天保の改革

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天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代天保年間に行われた幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つである。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には諸藩でも藩政改革が行われた。

目次

[編集] 概要

12代将軍徳川家慶の信任を受けた、老中首座水野忠邦が中心となり、質素倹約の重農主義を基本とした、享保・寛政時代への復古を目指した。天保の大飢饉に伴う一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱といった国内不安や、アヘン戦争モリソン号事件などの対外的不安が幕府を取り囲む中、経済改革を中心に、綱紀粛正や軍制改革などが実施された。

改革は忠邦の腹心の鳥居耀蔵らとともに推進され、水野が退陣するまでの約3年間行われた。

[編集] 人事刷新

大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行した。頽廃した家斉時代の幕府高官らは、

らをはじめ、多くが処分を受けた。その総計は御目見以上(旗本)で68人、御目見以下(御家人)894人であった。

そして代わりに、以下を登用した。

[編集] 綱紀粛正

倹約令を施行し、風俗取締りで芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の七代目市川團十郎、人情本作家為永春水柳亭種彦などが処罰される。

とくに歌舞伎への弾圧は苛烈を極め、

  • 市川團十郎の江戸追放
  • 役者の生活の統制(平人との交際の禁止、居住地の限定、湯治・参詣などの名目での旅行の禁止、外出時の網笠着用の強制)
  • 興行地の限定(江戸・大坂・京都のみ)
  • それまで江戸の繁華街にあった江戸三座(中村座・市村座・守田座)を、1841(天保12)年の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に移転

が実施された。歌舞伎の廃絶まで考慮されたが、そこまでに至らなかったのは北町奉行遠山景元の進言によるものと言われている。歌舞伎劇場が市内にもどってくるのは1872(明治5)年まで待たねばならなかった。

[編集] 軍制改革

イギリスにアヘン戦争に敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて、薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した。一方で江川英龍高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。

[編集] 経済政策

[編集] 人返し令

幕府への収入の基本は、農村からの年貢であったが、当時は貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとした。

[編集] 株仲間の解散

高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させ、経済の自由化を促進しようとした。しかし、株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招いてしまった。なお、この際に株仲間の解散を諌めた矢部定謙が無実の罪を着せられて非業の死を遂げている。

[編集] 上知令

上知令を出して江戸大阪の周囲の大名旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとした。これによって幕府の行政機構を強化すると共に、江戸・大阪周囲の治安の維持を目的とした。上知令は大名や旗本が大反対したため実施される事は無く、逆に、これが、3代将軍家光武断政治の世なら通用していただろう、と揶揄され、将軍家慶からも撤回を言い渡されるほどの不評であった。

さらに、鳥居が反対派に寝返ると、1843年の水野退陣のきっかけになってしまった。天保の改革の切り札となるはずだった上知令は、天保の改革の存在意義自体を否定する事になった。

[編集] 金利政策

棄捐令相対済令の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げ、武士のみならず民衆の救済にもあたった。

[編集] 評価

天保の改革が行われた時期には既に幕府の権威が低下してきたこと、加えて財政のみならず行政面など問題点が多かったため、大奥の改革への妨害があり、結果的に改革が煩雑となってしまい、社会を混乱に導き失敗と判断された。更に水野失脚後に株仲間が再興されたことで幕府権力が商業資本の前に自己の政策を貫徹できなかったという幕藩体制にとっては悪しき先例を残す結果となり、幕府衰退を早めたとする見方もある。

一方で、それに対して同時期に長州藩や薩摩藩はそれぞれ国情に応じた改革を実行した。その成果によって藩の財政は改善され、幕末には雄藩と言われる程の力を得ることができた(もっとも、諸藩の場合には行政区域が狭くて課題が少なく、その分経済・財政問題に集中できたという側面もある)。

[編集] 関連項目