陳羣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 羣(ちん ぐん、? - 238年)は、中国三国時代の重臣。長文豫州・頴川郡許昌(現在の河南省許昌)の出身。祖父は清流派に属し、清廉高潔な官僚と知られた陳寔、父は陳紀、子は陳泰荀彧の娘婿に当たる。魏の法制度の整備に従事した。特に九品官人法はその後代に科挙が本格的に施行されるまで、各王朝の人材登用の基本方式となった。

目次

[編集] 経歴

幼いころから祖父陳寔に将来を期待され、傲岸で人を見下すきらいのある孔融とも交友があった。豫州刺史劉備に登用され、別駕となった。194年、劉備が徐州刺史の陶謙死後の混乱する徐州を領有しようとした際には、「南に袁術、西から呂布が徐州を狙うなか、危険である」として反対したが聞き入れられなかった。まもなく劉備が呂布に敗れて領地を失うと野に下り、父とともに徐州で避難生活を送った。茂才に推挙され、県令に任命されたが、就任しなかった。198年曹操が呂布を滅ぼした後、陳羣は曹操の属官となり、その後は同郷で曹操の片腕として活躍していた荀彧の娘婿となるなど、政権内での地歩を固めていった。214年御史中丞に任ぜられた。

陳羣は主に内政面で活躍し、特に法整備に従事した。曹操が肉刑を復活させようとした時には、不適切な死刑を減らすという観点から鍾繇とともにこれに賛成したが、王朗らの反対にあい結局沙汰やみになった。220年には九品官人法を制定した。この制度は、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いであり、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙うものであったと考えられている[1]

まもなく曹丕(魏の文帝)が皇帝に即位して魏帝国が成立し、陳羣はその成立に尽力し、その功績から曹丕にも重用された。曹丕は、太子時代から陳羣と仲が良かったため、陳羣を厚く信頼しており、官職は尚書令に上り、さらに鎮軍大将軍に任ぜられた。226年の曹丕の死に際しては、曹真司馬懿と共に後事を託された。次の曹叡(明帝)の時代にも重職を担い、司空に任ぜられた。238年に死去した。

[編集] 評価

陳羣の人となりは謹厳実直、常に公正な態度で物事を判断し、道徳に外れた行いは決してしなかった。若いころの曹丕は、こうした陳羣の人柄に敬意を表し、臣下ではなく友人の礼を以て接した。

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ 宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)第二章より。漢魏の易姓革命に当たって、後漢の官僚の反発を避けるために彼らを魏廷に受け入れる必要がある。ところが、魏の官僚の登用は毛玠らによって厳選されていたものの、一方の後漢は陳羣が「天朝(後漢)の選用、人才を尽さず」(『通典』巻14)と評価される状況にあり、魏の尺度でもう一度試験を行うべきであると考えられたと宮崎は指摘する。いま一つの理由として、魏に対して叛意を持つ後漢の官僚もそのまま受け入れにくいことを挙げている(218年には耿紀による反乱が起きるなど、反魏意識を持つ後漢官僚の存在は簡単に想像された)。

[編集] 参考文献

  • 宮崎市定著『九品官人法の研究:科擧前史』(東洋史研究会、1956)