呂布

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呂布(吕布)
Lü Bu archer.png
弓を射る呂布
後漢
左将軍・温侯
出生 不詳
并州五原郡九原県(内モンゴル自治区包頭市
死去 建安3年(198年
徐州下邳国
ピン音 Lǚ Bù
奉先
別名 飛将
主君 丁原董卓献帝袁術袁紹張楊→独立勢力

呂 布(りょ ふ、? - 建安3年(198年))は、中国後漢末期の武将・群雄。奉先并州五原郡(現在の内蒙古自治区内)の人。『後漢書』巻75 「劉焉袁術呂布列傳」 第65[1]、『三国志』巻7 魏志「呂布伝」[2]に列伝がある。

戦乱の後漢末期にあって群を抜く武勇を誇った。『三国志演義』等、三国志関係の物語等では最強の武将として描かれる。

事跡[編集]

董卓政権下[編集]

呂布は勇猛さと武芸の腕前を買われ[3][4][注釈 1]并州に仕えた。

中平6年(189年)、霊帝が死去すると、宦官十常侍外戚何進洛陽を舞台に政争を繰り広げた。丁原が宦官の殺害を計画した何進と共謀し、執金吾に任命され軍隊を率いて洛陽に入ったため、呂布も同行した。

何進と十常侍が共倒れとなると、洛陽に入城した董卓は丁原の軍勢を奪うため殺害を目論み、その下にいる呂布に謀反をもちかけた。呂布は「聡く」立身出世の為に[5]丁原を斬り、その首と丁原の部隊を手土産にそのまま董卓に仕えた。董卓は呂布を非常に重用し、養子として信頼の厚さを示した。呂布は、董卓から丁原が就いていた騎都尉に任ぜられ[注釈 2]、まもなく中郎将に累進して、さらに都亭侯に封じられた。

呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢時代に活躍した李広に準えて飛将と呼ばれた。絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺警護させた。

初平元年(190年)、反董卓連合が結成されると、曹操等が独断で成皋を制圧すべく出陣してきたが敗北した。この時曹操と曹操の配下となっていた劉備関羽張飛[6]は呂布とも一戦して壊滅的打撃を与えられ[7][8]、曹操は後に袁紹と連合した[9]

翌2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに対し、胡軫・呂布らを討伐軍として派遣した。しかし、呂布は胡軫に反感を抱いていたため、胡軫の作戦を失敗させようとし、誤情報を流した。このため胡軫の作戦が失敗し[10]、董卓軍は華雄を討たれるなど、孫堅に大敗したという(陽人の戦い)。この戦い以降、董卓軍の形勢不利が固まったため、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた。その際呂布はまた洛陽で孫堅と戦ったが、敗れたと言う記述も存在する[10]

董卓暗殺と三日天下[編集]

呂布(肖像)

董卓の抹殺を目論む王允は、董卓の信任を受けつつも密かに士孫瑞らと謀議を巡らしていたが、一方で呂布と同郷であったため親しくしていた。あるとき呂布が、董卓に一時の怒りで戟を投げられ間一髪でかわした話を王允にしたところ、王允は呂布に董卓暗殺を唆した。呂布は決断すると士孫瑞や王允と董卓暗殺計画を共謀する様になった。初平3年(192年)4月、董卓が皇帝の病の快癒を祝う為宮門に入ると、呂布の命で待ち受けていた李粛等が董卓を刺し董卓は呂布に助けを求めたが、呂布によって殺され暴政は幕を閉じた。

自らを養子にまで迎えていた董卓の暗殺に加わった理由については、些細な事で董卓に手戟を投げられた事を恨んでいた他、董卓の侍女[注釈 3]と密通していたため、それが露顕し処罰されることを恐れて暗殺に加わったと史書は記す。また、董卓が長安に遷った事で自分の権勢が崩れる事を恐れた(上谷浩一の論文『呂布叛逆考』)事が理由とも言われている。

董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を掌握し、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、假節を与えられた。しかしその後呂布が涼州軍を憎んだ為に董卓の軍事力の基礎であった郭汜李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜を一騎打ちで破る[11]も防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。尚、呂布と涼州軍の関係については異説が有り、『後漢書』「王允伝」では呂布はむしろ涼州軍赦免を提案したとされる[12]

呂布は数百騎を率いて武関から逃亡した。董卓の死から60日後のことであったという。

ちなみに、渡邉義浩は将軍は前に出て戦う事はしないとし、一騎打ちが春秋時代から行われなくなったともする(ファミ通Appの『【三国志を抱く】第一人者に聞く、『三国志』って奥が深い!(その2)』)が、この一騎打ちや常山での戦いは『ビジュアル三国志3000人』にも記されている。高島俊男も、中国では普通の将軍とはかなり性質が異なる、先頭に立って敵陣に突入する将軍として呂布と孫策の名を挙げている[13]

中原を彷徨う[編集]

呂布はまず荊州に赴き、袁術にもてなされたが受け入れられず、次に袁紹を頼った[14]。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は騎馬民族と結び1万[15]から数万[10]の精鋭と数千の騎兵を有していた。しかし呂布は赤兎に跨り成廉魏越等数十騎と共に張燕を相手に30あるいは40回以上連勝[15][16]して遂に張燕を撤退させた。以後百万を誇った黒山賊は離散し、十余万までに減った[17][18][19]。『三国志』魏志「呂布伝」の注に引かれている『曹瞞伝』によると、この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという[14]。その後袁紹に兵力の補充を要求したが、呂布の将兵が略奪などを行なった。ついに袁紹の忌むところとなり、呂布もそれを察して彼の下を離れようとした。袁紹は呂布の逆襲を恐れ、刺客を送るが呂布の奇策により失敗し[15]、呂布も袁紹の元から逃走した。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたと言う(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)[14][注釈 4]。尚、略奪事件については臧洪が「呂布は軍兵の貸与を申し出ただけで有り、死刑に値する人物で有っただろうか」と、『三国志』魏志「臧洪伝」に有る陳琳への返書で疑問を述べている[20]

『後漢書』「呂布伝」では受け入れられた後、配下の略奪によって呂布が後難を恐れ袁術領を抜けたとする[15]

冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内張楊を頼る。張楊は、長安の意向を受け諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が察知し張楊に自らの捕縛を教唆したため、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちを宥めるため、呂布を潁川太守に任命したという。

『後漢書』「呂布伝」では『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順で頼ったと、記述されている[15]。尚、『ビジュアル三国志3000人』は武関を出た後袁紹のもとへ行ったとする[21]

張邈は以前、袁紹は張邈と口論になり、曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超陳宮は張邈を説得し、呂布を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。

張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲した(『三国志』魏志「夏侯惇伝』)[22]。一時は策を用いて夏侯惇を捕虜にしたが、韓浩の働きで奪還された(『三国志』魏志「夏侯惇伝」)[23]。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。

曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略[24]を取り、曹操はこれに対し「呂布は一旦兗州を手に入れたのに、要害(亢父と泰山の街道の事)に布陣して我々を迎撃せず濮陽に駐屯した。彼の無能が知れる」と言った(『三国志』魏志「武帝紀」[25])。曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破(『三国志』魏志「武帝紀」[26]「典韋伝」「程昱伝」)、この戦いの間に曹操は袁紹に投降して兵5千を借りると[27]再び濮陽を攻撃した、しかし旱魃蝗害によって兵糧が不足し、呂布は山陽に駐屯した。

その後、呂布は1年以上に亘り激戦を繰り広げたが、袁紹軍の協力を受けた[28][29]1千未満の曹操軍に1万余りの兵を率い向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。

徐州を支配[編集]

呂布は劉備の元を訪れると、妻の寝台に劉備を座らせて自身の妻に挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ。劉備は呂布の言葉に一貫性が無いのを見てとり、内心彼を不愉快に思った(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)[30]

まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠下邳を奪い取った(『三国志』魏志「呂布伝」[31]蜀志「劉備伝」[32])。行き場を無くした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にし自らは徐州刺史を名乗った。ちなみに『後漢書』「呂布伝」では袁術の依頼で徐州を攻め、その後徐州牧を名乗ったとされる[33]。その後袁術は6月に陳宮等と共謀して呂布軍を転覆しようとしたが、呂布がすんでの所で逃れた為失敗(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)。袁術は呂布が自らに害をなす事を恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせる事を提案した。呂布もそれを承認したという[15]

その後、袁術が紀霊らに歩・騎兵あわせて3万を率いさせ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。呂布は袁術による包囲を警戒し、呂布軍の諸将の諌めを遮って歩・騎兵1千人余りで劉備・袁術を調停。陣中で戟を射て両軍を撤退させた。

その後、呂布は1万の兵を集めた劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った(『三国志』蜀志「先主伝」[34]))。

呂布は徐州に居た頃、河東に居た献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧が無いので救援を送れなかったがかわりに使者を送った。朝廷は呂布を平東将軍・平陶侯に任命した(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)[35]

最期[編集]

その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけたが、陳珪に諫言された呂布は、以前袁術に受け入れられなかった事を恨んで(『三国志』魏志「呂布伝」)袁術の使者を捕らえると、書簡と共に曹操に送った。その後曹操は呂布を左将軍に任じ手紙を遣わすと、呂布は大いに喜んで陳登を使者に遣わした(『三国志』魏志「呂布伝」)[36]。その際、呂布は徐州牧に任じられなかったため、陳登等に激怒したと正史に有るが、『三国志』呉志「張紘伝」の引く『呉書[37]』や呉志「孫策伝」の引く『江表伝[38]』においては、呂布が徐州牧になっていたとされている。しかし使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍を率いさせ、連携して呂布を攻撃した。この時『後漢書』「呂布伝」では呂布は3千余りの兵しか持っていなかった[39]為に陳珪を責めたが、彼の戦略を受けた呂布は楊奉・韓暹を物資で釣る戦術に打って出て袁術から離反させ、彼等を率いていた最低でも五倍以上の張勲軍のほとんどを包囲殲滅した[39][注釈 5]後、逆に手紙で袁術領に進撃した後袁術を挑発し悠々と引き揚げたという(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)[40]。また『三国志』呉志「孫策伝」が引く『江表伝』[38]には呂布が朝廷に対し孫策の抱き込みを提案し、成功したと言う記録も有る。袁術はこの大敗と、後の曹操戦での敗北によって勢力を大きく損失した(『三国志』魏志「袁術伝」[41])[42]

一方『後漢書』「呂布伝」では、呂布は袁術をもとから怨んでいた為使者を捕えたとする[43]

この後、呂布はキョ城の蕭建を手紙で投降させたが[40]、独立勢力の臧覇によってキョ城が落された。それを受けた呂布は高順の諌めも聞かず臧覇を攻撃したが攻め落とせず、引き返した。また高順は常に、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言う事を聞いていつも口にする誤りを改める様にと諌めていたが、呂布はその意見を採用せず[44]、あまつさえ陳宮等の反乱後高順の兵を奪い取り親族魏続に与えた。そして戦争では高順に魏続の配下の軍を指揮させたが、高順は終生恨みを抱かなかったと言う[45]。ちなみに、『後漢書』「呂布伝」には手紙のやり取りは無い[46]

建安3年(198年)呂布はまた袁術と通じ、部下の高順を派遣して小沛の劉備を攻撃した。9月に小沛は再度陥落して劉備は敗走し、臧覇等が呂布に従った(「荀攸伝」が引く『魏書』魏志「臧覇伝」)。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。10月曹操軍が彭城を落とすと陳宮が呂布に迎撃する様進言したが、呂布は泗水を越えた所で迎え撃つと聞かず(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『献帝春秋[47])、しばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、成廉を捕らえられると今度は下邳に籠城して出てこなかった(『三国志』魏志「武帝紀」『三国志』魏志「武帝紀」[48])この際陳登が呂布に背いた[49]と『三国志』魏志の「呂布伝」『ビジュアル三国志3000人』は記す[29]が、『後漢書』「呂布伝」には謀反の記述は無く、高島俊男は『後漢書』の著者范曄はありそうにないと思った記述は削除したと書く[50][注釈 6]。呂布の籠城に対し曹操が書簡を送ると呂布は降伏しようと言う思いに至ったが、陳宮等が反対し、更に呂布が密かに袁術に援軍を求めたところ袁術は以前の呂布の背信を持ち出し消極的な姿勢を採ったが、王楷許汜の説得により軍勢を整えると声援を送った。呂布は袁術が娘を送らなかった為に援軍が送られなくなる事を恐れ、娘を背に敵中を突破し袁術に援軍を求めようとしたが、失敗した(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『英雄記』)[47]

包囲して後、呂布が固守した事で下邳を攻め落とせず(『三国志』魏志「荀攸伝」[51]「郭嘉伝」[52])、相次ぐ戦いに疲弊した軍を憂い撤退を計る曹操に対し、曹操軍の荀攸郭嘉は水計を考案し実行に移されると(『三国志』魏志「武帝紀」『三国志』魏志「武帝紀」[48]「荀攸伝」)、呂布は投降を申し出たが陳宮に阻止された(『三国志』魏志「呂布伝」が引く『献帝春秋』)。そして呂布が侯成を禁止されていた酒の醸造を叱った後、これを憤り恐れた侯成と諸将が反乱を起こし、陳宮・高順を捕縛して曹操に降伏した。呂布は残った部下と城楼に上ったが、包囲厳しく投降した。この時呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じた。だが部下達は遂行出来なかったとも言う[53]

呂布が曹操に「(曹操)殿が悩みとしていたのは私一人でしょう。それが降伏したなら天下に心配事はもう有りますまい。殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下の平定は容易なことです」と語ると、曹操は呂布の縄目を緩めさせようとした(『三国志』魏志「呂布伝」)。しかし劉備が呂布の裏切りを挙げて曹操を諌め曹操が肯いた為、呂布は「劉備こそ一番信用できない男である」と主張したが、縛り首に処され、重臣の陳宮・高順らも斬首された。呂布の首はに送られ、その後に埋葬されたという。

評価[編集]

呂布の武力は当時の人々から「人中の呂布」と呼ばれる程優れていた。また陳宮が張邈に対し呂布を「勇敢で無類の戦上手」と語っている[54]通り、指揮官としても優秀だった。高島俊男は著書で、勇力の点では呂布よりも典韋許チョの方が勝るとしつつも[55]、呂布をこの時期で随一の豪傑としている[56]。渡邉義浩監修の『ビジュアル三国志3000人』は呂布を最強の男としている[57]。また、ファミ通のインタビューでは呂布が三国志随一の指揮官だったとする。満田剛は『三国志最強武将top45』で呂布に曹操と同等の統率力を与え、騎兵指揮に長けるとしながら、目先の利益で動くと評価する。新浪も呂布の武勇を「挙世無双」とする。また狡猾で幾度となく主に対し裏切りを重ね、『三日天下』[58]とは言え一時は国家の政権を担う立場にまで登りつめた。しかし元々名士に相手にされる階層では無かった事から[12]彼等と妥協せず、自分の価値観に基づく政権建設に向かい、その維持に失敗した[59]。呂布と同様に身分の低さから名士に相手にされず、同じ道を選んだ勢力には公孫サン、後年名士で有る諸葛亮を受け入れた劉備(初期)が存在するが、彼等はいずれも学問が出来る程度には格式の有る家の子で有り[60]、対して呂布は叩き上げで有る[59]。一方高島俊男は呂布を例えて腕自慢の用心棒または漂流する西部のガンマンとし、自らが勢力を拡大していくタイプでは無く、勢力の主に腕を売りつけ点々と歩いていくタイプと評す[61]。 呂布の生涯を陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中に有った。彼の如き人物が歴史上破滅しなかった試しはない[62]。」と評し、『後漢書』もまた呂布の評を袁術の次に載せ「呂布もまた変節を繰り返した。」としている[63]。一方、『ビジュアル三国志3000人』では呂布を董卓を討った英雄ともしている[21]

フィクション[編集]

中国では古くから雑劇京劇や、『三国志平話』・『三国志演義』などで描写されてきた。

三国志演義[編集]

三英戦呂布

「軍門に戟を射る」等、小説『三国志演義』ではそのまま使用された挿話も多い。身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、煌びやかな鎧をまとうという、豪壮な武者として描かれている。猛々しく華やかに、また欲望に弱く、董卓と対立した義父の丁原を赤兎馬欲しさに殺す様に、判断力に欠ける点など人間的な面も際立たせ、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。また、上田望によれば知識人で有ったとされる[64]演義の作者も言い、李卓吾毛宗崗等も削除しなかった彼の「世にたぐいない」と謳われた驍勇無双振りを最もよく表す描写としては、張飛と互角の打ち合いをし、関羽・劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が描かれた虎牢関の戦いが特に有名である[注釈 7]

また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり、怒鳴り散らしていたため人心を失い、自分を戒めるために禁酒令を出したが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに対し腹を立て、百叩きの刑としている。それが恨みを買う一因となって、酒に酔って寝ていた所を侯成・宋憲魏続に捕らえられてしまう。 陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われたため、曹操に処刑を決意されてしまう。これに激怒した呂布は「この大耳野郎が。陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたのか!この恩知らずめ」と口を極めて劉備を罵ったが、同じくして処刑のために連行されて来た張遼に「見苦しい」と罵られている。主を殺して裏切り、自分の武勇のみで乱世を生き抜いたため、最期は部下に裏切られその生涯を終えたことになっている。

脚注[編集]

注など[編集]

  1. ^ 『三国志』魏志・呂布伝『後漢書』呂布伝「驍武をもって并州に給す。」として仕えた。丁原は呂布を個人的に親愛したという。
  2. ^ 『三国志』魏志・呂布伝「刺史丁原、騎都尉となり、河内に屯す。…卓、布をもって騎都尉となし、これを愛信し、誓いて父子となる。」
  3. ^ 三国志演義』の王允の養女貂蝉のモデル。
  4. ^ ちなみにこの時冀州の兵力は百万である。
  5. ^ 『後漢書』「呂布伝」ではこの時、袁術軍側の大将だった橋蕤を捕えていたと言う。
  6. ^ ちなみに、『後漢書』「呂布伝」には下邳での野戦も描かれていない。
  7. ^ 渡邉義浩は自著『「三国志」武将34選』でこの戦いに史実の呂布の強さが集約されているとする。
出典
  1. ^ 『後漢書』巻75 劉焉袁術呂布列傳”. 中國哲學書電子化計劃. 2010年7月31日閲覧。
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  64. ^ 上田(2005) p.142

関連人物[編集]

所属配下
  • 張遼
  • 陳宮
  • 陳珪
  • 陳登
  • 楊奉
  • 李鄒
  • 毛暉
  • 汎嶷
  • 張汎
同盟関係

関連作品[編集]

テレビドラマ

参考資料[編集]

外部リンク[編集]