辰野金吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
辰野金吾
Tatsuno Kingo.jpg
建築學會発行「建築雑誌1919年12月号」より
人物情報
国籍 日本の旗 日本
生誕 1854年10月13日
肥前国唐津(現・佐賀県唐津市
死没 1919年3月25日(満64歳没)
東京府東京市赤坂区(現・東京都港区
母校 工部大学校
所属組織 辰野葛西事務所
辰野片岡事務所
業績
建築物 日本銀行本店
東京駅
デザイン 歴史主義建築

辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日嘉永7年8月22日〉- 1919年3月25日) は、日本武士建築家である。

工部大学校(のちの帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部)卒業。工学博士、帝国大学工科大学学長、建築学会会長。設計の頑丈さから「辰野堅固」と呼ばれた。帝国大学では後進の指導にも励み、伊東忠太長野宇平治武田五一中條精一郎塚本靖野口孫市、大沢三之助、関野貞らの人材を輩出した。 帝国大学総長渡邉洪基(渡辺洪基) の意向を受け、工手学校 (工学院大学) の創立(明治20年)を推進し、運営にも尽力した。

東大仏文科で小林秀雄三好達治らを育てたフランス文学者・辰野隆は息子である。

経歴[編集]

  • 1854年(嘉永7年)肥前国(現在の佐賀県唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれる。姫松家は足軽よりも低い家格であった。
  • 1868年(明治元年)叔父の辰野宗安の養子となる。
  • 1873年(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。
  • 1875年(明治8年)二年終了後に、造船から造家(建築)に転じる。
  • 1877年(明治10年)ロンドン出身のジョサイア・コンドルが造家学教師に着任。
  • 1879年(明治12年)造家学科を首席で卒業(同期生に曽禰達蔵片山東熊佐立七次郎)。
  • 1880年(明治13年)英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学ぶ。
  • 1883年(明治16年)日本に帰国。
  • 1884年(明治17年)コンドルを解雇した後、工部大学校教授に就任。
  • 1886年(明治19年)帝国大学工科大学教授、造家学会(のちの日本建築学会)を設立。
  • 1887年(明治20年)工手学校(現工学院大学)の設立に参加。
  • 1898年(明治31年)帝国大学工科大学学長。
  • 1902年(明治35年)工科大学を辞職。
  • 1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を開設(東京)。
  • 1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を開設(大阪)。
  • 1910年(明治43年)国会議事堂(議院建築)の建設をめぐり、建築設計競技(コンペ)の開催を主張。
  • 1917年(明治6年) 霊南坂教会旧会堂の建設
  • 1919年(大正8年) 国会議事堂の設計競技で審査員を務める。当時大流行したスペインかぜに罹患し死去。

主な作品[編集]

※建物名の後の「重要文化財」は国指定の重要文化財を示す。

逸話[編集]

  • 唐津では、のちに首相となる高橋是清に英語を学んだ。さらに高橋の後を追って上京し、工学寮に入学している。
  • 相撲好きで子の隆を相撲部屋に入門させた。のちに旧両国国技館を設計したのも辰野だった。
  • 辰野が得意とした赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインは、ヴィクトリアン・ゴシックに影響を受けたもので、辰野式建築(たつのしき けんちく)として知られる。明治から大正にかけて多くの建築家がこれを模倣した。現在でも台湾総統府として使用されている旧台湾総督府庁舎はその代表作の一つである。

家族[編集]

  • 妻:秀子
  • 子:須磨子(鈴木梅太郎に嫁ぐ)
  • 子:隆(フランス文学者)

関連項目[編集]

文献[編集]

  • 工学博士辰野金吾伝(白鳥省吾編)
  • 日本の建築 明治大正昭和〈3〉国家のデザイン(藤森照信、三省堂)

関連書[編集]

  • 東京駅の建築家辰野金吾伝(東秀紀、講談社)

外部リンク[編集]