周泰
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周 泰(しゅう たい、生没年不詳)は、中国後漢末から三国時代の呉の武将。字は幼平。子は周邵・周承。
九江郡下蔡の人。武勇に優れた勇将で、蒋欽とは親友の間柄で、ともに孫策に仕えた。孫策の死後は孫権に仕えた。孫権が宣城を攻めたとき、山越の反乱軍に襲われて命が危うかったことがあるが、このとき周泰は、全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。春穀の県長に任命される。
赤壁の戦いで周瑜にしたがって、曹操の攻撃を防いだ。濡須では攻めてきた曹操軍と戦い、曹操を撤退させた。平虜将軍に就任し、濡須の督になる。その際、徐盛や朱然が周泰の指揮下に入って戦うことを嫌がった。孫権は諸将を集めて宴を開き、その席上でいきなり周泰に服を脱がせ、孫権を守るために刻まれた傷の由来を一つ一つ語らせ、最後に「私が今在るのは、君のおかげだ」と言い涙を流して感謝した。これに諸将は圧倒され、周泰の指揮下に入ることを納得したと言われている[誰?]。後に漢中太守に任じられ、奮威将軍に就任し、陵陽侯に封じられた。黄武年間(222年-229年)に亡くなったという。
三国志演義では、元江賊とある。華佗が周泰の傷を治療し、夷陵の戦いで沙摩柯を討ち取った話もある。

