうにないと思った記述は削除したと書く。
  31. ^ 呂布が捕らえられた時期は史料によって異なる。例えば『三国志』によれば下ヒが水浸しになってから1ヶ月か3ヶ月後。『後漢書』と『後漢紀』によれば3ヶ月後。『資治通鑑』によれば1ヶ月後となっている。
  32. ^ 陳宮は、張邈に対し「勇敢で無類の戦上手」と語っている。
  33. ^ 高島俊男は著書『三国志 きらめく群像』の頁82で、勇力の点では呂布よりも典韋許チョの方が勝るとしつつも、頁109で呂布をこの時期で随一の豪傑としている。
  34. ^ 後漢の陳琳は『文選』巻44の「檄呉将校部曲文」で、勇者として呂布の名を挙げている。
  35. ^ 渡邉義浩監修の『ビジュアル三国志3000人』頁57は呂布を最強の男としている。
  36. ^ 満田剛は『三国志最強武将top45』で呂布を騎兵指揮に長けるとしながら、目先の利益で動くと評価する
  37. ^ 出典は『読史漫録』
  38. ^ 上谷浩一は呂布が董卓を殺してから政権を短期間で失った事を「三日天下」としている。
  39. ^ 一時は呂布を丁重に扱った王允でさえ、政権掌握後は呂布を剣客程度にしか扱わなくなった(『後漢書』「王允伝」『資治通鑑』巻第60)。
  40. ^ 呂布と同様に身分の低さから名士に相手にされず、同じ道を選んだ勢力には公孫サン、後年名士で有る諸葛亮を受け入れた劉備(初期)が存在する。ただし彼等はいずれも学問が出来る程度には格式の有る家の子で有り(『三国志 きらめく群像』頁364)、対して呂布は叩き上げで有る(『「三国志」の政治と思想 史実の英雄達』頁34)』)。
  41. ^ 高島俊男は『三国志 きらめく群像』の頁61で呂布について腕自慢の用心棒または漂流する西部のガンマンとし、自らが勢力を拡大していくタイプでは無く、勢力の主に腕を売りつけ点々と歩いていくタイプと評す。
  42. ^ 一方『ビジュアル三国志3000人』頁55では呂布を董卓を討った英雄としている。

関連人物[編集]

所属配下
  • 張遼
  • 陳宮
  • 陳珪
  • 陳登
  • 楊奉
  • 李鄒
  • 毛暉
  • 汎嶷
  • 張汎
同盟関係

関連作品[編集]

テレビドラマ

参考資料[編集]

  • 『三国志』
  • 『後漢書』
  • 『後漢紀』
  • 『資治通鑑』
  • 『資治通鑑音注』
  • 『文選』
  • 『華陽国志』
  • 『朱子語類』
  • 『通典』
  • 『三国志 きらめく群像』
  • 『図解雑学 三国志』
  • 『「三国志」の政治と思想 史実の英雄達』
  • 『魏武帝註孫子』
  • 『ビジュアル三国志3000人』
  • 『三国志最強武将top45』

外部リンク[編集]