ノート:呂布

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「主な配下」の節について[編集]

①戦場で刀槍を舞わせたイメージが巷間に伝わっている人物(例:張遼)を「武官」とし、そうでない人物(例:陳宮、張弘)を「文官(幕僚、官僚)」とし、何をしたか判らない人物(例:蕭建、侯諧)を何の根拠も無くとりあえず「武官」としているように思われますが、そのような分類の方法が妥当でしょうか。張弘が就任した刺姦は軍の監察を担当する職であり、「文官」と言い切るには無理があるのではないでしょうか。また、張遼・蕭建・侯諧が就任した相などは文官の典型のように見受けられます(張遼を武官とする事自体には異存ありませんが、なぜ張遼が騎都尉に就いた点に言及されないか疑問です)。

②それでは張弘らを「武官」に、蕭建らを「文官」に分類すれば済むかというと、そうでもないように思われます。他ならぬ曹操や諸葛亮が丞相の地位で軍の総司令官を務めており、また時代や状況こそ違えど、范仲淹や文天祥など本来は最前線で軍を指揮する事を予定していない職掌の者が軍功を挙げた例は数多くみられます。単に文武の職に就いた一事をもって「某人は文官である」「某人は武官である」などとレッテルを貼る事は短絡的に過ぎ、却って各人物の仕事の本質を曇らせるのではないでしょうか。

③呂布と同盟関係にあった人物を「主な配下」に含めるのは明らかにおかしいと考えます。また、呂布と書を応酬し、彼に良馬五匹を貢いだだけの蕭建や、呂布との関係じたい不明な侯諧を「武官」として呂布の下僚のように扱うのも奇異に感じられます。

④成廉や魏越は後漢書・呂布伝で「健将」と称されていますが、二十五史その他の文献をみる限り「健将」の語句は将才を讃える綽名以上の意味を持たないようです。「健将」を「中郎将」などと並べ、あたかも官職名のように扱うのは「陸軍大将」と「永遠の若大将」とを並べるようなものではないでしょうか。もっとも、この「中郎将」じたいが中央の人事権を無視した存在である事からすれば、綽名と並べても構わないのかも知れませんが。

⑤呂布は片々たる一軍閥の長であり、確たる統治機構を持たなかったように見受けられますが、そのような人物が私的に任命した役職を厳密に分類することにそもそも意義があるか疑問に思われます。仮に以上の点を解決したとしても、わざわざ節を設け表を作って呂布と同盟関係にあった者や配下の者たちを羅列する必要は無く、本文中にその名を示す事で十分と考えますが、いかがでしょうか。--219.126.203.28 2008年1月18日 (金) 09:28 (UTC)[返信]

今月末までを猶予期間とし、その間にご異論が無ければ節ごと削除させて頂く予定です。--219.126.201.86 2008年1月19日 (土) 04:59 (UTC)[返信]
確かに定義等問題ありますので、表形式からは変更したいと思います。ただ、記事「呂布」は長いため、どこか1箇所で関連人物をまとめておき、リンクすること自体は意味があると思います。試しに、あいうえお順に並べ、所属配下と同盟者とに分類してみますので、ご意見よろしくお願いいたします。--202.73.89.70 2008年1月20日 (日) 14:49 (UTC)[返信]
それでは削除予告は撤回し、この件はお任せすることとします。--219.126.200.49 2008年1月20日 (日) 16:59 (UTC)[返信]

呂布という人物の史料は三国志と後漢書以外に良質なものはありません。歴史学的には冒頭に正史の列伝の巻まで明示してあるのですからそれ以上の出典は不要でしょう。日本語訳は所詮訳本に過ぎませんのでその該当ページを一々書くのは意味不明です(おまけに文庫本や別の訳本も複数ありますから意味がわかりません)。ゲーム雑誌の記事だの、坊間の俗書の類も残そうかと思いましたが、内容を精査した結果、全て正史の孫引きでしたから、同じことを何度も繰り返しているだけで、屋上屋です。情熱を持ってされている方がいるのはわかりますが今のままでは文意も通らず大変読みづらい。やむなく全て削除しました。涙を振るって馬謖を斬るということでご勘弁願います。--松平俊介会話2014年7月30日 (水) 01:18 (UTC)[返信]

統合提案[編集]

呂氏の当記事への統合を提案します。「呂氏」は本来、呂姓の氏族あるいは人物を指しますので、特定の人物の記事名に用いるには問題があります。加えて、この人物はその特筆性に問題があります。一旦統合した後、呂氏へのリダイレクトにします。--エンタシス会話2017年3月25日 (土) 00:08 (UTC)[返信]

上記の通りに処置しました。--エンタシス会話2017年4月1日 (土) 08:53 (UTC)[返信]