合肥の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
合肥の戦い
戦争合肥の戦い
年月日208年冬~253年
場所:合肥(現:安徽省合肥市zh:合肥市〕)
結果:一次(208年):曹操軍の勝利
二次(215年):曹操軍の勝利。
三次(233年):軍の勝利。
四次(234年):軍の勝利
五次(253年):軍の勝利
交戦勢力
孫権軍(一次)(二次)軍(三次、四次、五次) 曹操軍(一次、二次)
軍(三次、四次、五次)
指揮官
孫権(一次、二次、三次、四次)
諸葛恪(五次)
蒋済(一次)
張遼(二次)
満寵(三次、四次)
曹叡(四次)
司馬孚(五次)
戦力
不明 不明
損害
三国時代

合肥の戦い(がっぴのたたかい、ごうひのたたかい)は、中国後漢末期に、曹操領の南方の要衝・合肥を巡って曹操と孫権の間で行われた戦い。後に三国時代を通じてこの方面では攻防が続けられたがついにこの戦線の決着がつくことは無かった。なお濡須口の戦いについてもここで記述する。

215年に起こった戦いが有名で、孫権劉備荊州の一部返還を求めた際、劉備側から条件として曹操を攻めるように依頼されたことから始まった。孫権率いる大軍勢が張遼楽進李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。

合肥城の位置と戦略上の意義[編集]

合肥城は長江支流の一つから突き出たような位置の巣湖の北岸に位置し、曹魏勢力からすると長江流域に突きつけた前線拠点という位置で、孫呉に対する攻撃と防御の一大拠点であった。対して孫呉勢力からしてみれば、長江流域の完全掌握のためにも、あるいは外征のためにも確保しておく必要がある拠点であった。合肥城は張遼楽進満寵などといった曹魏の軍の重鎮が防衛にあたった。それに対し、は巣湖南岸の濡須口に砦を整備するなどしてこれに対峙した。

劉馥による合肥城整備[編集]

200年、孫策が急死したため、孫策により廬江太守に任命されていた李術は孫権に反逆し、揚州刺史の厳象を殺害し、それに乗じてか廬江の梅乾、雷緒、陳蘭らが数万人を集めて蜂起するなど長江、淮河一帯は混乱の様相を呈した。この時袁紹と戦っていた曹操はこの方面を鎮撫するには劉馥が適任であると考え、上奏して、劉馥を揚州刺史とした。

劉馥は馬で単身当時空城であった合肥城に入城すると行政機関を整備し雷緒らを帰順させ、屯田、灌漑の整備、教育機関の整備などを行い民政を整え備蓄を増すなどした。また劉馥は国家にとって合肥城が要衝になると考え、合肥城の城壁、土塁の強化や城壁に取り付いた兵を打ち払うための木や石、むしろ、魚油を備蓄するなど戦争の準備をした。この劉馥による合肥城の整備は強固なもので後の孫権軍をおおいに苦しめることとなる。

208年の合肥の戦い(一次)[編集]

208年、赤壁の戦い孫権劉備の連合軍は烏林で曹操の軍を打ち破り曹操はまず江陵にそして荊州守備を部将たちに任せると許昌へと撤退した。周瑜らの曹操迎撃軍と劉備軍はそのまま江陵方面に進軍し荊州の制圧を開始したが、この時柴桑に駐屯していた孫権は余勢を駆ってか自ら軍を率いて江水を下り合肥城へと侵攻を開始した。

曹操は張喜と蒋済に1000人の軍を率いて即座に救援として派遣し汝南を通過する際にその地域の兵をさらに率いさせることとした。張喜と蒋済の軍はそもそも寡兵であった上に疫病によりさらにそこから目減りしていたが、蒋済は一計を案じ、歩騎4万の軍を率いて向かっているから受け入れの準備をするようにという偽の書簡を揚州刺史に届けた。孫権はこの書簡を届けていた使者を捕らえ、それにより本当に4万の軍勢が救援として接近していると考えこの方面から撤退した。 翌年の209年に、曹操は自ら出陣し合肥に陣を張った。しかし史料には同年合肥での本格的な軍の衝突の記録はなく、この時曹操は合肥の兵力や武将の編成や整備などを行ったものと推測される。

212年から213年の濡須口の戦い[編集]

212年10月、前年に馬超以下関中の軍閥を破った曹操は自ら軍を率いて孫権征討を開始した。馬超を倒した以上曹操は西部にまわす兵力をある程度減らすことも出来、さらに関中以西の動員力をある程度掌握していたはずで、この時曹操は赤壁時以上の大軍を率いていた可能性もある。

213年正月、曹操は軍を濡須口に進め、孫権も自ら軍を率いて防衛にあたったが、董襲の乗艦が夜間の突風で横転、転覆し、董襲は死亡した。この時董襲は部下に下船するように説得されたが、将軍としての責務を説き最後まで艦の復帰を図った。徐盛も暴風に遭い敵方の岸辺に座礁したが果敢に戦った。

曹操は夜中出撃し中州に上陸したが孫権軍の攻撃を受け退却した。孫権は曹操が出撃してこないのを見て船に乗り自ら強行偵察に出て、帰還して楽隊に盛大に音楽を鳴らさせた。その後も孫権は積極的に戦いを挑もうとしたが、孫瑜などはこれを諫めている。

甘寧は孫権の命を受けて僅か百人の部隊で夜間に曹操の陣を襲撃した。

曹操は孫権の長江西岸の陣を攻撃して打ち破り部将の公孫陽を捕らえるなどしたが決定打には欠いた。呂蒙の献策で予め構築しておいた土塁が功を奏して曹操は川を下って軍を進めることができず、一月余り対峙したあと撤退した。曹操は孫権の布陣に少しの乱れも無いことに感嘆し、「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と周囲に語ったという。

215年の合肥の戦い(二次)[編集]

この年、劉備との荊州統治の係争が一応の解決を見たことにより、また前年に廬江郡都の皖城を奪取していたこともあって、孫権は再び北方に軍を向ける余裕ができた。孫権は十万と号する大兵力を率いて陸口からそのまま出撃し、合肥城攻撃を開始した。

この時曹操側は合肥城に、歴戦の将である張遼李典楽進の3人を配していたが、兵力は7000人程しかいなかった。張遼は孫権の大軍が迫ると、曹操の命令書にある通り、決死隊を募って合肥城を楽進に任せて李典とともに自らその部隊を率いて孫権の陣に奇襲をかけることにした。諸将はためらったが、張遼は「公(曹操)は遠征で外におり、救援が到着する頃には敵は我が軍を破っているに違いない。だからこそやつらの包囲網が完成せぬうちに迎撃し、その盛んな勢力をくじいて人心を落ち着かせ、その後で守備せよと指示されている。成功失敗の契機はこの一戦にかかっているのだ。諸君は何をためらうのだ」と主張した。この時、張遼とともに合肥を守備していた李典は、かつて張遼が呂布の部将であり、そして呂布の勢力に自分の伯父を殺されていたことから張遼と折り合いが悪かった。楽進と張遼の関係も決してよいものではなく、以前荊州を彼等が守備していた時は、互いに啀みあい、趙儼が間に入り調整することでようやく統制されるというありさまだった。こういったこともあり張遼は李典が自分の命令に従わないのではないかと心配したが、李典は国家の緊急事態にあっては私怨は問わないと断言し、張遼と共に出撃することとなった。

張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛をつぶして将兵に振る舞い翌朝出撃するとした。

明け方張遼は鎧を着込み戟を持ち自ら陣頭に立ち出撃した。張遼は孫権の陣に斬り込み自ら数十人の兵を斬り、2人の将校を斬り殺し孫権の防御陣を突破し孫権の間近に迫った。孫権麾下の陳武が戦死し、徐盛が負傷し牙旗を奪われたが、賀斉が奪い返した。孫権は張遼の鋭鋒の前に自ら長戟を振るって身を守りつつ高い丘の上に逃走した。張遼はこの時自らが孫権に迫っていることを認識していたが、具体的にどの兵が孫権なのかは把握することは出来なかった。

張遼は孫権が丘に逃げたのを見ると孫権に「下りてきて戦え」と怒鳴りつけた。この時孫権は自ら戟を振るって戦っていたが、これには応じず、張遼の率いる軍が寡兵であることを見てとり張遼の軍を幾重にも包囲した。

張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけて、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲、脱出に成功したが、この張遼の脱出はあまりに強行だったのか数十人の兵しか脱出させることが出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された張遼の兵たちが「将軍は我らを見棄てられるのですか」などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈して脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた。

その後、孫権は合肥城を攻囲したが、陥落させることができず、また陣中に疫病が発生したこともあって僅かに10日あまりで退却を開始した。孫権はこのとき自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。橋の北には近衛兵千余人と、呂蒙蒋欽凌統甘寧が残っているのみであった。張遼はその様子を窺い知ると、これに楽進らとともに急襲をかけた。

張遼は孫権の間近に迫り、孫権は自ら馬上から弓を放って防衛した。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間に孫権は橋にまで来ることができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈余り撤去されていた。孫権の側仕えの谷利が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせたため孫権は無事飛び越すことができた。

凌統は、孫権が橋を渡った後再び戻って奮戦したが、配下は皆死に、自らも全身に傷を負いながら数十人を斬った。孫権が無事撤退した頃を見計らって自らも撤退したが、橋は壊れていたので革の鎧を着たまま河に飛び込んだ。孫権はすでに船に乗っていたが、凌統が無事帰還すると狂喜した。

張遼は後に、孫権軍の降兵から自らが目撃した「赤髭で背が高く、短足で馬を巧みに操り騎射のうまい将軍」が孫権自身であったことを知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねたことを惜しんだ。

216年から217年にかけての濡須口の戦い[編集]

216年10月、曹操は自ら軍を率いて孫権征討に赴き、11月、譙に到着した。この攻撃は曹操軍の総力戦という規模であり、赤壁以降留守司令官となっていた夏侯惇以下、主だった武将の多くが参加し、合肥の張遼も攻撃に参加した。曹操は軍を率いて対峙する一方で、山越族に反乱を起こさせるなどの政治工作も行った。疫病が大流行し、曹操軍の司馬朗が病死した。

217年正月、曹操は居巣に陣取り、張遼臧覇を先鋒として孫権軍を攻撃した。孫権側は呂蒙を指揮官に任命し、呂蒙は保塁の上に強力な弩一万を配備して曹操の先鋒部隊の進出を防いだ。曹操軍の先鋒部隊が陣営を築き終える前に、呂蒙は曹操軍の先鋒部隊を攻撃し撃ち破った。

3月、曹操はこの戦場と方面軍二十六軍を夏侯惇の総指揮とし曹仁・張遼らを居巣に残して、自身は許へと撤退した。

孫権が使者を遣って曹操に降伏を申し出、曹操が受け入れ両者は軍を引いた。この両者の従属関係は夷陵の戦いで呉が蜀を大破させるまで続くこととなる。

222年から223年にかけての三方面での戦い[編集]

事前の経緯[編集]

217年の濡須口の戦いにおいて孫権は曹操に降伏した。219年には曹操と同盟を結び共同で劉備を攻め、劉備軍の不意をつき荊州の諸を奪い、関羽を討ち取った。221年には曹操の子での初代皇帝の曹丕は孫権を王にとりたてようとした。しかしながらこの臣従は一時的なものであり、曹丕から太子の孫登を人質に差出すように要求されても適当に言い訳をつけてこれを断わるなどしていた。

222年6月に1年近くの戦いの末に呉はの遠征軍を打ち破る(夷陵の戦い)。ところでこの時魏は呉への援軍を名目に軍の南下を開始させていた。このような状況の中で呉内部には白帝城の劉備を攻撃すべしという意見と慎重論が対立していた。陸遜は魏軍の南下が援軍などではなく呉攻撃の軍であることを見抜き蜀攻撃の軍の撤退を上申した。孫権はこの意見を採用した。孫権は軍を撤退させ蜀に和睦を申し入れた。

戦いの経過[編集]

222年9月、曹丕は孫権が孫登を人質に差出さないということを大義名分として呉に親征を開始した。曹丕は許昌から出撃し、他の諸将の軍も一斉に南下を開始した。11月には曹丕は宛城に入りこれを本営とし、曹休張遼臧覇の軍を洞口に、曹仁の軍を濡須口に、曹真夏侯尚張郃徐晃らの軍を江陵にそれぞれ派遣した。

これに対して呉は呂範等の軍を洞口に派遣し、濡須口では守将の朱桓が防衛にあたった。江陵では朱然が城に篭り防衛にあたり、孫盛の軍が朱然の救援に派遣された。

洞口の戦い[編集]

222年11月、曹休と対峙していた呂範の水軍は突風とそれを機と読んだ曹休の攻撃により壊滅的な損害を受けた。その後、臧覇が快速船500艘と1万人の兵を率いて、呉軍を襲撃し大勝したが、呉の全琮・徐盛は臧覇を追撃して破り、尹魯を討ち取った。呉軍の将校の晋宗が叛乱を起こし魏に寝返ったが、223年6月に呉の賀斉糜芳が晋宗を襲撃し生け捕りにした。

江陵の戦い[編集]

この戦線では曹真・夏侯尚が朱然が守る江陵を攻撃包囲する一方で、張郃が別働隊を指揮し孫盛の救援軍を攻撃した。張郃は孫盛の軍を打ち破り、孫盛の陣地があった長江の中州を占拠し、朱然は孤立無援となった。江陵城では内応騒ぎや疫病騒ぎが起きたものの朱然は力戦奮闘し防衛にあたり、江陵城はなかなか落城しなかった。夏侯尚は中州に陣地を設け、浮橋を作った。孫盛に代わり、諸葛瑾潘璋が朱然の救援に派遣された。

気候が温暖となって川の流量が増えてきた時期に潘璋は長江の上流の水上に砦を築いた。諸葛瑾軍はこれを拠点として二方面から夏侯尚軍が使用している浮橋を攻撃した。軍師として曹丕の側についていた董昭は、諸葛瑾が二方面から攻撃をかけているのに対して夏侯尚の浮橋は一本しかないこと、時期的に長江の水かさが急激に上昇する可能性があることを指摘し、夏侯尚軍を撤退させることを提案した。曹丕は勅命を下して夏侯尚を撤退させた。夏侯尚軍は諸葛瑾の攻撃を受ける中なかなか上手く撤退できなかったが最終的には中州から撤退した。諸葛瑾は中州を占拠したが、夏侯尚は火攻めで諸葛瑾を撃破した。

濡須口の戦い[編集]

曹仁と朱桓の対峙は長期間に及び、223年に入り、曹仁は兵を分散させさらに下流の濡須口と洞口の中間地点にあたる羨渓を攻撃すると喧伝した。これは朱桓の兵力を分散させ実際には全兵力で濡須口を攻撃しようという作戦であった。朱桓はこの計略に嵌り自らは濡須口に残り兵を分けて一隊を羨渓に派遣した。

曹仁は船で中洲に兵を上陸させ朱桓攻撃を開始した。この時、朱桓が手元に置いていた兵力は五千程で数万規模の大軍の曹仁軍に対して圧倒的に不利な状況であったが、朱桓は「戦というものは兵力ではなく指揮官の質によって勝敗が決まるものだ。俺と曹丕では俺の方が遥かに優れているし、まして曹丕の部将の曹仁など問題にならない。それに曹仁の軍は遠征で疲弊しているし、地の利を得ているのはこちらの方だ。」などと言って兵を叱咤激励すると、旗指物や陣太鼓の鳴り物を潜めさせ城の防御が実際よりもさらに弱くなっていると見せかけ曹仁の軍を誘い込んだ。

223年3月、曹仁は自らは後方で総指揮を執り、息子の曹泰に濡須城を攻撃させ、将軍の常雕に諸葛虔・王双らを指揮させて複数路から船に乗り朱桓軍の家族らがいる中州を攻撃させた。朱桓は駱統・厳圭らの諸軍に命じて常雕軍の軍船を拿捕させ、さらにそれとは別に常雕に直接攻撃をかけさせた。朱桓自身は軍を率いて曹泰と対峙し、火攻めを以ってこれを退却させた。常雕は戦死し、王双は呉軍の捕虜となり、曹仁は撤退した。曹仁軍の戦死者は千人を超えた。

戦後[編集]

223年3月、疫病が流行したこともあり魏軍は総退却した。この戦いにより呉と魏の友好関係は切れた。また孫権は戦中に鄭泉を使者として蜀に派遣し、蜀との同盟関係を回復させ、呉とが手を結び魏に対抗するという三国時代の基本的な構図が成立することとなった。

233年と234年の合肥の戦い(三次、四次)[編集]

230年代初頭に魏は満寵の進言によって水路に近い合肥城を廃して、新たに西方に合肥新城を建設した。

233年、孫権は合肥新城を攻めたが、満寵は伏兵を用いて撃退した。

234年に、孫権は蜀漢諸葛亮北伐に呼応して、自ら十万と称する軍を率いて合肥新城を攻めた。しかし、満寵の火攻めを受けて甥の孫泰が戦死するなどの損害を被る。さらに魏の曹叡が援軍を率いて親征してくるとの情報を得ると、撤退した。蜀漢の諸葛亮も、戦果のないまま陣没し、遺された将兵は撤退した(五丈原の戦い)。

253年の合肥の戦い (五次)[編集]

孫権が252年に病死すると、魏の胡遵諸葛誕らは呉領の東興などを攻めた。呉の諸葛恪丁奉朱異らを率いて迎え撃ち、魏軍は韓綜桓嘉が戦死して敗走した。 253年、諸葛恪は魏に侵攻し、合肥新城を包囲した。魏の毌丘倹文欽は合肥新城の守将の張特とともにこれを防いだ。諸葛恪の合肥新城包囲は100日に及んだが、攻め落とす事はできなった。同年7月、司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、諸葛恪は合肥新城の包囲を解いて撤退し、8月に呉に帰還した。