昌キ
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昌 豨(しょう き、? - 205年?)は、中国の後漢時代末期の武将。徐州東海郡の人。別名に「昌覇」もある。
[編集] 正史の事跡
| 姓名 | 昌豨 |
|---|---|
| 時代 | 後漢時代 |
| 生没年 | 生年不詳 - 205年(建安10年)? |
| 字・別号 | 昌覇(別名) |
| 本貫・出身地等 | 徐州東海郡 |
| 職官 | 〔不詳〕 |
| 爵位・号等 | - |
| 陣営・所属等 | 〔独立勢力〕→曹操→〔独立勢力〕
→曹操→〔独立勢力〕 |
| 家族・一族 | 〔不詳〕 |
諸葛亮の建興5年(226年)11月の上奏文によれば、曹操が5度攻撃して下すことが出来なかったとされる、東海の独立勢力指導者である。
当初は泰山方面で活動する臧覇・孫観・呉敦・尹礼と共に、呂布の同盟者であった。なお、『三国志』魏書武帝紀は昌豨を泰山の将としている。建安3年(198年)12月に呂布が曹操に滅ぼされると、臧覇らと共にいったん曹操に降伏し、青州・徐州の一部を委ねられる厚遇を受けた。
しかし建安5年(200年)、劉備が曹操に敗北して袁紹の下へ逃れた後に、劉備に呼応して東海で曹操に反逆した。これを曹操の部将の張遼・夏侯淵は数か月に渡って攻撃したが撃破出来なかった。それでも張遼は巧みに昌豨を説得し、降伏させることに成功する。
ところが、後に昌豨はまたしても曹操に反逆し(曹操の冀州平定後とあるので、建安10年(205年)のことと思われる)、今度は曹操の部将于禁・臧覇らの討伐を受ける。于禁は当初苦戦したが、夏侯淵の支援を受けて何とか昌豨を降伏させた。于禁は昌豨と旧友だったが、「法によれば、包囲されて後に降伏した者は赦されない」として、涙ながらに昌豨を処刑した。曹操はこれを聞いて、于禁をいっそう重んじたが、『三国志』注釈者の裴松之は、囚人として曹操の下に護送し、万一の大赦を期待すべきだったと、于禁の行為を非難している。
[編集] 物語中の昌豨
『三国演義』では、昌豨は、孫観・呉敦・尹礼と共に泰山の山賊として登場する。呂布軍と結び、蕭関で曹操軍を迎え撃ったが、撃破された。呂布滅亡後、孫観らが曹操に降伏したにもかかわらず、昌豨は降伏せずに独立勢力となった。ところが、その後は『演義』から姿を消す。

