唐津市

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唐津市
からつし
日章旗 日本
地方 九州地方
都道府県 佐賀県
団体コード 41202-3
面積 487.47km²
総人口 128,053
推計人口、2009年5月1日)
人口密度 263人/km²
隣接自治体 佐賀市伊万里市多久市
武雄市玄海町前原市
二丈町壱岐市松浦市
市の木
市の花
唐津市役所
所在地 〒847-8511 佐賀県
唐津市西城内1番1号
電話番号 0955-72-9111
外部リンク 唐津市ポータルサイト

唐津市位置図(佐賀県)

:市 / :町
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唐津市旗

唐津市(からつし)は、佐賀県の北西に位置する都市

目次

[編集] 概要

唐津藩の城下町をルーツとする都市で、唐津湾に注ぐ松浦川河口を中心に市街地が形成されている。唐津神社の秋季例大祭である唐津くんちや特別名勝の虹ノ松原、呼子朝市などで有名で、広大な土地に多数の観光資源を有する。県内では佐賀市に次ぐ人口規模を有する佐賀県第二の都市。佐賀市方面とは歴史的・地理的観点から馴染みが薄いと言われる。

2005年2006年に周辺の東松浦郡呼子町鎮西町肥前町相知町厳木町浜玉町北波多村七山村と合併して新たに唐津市となった。

経済圏である唐津都市圏は唐津市及び玄海町で約13万人弱の人口を擁しており大部分を唐津市が占めるが、近隣の福岡都市圏佐賀都市圏方面に通勤・通学する市民も多い(浜玉地区及び中心部は福岡都市圏の5%通勤通学圏、厳木地区は佐賀都市圏の一部である)。

[編集] 地理

[編集] 地形

鏡山から見た虹の松原

市域は唐津平野と、上場(うわば)と呼ばれる丘陵性の玄武岩台地からなり、東は背振山地、西は伊万里湾、南は杵島山地、北は玄界灘唐津湾)に面する。唐津湾には松浦潟(まつらがた)という別称もある。また北西部の海岸はリアス式で出入りに富み、その地理的特徴から東松浦半島周辺は古くから中国朝鮮半島方面の海上交通の要衝として栄え、半島北端部の名護屋には豊臣秀吉朝鮮出兵の際に拠点として築いた名護屋城がある。

初代唐津藩主・寺沢広高が防風防砂目的で唐津湾に沿って植えたクロマツの林は虹の松原と呼ばれ景勝地ならびに唐津の象徴として親しまれる。鏡山の展望台からは虹の松原及び唐津市街が一望できる。また、松浦川河口に突き出した形で存在する満島地区(行政区上は東唐津一丁目~四丁目)も特徴的な地形である。東松浦半島から松浦川河口付近一帯は玄海国定公園に指定されている。

佐賀市多久市伊万里市福岡県糸島郡二丈町長崎県松浦市などと境界を接する。

[編集] 気候

気候区分は太平洋側気候に分類されることが多いが、日本海側気候に分類されることもある。これは福岡市などと同じく地形や海流が複雑に影響しあい、夏期において多雨な太平洋側気候の一面を見せつつ、冬場においては平野部で強風が吹き荒れる日本海側気候の一面も見せるためである。台風の直撃が少ないため年間の最大風速は8~12メートル程度で、台風の影響より冬の玄界灘の強風や春一番の影響が大きい(松浦川橋梁のある筑肥線和多田東唐津間がしばしば運休する)。年平均気温15℃、年間降水量1992mm、年間日照時間1783.9、平均風速2.1m/s(平年値、1979年2000年の統計)。

沿岸部は一年を通して朝と昼の寒暖の差が少なく、夏季に真夏日熱帯夜となることも佐賀平野部などと比べて少ない。また冬季の積雪や真冬日となることも稀である。山間部は典型的な高原の気候で、夏は過ごしやすく、冬は積雪が日常的である。そのため山間部の浜玉町鳥巣地区に所在する玉島小学校鳥巣分校は3学期の始業を他の小学校より1週間程度遅らせ、その代わり夏休みを短くしており、地元メディアなどでしばしば取り上げられる。

唐津市内のアメダス観測所は枝去木と和多田があり、うち枝去木では降水量のほか気温・風向・風速・日照時間の観測を行っているが、枝去木は標高110メートル地点にあり、観測データが唐津平野部とは必ずしも一致しないことに注意されたい。和多田は降水量のみの観測である(標高5メートル)。

[編集] 市街地構成

現在の唐津市は市域が広大なため、さまざまな場所に市街地が点在するが、ここでは旧唐津市の中心市街地である松浦川河口付近の市街地に限定して記述する。

大手口交差点(大名小路)
松浦橋から見た満島(東唐津四丁目)
唐津駅前(新興町・町田付近上空、手前はシンボルロード)
城内・内町
唐津城及び旧唐津藩の城下町があった場所であり、ここが唐津の中心部と言える。バスセンターや市役所のある大手口(大名小路)周辺は比較的密集感のある街並みで、中町や呉服町は商店街となっている(唐津中央商店街)。唐津は明治以降大きな災害や戦災に見舞われることがなかったため、藩政時代の道がそのまま使われている箇所が多い。
外町・船宮
国道204号が東西を貫く。国道北側と南側の一部は昭和初期に川を埋め立ててできた土地なので、城内と比べてすっきりとした市街地が形成されている。埋立地や国道周辺は比較的新しい商業施設や中層マンション、団地などが建ち並び、また街路整備が行き届いている。南側は材木町・大石町など藩政時代に外町と呼ばれた地域で、城内や内町と同じく古くからの個人商店や住宅などが密集し、一部が丘陵地となっている。
西唐津
港湾地区であり、九州電力唐津発電所唐津警察署、唐津港湾合同庁舎、唐津市消防本部などが集まる。西唐津駅には車両基地が併設されている。大島には唐津港(唐津東港フェリーターミナル)があり、壱岐へのフェリー航路がある。かつて近辺には唐津炭田で採掘された石炭が唐津線で大量に運ばれては、唐津港から積み出されていた。現在もその面影が残っており、大島に残された広大な埋立地はかつての繁栄ぶりを思わせる。
東唐津(満島)
松浦川河口に突き出した形で存在する地域。古くからの個人商店や民家が多く建ち並ぶ。以前はここに唐津港東唐津駅(当時の唐津の代表駅)があった。また東端の東唐津駅跡及び東唐津気動車区跡には現在ダイワロイヤルホテルズのリゾートホテル(唐津ロイヤルホテル)があり、また海側にも唐津シーサイドホテルがあるなどリゾート地としての面も持つ。昭和22年の町名施行時の町名は松浦町、大正町、宮町、川口町、新築町。現在は全域が東唐津一~四丁目となっている。
町田・神田
昭和中期以降に形成された新しい市街地である。無造作な開発が行われたとして昭和後期から市が区画整理事業を行っている。域内北端には唐津駅があり、区画整理事業で整備された駅前のシンボルロードからは明るい印象を持たれる。さらに南へ行くと国道204号バイパスと旭ヶ丘団地があり、バイパス沿いには郊外型店舗が多く立地している。
和多田
昭和中期以降に形成された新しい市街地である。東西を国道202号バイパスが、南北を国道204号バイパスが貫く市内の道路交通の要衝である。南部は低地で水田地帯がそのまま都市化したため整然とした街並みが広がり、北西部は丘陵地で和多田駅や学校、郵便局など和多田の機能が集中する。域内の地名は和多田海士町、和多田百人町、和多田東百人町、和多田用尺、和多田先石、和多田南先石、和多田本村、和多田西山、和多田大土井、和多田天満町一~二丁目。

[編集] 人口

現唐津市域の人口は1955年(昭和30年)の183,676人をピークに唐津炭田の衰退をみて14万人台に急減、その後13万人台となり、既に12万人台に差し掛かっている。現在は唐津平野への一極集中がみられるが、唐津平野の人口も平成7年をピークに減少傾向にあり、市の総合計画には人口が10年で6500人減るとする推計がある。

福岡都市圏の通勤圏内である浜玉地区では宅地開発が進み、人口増加が著しい。

[編集] 歴史

[編集] 略史

[編集] 古代~中世

唐津の歴史は縄文時代末期に遡る。唐津はその地名が示唆するとおり大陸との交通の中継地点であったため、水耕稲作が伝わったのが全国でもっとも早かった。それを現世に伝えるのが菜畑遺跡で、これは水耕稲作遺跡としては全国で最古級のものである。他に古墳時代初期に造られた前方後円墳である久里双水古墳も日本最古級のひとつとされる。その後魏志倭人伝には唐津地方は末盧国(まつろこく、まつらこく)として記録され、また万葉集には鏡山、玉島川、松浦川の情景が詠まれている。

平安時代からは現唐津市の全域が肥前国松浦郡の一部となり肥前国府による統治となったが、国司政治が緩みだした平安期中頃には松浦党豪族)が松浦地方を割拠し、上下松浦郡に分割された頃には上松浦郡(東松浦郡西松浦郡)を波多氏が支配し、拠点として北波多地区の岸岳に岸岳城(鬼子岳城)が築かれた。波多氏は嵯峨源氏の子孫の松浦久松浦正を祖とすると言われているが、下松浦郡(長崎県北松浦郡)を支配した平戸松浦氏も、同じく嵯峨源氏の子孫の松浦久を祖とする松浦氏の子孫と言われる。

1591年天正19年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点として現在の鎮西町名護屋地区に名護屋城を築城した。朝鮮出兵の最中であった1593年文禄2年)には豊臣秀吉の家臣であった寺沢広高唐津藩を開き、唐津地方の統治を始めた。翌年には波多氏が滅ぼされ、唐津は寺沢の支配下となった。

[編集] 江戸時代

復元された唐津城天守
唐津くんちの曳山

寺沢広高は波多氏の滅亡後、岸岳城の麓に仮城を造営し仮の居城とした。広高は1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍方につき、肥後国天草郡4万石を加増され12万3千石の外様大名となった。1602年慶長7年)より唐津城の本格的な築城を行い、1608年慶長8年)に城下町共々完成した。このとき東唐津側と地続きであった満島山を切り離し、波多川(現代における松浦川)がそこから唐津湾に注ぐよう流路を変更した。広高は松浦川の流路変更(治水事業)に見られるように土木事業に長けており、防風林として松原の保護育成を行った。これが日本三大松原として今日に残る虹の松原となっている。またこの頃は現在に至る唐津焼の技法が確立された時期でもあり、1615年(元和元年)には中里太郎右衛門陶房などが唐津藩の御用窯に指定されている。

広高の子の堅高は唐津藩二代藩主となったが、天草領に構えていた富岡城島原の乱の際に一揆側に攻められた際、その責任を取らされ天草領4万石を没収された。堅高は1647年正保4年)に江戸藩邸で自殺し、また嗣子がなかったために寺沢家は断絶となり、寺沢氏が改易となると唐津藩領は一時天領となった。以後譜代大名5家が入れ替わり、慶安元年(1649年播磨国明石城大久保忠職が唐津藩主となった。1678年延宝6年)大久保氏が下総国佐倉城に転出し、代わって同地より大給松平乗久が入城。1691年元禄4年)大給松平氏志摩国鳥羽城に転出し、同地より土井利益が入城。1762年宝暦12年)土井氏が下総国古河城に転出し、三河国岡崎城より水野忠任が入城。1817年文化14年)に、後に天保の改革を行った四代目の水野忠邦が出世目的に遠江国浜松城に転出を希望し、陸奥国棚倉城より小笠原長昌が入城、以後は小笠原氏が統治し、長期間による藩主家の一大支配時代が一度も到来しないまま、明治維新により唐津藩は姿を消した。

幕末頃から唐津神社秋季例大祭(唐津くんち)で曳山(当時は博多祇園山笠の影響で唐津山笠といった)を曳くようになり、これが今日に続く観光行事となり、曳山製作は維新後の1876年明治9年)まで続けられた。

[編集] 明治維新と貿易の盈虚

大正期撮影とみられる唐津くんちの様子。右に唐津軌道の軌道がみられる

廃藩置県にともない唐津藩は唐津県となり、同時に唐津城本丸が舞鶴公園となった。その後伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県と変遷し1883年(明治16年)に佐賀県が長崎県から分離独立し佐賀県の一部となった。また1889年(明治22年)の町村制施行で東松浦郡唐津町などが発足。昭和初期までに満島村唐津村を編入し1932年(昭和7年)に市制施行、唐津市となった。

古くから海上交通の拠点であった唐津は、この頃貿易の拠点として急速に発展していった。1882年明治15年)に当時満島にあった唐津港唐津炭田の石炭輸出を開始。1889年(明治22年)には特別輸出港に指定され、同時に長崎税関唐津出張所が設置された(3年後に税関支署に昇格、戦後降格し門司税関に移管)。さらに後述する鉄道の開通により、以後満島の貿易機能は順次西唐津・大島へ移転し現在に至る港湾地帯を形成した。貿易額は日を追う毎に増大していったが、第一次世界大戦の影響で外資関係が先細りとなり、1920年頃をピークに貿易額は減退し、昭和初期には石炭不況や第二次大戦の影響でさらに衰退していった。

[編集] 交通機関の発達

明治末期から大正・昭和初期にかけて唐津の交通は大きく発達した。1898年(明治31年)に唐津興業鉄道(後の唐津鉄道、現JR唐津線)が開通したがこれに収まらず、翌々年の1900年(明治33年)に満島馬車鉄道による馬車軌道が満島松原口(現東唐津駅) - 浜崎松原口(現浜崎駅)間に開通しその後松浦橋を経由して中心部の大手口を越え西唐津果ては佐志まで延伸された(その後石油発動機による運行となるが自動車への転換にともない廃止)。福岡方面への鉄道は1926年(大正15年)に東唐津から博多まで全通、伊万里方面は1935年(昭和10年)にようやく全通したが(ともに北九州鉄道による)、まもなく国有化された。北九州鉄道のバス事業は現在に至る昭和自動車に譲渡された。

[編集] 戦後

戦時中唐津が戦災に遭うことはなく、また明治期から道路の拡幅や新規開通などはあったが大規模な区画整理が行われることはなかったため、城下町の情緒を残して発展していくこととなる。1953年(昭和28年)には城内と満島を結ぶ舞鶴橋が4年の歳月をかけて完成し(舞鶴橋の開通時は曳山が渡り初めをした)、西唐津と東唐津を結ぶ通称産業道路佐賀県道279号妙見満島線)が開通した。また、この年には唐津競艇が初開催し、当時の唐津市の財政を潤わせた。1954年(昭和29年)には鏡村久里村鬼塚村湊村を編入(人口約7万)。炭鉱の発展で東松浦郡と唐津市を合わせた人口はこの頃最盛を迎え約19万人弱であった。

[編集] 高度成長期~昭和末期

1955年(昭和30年)、地元財界の有力者であった昭和自動車社長の金子道雄が市長に就任。六・三制の導入による新制中学校の校舎新築費用などによって極度に窮迫していた市財政を再建するため、金子は財政再建団体の指定を受けることを決意。翌年、再建期間を9年間とし唐津市は財政再建団体の指定を受けた。

[編集] 現代

[編集] 行政区域の変遷

旧・唐津市の県内位置(1954年)
  • 1928年(昭和3年)8月1日 - 呼子村が町制施行して呼子町となる。
  • 1931年(昭和6年) 2月1日 - 唐津村を編入。翌年、唐津市として市制施行する。
  • 1932年(昭和7年)1月1日 - 唐津町が市制施行して唐津市となる。
  • 1935年(昭和10年)9月1日
    • 相知村が町制施行して相知町となる。
    • 佐志村が町制施行して佐志町となる。
  • 1941年(昭和16年) 11月3日 - 佐志町を編入。
  • 1948年(昭和23年)10月1日 - 久里村の一部が相知町,鏡村へ編入。
  • 1952年(昭和27年)5月3日 - 厳木村が町制施行して厳木町となる。
  • 1954年(昭和29年) 11月1日 - 鏡村・久里村・鬼塚村・湊村を編入。
  • 1955年(昭和30年) - 北波多村の一部を編入。
  • 1956年(昭和31年)9月30日
    • 浜崎町と玉島村が合併して浜崎玉島町となる。
    • 名護屋村と打上村が合併して鎮西町となる。
  • 1958年(昭和33年) 1月1日 - 切木村大良地区を編入。
    • 入野村が切木村の残部を編入・改称・町制施行して肥前町となる。
  • 1966年(昭和41年)11月1日 - 浜崎玉島町が改称して浜玉町となる。
  • 2005年(平成17年) 1月1日 - 唐津市と東松浦郡浜玉町・厳木町・相知町・北波多村・肥前町・鎮西町・呼子町が合併(新設合併)し、新たに唐津市となる。
  • 2006年(平成18年) 1月1日 - 七山村を編入。

[編集] 行政

[編集] 概略

唐津市二タ子出身。佐賀県立唐津西高等学校国士舘大学文学部中退。佐賀県議会議員などを経て2003年4月28日の旧唐津市長選で当選後、現在の唐津市長選にも引き続き立候補し再選を続けている。初当選時は戦後の歴代市長では最年少での当選ということで話題となった。
  • 副市長:吉本金壽(よしもと きんじゅ 2005年(平成17年)3月25日-)、吉田勝利(よしだ かつとし 2005年(平成17年)4月1日-)

行政課題は数多く、多額の借金を抱えたことによる深刻な財政難の改善、経済・産業の活性化、大手口地区再開発ビルへの入居、市庁舎の老朽化に伴う新市庁舎の建設などの課題がある。特に財政難に関しては、旧東松浦郡との合併協議の際、電源立地地域対策交付金の交付を受けていて財政に余裕のある玄海町が合併協議会から離脱するなどしていて、更に新市庁舎の建設や早稲田佐賀中学校・高等学校の開校による県所有建築物の購入などによって、今後さらに財政が悪化する恐れがある。坂井市長は2008年12月の市議会で「合併から15年後の2020年度には、財政健全化団体への移行が懸念される」と答弁した[1]

2007年平成19年)12月、市の固定資産評価のための地図作成事業を、GIS九州(福岡県北九州市)に落札させようと便宜を図ったとして、競売入札妨害の疑いで市総務部長が逮捕された。これは、従来から揺らいでいた唐津市役所の信頼を更に失墜させる要因となった。

[編集] 市議会

会派名
34
志政会 27
公明党 3
日本共産党唐津市議団 3
民主党みらい 1
(欠員) -

[編集] 行政地域

  • 本庁(127.49km²):79,154人(621人/km²)
    • 湊出張所
  • 浜玉支所(52.13km²):10,921人(210人/km²)
  • 厳木支所(61.27km²):5,104人(83人/km²)
  • 相知支所(65.08km²):8,789人(135人/km²)
  • 北波多支所(26.58km²):4,841人(182人/km²)
  • 肥前支所(46.64km²):8,643人(185人/km²)
    • 切木出張所
  • 鎮西支所(37.89km²):6,751人(178人/km²)
    • 打上出張所
  • 呼子支所(7.28km²):5,632人(774人/km²)
  • 七山支所(62.89km²):2,577人(41人/km²)

[編集] 警察・消防・海上保安

  • 唐津警察署
    • 呼子幹部派出所
    • 相知幹部派出所
  • 唐津市消防本部(唐津市消防署)
    • 東部分署、南部分署、西部分署、北部分署、中部派出所
  • 唐津海上保安部

[編集] 主な事業

[編集] 中心市街地活性化事業

大手口再開発で取り壊される唐津大手口バスセンター

本項では1990年代以降の郊外大型店進出により拠点性を失った中心市街地の活性化を目的とした一連の事業について記述する。

大手口再開発
名称は便宜的なものである。事業主体は大手口開発。市役所東隣に位置する旧まいづる百貨店本店(2002年閉鎖)と、隣接する昭和自動車唐津大手口バスセンターの2ビルを解体し、新たに延べ床面積1万1000平方メートルの地下1階地上7階のビルを建設する計画。1階にバスセンター、2階に店舗、3階に市民交流センター、4階以上に行政機関も含めた事務所などが入居予定。当初は地下駐車場が設置される予定だったが取り消された。2010年度中の完成を目指す。
大手通り・中町通り等景観形成事業
事業主体は唐津市及び佐賀県。中心市街地に位置する大手通りと中町通り周辺を、ファサード整備により大正昭和を連想させるレトロな景観をつくりだす。2004年度から先導的に両通りの10店舗をファサード整備したところ、景観整備への意欲を示す商店主が増加したことから、県の重点事業として2006年度から3ヵ年計画でファサード整備を継続実施している。

[編集] 土地区画整理事業

唐津駅南土地区画整理事業
JR高架化にあわせて1980年から唐津駅南口側地区の土地区画整理を行う事業。駅前の30m幅都市計画道路(シンボルロード)の整備、駅前広場(4ha)の整備、町田大橋の架橋、河川改修、道路の拡幅、町田交差点から国道204号(唐津バイパス)への接続道路の敷設などが行われた。1994年には唐津市近代図書館が事業地内に開館した。当初の予定ではシンボルロード沿いには商店街や西友などの大型商業施設が建設される予定だったが、唐津駅北口側の商店街などの反発に遭い、結果シンボルロードから里山が見渡せるほど道沿いに何もない状況のまま事業は終盤を迎えている。最近は以前に比べて空き地は少なくなったが、依然として中心市街地離れした景観であることは否定できない。2010年度から清算業務に入る。
新東唐津駅土地区画整理事業
JR新線開業に伴い(現在の松南町)に移転した東唐津駅の周辺を1979年度から土地区画整理法に基づき開発する事業。「東唐津駅南地区」地区計画とも呼ばれる。駅前公園の整備や道路の整備改良拡幅、新たな住宅用地の造成などを主な事業内容とする。1982年には総合病院である松籟会河畔病院が、1988年には唐津コンピュータ専門学校(現唐津ビジネスカレッジ)がそれぞれ駅前に立地。1991年平成3年)には虹松団地を含めた東唐津駅周辺を松南町として新たに行政区を発足させ住居表示が施行された。それ以降特に大きな動きはなく事業の進行は鈍化していたが、佐賀県立唐津東中学校・高等学校2007年に事業地内に移転させることが決まったことにより事業は大きな進展を見せ、2009年までにほぼ完了している。

[編集] 都市間交流・国際交流

[編集] 姉妹都市・提携都市

国内
海外

[編集] 経済

唐津は市内の中心都市のため、サービス業、卸売業、小売業、飲食店などの産業が周辺に比べて盛んである。観光地としても知られおり、観光業も盛んであると言える。

※合併前の唐津市、浜玉町、厳木町、相知町、北波多村、肥前町、鎮西町、呼子町、七山村の合計。

[編集] 第1次産業

北部の上場台地や鏡地区などの平野部には水田が広がっており、農業も盛んである。米の生産が主流だが、大豆などの豆類や大麦、小麦などの麦類の生産が増えてきている。浜玉地区ではハウスみかんの栽培が盛んで、佐賀県はハウスみかんの生産量が日本一となっている。また畜産、肉牛や豚、鶏などの飼育も山間部を中心に行われている。

唐津港水産基地の老朽化や人材不足に伴い、唐津湾周辺での水揚げ量は減少しており、漁業は衰退の一途を辿っている。しかし、呼子地区や鎮西地区ではイカの水揚げやアワビの養殖などが盛んである。

[編集] 第2次産業

主な工業集積地として、唐津鉄工団地(中原地区)、唐津石志工業団地(石志地区)、岸山工業団地(北波多岸山地区)が挙げられる。旧唐津町時代は栄町・船宮町のある外町埋立地が唐津の代表的な工業地帯であった。

[編集] 第3次産業

中原地区に移転したまいづる百貨店本社

1990年代から郊外に大型商業施設が建ちはじめ、唐津中央商店街をはじめとする商店街では次々と店舗の閉鎖や撤退が続き、空洞化が問題となった。また、大名小路地区にある地元資本のまいづる百貨店も2002年に閉鎖。その後自らも付近に新しい店舗を建設し、ショッピングセンターに転換を図った(まいづる本店ショッピングプラザ)。

現在は郊外の大型商業施設や各スーパー等が商業の中心であると考えられる。

[編集] 唐津市に本社を置く主な企業


[編集] 唐津市内に事業所を置く主な企業

第2次産業


第3次産業
同社と唐津市が協定を結び、約1年の準備期間ののち2008年平成20年)4月に正式稼働したコールセンター。

[編集] 健康・福祉

統計はすべて2000年10月1日国勢調査のもの。当時唐津市ではなかった地区は対象外。

[編集] 医療

唐津地域総合保健医療センター

市内の総合病院は、千代田町にある唐津地域総合保健医療センターを中心に各地に点在する。中核となる病院は唐津赤十字病院である。2005年平成17年)4月には市が新たに唐津市民病院きたはたを開設した。

[編集] 教育

唐津の教育の象徴とも言える唐津城直下の学舎。以前は唐津東高が使用していたが現在は早稲田佐賀中高の校舎として改築中

[編集] 概観

唐津地区(佐賀県北部学区)は県内の他学区と比べて学力レベルが低いと言われる。2007年平成19年)度の全国学習状況調査では国語と算数(数学)の平均点が県平均に届かず、更なる学力レベルの低下を危惧した市教委が次年度から独自の学力テストを作成し長期休み明けに実施している(唐津地区基礎学力テスト[2]

生徒数の減少は北部学区も例外ではなく、もともと生徒数の少なかった上場では2006年に唐津北高校と東松浦高校が統合し佐賀県立唐津青翔高等学校となり、2008年度には唐津西高校普通科英語コースが募集を停止し募集定員200名5学級となった。

また高等教育機関に乏しい唐津は、中等教育についても早稲田佐賀中学校・高等学校が開校するまで私立学校が存在していなかったことなどからわかるように、若者に相応しい土地とは言えない。そのため若者の多くが高校卒業後に市外へ流出し卒業後も市外へ留まるため、20代から40代の人口が極端に少なく、未成年及び高齢者の人口が多いという状況を招いている。このため坂井市政は学園都市構想を掲げており[3]、福岡都市圏に近いという利便性をアピールしつつ大学などの誘致を模索している。

[編集] 進学事情

大学進学を志す学区内の小学生・中学生の多くが佐賀県立唐津東中学校・高等学校もしくは佐賀県立唐津西高等学校に入学するが、1980年代以降弘学館久留米大附設といった近隣の有名私立進学校に生徒の一部が流出し、早稲田佐賀中高の開校でその傾向が更に強まるとみられている。

[編集] 市内の教育機関

[編集] 各種研究施設等

2003年に松南町(新東唐津駅土地区画整理事業地内)に設置された。

[編集] 国立学校

[編集] 私立学校

早稲田大学が創立125周年事業として2010年に開校予定。中学校入学定員120名、高校定員240名で、上位50%が早稲田大学への推薦枠となる。東唐津駅付近へ移転した佐賀県立唐津東高等学校跡地と、児童減少により惜しまれつつ閉校した唐津市立大成小学校の跡地を利用して開校する。

[編集] 県立中等教育学校

[編集] 特別支援学校

唐津地区に特別支援学校はそれまで存在していなかったが、2001年平成13年)に県立北部養護学校が開校した。佐賀県内で唯一、知的障害者四肢障害者が同じ場所で学べる学校である。

[編集] 市立小学校・中学校

中学校の一覧については「佐賀県中学校一覧」を参照。
小学校の一覧については「佐賀県小学校一覧」を参照。

市内の中学校の名称は当初数字で統一されていたが、市町村合併に伴い市内の多くの中学校が地名をもとにした名称となり、第二中学校は西唐津中学校を分離後佐志中学校と改称し(校歌に唐津佐志中というフレーズがあり二中時代を思わせる)、第三中学校は高島中学校と改称した(その後五中へ統合された)。

[編集] 交通

唐津駅。市の代表駅で、利用者の多くがここに降り立つ
東唐津駅。かつては河口付近にあり市の代表駅として賑わった。現在は中高生や通院者などが主に利用する
西唐津駅構内にある車両基地(唐津鉄道事業部

[編集] 空港

最寄り空港は佐賀空港および福岡空港。市内からの距離は両空港とも大差はないが、空港自体の利便性やアクセスの良さ(電化路線である筑肥線西九州自動車道)などから、福岡空港を利用することが多い。

[編集] 鉄道

[編集] 市内の路線・駅

九州旅客鉄道(JR九州)
快速と普通列車が運行されている。頻度はラッシュ時毎時3~4本程度、日中2本程度である。快速列車は平日はラッシュ時のみの運行がほとんどで、本数も少ない。一部の列車は、車両基地のある西唐津を始発・終点としている。また、半数の列車(快速列車は全便)が福岡市地下鉄空港線福岡市交通局)に直通する。残り半数の筑前前原で折り返す列車も、ほとんどが福岡空港線直通列車と接続している。使用される電車は6両編成で輸送量の多さを物語るが(日中の筑前前原-西唐津間は3両編成の電車もある)、唐津市内ではラッシュ時間帯以外は閑散としている。通勤・通学で主に利用される。
各駅停車のみの運行で、ラッシュ時日中問わず毎時1本未満(およそ3時間に2本)の運行である。すべての列車が、唐津線の西唐津・唐津を始発・終点としている。沿線は閑散としていて、伊万里方面への利用客のほかは、唐津市内の利用はあまり多くない。
各駅停車のみの運行で、ラッシュ時日中問わず毎時1本程度の運行である。西唐津と佐賀を結んでいる。沿線の高校生などが主に利用する。

[編集] 筑肥線の電化と新線開業

かつて筑肥線は、松浦川の広い河口への架橋が出来ずに虹ノ松原駅から現在の線路よりも北寄り(海側)の線路を通り、松浦橋近くに存在した(旧)東唐津駅(現在の駅所在地よりも北寄り)でスイッチバックをして、松浦川の右岸を遡りながら松浦川を渡って山本駅唐津線と接続し伊万里方面へと向かっていた。

当時から、唐津市の中心駅は中心街にある唐津駅であったが、当時の唐津駅は唐津線の中間駅に過ぎず、ターミナル駅の役割は、列車本数・利用客とも最も多い筑肥線の(旧)東唐津駅が担っていた。しかし(旧)東唐津駅は、市役所等のある中心街(松浦側左岸地区)から行くには橋を渡らねばならず、唐津市街から博多方面に向かうには、唐津市内と東唐津駅を結ぶバスを利用する等の手段が必要であった。また、筑肥線と唐津線の接続・乗換えは、市街地から南に離れた山本駅に限られていたため、唐津市では中心駅の機能が唐津駅・(旧)東唐津駅・山本駅の3駅に分散されていた。

これらの問題を解消するため、中心駅を唐津駅に一本化することとなり、1983年(昭和58年)の筑肥線の電化とあわせて呼子線の一部区間(虹ノ松原駅~唐津駅間)を先行して新規開業するとともに虹ノ松原駅~(旧)東唐津駅~山本駅間が廃止され、唐津駅~山本駅間を唐津線と筑肥線の二重戸籍区間とした。 これにより(旧)東唐津駅の代替として新線上に(現)東唐津駅が設置された。廃止された(旧)東唐津駅の跡地は大和ハウス工業に売却され、グループ会社の大和リゾートが運営・展開するダイワロイヤルホテルズの唐津ロイヤルホテルとなっている。

なお、呼子線の残り区間は未成線のまま開業することなく現在に至っている。また、唐津駅~山本駅間は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化と同時に再び唐津線のみの路線に戻り、筑肥線は分断された格好になった。

[編集] 港湾・海上航路

市内には玄界灘唐津湾に小さな島が点在し、それぞれの島民の生活の足として、多数の航路が運航されている。

港湾
明治から昭和初期にかけて国内屈指の貿易港および石炭積み出し港として繁栄した。現在も唐津港周辺(妙見町、大島地区)には広大な土地が再開発から取り残されており、かつての繁栄を窺うことができる。
航路
1日4往復の運航で、使用する船舶の愛称はエメラルドからつ2007年平成19年)までは呼子港(旧呼子町)から運航され、その名称も呼子・壱岐フェリーであった。
  • 宝当桟橋(千代田町)~高島(唐津市漁業協同組合高島支所)
1日6往復の運航。宝当神社で全国的に有名になった高島と、唐津市中心部とを結ぶ。
  • 湊~神集島(唐津市漁業協同組合神集島支所・からつ丸)
1日9往復の運航。神集島と湊地区を結ぶ。

[編集] バス

昭和自動車の一般路線バス(宝当桟橋にて)
昭和自動車の特急バス(いまり号)

[編集] 路線バス

市内で路線バスを運行している業者は昭和自動車(昭和バス)のみで、市内の唐津大手口バスセンターを中心に路線網が網羅されている。佐賀方面・伊万里方面・上場方面・七山方面へ向かう中距離路線バスのほか、市内循環バスが運行されており、松浦橋・東唐津・宝当桟橋を経由して唐津駅に至る東コースと、日赤病院前・西唐津駅・唐津港を経由して大手口に至る西コースがある。昭和バス以外に定期路線バスを運行する業者はなく、唐津市内のバス交通は昭和の天下であると言える。

唐津市は赤字バス路線の赤字分を補うため、昭和自動車に補助金を支出している。

[編集] 高速・特急バス

路線バスと同じく昭和自動車が運行している。

[編集] 道路

[編集] 高速道路

福岡方面へ向かう高速道路(有料道路、自動車専用道路)は佐賀方面へ向かうものに比べ整備が比較的進んでいる。西九州自動車道唐津道路)と二丈浜玉道路を経由して福岡都市高速と直結する福岡前原道路を経るのが一般に示されるルートだが、唐津インターチェンジは中心市街地から離れているうえ現状暫定2車線(最高速度60km/h)での開通のため、国道202号(唐津バイパス)を経由するドライバーが多い。

現在、2009年中の開通を目指して浜玉IC~二丈鹿家IC間の整備が、2011年中の開通を目指して北波多IC(仮称)~千々賀山田IC(仮称)~唐津IC間の整備がおこなわれている。

[編集] 一般国道

[編集] 道の駅

[編集] 観光・文化

[編集] 特産品

[編集] 文化施設

[編集] スポーツ施設

[編集] 名所・旧跡

[編集] 祭事

[編集] 出身有名人

政治・経済・産業
スポーツ
文化・芸能
軍人

[編集] 唐津市を舞台とした作品

[編集] その他

[編集] 脚注

  1. ^ 「財政危機手前」を公表 : 合併の功罪 唐津市の課題YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年6月20日閲覧
  2. ^ 小中学生に独自の学力テスト 唐津市 佐賀新聞の情報コミュニティサイト ひびの 2009年6月13日閲覧
  3. ^ 早稲田大の中高一貫校、2010年佐賀・唐津に開校へ YOMIURI ONLINE(読売新聞) 2009年6月13日閲覧
  4. ^ 『RD 潜脳調査室』第13話「もうひとつの海 ~intermission~」

[編集] 参考文献

  • 石井忠夫 『明治・大正の唐津』 唐津商工会議所、1977年

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ