合肥の戦い

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合肥の戦い
戦争合肥の戦い
年月日208年冬~253年
場所:合肥(現:安徽省合肥市zh:合肥市〕)
結果:一次(208年):曹操軍の勝利
二次(215年):曹操軍の勝利。
三次(233年):軍の勝利。
四次(234年):軍の勝利
五次(253年):軍の勝利
交戦勢力
孫権軍(一次)(二次)軍(三次、四次、五次) 曹操軍(一次、二次)
軍(三次、四次、五次)
指揮官
孫権(一次、二次、三次、四次)
諸葛恪(五次)
蒋済(一次)
張遼(二次)
満寵(三次、四次)
曹叡(四次)
司馬孚(五次)
戦力
不明 不明
損害
三国時代

合肥の戦い(がっぴのたたかい、ごうひのたたかい)は、中国後漢末期に、曹操領の南方の要衝・合肥を巡って曹操と孫権の間で行われた戦い。後に三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたがついにこの戦線の決着がつくことは無かった。

215年に起こった戦いが有名で、孫権劉備荊州の一部返還を求めた際、劉備側から条件として曹操を攻めるように依頼されたことから始まった。孫権率いる大軍勢が張遼楽進李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。

合肥城の位置と戦略上の意義[編集]

合肥城は長江支流の一つから突き出たような位置の巣湖の北岸に位置し、曹魏勢力からすると長江流域に突きつけた前線拠点という位置で、孫呉に対する攻撃と防御の一大拠点であった。対して孫呉勢力からしてみれば、長江流域の完全掌握のためにも、あるいは外征のためにも確保しておく必要がある拠点であった。合肥城は張遼楽進満寵などといった曹魏の軍の重鎮が防衛にあたった。それに対し、は巣湖南岸の濡須口に砦を整備するなどしてこれに対峙した。濡須口も同様に孫呉にとって重要拠点であり、こちらも魏呉の間で衝突を繰り返した(濡須口の戦い)。

劉馥による合肥城整備[編集]

200年、孫策が急死したため、孫策により廬江太守に任命されていた李術は孫権に反逆し、揚州刺史の厳象を殺害し、それに乗じてか廬江の梅乾、雷緒、陳蘭らが数万人を集めて蜂起するなど長江、淮河一帯は混乱の様相を呈した。この時袁紹と戦っていた曹操はこの方面を鎮撫するには劉馥が適任であると考え、上奏して、劉馥を揚州刺史とした。

劉馥は馬で単身当時空城であった合肥城に入城すると行政機関を整備し雷緒らを帰順させ、屯田、灌漑の整備、教育機関の整備などを行い民政を整え備蓄を増すなどした。また劉馥は国家にとって合肥城が要衝になると考え、合肥城の城壁、土塁の強化や城壁に取り付いた兵を打ち払うための木や石、むしろ、魚油を備蓄するなど戦争の準備をした。この劉馥による合肥城の整備は強固なもので後の孫権軍をおおいに苦しめることとなる。

第一次戦役 (208年)[編集]

208年、赤壁の戦い孫権劉備の連合軍は烏林で曹操の軍を打ち破り曹操はまず江陵にそして荊州守備を部将たちに任せると許昌へと撤退した。周瑜らの曹操迎撃軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を率いて江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。

曹操は張喜と蒋済に1000人の軍を率いて即座に救援として派遣し汝南を通過する際にその地域の兵をさらに率いさせることとした。張喜と蒋済の軍はそもそも寡兵であった上に疫病によりさらにそこから目減りしていたが、蒋済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、それにより本当に4万の軍勢が救援として接近していると考えこの方面から撤退した。 翌年の209年に、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。しかし史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。

第二次戦役 (215年)[編集]

この年、劉備との荊州統治の係争が一応の解決を見たことにより、また前年に廬江郡都の皖城を奪取していたこともあって、孫権は再び北方に軍を向ける余裕ができた。孫権は十万と号する大兵力を率いて陸口からそのまま出撃し、合肥城攻撃を開始した。

この時曹操側は合肥城に、歴戦の将である張遼李典楽進の3人を配していたが、兵力は7000人程しかいなかった。張遼は孫権の大軍が迫ると、曹操の命令書にある通り、決死隊を募って合肥城を楽進に任せて李典とともに自らその部隊を率いて孫権の陣に奇襲をかけることにした。諸将はためらったが、張遼は「公(曹操)は遠征で外におり、救援が到着する頃には敵は我が軍を破っているに違いない。だからこそやつらの包囲網が完成せぬうちに迎撃し、その盛んな勢力をくじいて人心を落ち着かせ、その後で守備せよと指示されている。成功失敗の契機はこの一戦にかかっているのだ。諸君は何をためらうのだ」と主張した。この時、張遼とともに合肥を守備していた李典は、かつて張遼が呂布の部将であり、そして呂布の勢力に自分の伯父を殺されていたことから張遼と折り合いが悪かった。楽進と張遼の関係も決してよいものではなく、以前荊州を彼等が守備していた時は、互いに啀みあい、趙儼が間に入り調整することでようやく統制されるというありさまだった。こういったこともあり張遼は李典が自分の命令に従わないのではないかと心配したが、李典は国家の緊急事態にあっては私怨は問わないと断言し、張遼と共に出撃することとなった。

張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛をつぶして将兵に振る舞い翌朝出撃するとした。

明け方張遼は鎧を着込み戟を持ち自ら陣頭に立ち出撃した。張遼は孫権の陣に斬り込み自ら数十人の兵を斬り、2人の将校を斬り殺し孫権の防御陣を突破し孫権の間近に迫った。孫権麾下の陳武が戦死し、徐盛が負傷し牙旗を奪われたが、賀斉が奪い返した。孫権は張遼の鋭鋒の前に自ら長戟を振るって身を守りつつ高い丘の上に逃走した。張遼はこの時自らが孫権に迫っていることを認識していたが、具体的にどの兵が孫権なのかは把握することは出来なかった。

張遼は孫権が丘に逃げたのを見ると孫権に「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。この時孫権は自ら戟を振るって戦っていたが、これには応じず、張遼の率いる軍が寡兵であることを見てとり張遼の軍を幾重にも包囲した。

張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけて、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲、脱出に成功したが、この張遼の脱出はあまりに強行だったのか数十人の兵しか脱出させることが出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された張遼の兵たちが「将軍は我らを見棄てられるのですか」などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈して脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた。

その後、孫権は合肥城を攻囲したが、陥落させることができず、また陣中に疫病が発生したこともあって僅かに10日あまりで退却を開始した。孫権はこのとき自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。橋の北には近衛兵千余人と、呂蒙蒋欽凌統甘寧が残っているのみであった。張遼はその様子を窺い知ると、これに楽進らとともに急襲をかけた。

張遼は孫権の間近に迫り、孫権は自ら馬上から弓を放って防衛した。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間に孫権は橋にまで来ることができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈余り撤去されていた。孫権の側仕えの谷利が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせたため孫権は無事飛び越すことができた。

凌統は、孫権が橋を渡った後再び戻って奮戦したが、配下は皆死に、自らも全身に傷を負いながら数十人を斬った。孫権が無事撤退した頃を見計らって自らも撤退したが、橋は壊れていたので革の鎧を着たまま河に飛び込んだ。孫権はすでに船に乗っていたが、凌統が無事帰還すると狂喜した。

張遼は後に、孫権軍の降兵から自らが目撃した「赤髭で背が高く、短足で馬を巧みに操り騎射のうまい将軍」が孫権自身であったことを知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねたことを惜しんだ。

合肥新城の築城[編集]

230年代初頭、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。そのため、曹休の後任として都督揚州諸軍事となった満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蒋済はこれを弱気な作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、明帝の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。

第三次戦役 (233年)[編集]

233年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権は魏が弱気になっているのではないかと決めつけ、必ず襲撃してくるに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権は上陸して攻めかかってきたため、伏兵によりこれを撃退し、数100の首を斬った。

第四次戦役 (234年)[編集]

234年に、孫権は蜀漢諸葛亮北伐に呼応して、10万の軍勢で自ら親征して居巣湖の入り口から合肥新城へと進撃。それと同時に陸遜・諸葛瑾らには1万人余りの軍勢で沔水(漢水)から襄陽へと向かわせ、また孫韶・張承には淮水から広陵、淮陰へと向かわせ、魏領内への多方面同時侵攻に打って出た。

234年6月、合肥新城は孫権軍に包囲され、滿寵はいったん合肥新城を放棄して北方の寿春にまで孫権軍を引き込み、そこで改めて敵を迎え撃ちたいと魏帝曹叡に打診して許可を求める。しかし曹叡は、「魏呉蜀の三国にとって合肥、襄陽、祁山の三城はいわゆる、兵法で言う所の“兵家必争の地”たる最重要防衛拠点で、魏ではこれまでここを死守することによって、呉蜀からの侵攻を撃退することができた。たとえ孫権が合肥新城を攻撃しても決して攻め落とすことはできないので、だから諸将に於いてはこれらの城を堅く守り抜くこと。そしてその上に今、もし私自らが親征して赴けば、敵は恐れを抱いて逃げ出すであろう」と言い滿寵の訴えを却下した。満寵は合肥新城へ救援に赴くと、数十人の義勇兵を募り松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さらに孫権の甥孫泰を射殺する戦果を挙げた。

234年7月、曹叡は御龍舟に乗って東征を開始。孫権軍は幾度も合肥新城を攻撃するも、魏将・張穎らが力戦し合肥新城を死守したため、突破口を見出せないでいた。孫権は、曹叡の親征を知ると曹叡の軍が未だ数百里に至る前に撤退。陸遜・諸葛瑾、孫韶らもまた同様に軍を引き上げ、遠征は呉軍の全面敗北という結果に終わった。蜀漢の諸葛亮も、戦果のないまま陣没し、遺された将兵は撤退した(五丈原の戦い)。

第五次戦役 (253年)[編集]

孫権が252年に病死すると、魏の胡遵諸葛誕らは呉領の東興などを攻めた。呉の諸葛恪丁奉朱異らを率いて迎え撃ち、魏軍は韓綜桓嘉が戦死して敗走した(東興の戦い)。

253年、勢いに乗った諸葛恪は魏に侵攻して合肥新城を包囲した。諸将は戦々恐々としたが、司馬師は落ち着き払い、毌丘倹文欽張特に持久戦を命じた。、彼らは2ヶ月の間城を防衛するが、城内では兵の半分が病気に罹ったりあるいは戦死しており、城壁の一部も呉軍によって破壊され、落城寸前になっていた。張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守れば、その将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。このため諸葛恪はこれを信じ、城への攻撃を中止した。ところが張特は、その間に密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めた。

諸葛恪の合肥新城包囲は100日に及んだが、攻め落とす事はできなった。諸葛恪の合肥新城包囲は100日に及んだが、攻め落とす事はできなった。同年7月、魏の太尉の司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、呉軍内部で疫病が流行り始めたこともあり、、諸葛恪は合肥新城の包囲を解いて撤退し8月に呉に帰還した。

毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。