赤兎馬
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赤兎馬(せきとば、繁体字: 赤菟馬/赤兔馬; 簡体字: 赤兔马; ピン音: cètùmǎ; 注音符号: ㄘㄜˋㄊㄨˋㄇㄚˇ)は、『三国志』および『三国志演義』に登場する馬。演義では西方との交易で得た汗血馬といわれている。「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意とも。
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[編集] 概要
[編集] 後漢書
『後漢書』巻75「劉焉袁術呂布列傳 第65[1]」に「布常御良馬 號曰赤菟 能馳城飛塹」とある。
[編集] 三国志
『三国志』巻7「呂布伝[2]」に「布有良馬曰赤兔」とその名が見える。これによると、呂布が袁紹の元にいたころ、彼に頼まれて張燕を攻撃した。呂布はいつも赤兎という良馬に乗って敵陣に突進し、ついに張燕を打ち破ったという。また、注に引かれた『曹瞞伝』によると、呂布の剛勇と併せて「人中有呂布 馬中有赤兔」とあり、人中に呂布あり、馬中に赤兎ありと賞されたという。
[編集] 三国志平話
『三国志平話上巻[3]』によると「這馬非俗 渾身上下血點也似鮮紅 鬃毛如火 名爲赤兔馬。丞相道 不是紅爲赤兔馬 是射免馬 旱地而行 如見兔子 不曾走了 不用馬關踏住 以此言赤兔馬 又言 這馬若遇江河 如受平地 涉水而過多若至水中 不吃草料 食魚鱉 這馬日行一千里 負重八百餘斤 此馬非凡馬也」と説明し、「因爲赤兔馬殺了丁建陽」と呂布が持ち主の丁建陽を殺して奪い、曹操・劉備に攻められた場合についての答えで呂布笑って「吾有馬名赤兔 我與貂蟬坐騎而去 馬能越塹 與貂蟬浮水而出 吾何懼哉」というと侯成がそれを盗んだとある。
[編集] 三国志演義
『三国志演義』によると赤兎馬は稀代の名馬で、一日に千里[4]を駆けることができた。
はじめ董卓が持っていたが、呂布とその養父の丁原を離間させるために李粛の策で呂布に贈られた。呂布はその見返りに丁原を殺し董卓に仕えたが、赤兎馬は後に呂布を討った曹操の手に移る。しかし赤兎馬は気性が荒く誰にも乗りこなせずにいた。当時曹操は関羽を自分の部下にしたいがために軟禁状態に置き、気を引くために様々な贈り物を与えていた。しかし一向に効果がなかったため、「貴殿なら乗りこなせるだろう」と赤兎馬を与えたところ彼は見事にそれを乗りこなした。さらに、それまで何を贈っても喜ばなかった関羽が大喜びしたので、曹操はその理由を尋ねた。関羽は「この馬ならどんなに遠くとも兄者(劉備)の居所が分かればすぐに飛んでいくことができるでしょう」と答えたため、曹操は改めてその忠義ぶりを思い知った一方、後悔したともいう。後に関羽が処刑された後、呉の馬忠に与えられたが、馬草を食わなくなって死んだという。
赤兎馬は最初の登場から死まで20年以上に渡り現役で走り続けている。競馬のサラブレッドならば現役で活躍できる年齢は2歳からせいぜい9歳までと短い期間であり、これほどまで長きに渡って戦場で活躍することはまず考えられない。
しかし、日本の戦国時代に森長可と息子の忠政の乗った百段という馬は1584年の小牧・長久手の戦いから1614年の大坂夏の陣までの30年にわたって戦闘に参加した例や、競走馬のシンザンが36歳まで生きた例もあるので、あながち荒唐無稽と断言することはできない。
[編集] 『水滸伝』の中の赤兎馬
小説『水滸伝』では関羽の子孫[5]という設定の関勝も、関羽のように赤兎馬に乗って戦場に出陣する話がある。また、呂布に憧れる小温侯呂方の乗馬も赤兎である。
[編集] 赤兔について
赤兔という言葉について『芸文類聚[6]』(zh)では赤兔[7]を以下のとおり説明している。
- 瑞應圖曰 王者恩加耆老 則白兔見 一本曰 王者應事疾則見 赤兔者 王者德茂則見 -祥瑞部下99巻 兔[8]
- 梁蕭子範七誘曰…大夫曰 逸態之赤兔 駿足之驪駒 龍文重於漢廄 魚目貴於西都 若乃似鹿之體 如龍之姿 以紫縷 繫以青絲-57巻 七[9]
[編集] 脚注
- ^ 劉焉袁術呂布列傳
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陳壽: 三國志/卷07 - ウィキソース - ^ 至治新刊全相平話三國志 巻之上
- ^ 中国の後漢の時代では1里は414.72m(300歩)であった。そこから計算すると千里は414.72kmということになる。ただし、「千里」という言葉はしばしば長い距離の例えとして用いられる。
- ^ 龐会により一族全てが虐殺されたという記録が事実であれば、関羽の子孫は『水滸伝』の舞台となった時代には存在しない。
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歐陽詢: 藝文類聚 - ウィキソース - ^ 藝文類聚索引(私家版) 齋藤研究室電網版
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歐陽詢: 藝文類聚/卷099#.E5.85.9 - ウィキソース4 - ^
歐陽詢: 藝文類聚/卷057 - ウィキソース4