周泰

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周 泰(しゅう たい、生没年不詳)は、中国後漢末から三国時代武将に仕えた。字は幼平九江郡下蔡の人。子は周邵・周承。

生涯[編集]

蒋欽とともに孫策に仕え、側近となる。孫策が会稽郡に進出すると、別部司馬となった。

孫策の弟の孫権は周泰を気に入り自分の配下に貰い受けた。孫策が六県の山越征伐に赴き、孫権が宣城の留守を任されていたが、兵士が少なく油断しきっていたところを山越の反乱軍に急に襲われて命の危険にさらされた。このとき周泰は、人に倍する勇気を持って味方を鼓舞し、全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。しばらく人事不省な状態に陥ったが、孫策から感謝され、回復後に春穀の県長に任命された。皖城や江夏の攻撃に参加し、帰還中に豫章に立ち寄ったとき、宜春県の長に任命された。任地における租税を扶持として与えられる待遇を受けた。

孫権の時代になると、江夏の黄祖討伐で功績を挙げたのを始め、赤壁の戦い周瑜程普に随って、曹操の攻撃を防ぎ、南郡の曹仁攻撃にも参加した。濡須では攻めてきた曹操軍と戦い、曹操を撤退させた。平虜将軍に就任し、濡須の督になる。

このころ、徐盛朱然といった面々は周泰の指揮下に入っていたが、誰も周泰の指示に随おうとはしなかった。孫権は諸将を集めて宴を開き、その席上でいきなり周泰に服を脱がせ、孫権を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、最後に「私が今在るのは、君のおかげだ」と言い涙を流して感謝した。さらに周泰に対し御蓋を与えるなど、目に見える厚遇を施した[1]。このことがあって、徐盛達は周泰の指揮下に入ることを納得するようになった。

孫権が劉備と対立し、その将軍関羽を滅ぼして荊州を手中にすると、さらに蜀漢へ侵攻する姿勢を見せた。このときに周泰は漢中太守に任じられ、奮威将軍に就任し、陵陽侯に封じられた。黄武年間(222年229年)に亡くなった[2]

子の周邵が跡を継いだが、230年に没し、その弟の周承が爵位を継承している。

三国志演義[編集]

小説『三国志演義』では、蒋欽と共に江賊をしていたが、孫堅の遺児が挙兵したのを聞きつけ改心して孫策の陣営に駆けつけ、その後の孫策の江東征服戦の各所で活躍した。宣城で重傷を負ったときは華佗が周泰の傷を治療したことになっている。赤壁の戦いの緒戦では韓当と共に先陣を務め、元袁紹の部下の張南を斬っている。劉備が孫夫人との婚礼のために呉を訪れたときは、張昭のすすめで孫権より追撃の任務を蒋欽と共に与えられ、場合によっては夫婦ともども切り捨ててもよいという厳命を受けている。後に孫夫人を阿斗(劉禅)と共に呉に連れ出そうとした周善という人物がいる。関羽の報復として劉備が攻め寄せた夷陵の戦いでは弟の周平(創作人物)が関興に討ち取られる。後に陸遜が指揮を執るようになると、古参の将の一人として韓当と共に不快感を示し、陸遜に叱責されている。陸遜の計略で呉が大勝すると、敗走する蜀軍を諸将と共に追撃し、周泰は武陵蛮の将で先に甘寧を戦死させていた沙摩柯を一騎打ちで討ち取っている。

脚注[編集]

  1. ^ 親しく字で呼びかけ、宴会の後では軍楽隊の演奏で周泰を見送ったともある。(『江表伝』)
  2. ^ 朱桓が周泰の後を受けて濡須の督となっており、223年曹仁との戦いでの功績で朱桓が奮威将軍に任命されている。(「朱桓伝」)