陳羣

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陳 羣(ちん ぐん、? - 236年[1])は、中国後漢から三国時代政治家。『三国志志に伝がある。長文豫州・頴川郡許昌(現在の河南省許昌)出身。陳寔の孫。陳紀の子。陳諶の甥。陳泰の父。妻は荀彧の娘。

魏国の法制度の整備に従事し、政略面で活躍した。特に九品官人法はその後代に科挙が本格的に施行されるまで、各王朝の人材登用の基本方式となった。

目次

[編集] 経歴

[編集] 若き日

清流派に属する名家に生まれ、祖父と父と叔父、それぞれが名声が高かった。陳羣は幼いころから祖父陳寔に認められ、将来に一族を盛んにする人物であると期待された。魯国の名士である孔融は才能があったものの、傲岸で人を見下すきらいがあった。孔融は自身より年長の陳紀と既に友人になっていたが、年少の陳羣の才能をも認め、陳紀に改めて挨拶をしたという。このことから陳羣は世間に名を知られるようになった。

若い頃は辛毗、杜襲趙儼と並んで名が知られていたという(「趙儼伝」)。ただし、禰衡には認められなかった。

豫州刺史劉備に登用され、別駕となった。194年、劉備が徐州刺史の陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした際には、「南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険である」として反対したが聞き入れられなかった。まもなく劉備は袁術を戦闘状態になった隙を呂布に付かれて領地を失ったため、陳羣の言葉を用いなかったことを後悔した。陳羣は茂才に推挙され、柘(しゃ)の県令に任命されたが、就任せず、父と共に徐州に避難した。

[編集] 曹操に仕える

198年曹操が呂布を滅ぼしたとき、陳羣は降伏者として平伏してこれを出迎えたという(「袁渙伝」)。

陳羣は曹操に召しだされ、丞相西曹掾属となった。曹操に仕えてまもなく、楽安の王模と下ヒの周逵が推挙されて曹操に仕える事になったが、陳羣は命令書を封緘したまま返上し、その2人は道徳を汚す人物であり、後に災いをなすだろうと諫言した。しかし曹操は聞き入れず、彼等を任用したところ、彼等は結局、咎を受けて処刑されることになった。曹操は自分の不明を陳羣に詫びた。また、曹操の側近である郭嘉が不行跡であることを咎め、たびたび弾劾した。曹操は郭嘉の才能を惜しみその言を用いなかったが、陳羣の誠実さも同様に尊重した(「郭嘉伝」)。

陳羣は、広陵の陳矯と丹陽の戴乾を始め多くの人物を推挙した。戴乾は後に呉が叛いたときに国難に殉じ、陳矯は魏の高官に上ったため、人々は陳羣の人物鑑識眼を高く評価した。

ショウ、賛、長平の令を務めたが、父が亡くなったため、官を離れた。後に司徒掾となったが、高い成績を挙げて、治書侍御史となり、参丞相軍事に転任となった。

魏が建国されると、昇進して御史中丞に任ぜられた。

曹操は肉刑の復活を議論させたが、昔、陳紀が肉刑について意見を出していたことを知っていたため、陳羣の発言を求めた。陳羣は死刑の減刑手段として肉刑を復活させることを提案した。鍾繇は賛成したが、王朗など反対が多数であるために、見送りとなった。

陳羣は侍中となり、丞相の東西の曹掾を配下におくことになった。

陳羣は朝廷にあっては好悪によって判断する事はなく、常に名誉と道義を重んじ、道義にはずれた事を人に押し付けなかったとされる。曹丕がまだ太子だったとき、彼は陳羣に対して深い敬意をもって接し、顔回になぞらえ称え、友人に対する儀礼をもって処遇した。司馬懿呉質、朱鑠とともに太子四友になったという(『晋書』「宣帝紀」)。

劉廙魏諷の反乱に連座しそうになると、曹操に刑の減免を進言し、曹操は劉廙を許した。劉廙は陳羣に礼を言ったが、陳羣は取り合わなかった。

[編集] 魏の重臣へ

陳羣は曹操が帝位に就くことをほのめかしたことがあるが、曹操には拒絶された(「武帝紀」が引く『魏略』)

220年、曹丕が王位に就くと、陳羣は昌武亭侯に封じられ、尚書に任命された。このとき、九品官人法を建議し、制定させた。曹丕が禅譲により皇帝(文帝)に即位して魏帝国が成立した際には、群臣達と共に陳羣もそれに尽力し(「文帝紀」が引く『献帝伝』)、その功績から文帝にも重用された。官職は尚書僕射に昇進、侍中を加官された後、尚書令に転任となり、頴郷侯に爵位を進めた。

文帝が孫権を討つため広陵に侵攻すると、陳羣は中領軍を兼任した。文帝は帰還するとき、節を与えて水軍を統率させた。許昌に戻ると、陳羣は鎮軍大将軍に任ぜられるとともに、中護軍を兼任し、尚書の事務を取り扱った。

鮑勛という人物を推挙し、その出世を取り成したが、文帝は鮑勛を嫌い、処刑しようとした。陳羣は司馬懿と共に鮑勛のために弁護したが許されなかった(「鮑勛伝」)。

226年、文帝が急に病に倒れると、陳羣は曹真、司馬懿らと共に遺詔を受けて後事を託された。太子の曹叡が文帝の柩を見送ろうとしたときは、曹真や王朗らと共に、暑気を理由に取りやめさせたという(「文帝紀」が引く『魏氏春秋』)

曹叡(明帝)の時代には、陳羣は頴陰侯に昇進し、500戸の加増を受け、領邑は1300戸となった。さらに曹休、曹真、司馬懿と共に開府を許された。陳羣はしばらくして、司空に任ぜられたが、尚書の事務も引き続き執り行った。

侍中の呉質に讒言を受け譴責されたこともあるが、結局、陳羣に対する明帝の信任は揺るがなかった(「王粲伝」が引く『魏略』)。

明帝が始めて政務を執ったときは、上奏し、主君に追従し臣下同士で不和を生じさせる者達に用心するよう述べた。

太和年間に曹真が征伐を求めたときは、陳羣は慎重に行動することを求め、明帝もそれを受けて曹真に指示を出した。長雨が降ると、陳羣は曹真に撤退させることを求め、明帝は曹真に撤退を命じた。

明帝の公主の一人が亡くなると、明帝は悲しみ自ら柩を見送ろうとした。陳羣は上奏し、出費の多さを理由にそれに反対したが、明帝は聞き入れなかった。

青龍年間、明帝は宮殿の造営工事に熱中したが、陳羣は多くの群臣達と同様に上奏し自省を求めた。明帝は計画をいくぶんかは縮小させたという。

これらの上奏について、上奏を出した後には草稿はすべて破棄してしまったため、当時の人は誰もその内容を知ることが出来ず、高官にありながら何もしていないと批判するものもいた。死後、正始年間に『名臣奏議』が編纂され、陳羣の上奏の内容が明らかにされると、人々は皆感嘆したという(『魏書』)。このことにより陳羣は長者と称えられたともいう(『袁子』)。

これ以前、張郃が戦死したとき、その死去を明帝のために惜しんだところ、それがあまりに過剰であったため、辛毗に批判されたこともある(「辛毗伝」が引く『魏略』)。

また、かつて崔琰が処刑されたとき、多くの人はその死を惜しんだが、陳羣は崔琰が身を処すことができなかったことを批判し、崔林と論争したという(「崔琰伝」が引く『魏略』)。

236年に没した。靖侯と諡された。子の陳泰が跡を継ぎ、領邑を分割し一子が列侯に封じられたという。

[編集] 後世の評価

陳寿には名誉と徳義により行動し、高潔な人柄と高い声望を持っていたことを賞讃された。

陳羣の建議した九品官人法は隋代までの中国における人材登用の基本制度となったため、中国の政史を考える際見逃すことができないものとなり、後世の学術的名研究対象となった。一説には、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙う制度であったと考えられている。[2]

[編集] 脚注

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  1. ^ 魏志「明帝紀」によると、青龍4年の12月24日。
  2. ^ 宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)第二章より。漢魏の易姓革命に当たって、後漢の官僚の反発を避けるために彼らを魏廷に受け入れる必要がある。ところが、魏の官僚の登用は毛玠らによって厳選されていたものの、一方の後漢は陳羣が「天朝(後漢)の選用、人才を尽さず」(『通典』巻14)と評価される状況にあり、魏の尺度でもう一度試験を行うべきであると考えられたと宮崎は指摘する。いま一つの理由として、魏に対して叛意を持つ後漢の官僚もそのまま受け入れにくいことを挙げている(218年には耿紀による反乱が起きるなど、反魏意識を持つ後漢官僚の存在は簡単に想像された)。

[編集] 参考文献

  • 宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)
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