江蘇省

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江蘇省
簡称: 蘇 (拼音: )
江蘇省の位置
簡体字 江苏
繁体字 江蘇
拼音  Jiāngsūヘルプファイル
カタカナ転記 チャンスー
省都 南京市
最大都市 南京市
省委書記 梁保華(前江蘇省長、元蘇州市委書記)
省長 羅志軍(前南京市委書記)
面積 102,600 km² (24位)
人口 (2007年)
 - 人口密度
7,624.5 万 人 (5位)
736 人/km² (4位)
GDP (2007年)
 - 一人あたり
30,300 億 (3位)
39,526 (5位)
HDI (2005年) 0.805 () (7位)
主要民族 漢民族 - 99.6%
回族 - 0.2%
地級行政区 13 個
県級行政区 106 個
郷級行政区 1488 個
ISO 3166-2 CN-32
公式サイト
http://www.jiangsu.gov.cn/
南京市 無錫市 徐州市 常州市 蘇州市 南通市 連雲港市 淮安市 塩城市 揚州市 鎮江市 泰州市 宿遷市
地級行政区画

江蘇省(こうそしょう)は中国東部にある行政区。長江の河口域であり、北部は淮河が流れ黄海に面する。名称は江寧(現南京)の江、蘇州の蘇による。省都は南京市。略称は

目次

[編集] 地理

北部を山東省、西部を安徽省、南部を浙江省上海市と接する。東は海に面する。省南部は長江下流デルタ地帯を形成し、全国第3の太湖を有する。 京杭大運河が省域を南北に縦貫し、水路が網の目のように発達している。

[編集] 歴史

[編集] 略史

春秋戦国時代にはなどに属し、は東海郡、会稽郡などを設置した。三国時代に南京がの都となり、六朝時代にかけて経済開発が進んだ。代には揚州徐州の域に属した。初には南京に都が置かれ、省域は応天府として南京に直属した。北京遷都後も同様であった。初には安徽省とともに江南省が設置されたが、1667年江蘇省と安徽省が分置された。江蘇の名は江寧蘇州から来ている。民国時代にも南京が首都となったことがある。解放直後には南京直轄市と蘇北・蘇南行政公署区に分割されたが、1953年江蘇省が再置された。


(以下の歴史記述は中文「江苏省」の訳を含む)


[編集] 春秋戦国時代

 などに属し、は東海郡、会稽郡などを設置した。  春秋戦国時代には、江蘇は当時の中国文明の中心河南西北部から離れており、多くの文化体系を分属させていた。その中の淮河両岸は古代民族淮夷の出身地であり、長江以北の地域に存する安徽省中部とはおそらく区別がなかく、諸氏の村落に属していた。現在江蘇省に属する南京と、鎮江及び安徽南部とは、古代の呉人の居住区に属しており、その代表的文化を湖熟文化という。江蘇・浙江省にまたがる太湖の流域は越の村落に属し、その代表的文化を馬橋文化といい、浙江の良渚文化と文化的一体性を持っている。

 周朝時、呉は江蘇南部に起こり、後周朝の数百の諸侯国の一に列せられた。呉国は徐々に長江下流の一重要集団となって行き、真っ先に長江を越して諸々の文化の村落を併合し、諸氏は次第に呉人に融合していった。呉国は拡張し、西方ではと、東方ではと大きい衝突をした。それゆえ呉はかなりの長期間晋と友好を結び楚越同盟に対抗した。春秋末期、呉は国王闔閭の時に強国となった。首都を姑蘇(現蘇州)に遷し、前484年には現山東省に位した北方強国斉を打ち破り、中原に覇を唱えた。前473年、呉は越により滅亡され、これより後の100年間ばかりは、呉人は越人に次第に融合し、呉越両文化は融合した。前333年、越は西方の強国楚による重大な挫折を被り、占拠していた原呉国等の北方の領土を尽く失い、浙江南部の山地に退き防ぎ守り、江蘇は楚の統治となった。最終的に秦が前221年に全ての敵対国を消滅させ、統一中国を形成して後、江蘇は秦に属することととなった。

[編集] 魏晋南北朝時代

代、江蘇は依然として華北平原文明の中心から離れた河にほど近い地であった。当時江蘇は北部の徐州と南部の揚州の二州に分かれていた(今日の揚州市とは概念的に異なる)。三国時代には南京がの都となり、六朝時代にかけて経済開発が進んだ。三国時代には、江蘇南部は呉(222年-280年)の根拠地になった。317年、西晋は北方遊牧民の侵略を受け、漢族の貴族は江南(長江下流域)に逃げ、建康(現南京)で相次いで東晋とその後に随う四朝を建てた(南朝、420年-589年)。江蘇北部は南北が一進一退を繰り広げる場所となり、時には南朝に属し、時には北朝に属した。  

[編集] 隋唐時代

 589年、滅ぼし、再び新しく南北を統一した。隋の煬帝時には南北に貫通する大運河が完成した。だが煬帝もこの厖大な工事によって激しい反対を招き、最終的に江都(現揚州)で反乱軍に殺害された。開皇年間(581-600)には、江蘇に蘇州、揚州、徐州が分設された。大業年間(605-617)には、呉、毘陵、丹陽、江都、下邱、彭城、東海の諸郡に改められた。

 代には揚州徐州の域に属した。別の区分でいえば、江蘇は唐朝では江南、淮南、河南三道に分属した。大運河と長江とが境界を接する所の中心的位置にあり、並びに対外開放に向かって港が国際化する優勢があったために、揚州(現揚州)は中国の最も繁華な商業都市となり、時に”揚一益二(商業は揚州が一で益州=都は二[1])”と称された。

[編集] 宋元時代

 宋朝(960-1279)時、富裕商人階層と新興の商工業経済が発展し、蘇州と揚州等の主要都市は、新興商業の中心となり、富裕と贅沢の代名詞となった。今の江蘇南部は依然として中国最富裕の地域の一つとなっている。

 また宋朝は江蘇省に江南東路、両浙(浙東・浙西)西路、淮南東路を置いた。1127年、女真人が華北を征服し、江蘇北部の淮河をたどり、淮河は北方の金と南方の南宋の境界線となった。これ以後、江蘇の南北に顕著な経済格差が現れ、文化の差異も強められた。13世紀、モンゴル人が中国を掌握した。朝の江蘇は江東建康道、江南浙西道、淮東江北道に属した。 

[編集] 明代

初には南京に都が置かれ、省域は応天府として南京に直属した。北京遷都後も同様であった。 1368年、洪武帝(朱元璋)が明朝を建て、中原を占拠していたモンゴル人を追い、初めは都を南京に定めた。現在の江蘇省と安徽省各府と直隸州直属の中央の全域は、直隸と呼ばれ、後に南直隸と呼ばれた。以後の江蘇省の境界内には、全部で7府が設けられ、その内5府が江南に位置した。その5府とは応天府(南京)、蘇州府、松江府常州府鎮江府である。残りの揚州府と淮安府の2府はその北部である。

1421年、永楽帝(朱棣:しゅてい)が北京に遷都する。以後、南北両京(北京・南京)および両直隸は200年ばかり並立した。江蘇は、南部の蘇州等の地が特別な所だが、主にそこで紡績業の繁栄が続いたことによって、中国全土の経済的中心となり、さらに工業化都市化が最も進んだ地方であって、大小市鎮(都市)が広く分布し、地価は高く、各種の税があることでも全国的に最も有名な所であった。同時にこの一帯の文化水準も全国的に最高であった。状元科挙の最高試験殿試に最高成績で合格した者)となった人数は、全国の科挙試験おいて、長期にわたって大きな比重を占めていた(清代の数字では全省の40%、蘇州府の20%)。そのため全国の文化の性格や審美趣味に対し、深い影響力をもつようになった。揚州と淮安の首都はそれゆえ都北京と浙江省杭州府とを結び都に南方の穀物食糧を都に運ぶ京杭大運河漕運と塩取引との制御地域であり、中国長江以北の少数繁栄都市の一つとなっていた。

[編集] 清代

初には安徽省とともに江南省が設置されたが、1667年江蘇省と安徽省が分置された。江蘇の名は当時全省で最大だった江寧蘇州から来ている。詳しくは次のようである。1645年、清朝軍は揚州と南京を攻めて占拠して南明(明朝滅亡後残余勢力が南方に建てた政権)の弘光帝を捕虜にし、南直隸を江南省に改めた。清軍はかつて揚州、江陽、嘉定などで激しい抵抗にあい、「揚州十日」「嘉定三屠」といった惨劇が発生した。康煕六年、つまり1667年には、江南省の規模が大き過ぎるということで江蘇省と安徽省に分けられた。   清代には、江蘇巡撫が蘇州、安徽巡撫が安慶に駐在し、南京には江蘇、安徽、江西の三省を司る両江総督が置かれた。江蘇、安徽両省の郷試は、始終、共に同じ江南貢院(南京在地)が用いられた。1780年以前は、安徽の民政を管理する安徽布政使も長く南京に駐在し、1780年の安徽布政使の安慶への移動以後、南京には別に江寧布政使一職が設けられ、江寧(南京)、揚州、淮安、徐州の四府と、通州海州の二直属州を管理した。江蘇学政は江陽に在した。それ以外は淮安の府都には漕運総督、府都西北15kmの所の清江浦(現淮安市中心区)には南河総督(江南河道総督)が駐在した。両者の塩運使は揚州に在した。

清代の江蘇省は沿海地区にあり、太倉、通州(南通)、海州の三つの直属州が増加した。徐州は直属の州から府に昇格した。人口が多量に増加したため、江蘇南部の多くの県都は二つに分けられ、二県が一県都を共有する状態が増えた(民国以後は消失)。蘇州の首都内は同時に、呉県長州県元和県の三県の県庁を持つに至った。なおこれは全国最高数である。

1840年代、江蘇は西方の影響を受け始めた。江蘇東南部の元来無名だった小都市上海が貿易港となり、そのうえ、上海共同租界上海フランス租界が設置され、急速に発展して貿易、金融、国際化上の大都市となった。後、1927年には、正式に江蘇省から離脱し、独立の市となった。鎮江と蘇州にも、規模はより小さいが租界が設置された。晩清期、江蘇南部では太平天国による蜂起(1851-1864年、遥か遠く広西に発し、1853年南京を都に定め、天京に改名した)があった。強烈な影響が十余年先にも達していた。

[編集] 民国期

民国時代にも南京が首都となったことがある。解放直後には南京直轄市と蘇北・蘇南行政公署区に分割されたが、1953年江蘇省が再置された。

中華民国は1912年に成立した。最初の数ヶ月の首都は南京にあった。この年、乾隆期の府・州・庁制を廃して、全省を60県に区分した。1916年、袁世凱の死後、全国は軍閥による割拠状態に陥り、江蘇も何度か統治者が変わった。北伐戦争前夜は孫伝芳が治めた。この時期、江蘇の民族工商業(自国民間資本経営の商工業)が急速に勃興し、無錫、南通、常州の紡績業はやや大きく発展した。

1927年4月、蒋介石は、南京に中央政府を建て、さらに10年内に中国大半を統一し、同時に若干現代化の建設を進め、早期公共道路網を建造した。1928年、国民政府は正式に都を南京に定め、大規模都市建設を進め、江蘇省都は鎮江に遷った(1929年)。

1937年、全面勃発した抗日戦争は、蒋介石の黄金時代を中断させた。日本軍無差別爆撃は、鉄道沿線に寄り添う鎮江、無錫、蘇州等の都市を皆、程度は異なるが、破壊した。1937年12月13日、日本軍が南京を攻め落とし、その後三ヶ月の長期間南京大虐殺を続けた。江蘇省政府は、鎮江から臨時に北部の内地の淮安に移り、1939年、再度、黄河を下った興隆した水網中心地に移った。この後、1945年の戦争終結まで、南京は中国東部の陥落した地区であって、汪精衛政権の首都であった。汪精衛政府は、江蘇省政府を蘇州に移させた。1944年にはまだ、江蘇北部には徐州を中心として淮海省が建てられていた。

[編集] 中華人民共和国

中華人民共和国成立後、都は北京に定められた。建国当初、江蘇省はかつて蘇北行署(建国直後設置の行政機構)と蘇南行署とに分けられていたのが、1952年に合併され省都を南京とする江蘇省に戻された。

1980年代の江蘇南部は郷鎮企業が有名である。ただ、鄧小平の経済改革の当初に注目が集中したのは南部海岸の広東省であり、その経済水準は急速に江蘇省を超えていった。1990年代初め、上海を中心とした長江デルタ地帯が重視され、上海と緊密な関係がある江蘇南部の都市蘇州と無錫とは、迅速に発展し、総生産値は共に省都南京を超した。同時期、外資が大量に急激に蘇州南部に流入し、前期民営企業と、蘇州と無錫の管轄県の経済を支えた。江蘇南北の差はこれによって開かれた。蘇州五県市(張家港常熟、太倉、昆山呉江)、無錫の江陽、常州の武進は、全国の県で、百強中上位10の内7を占めた。これによりいうならば、南京市区の総合力は更に突出し、江蘇省内最高である。目下の蘇州市区の規模はここまで工業増加値および一般予算地方財政収入はすでに南京に迫っている(江蘇統計年鑑2006参照)。

(以上の歴史記述は中文「江苏省」の訳を含む)

[編集] 行政区画

13の地級市(地区クラスの市)を設置し、下級行政単位である市区、県、県級市を管轄する。詳細は下部データボックスを参照。

名称 中国語表記 人口
(万人)
面積
(km²)
人口密度
(人/km²)
南京市 南京市 544 6,420 847
無錫市 无锡市 433 4,440 975
徐州市 徐州市 896 11,500 779
常州市 常州市 341 4,280 797
蘇州市 苏州市 577 6,260 922
南通市 南通市 785 8,540 919
連雲港市 连云港市 455 7,440 612
淮安市 淮安市 510 10,000 510
塩城市 盐城市 795 13,600 585
揚州市 扬州市 451 6,670 676
鎮江市 镇江市 267 3,750 712
泰州市 泰州市 501 5,840 858
宿遷市 宿迁市 509 7,160 711

[編集] 経済

長江下流デルタは時代から経済的先進地域で、経済規模では広東省に次ぐ全国第2の省内総生産を誇る。2003年の生産総額(GDP)は12,451.8億人民元に達し、一人当たり生産額は米ドルで2,000ドルを超えた。対外輸出額は591億ドル、外国資本導入額は158億ドルであった。省内では上海に近い蘇州の経済規模が省都南京を上回る。

[編集] 交通

日本下関市の上海下関フェリーが、下関港国際ターミナル~江蘇省蘇州間のフェリーを運航している。

[編集] 教育

[編集] 世界遺産

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ