八王の乱

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八王の乱(はちおうのらん)とは、中国の王朝(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。この後中国は、が統一するまでのおよそ300年にわたり動乱の時代となる。八王の乱の流れはとても複雑であるが、端的に言えば十の事件(クーデター・内戦・市街戦)を総称して八王の乱という。

目次

[編集] 八王

八王の乱関係系図。青字は八王、赤字は女性を示す。また、丸囲み数字は西晋の即位順で、ローマ数字は東晋の即位順である。

[編集] 八王の乱の経過

[編集] 発端

290年(太熙元年)に晋の初代皇帝である武帝の死後、息子の恵帝が即位する。恵帝は暗愚で、政治は楊駿ら武帝の皇后楊氏の一族が牛耳ることになる。恵帝の皇后である賈氏(賈南風)は不満を抱き、楊氏を朝廷から追放し、自らが実権を握るべく画策をはじめる。

[編集] 1.291年3月:楊駿殺害

やがて賈氏は、巨大な武力を有していた恵帝の弟である楚王司馬と協力し、洛陽の楊氏を皆殺しにした(291年3月)。

[編集] 2.291年6月:司馬亮自殺

楊氏を朝廷から追放した賈氏は、政権を恵帝の大叔父である汝南王司馬亮と司空衛瓘に託すが、司馬亮は賈氏の思惑通り政権を運営することができなかった。失望した賈氏は、恵帝の密勅により司馬に司馬亮と衛瓘を攻撃させ、追いつめられた両者は自殺する。一方で、司馬を司馬亮・衛瓘殺害の罪で殺害させ、自らの地位を安定させていった(291年6月)。

[編集] 皇后の天下

恵帝には他の夫人との間に皇太子司馬遹がいたが、賈氏は司馬遹の才能に危機感を抱いていた。事実、武帝は恵帝が暗愚であることを危惧していたが、孫の司馬遹の才能を認め、恵帝の皇位継承を認めたほどであった。賈氏は一向に男子に恵まれない恵帝との仲を諦め、洛陽の美少年をさらってきては夜の相手を務めさせ、用がすめば殺してゆくようになる。

一方、賈氏の野心に気づいた司馬遹は自らを守るため、暗愚を装った。露店を宮中に開くなどしていた司馬遹であったが、賈氏により謀反の疑いをかけられ、皇太子を廃されてしまった(299年12月)。翌300年3月、皇太子を廃された司馬遹は賈氏によって殺害されてしまう。

[編集] 3.300年4月:賈南風殺害

4月、恵帝の大叔父(司馬亮の弟)である趙王司馬倫は、恵帝の従弟にあたる斉王司馬冏と協力し、恵帝の詔勅を偽造し決起する。皇太子殺害の罪を問われた賈氏は一族と共に殺された。また、司馬倫に恨まれていた重臣の張華裴頠も殺害された。

[編集] 4.300年8月:司馬允殺害

8月、司馬倫に警戒され、反発した恵帝の弟淮南王司馬允が兵を挙げるが敗れて殺害された。

[編集] 5.301年4月:司馬倫殺害

301年1月、司馬倫は恵帝を幽閉し、自ら即位する。しかし、司馬倫及び側近の孫秀に権力が集中したことに不満な司馬冏は、恵帝の弟である長沙王司馬乂、成都王司馬穎、そして司馬懿の甥の子にあたる河間王司馬を洛陽に集め、司馬倫を殺害する(301年4月)。

[編集] 6.302年12月:司馬冏殺害

恵帝を復位させた司馬冏は政治の実権を自らに集中させ、恵帝の皇太子も独断で決定した。これに対し司馬乂・司馬穎・司馬は再び決起、司馬冏を殺害した(302年12月)。

[編集] 7.304年1月:司馬乂殺害

やがて政治の実権を誰が握るかで仲間割れをおこす。ついには司馬乂が司馬穎・司馬に攻め滅ぼされてしまう(304年1月)。

[編集] 8.304年7月:司馬越・司馬熾反乱敗北

司馬穎が皇太弟、丞相として政治を司るようになるが、洛陽にとどまることを危険と考えた司馬穎は司馬の部下張方に洛陽を統治させ、自らはに移った。次第に司馬穎が勝手に政治を行うようになり、司馬懿の甥の子である東海王司馬越と恵帝の末弟である予章王司馬熾(後の懐帝)が反旗を翻す(304年7月)。

[編集] 9.304年8月:司馬穎敗北

一旦は司馬穎に敗れた司馬越・司馬熾であったが、匈奴鮮卑などの異民族を傭兵に雇い、反撃の機会を窺った。やがて司馬越を支持した幽州都督王浚并州刺史司馬騰(司馬越の弟)が鄴を攻め落とし、司馬穎を皇太弟の座から追い払った。司馬穎は洛陽の張方のもとへ逃れ、張方は司馬顒の本拠地・長安への遷都を強行した(304年11月)。司馬穎は司馬顒・司馬越の和解のために廃されたのである。

[編集] 10.305年7月 - 306年12月:司馬顒・司馬穎殺害

305年、洛陽を守護していた張方と司馬を攻めた司馬越であったが、司馬が講和を申し込み収束する。和解に反対する張方を殺した司馬顒は司馬越との和解を試みるが、司馬越は長安を占領し、司馬顒軍を壊滅させて勝利した(306年5月)。司馬穎は逃亡するも捕らえられ処刑され(306年10月)、司馬越は11月に死去した恵帝の後に司馬熾を懐帝として即位させ、自らはその補佐を行った。司馬顒は司馬越に呼び出される途中で殺害され、賈氏による楊氏追放に端を発した八王の乱は終結した(306年12月)。

[編集] 八王の乱後

八王の乱の際、諸王は異民族の傭兵を戦場に投入した。一見磐石に思えた晋の急速な弱体化は、内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。やがて、それは八王の乱中の304年における匈奴の首長劉淵の漢(前趙)の建国へとつながり、中国全土を巻き込む内乱(永嘉の乱)へと発展していった(八王の乱の終盤は永嘉の乱が同時に進行しているが、八王の乱に明け暮れる西晋はこれに対処する術をもたなかった)。311年に懐帝と司馬越が対立し、逃亡先で司馬越が病死したことは漢軍を勢いづかせ、同年に洛陽が陥落した。懐帝は漢の都の平陽(山西省臨汾県)に連行された後に処刑され、事実上西晋は死に体となったのである。こうして時代は五胡十六国時代へと突入していく。

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

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