姜維

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代の書物に描かれた姜維

姜 維(きょう い、202年 - 264年1月18日)は、中国三国時代の人物、後に蜀漢武将伯約(はくやく)天水県の出身。父は姜冏

目次

[編集] 生涯

[編集] 出生

幼少時にの功曹だった父の姜冏が異民族の反乱鎮圧に従軍して戦死したため母の手で育てられた。に出仕して上計掾となった後、に召されて雍州刺史の従事となった。その後、かつての父の功績が取り上げられ、中郎の官を贈られ、天水郡の軍事に参与した。

[編集] 蜀への降伏

228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後、魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は軍事的センスが高く、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど姜維の才を高く評価し、倉曹掾・奉義将軍の官を与え、当陽亭侯に封じている。

裴松之が注で引用する東晋孫盛の『雑記』によれば、姜維の母親は、姜維に魏に戻るよう手紙を書いたが、姜維は蜀で栄達するという大望があるため戻らないと返事したとある。

[編集] 蜀軍の中枢へ

その後、諸葛亮の北伐に従軍し、中監軍・征西将軍に昇進した。234年、諸葛亮の死後、成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍を授けられ諸軍を統率することになり、平襄侯に進封された。以後も243年、鎮西大将軍・涼州刺史、247年衛将軍録尚書事と昇進を続け、蜀の軍事の中枢を担うようになる。

同年、汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮夏侯覇らと戦い、この地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。習鑿歯の『漢晋春秋』によると、費禕は姜維に対し「我々の力は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相でさえ中原を定めることが出来なかった。まして我々に至っては問題にならない。今は内政に力を注ぎ外征は人材の育成を待ってからにすべきだ」と語っていたという。

[編集] 北伐と蜀の衰退

253年、費禕が魏の降将・郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年大将軍に昇進する。しかし同年、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。

姜維は「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中の防衛法は防御力は高いが大勝は期待できません。諸陣営を引き退かせ、兵を漢・楽の二城に集中させ、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせ、敵が疲弊して撤退した時、いっせいに出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう。」と建議した。その結果、督漢中の胡済漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、護軍の蒋斌に漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠に防御陣を築いた。

姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝劉禅宦官黄皓を重用して酒色に溺れ、蜀の国政は混乱した。また涼州出身の姜維は、蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の追放を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。その際に、姜維は趙雲ら蜀設立の功労者に対し侯の諡を送るべきと劉禅に進言し、蜀設立の功労者に侯の諡が送られた。

[編集] 蜀の滅亡と姜維の死

262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間、鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅の命令を受けた姜維は鍾会に降伏した。(蜀漢の滅亡

降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した[1]。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。

『三国志』蜀書姜維伝の注に引く『世語』によれば、彼の遺体を切り刻んで胆を取り出したとき、その胆は一升枡ほどもある巨大なものであったとされている。

[編集] 三国志演義での活躍

三国志演義』では馬遵配下の将として登場し、諸葛亮を計略を逆手にとって危機に陥らせたり、趙雲と一騎打ちで互角の勝負を演じている。そして諸葛亮はその才を高く見込み、自らの後継者とするために計略を用いて姜維を蜀に投降させている。

『演義』での姜維は諸葛亮の第一の後継者としての趣が強く、基本的に才格ある善玉に描かれており、諸葛亮の死後、魏への侵攻を続けて時に敗れる描写はあるも、それによる国力衰退に関しては特筆されることはない。

これにより、蜀の晩年に蜀の臣たちが姜維を中央から遠ざけていくということに関して、姜維に対する非を読者に感じさせにくい意匠になっている。

横山光輝の『三国志』では、蜀征討戦に対し諸将と共に剣閣の要害に立てこもり連弩で抵抗、魏軍が姜維との戦を諦めて迂回して蜀を攻め劉禅らを降伏させる。劉禅らを降伏を知った姜維は泣きながら諸葛亮の遺言を守れなかったと言い岩に剣を叩きつけて折り、他の兵士らも泣きながらそれに従い降伏し、三国志最後の締めくくりとしている。

[編集] 評価

三国志』の撰者の陳寿は「姜維は文武ともに優れていたが、多年に渡り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」という批評を下している。また、孫盛は「姜維は防衛の任務に就きながら、敵を招き寄せ、領土を失った。蜀滅亡後は、幸運にも鍾会の厚情を受けながら、鍾会を裏切る事を考え、道理に外れた成功を得ようと望んだ。なんと愚かな事だろうか」と断じている。一方、裴松之は姜維に対して好意的評価を下しており、姜維の死後、郤正がその人格を高く評価した文章に対する孫盛の痛烈なる批判について、再批判を加えている。また東晋の干宝は「蜀の滅亡時に死ぬことができず、鍾会の乱で死んだのは、死ぬべき場所を得なかったといえよう」という意見を述べている。

[編集] 脚註

  1. ^ 鍾会は「夏侯玄諸葛誕でも姜維以上ではないだろう」と評している。