劉楨

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劉 楨(りゅう てい、? - 217年)は、中国後漢末に曹操に仕えた文学者。公幹建安七子の一人。兗州東平国寧陽県(現在の山東省泰安市寧陽県)の人。漢の宗族劉梁の孫[1]

略歴[編集]

曹操に招かれ丞相掾属となり、五官将文学・平原侯庶子に転じて、曹操の息子の曹丕曹植と親しく交際した。後に宴席の場で、曹丕が夫人の甄氏に命じて挨拶させた時、座中の人々が平伏する中、一人彼女を平視した。このことを聞いた曹操に不敬を問われたが、死刑を許されて懲役にされた。 世説新語によると、曹丕は「貴方は何故法を守らないのか」と問い、劉楨は「法の網目が疎かでない事が理由です」と答えたという。 尚、この事件により共に曹丕の賓客として仕えていた呉質も連座し、朝歌へ左遷されている。刑期が終わると吏に任じられた[2]建安二十二年の疫病の流行中国語版によって217年に死去。陳琳徐幹応瑒らが同じ病気で死去している。

王昶伝によると、王昶は彼の人柄について「博学で高い才能を持ち、誠実な生き方をし大志を抱いていた。しかし人柄と行為に均質性がなく、自己を拘束したり遠慮したりする事が少なく、長所と短所は差し引きゼロであった。私は彼を愛し重んじるが、わが子が彼を慕う事を望まない」としている。

作品[編集]

劉楨は文才に優れ、数十篇の作品を著したという。特に五言詩は「其の五言詩の善き者、時人に妙絶す」(曹丕「呉質に与うる書」)として高く評価された。後世においても「真骨は霜を凌ぎ、高風は俗を跨ぐ」(鍾嶸詩品』)と評されるように、骨太で高邁な風格を特徴とする作風は、王粲とともに建安七子の中で最も高い評価を受けている。「劉公幹集」[3]がある。

著名な作品[編集]

贈従弟三首(其二)
原文 書き下し文
亭亭山上松 亭亭たり 山上の松
瑟瑟谷中風 瑟瑟たり 谷中の風
風聲一何盛 風声 一に何ぞ盛んなる
松枝一何勁 松枝 一に何ぞ勁(つよ)き
冰霜正慘凄 冰霜 正に慘凄たるも
終歳常端正 終歳 常に端正たり
豈不罹凝寒 豈に凝寒に罹(かか)らざらんや
松柏有本性 松柏 本性有り

伝記資料[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 范曄の『後漢書』文苑伝下による。『三国志』魏書王衛二劉伝裴注所引『文士伝』は劉楨の父を劉梁とする。
  2. ^ 《三国志》裴注所引:太子尝请诸文学,酒酣坐欢,命夫人甄氏出拜。坐中众人咸伏,而桢独平视。太祖闻之,乃收桢,减死输作。
  3. ^ 劉公幹集 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2023年7月21日閲覧。