八王の乱

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八王の乱(はちおうのらん)とは、中国の王朝西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。晋により、中国は100年に渡る三国時代に終止符を打って全土が統一されたが、その平和は僅か数十年で崩れ去り、この後中国はが統一するまでのおよそ300年にわたり、再び動乱の時代となる。八王の乱の流れはとても複雑であるが、端的に言えば十の事件(クーデター・内戦・市街戦)を総称して八王の乱という。

八王[編集]

八王の乱関係系図。青字は八王、赤字は女性を示す。また、丸囲み数字は西晋の即位順で、ローマ数字は東晋の即位順である。

なお、「八王」の称は、成都王司馬穎に仕えた廬淋(廬志の甥)が著した『八王故事』(現在は散逸)に由来すると言う。

八王の乱の経過[編集]

前提[編集]

前漢の時代、初期には旧六国の末裔や功臣などを諸侯王に配し、続いて彼らを排除して皇帝の一族(宗室・皇族)を諸侯王とする政策を採る。ところが呉楚七国の乱を契機として宗室抑制政策が採られ、諸侯王は領国において中央が派遣した国相(後漢)・監国謁者(魏)などの厳重な監視下に置かれ、その政策は後漢・魏において強化された。

魏の末期、兄・司馬師の後を継いで晋王の地位に就いた司馬昭は自己の一族を各地に封じて魏までの幽閉同様の待遇を大幅に改善した。更に彼らを都督に任じて要地に駐屯させ、呉や北方民族に対抗するための軍権の一部を授けた。都督は魏の時代にも置かれていたが、強力な軍権ゆえに王凌や毌丘倹・諸葛誕のように司馬氏に対して叛旗を翻す者が相次いだ。反面、司馬氏も司馬懿が都督として蜀の諸葛亮の北伐を防いだことで権力掌握のきっかけを築いた地位でもあった。そのため、晋では都督に一族を任じることでその反乱を防ぎ、かつ呉や北方民族に備えようとしたのである。

斉王攸帰藩事件[編集]

司馬昭の子である司馬炎(武帝)は265年に晋の初代皇帝に即位した後、280年に呉を滅ぼして天下を統一したが、統一後は次第に外戚や側近を重用して政治を乱していった。また、皇太子である息子・司馬衷(後の恵帝)の暗愚ぶりを憂慮していた。武帝の弟である斉王司馬攸は、伯父司馬師の養子になっていたことから司馬氏の嫡流を主張できる立場であり、実父の司馬昭からも寵愛されて宮廷内外の人望が厚かった。282年(太康3年)、武帝は側近の中書監の荀勗・侍中の馮紞らの勧めによって司馬攸の全ての役職を解いて領国への帰国を命じたところ、司馬昭の弟である扶風王司馬駿王渾曹志など多くの朝臣がこれを斉王に皇太子を輔弼させるべきだとする輿論に反するものであるとして思いとどまるように上奏した。だが、武帝はこれを帝室内の問題であると上奏者たちを処分した上、病気の司馬攸を無理やり帰国させようとして途中で病死させてしまう(斉王攸帰藩事件)。

この斉王攸帰藩事件は、時の執政者(この場合は司馬攸を推進した皇帝側近)の方針に対して士大夫の間の「輿論」の尊重こそ国家安泰の鍵とみる廷臣たちが批判したことから発生した権力抗争であったが、この対立構図は執政者が外戚や皇族に変わっても事があるたびに発生し続けた。これに都督を務める皇族諸王の軍権が結びつくことによって武力抗争に転化したのが「八王の乱」であった。従って、斉王攸帰藩事件は武力抗争に至らなかっただけで「八王の乱」の端緒になった事件であると言える。また「八王の乱」において、実際には皇族諸王の政治的野心に基づく挙兵であったとしても、表向きは皇帝の擁護と「輿論」による執政者への批判の声の尊重を旗印に挙兵しており、「八王の乱」においては、「輿論」を大義名分に掲げた皇族の挙兵→皇族による旧執政者打倒と権力掌握→新執政者になった皇族の権力の私物化とそれに対する「輿論」の批判→「輿論」を大義名分に掲げた新たな皇族の挙兵という悪循環が繰り返され続けたのである。

発端[編集]

290年(太熙元年)4月に晋の初代皇帝である武帝の死後、武帝の意思の通り、皇太子であった恵帝が即位する。恵帝は暗愚であったため、政治は楊駿ら武帝の皇后楊氏の一族が牛耳ることになる。恵帝の皇后である賈氏(賈南風)は不満を抱き、楊氏を朝廷から追放し、自らが実権を握るべく画策をはじめる。

1.291年3月:楊駿殺害[編集]

やがて楊駿が自派で宮中を固めようとする動きに内外の不満が高まっていることを知った賈氏は、巨大な武力を有していた恵帝の弟である楚王司馬・東安王司馬繇(司馬昭の異母弟・司馬伷の子)と協力し、洛陽の楊氏を皆殺しにした(291年3月)。

2.291年6月:司馬亮自殺[編集]

楊氏を朝廷から追放した賈氏は、政権を恵帝の大叔父である汝南王司馬亮と司空衛瓘に託すが、司馬亮・衛瓘は失政が多く賈氏の思惑通り政権を運営することができなかった。失望した賈氏は、司馬亮・衛瓘が皇帝の廃立を計画したとして恵帝の密勅により司馬に司馬亮と衛瓘を攻撃させ、追いつめられた両者は自殺する。一方で、賈氏は張華の勧めに従い、司馬を司馬亮・衛瓘殺害の罪で殺害させ、自らの地位を安定させていった(291年6月)。

皇后の天下[編集]

恵帝には他の夫人との間に皇太子司馬遹がいたが、賈氏は司馬遹の才能に危機感を抱いていた。事実、武帝は恵帝が暗愚であることを危惧していたが、孫の司馬遹の才能を認め、恵帝の皇位継承を認めたほどであった。賈氏は一向に男子に恵まれない恵帝との仲を諦め、洛陽の美少年をさらってきては夜の相手を務めさせ、用がすめば殺してゆくようになる。

一方、賈氏の野心に気づいた司馬遹は自らを守るため、暗愚を装った。露店を宮中に開くなどしていた司馬遹であったが、賈氏により謀反の疑いをかけられ、皇太子を廃されてしまった(299年12月)[1]300年3月、皇太子を廃された司馬遹は賈氏によって殺害されてしまう[1]。だが、この殺害は輿論を憤慨させることになり[1]、賈氏打倒の大義名分を与えることになる。

3.300年4月:賈南風殺害[編集]

4月、恵帝の大叔父(司馬亮の弟)である趙王司馬倫は、恵帝の従弟にあたる斉王司馬冏(司馬攸の子)と協力し、恵帝の詔勅を偽造し決起する。皇太子殺害の罪を問われた賈氏は賈謐ら一族と共に殺された。また、司馬倫に恨まれていた重臣の張華裴頠も殺害された。

4.300年8月:司馬允殺害[編集]

8月、司馬倫に警戒され、反発した恵帝の弟淮南王司馬允が兵を挙げるが敗れて殺害され、石崇潘岳らも連座して殺害された。これをきっかけに司馬倫は九錫を受けて帝位をうかがうようになる。

5.301年4月:司馬倫殺害[編集]

301年1月、司馬倫は恵帝を幽閉し、自ら即位する。しかし、司馬倫及び側近の孫秀に権力が集中し、また司馬倫は皇帝の虚名に酔いしれて一味徒党の誰彼に見境なく官爵を濫発したため朝廷は乱脈政治が展開されたため、不満を抱いた司馬冏は、恵帝の弟である長沙王司馬乂、成都王司馬穎、そして司馬懿の甥の子にあたる河間王司馬とともに恵帝の復位を大義名分に掲げて挙兵[2][3]、同年3月に三王はそれぞれの本拠である許昌・鄴・長安から都・洛陽に向かって進撃した(「三王起義」)。当初は司馬倫が優位に戦いを進めていったが、地方でも三王を支持してこれに合流する動きが広まり、洛陽でもクーデターが発生して、司馬倫を殺害する(301年4月)[1]。三王は6月に洛陽に入って論功行賞を行った。

6.302年12月:司馬冏殺害[編集]

恵帝を復位させた司馬冏は政治の実権を自らに集中させ、恵帝の皇太子も独断で決定した。これに対し司徒の王戎や司馬穎の参軍であった陸機らは過度の権力の集中は敵を生み出すとしてこれを諌めたが、これに従うことはなかった。やがて、司馬乂・司馬穎・司馬は再び決起、司馬冏を殺害した(302年12月)。

7.304年1月:司馬乂殺害[編集]

やがて政治の実権を誰が握るかで仲間割れをおこす。やがて、司馬穎・司馬は司馬乂打倒の兵を挙げ(303年8月)、ついには司馬乂が司馬穎・司馬に攻め滅ぼされてしまう(304年1月)。

なお、司馬穎配下で当時一流の詩人であった陸機が敗戦の罪に問われ、腹心の盧志や宦官の孟玖に唆された司馬穎が彼の一族(=呉の宰相陸遜の末裔)を皆殺しにしている。

8.304年7月:司馬越・司馬熾反乱敗北[編集]

司馬穎が皇太弟、丞相として政治を司るようになるが、先の陸機一族殺害の件で評判を落とし、洛陽にとどまることを危険と考えた司馬穎は司馬の部下張方に洛陽を統治させ、自らはに移った。次第に司馬穎が勝手に政治を行うようになり、司馬懿の甥の子である東海王司馬越と恵帝の末弟である予章王司馬熾(後の懐帝)が反旗を翻す(304年7月)。司馬越は恵帝を確保して親征の体裁を採るが、蕩陰の戦いで司馬穎の軍に敗れ、恵帝は捕らえられて鄴に連行されてしまう。

9.304年8月:司馬穎敗北[編集]

一旦は司馬穎に敗れた司馬越・司馬熾であったが、匈奴鮮卑などの異民族を傭兵に雇い、反撃の機会を窺った。やがて司馬越を支持した幽州都督王浚并州刺史司馬騰(司馬越の弟)が鄴を攻め落とし、司馬穎を皇太弟の座から追い払った。司馬穎は恵帝を連れて洛陽の張方のもとへ逃れ、張方は司馬顒の本拠地・長安への遷都を強行した(304年11月)。司馬穎は司馬顒・司馬越の和解のために廃されたのである。

10.305年7月 - 306年12月:司馬顒・司馬穎殺害[編集]

305年、洛陽を守護していた張方と司馬を攻めた司馬越であったが、司馬が講和を申し込み収束する。和解に反対する張方を殺した司馬顒は司馬越との和解を試みるが、司馬越は長安を占領し、司馬顒軍を壊滅させて勝利した(306年5月)。司馬穎は逃亡するも捕らえられ処刑され(306年10月)、司馬越は11月に死去した恵帝の後に司馬熾を懐帝として即位させ、自らはその補佐を行った。司馬顒は司馬越に呼び出される途中で殺害された(306年12月)。通説においてはこれをもって、賈氏による楊氏追放に端を発した八王の乱は終結したとされている。

終焉(311年1月 - 3月:司馬越討伐命令)[編集]

ところが、丞相として実権を掌握した司馬越は懐帝の外戚である王延や側近である繆播を殺害(309年3月)したことから、輿論の批判を浴び、また懐帝の恨みを買うようになる。311年1月、懐帝は征東大将軍である苟晞に司馬越打倒の密詔を与えた。ところが、3月になって洛陽を脱出して項城で再起を図っていた司馬越は病没[1]、討伐は中止された。ただし、武力衝突を伴う事件に至らなかったのは、あくまでも討伐対象とされた司馬越の病死による結果論であり、この事態が無ければ八王の乱の11番目の事件となっていたと考えられ、福原啓郎は司馬越の死をもって八王の乱の終焉とするのを妥当とみなしている。

八王の乱後[編集]

八王の乱の際、諸王は異民族の傭兵を戦場に投入した。一見磐石に思えた晋の急速な弱体化は、内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。やがて、それは八王の乱中の304年における匈奴の首長劉淵の漢(前趙)の建国へとつながり、中国全土を巻き込む内乱(永嘉の乱)へと発展していった(八王の乱の終盤は永嘉の乱が同時に進行しているが、八王の乱に明け暮れる西晋はこれに対処する術をもたなかった)。

そんな折の311年3月、前述のように懐帝と司馬越が対立して討伐命令が出され、逃亡先で司馬越が病死したことは漢軍を勢いづかせ、司馬越の死からわずか3か月後の6月に洛陽は陥落した[1]。懐帝は漢の都の平陽(山西省臨汾県)に連行された後の313年1月に処刑され、懐帝の甥愍帝長安で残党により313年4月擁立されるも、この政権は長安周辺だけを支配するだけの地方政権でしかなく、全国政権だった西晋は洛陽陥落により事実上死に体となった[4]

愍帝も316年11月に漢の劉曜に攻撃されて投降し、平陽に拉致されて317年12月に殺されて完全に西晋は滅亡し、こうして時代は五胡十六国時代へと突入していく[4]

脚注[編集]

注釈[編集]

引用元[編集]

  1. ^ a b c d e f 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48
  2. ^ 駒田『新十八史略4』、P58
  3. ^ 山本『中国の歴史』、P93
  4. ^ a b 三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P49

参考文献[編集]

関連項目[編集]