紀霊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| この項目には、一部のコンピュータや一部の閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 |
紀 霊(き れい、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。
[編集] 正史の事跡
| 姓名 | 紀霊 |
|---|---|
| 時代 | 後漢時代 |
| 生没年 | 〔不詳〕 |
| 字・別号 | 〔不詳〕 |
| 出身地 | 〔不詳〕 |
| 職官 | 将軍 |
| 爵位・号等 | - |
| 陣営・所属等 | 袁術 |
| 家族・一族 | 〔不詳〕 |
袁術配下の将軍。三国志演義では袁術配下の武将として頻繁に登場するが、正史での記述は極めて乏しい。
『三国志』魏書呂布伝によると、建安1年(196年)、呂布が劉備から下邳を奪って徐州刺史を自称し、劉備は呂布に降って小沛に駐屯した。それを見た袁術は、紀霊に3万の軍を率いさせ、小沛の劉備を攻撃した。
劉備を滅ぼしたならば、袁術は泰山の臧覇らと結んで自分を包囲しようと企むであろうと見抜き、呂布は紀霊と劉備の仲裁に出た。呂布は紀霊に対し、遠距離にある戟の小枝(胡)に射当てたら軍を引き上げよ、と申し渡し、見事そこに矢を当てる。紀霊は止むを得ず兵を引いた。紀霊のその後は不明である。
[編集] 演義における紀霊
『三国演義』では、山東出身で、重さ50斤(約11キロ)の三尖刀の使い手として登場する。徐州の劉備を攻める際、紀霊は関羽との一騎打ちで30合余り互角に戦った。しかし休憩を挟んだ所で副将の荀正が飛び出し、1合で関羽に討ち取られる。その結果紀霊軍は進軍停止を余儀なくされ、劉備軍も戦力の不足から積極的な攻勢に出る事が出来ず、戦線は膠着状態になる。その後、呂布の反乱に合わせた袁術の謀略により、高順と共に劉備の挟撃を図るも失敗し、劉備に逃亡を許すこととなる。その後、劉備は講和した呂布のもとに逃げ延びている。
劉備が呂布によって小沛に追いやられた時に再び袁術の命令で劉備を攻撃するが、正史と同様呂布の仲裁により撤退している。激怒する袁術に、袁術の息子と呂布の娘との縁談を献策、呂布の謀臣陳宮の思惑とも合致するが、この縁談は曹操に密通(演義では劉備の為)する陳珪の策により頓挫する。その後の袁術の徐州親征の際には遊軍を率いて参加するのだが、裏切った友軍の楊奉・韓暹に撃破されてしまう。
やがて袁術が皇帝を僭称するものの敗戦と暴政のため人心を失い孤立すると、多くの配下は袁術を見限る中で、紀霊は最後まで袁術に従う。しかし袁術が領土を捨てて袁紹のもとへ落ち延びる途中、袁術の追討を曹操から命じられた劉備の軍と戦い、張飛との一騎打ちで10合余り渡り合った後に討ち取られてしまうのである。前半あれだけの強者として描かれているが、後半は完全に張飛の引き立て役にされている。

