呂布

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
呂布(吕布)
Lü Bu archer.png
弓を射る呂布(清朝期の三国演義の挿絵)
後漢
左将軍・温侯
出生 不詳
并州五原郡九原県(内モンゴル自治区包頭市
死去 建安3年(198年
徐州下邳国
ピン音 Lǚ Bù
奉先
別名 飛将
主君 丁原董卓献帝袁術袁紹張楊→独立勢力

呂 布(りょ ふ、? - 建安3年〔198年〕)は、中国後漢末期の武将・群雄。奉先并州五原郡(現在の内蒙古自治区内)の人。『三国志』巻七 呂布伝[1]、『後漢書』列伝六十五 呂布伝[2]などに記録がある。

丁原董卓に仕え、戦乱の後漢末期にあっては群を抜く武勇を誇った。些細な行き違いで董卓を殺した後天下を失い、各地を転戦するも最後は曹操に殺された。『三国志演義』等、三国志関係の物語等ではしばしば最強の武将として描かれている。

事跡[編集]

董卓政権下[編集]

勇猛さと武芸の腕前を買われ、幷州刺史の丁原に仕えた。丁原は、呂布を主簿に任じて非常に親愛した。

中平6年(189年)、霊帝が崩御して宦官十常侍外戚何進が政争を繰り広げると、丁原は何進と宦官殺害を共謀し、執金吾に任命された。しかしまもなく何進は十常侍に殺害され、十常侍もまた袁紹らに誅殺された。

何進死後、洛陽に入城した董卓は叛乱を計画し、丁原の軍勢を奪おうと考えた。そこで丁原の信頼厚い呂布を誘って、これを殺害させることに成功した。これにより董卓は呂布を非常に重用し、父子の契りを結んだ。呂布は騎都尉中郎将に累進して、都亭侯に封じられた。

呂布は腕力が常人よりも遥かに強く、弓術・馬術にも秀でていたため、前漢李広に準えて飛将と呼ばれた。絶大な権力を握った董卓は、傍若無人な振る舞いで多くの人の恨みを買っていたため、傍らに呂布を置いて身辺警護させた。

初平元年(190年)、袁紹らが董卓に対して挙兵する(いわゆる反董卓連合)と、曹操は出師したが呂布に大打撃を受けた[3]

翌2年(191年)、董卓は孫堅との戦いに対し、胡軫・呂布らを討伐軍として派遣した。しかし呂布は胡軫に偽情報を与える等相いれず敗北(陽人の戦い)。この戦い以降、董卓軍の形勢不利が固まったため、董卓は洛陽を放棄し、長安まで退いた。その際呂布はまた洛陽で孫堅と戦ったが、敗れたと言う記述も有る[4]

董卓暗殺と三日天下[編集]

清朝期の呂布の版画

董卓が実権を掌握し専横を極めると、司徒王允は、董卓から怒りを買った呂布を懐柔し、士孫瑞黄琬とともに董卓暗殺を企てた。初平3年(192年)4月、董卓が皇帝の病の快癒を祝う為宮門に入ると、呂布の命で待ち受けていた李粛等が董卓を刺し董卓は呂布に助けを求めたが、呂布によって殺され暴政は幕を閉じた。

自らを養子にまで迎えていた董卓の暗殺に加わった理由については、些細な事で董卓に手戟を投げられた事を恨んでいた他、董卓の侍女[注釈 1]と密通していたため、それが露顕し処罰されることを恐れて暗殺に加わったと史書は記す。また、董卓が長安に遷った事で自分の権勢が崩れる事を恐れた(上谷浩一の論文『呂布叛逆考』)事が理由とも言われている。

董卓殺害後、王允と呂布は共に朝政を掌握し、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯・儀同三司となり、假節を与えられた。しかしその後呂布が涼州軍を憎んだ為に董卓の軍事力の基礎であった郭汜李傕ら涼州の軍勢が長安を襲撃してくると、呂布は郭汜を一騎打ちで破る[5]も防ぎきれず、李傕らに長安を奪われた。呂布と王允の統治はそれなりに良かった様で有る[6]。尚、呂布と涼州軍の関係については異説が有り、『後漢書』「王允伝」では呂布はむしろ涼州軍赦免を提案したとされる[7]

呂布は王允を助けようとしたが叶わず[8]、董卓の首を馬の鞍にぶら下げ、数百騎を率いて武関から逃亡した[9]。董卓の死から60日後のことであったという。

中原を彷徨う[編集]

呂布はまず荊州に赴き、袁術に手厚くもてなされたが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵1万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越率いる数十騎が1日に3,4度も突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後黒山賊は離散した[10]。この戦いの後愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという[11]。その後袁紹に兵力の補充を要求したが、呂布の将兵が略奪などを行なった。ついに袁紹の忌むところとなり、袁紹は刺客を送るが呂布の奇策により失敗した[12]。その報せを聞いた袁紹は恐れをなし、城門を閉じて守りを固めたと言う[13]。尚、略奪事件については臧洪が「呂布は軍兵の貸与を申し出ただけで有り、死刑に値する人物で有っただろうか」と、陳琳への返書で述べている[14]

『後漢書』「呂布伝」では受け入れられた後、配下の略奪によって呂布が後難を恐れ袁術領を抜けたとする。

冀州を出ると張邈のもとに立ち寄り、別れの際手を取り合って共に誓いをたてた。その次は河内張楊を頼る。張楊は、長安の意向を受け諸将と呂布を殺そうとした。しかし呂布が察知し張楊に自らの捕縛を教唆したため、張楊は表向きは李傕・郭汜に従う振りをしつつ、実際は呂布を保護するようになった。そのことを知った長安では、呂布の気持ちを宥めるため、呂布を潁川太守に任命したという。

『後漢書』「呂布伝」では『三国志』と異なり、袁術、張楊、袁紹、張邈、張楊の順に身を寄せたとする[15]

張邈は以前、袁紹と口論になり、袁紹は曹操に張邈を殺させようとしたことがあった。しかし曹操が袁紹に反論したので、張邈は曹操に恩義を感じ親友となったが、呂布の件も含めて、袁紹に色々と恨みを買っていたことから、袁紹の命で曹操に攻撃されることを恐れるようになったという。興平元年(194年)、曹操が徐州陶謙を討つため兗州を留守にすると、曹操に叛意を持っていた張超陳宮は呂布との兗州共有を張邈に提案し、彼を迎え入れ兗州牧とし、曹操に反旗を翻した。

張邈に迎え入れられた呂布は濮陽を奇襲し、夏侯惇を捕虜とするも、韓浩によって奪還された[16]。また呂布が濮陽を落とすと多くの城が投降した。しかし荀彧程昱等の守る鄄城・東阿・范だけは落とせなかった。

曹操が徐州から戻って来ると、呂布は濮陽に籠城する戦略[17]を取り、曹操はこれに対し「呂布は一旦兗州を手に入れたのに、要害(亢父と泰山の街道の事)に布陣して我々を迎撃せず濮陽に駐屯した。彼の無能が知れる」と言った[18]。曹操が攻撃してくると呂布はこれを連破[19][20]した。しかし旱魃蝗害によって兵糧が不足し、呂布は曹操に止めを刺し損ね山陽に駐屯した。

その後、呂布は1年以上に亘り激戦を繰り広げたが、兗州連合軍に太刀打ち出来ず[21]袁紹軍の協力を受けた[22][23]1千未満の曹操軍に、1万余りの兵を率い向かった鉅野で敗北した。呂布は夜中に逃れ、雍丘で一族と共に防戦中であった張超と、袁術に援軍を求めて寿春に向かっていた張邈と別れ、徐州を支配していた劉備を頼って落ち延びた。

徐州を支配[編集]

呂布は劉備の元を訪れると、妻の寝台に劉備を座らせて自身の妻に挨拶をさせ、酒を酌み交わし弟と呼んだ。劉備は呂布の言葉に一貫性が無いのを見てとり、内心彼を不愉快に思った[24]

まもなく徐州を巡って劉備が袁術と戦うようになると、その隙を突いて呂布は劉備の本拠下邳を奪い取った[25][26]。行き場を無くした劉備が呂布に降伏すると、呂布は劉備を豫州刺史にし自らは徐州刺史を名乗った。ちなみに『後漢書』「呂布伝」では袁術の依頼で徐州を攻め、その後徐州牧を名乗ったとされる[27]。その後袁術は6月に陳宮等と共謀して呂布軍を転覆しようとしたが、呂布がすんでの所で逃れた為失敗[28]。袁術は呂布が自らに害をなす事を恐れ、自らの息子と呂布の娘との間に婚約関係を結ばせる事を提案した。呂布もそれを承認したという[29]。尚、後漢書には陳宮謀反の記述はない。

その後、袁術が紀霊らに歩・騎兵あわせて3万を率いさせ、再び劉備を攻撃しようとしたため、劉備は呂布に救援を求めた。呂布は袁術による包囲を警戒し、呂布軍の諸将の諌めを遮って歩・騎兵1千人余りで劉備・袁術を調停。陣中で戟を射て両軍を撤退させた。

その後、呂布は1万の兵を集めた劉備を攻め、小沛を陥落させた。劉備は逃走し、曹操を頼った[30]

呂布は徐州に居た頃、河東に居た献帝から救援の書状を賜った。呂布には兵糧が無いので救援を送れなかったがかわりに使者を送った。朝廷は呂布を平東将軍・平陶侯に任命した[31]

最期[編集]

その後、袁術は韓胤を使者として送り呂布に婚姻を持ちかけたが、陳珪に諫言された呂布は袁術が最初自分を迎えなかったのを恨んで袁術の使者を捕らえる[32]と、書簡と共に曹操に送った。この時呂布が徐州牧に就任したと言う異説が有る[33][34]。その後使者を斬られて怒った袁術は楊奉らと同盟し、張勲に数万の大軍を率いさせ、連携して呂布を攻撃した。この時『後漢書』「呂布伝」では呂布は3千余りの兵しか持っていなかった[35]為に陳珪を責めたが、彼の戦略を受けた呂布は楊奉・韓暹を物資で釣る戦術に打って出て袁術から離反させ、張勲軍のほとんどを殲滅した[35][注釈 2]。また『三国志』呉志「孫討逆伝」が引く『江表伝』[36]には呂布が朝廷に対し孫策の抱き込みを提案し、成功したと言う記録も有る。袁術はこの大敗と、後の曹操戦での敗北によって勢力を大きく損失した[37]

一方『後漢書』「呂布伝」では、呂布は袁術をもとから怨んでいた為使者を捕えたとする[38]

この後、呂布は莒城の蕭建を手紙で投降させたが[39]、独立勢力の臧覇によって莒城が落された。それを受けた呂布は高順の諌めも聞かず臧覇を攻撃したが攻め落とせず、引き返した。また高順は常に、呂布が短気で気まぐれなので、周囲の言う事を聞いていつも口にする誤りを改める様にと諌めていたが、呂布はその意見を採用せず[40]、あまつさえ陳宮等の反乱後高順の兵を奪い取り親族魏続に与えた。そして戦争では高順に魏続の配下の軍を指揮させたが、高順は終生恨みを抱かなかったと言う[41]。ちなみに、『後漢書』「呂布伝」には手紙のやり取りは無い。

建安3年(198年)呂布はまた袁術と通じ、部下の高順を派遣して小沛の劉備を陥落させ、臧覇等が呂布に従った[42][43]。そこで曹操は自ら大軍を率いて徐州に攻め込んだ。10月曹操軍が彭城を落とすと陳宮は献策したが呂布は聞かず[44]、しばしば下邳に到着した曹操と戦うも皆大敗し、下邳に籠城した[45]。ちなみに、『後漢書』「呂布伝」には下邳での野戦が描かれていない。包囲して後、下邳を攻め落とせず疲弊した軍[46]を憂い撤退を計る曹操に対し、曹操軍の荀攸郭嘉は水計を考案し実行に移されると[47][48]侯成等は陳宮達を捕えて呂布を裏切り、呂布は後に部下と投降。この時呂布は部下に自分を売って曹操に降るよう命じたが、部下達は遂行出来なかったとも言う[49]

呂布が曹操に「(曹操)殿が悩みとしていたのは私一人でしょう。それが降伏したなら天下に心配事はもう有りますまい。殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下の平定は容易なことです」と語ると、曹操は呂布を使いたくなった。しかし劉備が呂布の裏切りを挙げて曹操を諌め曹操が肯いた為、呂布は「劉備こそ一番信用できない男である」と主張したが、縛り首に処され、重臣の陳宮・高順らも斬首された。呂布の首はに送られ、その後に埋葬されたという。

評価[編集]

呂布の武力は当時の人々から「人中の呂布」と呼ばれた。また陳宮が張邈に対し呂布を「勇敢で無類の戦上手」と評している[50]

陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中に有った。彼の如き人物が歴史上破滅しなかった試しはない[51]。」と評している。

一方、『ビジュアル三国志3000人』では呂布を董卓を討った英雄ともしている[52]

フィクションや民間伝承[編集]

中国では古くから雑劇京劇や、『三国志平話』・『三国志演義』などで描写されてきた。ある神話では呂布の方天画戟の化身で有るとする。 また、民間伝承では呂布は呂良と黄氏と言う親子の第四子として生まれたとされ、その時黄氏は虎に襲われる夢を見、呂布が生まれた瞬間山が崩壊。呂布の二つの目は精悍とし、自ら臍の緒を切って立ち上がったと言う。

三国志演義[編集]

三英戦呂布

身長は一丈、赤兎馬にまたがり、方天画戟を愛用の武器とし、煌びやかな鎧をまとう、豪壮な武者として描かれている。猛々しく華やかに、また欲望に弱く、董卓と対立した義父の丁原を赤兎馬欲しさに殺すなど人間的な面も際立たせ、『演義』を彩る大きな個性として際立った存在感を持つ。また、「空前絶後」と称される彼の驍勇振りを表す描写としては、ただ一騎で数万を蹂躙し、張飛と互角の打ち合いをし、さらに関羽・劉備が加わってもなお持ちこたえる「三英戦呂布」が描かれた虎牢関の戦いが特に有名である[注釈 3]

また、籠城中に自分だけ豪勢な食事をし、酒ばかり飲んでいて部下を殴りつけたり、怒鳴り散らしていたため人心を失い、自分を戒めるために禁酒令を出したが、部下の侯成が善意から猪料理と酒を薦めたのに対し腹を立て、百叩きの刑としている。それが恨みを買う一因となって、酒に酔って寝ていた所を侯成・宋憲魏続に捕らえられてしまう。 陳宮・高順らが斬首された後、捕らえられて曹操に命乞いをするものの、劉備に「丁原や董卓の時のように裏切るかもしれませんぞ」と言われたため、曹操に処刑を決意されてしまう。これに激怒した呂布は「この大耳野郎が。陣門で戟を射て助けてやったことを忘れたのか!この恩知らずめ」と口を極めて劉備を罵ったが、同じくして処刑のために連行されて来た張遼に「見苦しい」と罵られている。ただし、李卓吾・毛宗崗・李漁鍾惺中国語版の評価に有る通り、濮陽で曹操に反論したり[53][54][55]、袁術の策を見破る[56][57][58]等一定の知性を持つ面も見られる。

脚注[編集]

注など[編集]

  1. ^ 三国志演義』の王允の養女貂蝉のモデル。
  2. ^ 『後漢書』「呂布伝」ではこの時、袁術軍側の大将だった橋蕤を捕えていたと言う。
  3. ^ 渡邉義浩は自著『「三国志」武将34選』で"虚構ではあるとしながらも、"この戦いに史実の呂布の強さが集約されているとする。
出典
  1. ^ Wikisource reference 陳壽. 三國志/卷07. - ウィキソース. 
  2. ^ 『後漢書』巻75 劉焉袁術呂布列傳”. 中國哲學書電子化計劃. 2010年7月31日閲覧。
  3. ^ 渡邉(2013) p.54
  4. ^ 後漢書(2004)・董卓伝p.407「明年,孫堅收合散卒,進屯梁縣之陽人。卓遣將胡軫、呂布攻之,布與軫不相能,軍中自驚恐,士卒散亂。堅追撃之,軫、布敗走。卓遣將李傕詣堅求和,堅拒絕不受,進軍大谷,距洛九十里。卓自出與堅戰於諸陵墓閒,卓敗走,卻屯黽池,聚兵於陝。堅進洛陽宣陽城門,更撃呂布,布復破走。」
  5. ^ 渡邉(2013) p.73、後漢書呂布伝にこの記述はない。
  6. ^ 魏書Ⅱ(1993)・賈詡伝注釈p.283「臣松之以爲傳稱「仁人之言、其利溥哉」!然則不仁之言、理必反是。夫仁功難著、而亂源易成、是故有禍機一發而殃流百世者矣。當是時、元惡既梟、天地始開、致使厲階重結、大梗殷流、邦國遘殄悴之哀、黎民嬰周餘之酷、豈不由賈詡片言乎?詡之罪也、一何大哉!自古兆亂、未有如此之甚。」
  7. ^ 後漢書(2004)・王允伝p.146「允初議赦卓部曲,呂布亦數勸之。」
  8. ^ 後漢書(2004)・王允伝p.149「布駐馬青瑣門外,招允曰「公可以去乎?」」
  9. ^ 後漢書p.604・呂布伝「乃將數百騎,以卓頭系馬鞍,走出武關」
  10. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.604「布常御良馬,號曰赤菟,能馳城飛塹,與其健將成廉、魏越等數十騎馳突燕陣,一日或至三四,皆斬首而出。連戰十餘日,遂破燕軍。」
  11. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.12「曹瞞傳曰:時人語曰:「人中有呂布,馬中有赤兔。」」
  12. ^ 後漢書(2004) ・呂布伝p.604「布既恃其功,更請兵於紹,紹不許,而將士多暴橫,紹患之。布不自安,因求還洛陽。紹聽之,承制使領司隸校尉,遣壯士送布而陰使殺之。布疑其圖己,乃使人鼓箏於帳中,潛自遁出。夜中兵起,而布已亡。」
  13. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.12「英雄記曰:布自以有功於袁氏,輕傲紹下諸將,以為擅相署置,不足貴也。布求還洛,紹假布領司隷校尉。外言當遣,內欲殺布。明日當發,紹遣甲士三十人,辭以送布。布使止於帳側,偽使人於帳中鼓箏。紹兵卧,布無何出帳去,而兵不覺。夜半兵起,亂斫布牀被,謂為已死。明日,紹訊問,知布尚在,乃閉城門。布遂引去。」
  14. ^ 魏書Ⅱ(1993)・臧洪伝p.47「呂奉先討卓來奔,請兵不獲,告去何罪?復見斫刺,濱于死亡。劉子璜奉使踰時,辭不獲命,畏威懷親,以詐求歸,可謂有志忠孝,無損霸道者也;然輙僵斃麾下,不蒙虧除。」
  15. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.604「奔南陽。袁術待之甚厚。布自恃殺卓,有德袁氏,遂恣兵抄掠。術患之。布不安,復去從張楊於河內。時李傕等購募求布急,楊下諸將皆欲圖之。布懼,謂楊曰:「與卿州里,今見殺,其功未必多。不如生賣布,可大得傕等爵寵。」楊以為然。有頃,布得走投袁紹」
  16. ^ 魏書Ⅱ(1993)・夏侯惇伝 p.138「張邈叛迎呂布,太祖家在鄄城,惇輕軍往赴,適與布會,交戰。布退還,遂入濮陽,襲得惇軍輜重。遣將偽降,共執持惇,責以寶貨,惇軍中震恐。惇將韓浩乃勒兵屯惇營門,召軍吏諸將,皆案甲當部不得動,諸營乃定。」
  17. ^ 三軍(2012) p.69
  18. ^ 魏書Ⅰ(1992)・武帝紀p.29「太祖曰:「布一旦得一州,不能據東平,斷亢父、泰山之道,乘險要我,而乃屯濮陽,吾知其無能為也。」」
  19. ^ 魏書Ⅰ(1992) ・武帝紀p.30「布出兵戰。先以騎犯青州兵。青州兵奔、太祖陳亂。馳突火出、墜馬、燒左手掌。司馬樓異、扶太祖上馬、遂引去。」
  20. ^ 魏書Ⅲ(1993)・程昱伝p.15「太祖與呂布戰于濮陽、數不利。」
  21. ^ 後漢書(2004)・袁紹伝p.537「謝承後漢書曰:操囲呂布於濮陽,為布所破,投紹。紹哀之,乃給兵五千人,還取兖州。」
  22. ^ 渡邉(2000) p.70
  23. ^ 渡邉(2013) p.56
  24. ^ 魏書Ⅱ(1993)・張邈伝p.15「英雄記曰:布見備,甚敬之,謂備曰:「我與卿同邊地人也。布見關東起兵,欲誅董卓。布殺卓東出,關東諸將無安布者,皆欲殺布耳。」請備於帳中坐婦牀上,令婦向拜,酌酒飲食,名備為弟。備見布語言無常,外然之而內不說。」
  25. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝 p.17「備東撃術、布襲取下邳。」
  26. ^ 蜀書(1993)・先主伝p.30「袁術來攻先主。先主拒之於盱眙、淮陰。曹公表先主、爲鎭東將軍、封宜城亭侯。是歲建安元年也。先主與術、相持經月、呂布乘虚襲下邳。」
  27. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.609「時劉備領徐州,居下邳,與袁術相拒於淮上。術欲引布撃備,乃與布書曰:「術舉兵詣闕,未能屠裂董卓。將軍誅卓,為術報恥,功一也。昔金元休南至封丘,為曹操所敗。將軍伐之,令術復明目於遐邇,功二也。術生年以來,不聞天下有劉備,備乃舉兵與術對戰。憑將軍威靈,得以破備,功三也。將軍有三大功在術,術雖不敏,奉以死生。將軍連年攻戰,軍糧苦少,今送米二十萬斛。非唯此止,當駱驛復致。凡所短長亦唯命。」布得書大悦,即勒兵襲下邳,獲備妻子。」
  28. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.21「英雄記曰:建安元年六月夜半時、布將河内郝萌反、將兵入布所治下邳府、詣廳事閤外、同聲大呼攻閤、閤堅不得入。布不知反者爲誰、直牽婦、科頭袒衣、相將從溷上排壁出、詣都督高順營、直排順門入。順問「將軍有所隱不?」布言「河内兒聲」。順言「此郝萌也」。順卽嚴兵入府、弓弩並射萌衆。萌衆亂走、天明還故營。萌將曹性反萌、與對戰、萌刺傷性、性斫萌一臂。順斫萌首、牀輿性、送詣布。布問性、言「萌受袁術謀。」「謀者悉誰?」性言「陳宮同謀。」時宮在坐上、面赤、傍人悉覺之。布以宮大將、不問也。性言「萌常以此問、性言呂將軍大將有神、不可擊也、不意萌狂惑不止。」布謂性曰「卿健兒也!」善養視之。創愈、使安撫萌故營、領其衆。」
  29. ^ 後漢書(2004)・呂布伝 p.609「布自號徐州牧。術懼布為己害,為子求婚,布復許之。」
  30. ^ 蜀書(1993)・先主伝p.31「先主還小沛、復、合兵得萬餘人。呂布惡之、自出兵攻先主、先主敗走歸曹公。」
  31. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.23「英雄記曰。初、天子在河東、有手筆版書召布來迎。布軍無畜積、不能自致、遣使上書。朝廷以布爲平東將軍、封平陶侯。使人於山陽界亡失文字、太祖又手書厚加慰勞布、説起迎天子、當平定天下意、幷詔書購捕公孫瓚、袁術、韓暹、楊奉等。布大喜、復遣使上書於天子曰「臣本當迎大駕、知曹操忠孝、奉迎都許。臣前與操交兵、今操保傅陛下、臣爲外將、欲以兵自隨、恐有嫌疑、是以待罪徐州、進退未敢自寧。」答太祖曰「布獲罪之人、分爲誅首、手命慰勞、厚見褒獎。重見購捕袁術等詔書、布當以命爲效。」太祖更遣奉車都尉王則爲使者、齎詔書、又封平東將軍印綬來拜布。太祖又手書與布曰「山陽屯送將軍所失大封、國家無好金、孤自取家好金更相爲作印、國家無紫綬、自取所帶紫綬以籍心。將軍所使不良。袁術稱天子、將軍止之、而使不通章。朝廷信將軍、使復重上、以相明忠誠。」布乃遣登奉章謝恩、幷以一好綬答太祖。」
  32. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.22「布亦怨術初不己受也。女已在塗、追還絶婚。械送韓胤、梟首許市。」
  33. ^ 呉書Ⅰ(1993) ・孫討逆伝p.48「江表伝曰:建安二年夏、漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰「董卓逆亂、凶國害民。先將軍堅念在平討、雅意未遂、厥美著聞。策遵善道、求福不回。今以策爲騎都尉、襲爵烏程侯、領會稽太守。」又詔敕曰「故左將軍袁術不顧朝恩、坐創凶逆、造合嘘偽、欲因兵亂、詭詐百姓、[始]聞其言以爲不然。定得使持節平東將軍領徐州牧温侯布上術所造惑衆妖妄、知術鴟梟之性、遂其無道、修治王宮、署置公卿、郊天祀地、殘民害物、爲禍深酷。布前後上策乃心本朝、欲還討術、爲國效節、乞加顯異。夫縣賞俟功、惟勤是與、故便寵授、承襲前邑、重以大郡、榮耀兼至、是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行呉郡太守安東將軍陳瑀戮力一心、同時赴討。」策自以統領兵馬、但以騎都尉領郡爲輕、欲得將軍號、(及)[乃]使人諷誧、誧便承制假策明漢將軍。」
  34. ^ 呉書Ⅱ(1993)・張紘伝p.10「呉書曰:紘與張昭並與參謀、常令一人居守、一人從征討、後呂布襲取徐州、因爲之牧、不欲令紘與策從事。」(1993)
  35. ^ a b 後漢書(2004) ・呂布伝p.614「袁術怒布殺韓胤,遣其大將張勳、橋蕤等與韓暹、楊奉連埶,步騎數萬,七道攻布。布時兵有三千,馬四百匹,懼其不敵,謂陳珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之柰何?」」
  36. ^ 呉書Ⅰ(1993)・孫討逆伝p.48「江表伝曰:建安二年夏、漢朝遣議郎王誧奉戊辰詔書曰「董卓逆亂、凶國害民。先將軍堅念在平討、雅意未遂、厥美著聞。策遵善道、求福不回。今以策爲騎都尉、襲爵烏程侯、領會稽太守。」又詔敕曰「故左將軍袁術不顧朝恩、坐創凶逆、造合嘘偽、欲因兵亂、詭詐百姓、[始]聞其言以爲不然。定得使持節平東將軍領徐州牧温侯布上術所造惑衆妖妄、知術鴟梟之性、遂其無道、修治王宮、署置公卿、郊天祀地、殘民害物、爲禍深酷。布前後上策乃心本朝、欲還討術、爲國效節、乞加顯異。夫縣賞俟功、惟勤是與、故便寵授、承襲前邑、重以大郡、榮耀兼至、是策輸力竭命之秋也。其亟與布及行呉郡太守安東將軍陳瑀戮力一心、同時赴討。」策自以統領兵馬、但以騎都尉領郡爲輕、欲得將軍號、(及)[乃]使人諷誧、誧便承制假策明漢將軍。
  37. ^ 魏書Ⅰ(1992)・袁術伝p.504「術、前爲呂布所破、後爲太祖所敗。奔其部曲雷薄陳蘭于潜山。」
  38. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.612「布亦素怨術,而女已在塗,乃追還絶婚,執胤送許,曹操殺之。」
  39. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.26「英雄記曰:時有東海蕭建爲瑯邪相、治莒、保城自守、不與布通。布與建書曰「天下舉兵、本以誅董卓耳。布殺卓、來詣關東、欲求兵西迎大駕、光復洛京、諸將自還相攻、莫肯念國。布、五原人也、去徐州五千餘里、乃在天西北角、今不來共爭天東南之地。莒與下邳相去不遠、宜當共通。君如自遂以爲郡郡作帝、縣縣自王也!昔樂毅攻齊、呼吸下齊七十餘城、唯莒、卽墨二城不下、所以然者、中有田單故也。布雖非樂毅、君亦非田單、可取布書與智者詳共議之。」建得書、卽遣主簿齎牋上禮、貢良馬五匹。」
  40. ^ 渡邉(2013) p.118
  41. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.33「英雄記曰:順每諫布、言「凡破家亡國、非無忠臣明智者也、但患不見用耳。將軍舉動、不肯詳思、輒喜言誤、誤不可數也」。布知其忠、然不能用。布從郝萌反後、更疏順。以魏續有外內之親、悉奪順所將兵以與續。及當攻戰、故令順將續所領兵、順亦終無恨意。」
  42. ^ 魏書Ⅱ(1993)・荀攸伝p.272「魏書曰:議者云表、繡在後而還襲呂布、其危必也。攸以爲表、繡新破、勢不敢動。布驍猛、又恃袁術、若縱橫淮、泗間、豪傑必應之。今乘其初叛、衆心未一、往可破也。太祖曰「善。」比行、布以敗劉備、而臧霸等應之。」
  43. ^ 魏書Ⅰ(1992)・武帝紀p.38「布之破劉備也、霸等悉從布。」
  44. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.29「献帝春秋曰:太祖軍至彭城。陳宮謂布「宜逆擊之、以逸擊勞、無不克也。」布曰「不如待其來攻、蹙著泗水中。」及太祖軍攻之急、布于白門樓上謂軍士曰「卿曹無相困、我(自首當)[當自首]明公。」陳宮曰「逆賊曹操、何等明公!今日降之、若卵投石、豈可得全也!」」
  45. ^ 魏書Ⅰ(1992)・武帝紀p.38「九月公東征布。冬十月屠彭城、獲其相侯諧。進至下邳、布自將騎逆撃。大破之、獲其驍將成廉。追至城下。」
  46. ^ 魏書Ⅰ(1992)・武帝紀p.38「時公連戰、士卒罷、欲還。」
  47. ^ 魏書Ⅱ(1993)・荀攸伝p.27「攸與郭嘉、説曰「呂布、勇而無謀。今三戰皆北、其鋭気衰矣。三軍以將爲主、主衰則軍無奮意。夫陳宮有智而遲。今及布氣之未復宮謀之未定、進急攻之、布可拔也」乃引沂泗、灌城。城潰、生禽布。」
  48. ^ 魏書Ⅲ(1993)・郭嘉伝p.27「征呂布、三戰破之。布退固守。時士卒疲倦、太祖欲引軍還。嘉説太祖急攻之、遂禽布。」
  49. ^ 後漢書(2004)・呂布伝p.620「布與麾下登白門樓。兵圍之急,令左右取其首詣操。左右不忍,乃下降。」
  50. ^ 魏書Ⅱ(1992)・呂布伝p.15「呂布壯士、善戰無前。」
  51. ^ 魏書Ⅱ(1993)・呂布伝p.54評曰:「呂布有虓虎之勇、而無英奇之略。輕狡反覆、唯利是視。自古及今、未有若此不夷滅也。」
  52. ^ 渡邉(2013) p.55
  53. ^ 『李卓吾先生批評三国志』第十一回「也是。」
  54. ^ 『四大奇書第一種』第十一回「極無理語,説来却甚是有理。」
  55. ^ 『鍾伯敬先生批許三国志』第十一回「呂布亦能。」
  56. ^ 『李卓吾先生批評三国志』第十六回「呂布亦有自見。」
  57. ^ 『四大奇書第一種』第十六回「呂布従来没有主張,独此番大有定見。」
  58. ^ 『李笠翁批閲三国志』第十六回「呂布従来没主張,此番大有定見。」

関連人物[編集]

所属配下
  • 陳珪
  • 陳登
  • 汎嶷
同盟関係

関連作品[編集]

テレビドラマ

参考資料[編集]

外部リンク[編集]