サガン鳥栖

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サガン鳥栖
原語表記 サガン鳥栖
愛称 サガン、サガントス
クラブカラー      ブルー[1]     ピンク[1]
創設年 1997年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1
クラブライセンス J1・J2
ホームタウン 佐賀県鳥栖市
ホームスタジアム Tosu Stadium 20110508.JPG
ベストアメニティスタジアム[1]
収容人数 24,490
運営法人 株式会社サガンドリームス[1]
代表者 竹原稔[1]
監督 韓国の旗尹晶煥
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社サガンドリームス[1]
SaganDreams Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 841-0034[1]
佐賀県鳥栖市京町812[1]
設立 2005年12月21日
業種 サービス業
事業内容 サッカークラブの運営
代表者 竹原稔[1]
資本金 4億5,500万円[2]
売上高 6億8,900万円 (2012年2月期)[2]
経常利益 ▲1億0,700万円 (2012年2月期)[2]
営業利益 ▲1億3,700万円 (2012年2月期)[2]
純利益 ▲3億5,700万円 (2012年2月期)[2]
純資産 ▲2億9,800万円 (2012年2月期)[2]
総資産 2億4,100万円 (2012年2月期)[2]
決算期 2月期
関係する人物 井川幸広
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サガン鳥栖(サガンとす、Sagan Tosu)は、日本佐賀県鳥栖市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

概要 [編集]

佐賀県鳥栖市ホームタウンとする[1]。ホームタウン活動区域の人口70,871人(推計人口、2012年9月1日現在)はJリーグの全40クラブの中で最も小さい[注 1]。ただし、佐賀市でホームゲームを開催したり(後述)、唐津市に下部組織(U-15唐津)を置き、佐賀県全域でサッカースクールを開校しているほか、同じ筑後川流域で鳥栖市と地理的に関連の深い福岡県筑後地方でも、鳥栖市が久留米市小郡市などと組織する「筑後川流域クロスロード協議会」が共同してサガンを支援する、スポンサーの一つであるブリヂストンが久留米市・朝倉市に設けた「ブリヂストン・サッカースクール」の運営に主体的に携わるなど、ホームタウン区域外での広域的活動も積極的に行っている。

Jリーグスタジアム観戦者調査報告書によると、佐賀県外からの観戦者が2011年は30.3%となったが、2011年度のJリーグ加盟38クラブ中で4番目に多い数値となっている。なお、チーム名が「サガントス」と表記されることがあるのは、鳥栖市以外への浸透を図っているためである。

チーム名の「サガン」は、小さい砂粒が固まって砂岩になるように力を結集することを表す[1]。また「佐賀の」にも通じており[1]、イタリアのサッカークラブの強豪「ユヴェントスFC」の音に似せているという隠れた意味もある。このチーム名はサガン鳥栖結成前に鳥栖市に存在したプロサッカークラブ鳥栖フューチャーズ解散が決定した際に公募で決められた。運営法人は1997年から2004年までは株式会社サガン鳥栖で、2005年以降は株式会社サガンドリームスである。

ホームスタジアムは、ベストアメニティスタジアムである[1]。練習場は鳥栖市北部グラウンド、鳥栖市陸上競技場を主に使用している[1]。詳細は下記#スタジアム・練習場項を参照。

歴史 [編集]

1997年 - 2011年 (J2) [編集]

1997年 - 2003年 [編集]

経営難により1997年1月に鳥栖フューチャーズ(鳥栖F)が解散。チーム存続を求める5万人を超える署名があった事などを受け、鳥栖Fの受け皿となるチームとして1997年2月4日に佐賀県サッカー協会会長の中村安昭を代表とする任意団体「サガン鳥栖FC」として発足した。

しかし、急遽設立したため事務所もなければスタッフも居ないという窮状であり[注 2]。救済措置としてJリーグはフロント要員として関連会社で役員を務めていた元横浜M常務の熊地洋二をスーパーバイザーとして派遣したほか、監督には前年C大阪で監督代行として指揮を取った楚輪博に就任を依頼。C大阪はこれを入れ移籍を容認、2月9日に楚輪の監督就任が発表された。さらにC大阪はコーチだった元日本代表の坪田和美をヘッドコーチとして、佐賀県出身の佐藤真一をこちらはレンタルでそれぞれ移籍させ、新チームの立ち上げを支援した。また、他チームなどからも支援があり、浦和京都から練習着が、地元高校からビブス、用具メーカーからボールがそれぞれ寄贈された。また2月13日に開かれたリーグ理事会で、準会員の資格は失ったものの、鳥栖Fが所属していたジャパンフットボールリーグ(旧JFL)と、同年のナビスコカップへの参加も認められた[3]。選手については、鳥栖F解散から契約が宙に浮いていた8選手(高嵜理貴鈴木俊松田悦典大森征之森保洋田中哲也森純一工藤圭司)と前述の佐藤らレンタル選手4人に加え、急遽行ったセレクションで獲得した8人の計20人となり、楚輪の監督就任から僅か1週間後の2月16日に新体制が発表された[4]。さらにシーズン開幕直前には戦力補充と経費削減のため、関連会社が選手の人件費を負担し、チームは勝利給や出場給のみ支給する社員選手の制度を検討。これに市内の生花店と電気工事店が協力し、北内耕成関本恒一の二人を補強した[5]。新生サガン鳥栖は激動の一年を16チーム中11位で終えた。

1999年のJリーグの2部制導入に伴い、1998年に「株式会社サガン鳥栖」として法人化され(社長には引き続き中村が就任)[1]、1999年から発足したJリーグ ディビジョン2発足時の10クラブの一つとなった。

鳥栖Fは大口スポンサーであったPJMジャパンの撤退が原因となり解散したため、法人化したサガンでは大口のスポンサーは設けず、小口の株主を多くすることによって経営の安定化を図った。しかし、法人化初年度から赤字続き[6]で随時小口の融資を集めて増資することで凌いだ結果、株主が多くなったことで経営の主導権争いや、会社の経営方針に対する株主や関係者からの批判が相次ぎ、狙いとは逆に経営の混乱が続いた。1998年オフにはJリーグから2年契約で斡旋されていた大口スポンサーとの契約が終了し次期運営予算が大幅に減少、主力選手を多数解雇する羽目となった[7]。新戦力は補充したものの、入団テストの際に提示した条件は月給にしておよそ10万円で、予算不足は明らかだった[8]

当初から暫定的な社長就任であった中村の健康問題もあり、2001年9月には当時の監督であった高祖和弘がシーズン最終戦終了後に社長に就任する人事案を可決したが[9]、後に撤回[10]、年が明けて2002年に半年前から取締役に就任していた建設・解体会社社長の古賀照子が社長に就任した[11]。しかし、古賀は自分の方針に反対する幹部、職員などを大量に解雇しスタッフを一新したが、大口スポンサーの撤退が相次ぎ経営は厳しくなる一方で、同年11月には早くも古賀は辞任を表明[12]したが結局留任するなど混迷をさらに深めた。

2003年シーズンは、千疋美徳を監督に迎え[13]、攻撃重視のサッカーを目指したが機能せず、第17節から最終の第44節まで1勝も出来ず最下位に終わった。勝ち点でもこの年のJ2所属12チーム中で11位の横浜FCの半分にも満たず、最終成績はシーズン3勝、28試合連続勝ち星なし(翌シーズンと合わせ連続30試合まで更新)で当時のJ2ワーストを記録した[14][注 3]。チームはシーズン中から存続すら危ぶまれる状態にあり、2003年10月には古賀が再度辞任を表明[15]。次期取締役選任機関として改革委員会を立ち上げ、その会長であった元佐賀大学学長の楠田久男を新社長に選任した[16]。しかし、新組織が制作した来季の経営計画は一試合の入場者が実績の5倍近い15,000人。過大な企業協賛金も盛り込むなど見通しの甘いもので、Jリーグ諮問委員会は当然改善を求めたが、楠田ら新経営陣は「資金繰りの目処が立たない」として次期取締役への就任を撤回した[17]。結局古賀が留任することとなったが、当時チェアマンの鈴木昌は「このままの経営が続けばJリーグからの除名や退会勧告もやむをえない」とまで述べている。このような状態のチームを引き受けようという監督をなかなか見つけられずにいたが、最終的にはJリーグからの紹介で元川崎監督の松本育夫が就任した。

2004年 [編集]

2004年シーズン、松本は選手の約半分を入れ替えてシーズンに臨み、前半戦は記録的なペースで勝ち点を積み重ねていた松本の古巣である川崎に勝つなどほぼ五分の成績であったが、後半戦は故障者が続出したこともあり22試合でわずか1勝であった。さらに、社長である古賀が選手・監督らを創価学会および公明党関連の行事、選挙活動へ出席させるなど(松本らは2度参加したものの3回めに拒否[18]。)、商法違反を始めとしたクラブ経営の公私混同ぶりが露見。この件に抗議した松本を始めとした現場と古賀中心のフロントが対立し、古賀は松本をクラブハウス入室禁止処分とした[19]。経営面でも引き続き混迷を極めており、Jリーグでは抜本的な解決のため、一旦100%減資し、新スポンサーを獲得するという条件付きでJリーグの関連会社・Jリーグフォト株式会社が新しいメインスポンサーが見つかるまで暫定的に出資することを提案したが[20]、Jリーグの定めた6月末の期限までに全株主169人のうち、10人からの同意を取り付けることができず、Jリーグフォトからの出資も白紙に戻された[21]。さらに古賀はこのシーズンのサポーターミーティングにて、鳥栖スタジアムの解体案という前代未聞の経営整理案を提示、これにはスタジアムの出資元の鳥栖市から激しく抗議され自治体も古賀の退任を要求した。会社・サポ-ター・出資元という三つ巴の騒動となり、クラブ消滅も現実味を帯びていた。

秋には古賀が三度辞任を表明[22]。それに代わる新しい経営陣を一旦決定したが、新社長に就任する予定の井上良一が別途運営する法人の経営体質について、Jリーグから疑問視する意見が上がり、このまま運営するようであれば除名(クラブ解散、あるいは存続したとしてもJFLなど下位リーグへの強制降格)も辞さない可能性があった。また、ライブドア社長(当時)の堀江貴文もクラブ買収の意向を示したが、実現しなかった。

その後、11月8日には古賀が新社長候補だった井上が辞退したことと、今後は県が推薦する企業を中心に話を進める考えを表明。11月12日古川康知事が人材ネットワーク会社「クリーク・アンド・リバー社」の井川幸広社長にクラブ経営を要請し、20日には井川と古賀が県、Jリーグ関係者も同席して初めて顔を合わせ、スムーズな経営体制の移譲に向けた「第一歩」を踏み出したかと思われた。しかし、一部株主により12月5日に臨時株主総会を開き、井上ら4人を取締役に選任する議案が提案された(新組織に自らの影響力を残すため、あるいは移譲を妨害するためと見られている)[23]。同時期、強化担当を兼ねる運営担当者を含む、広報・営業担当者など古賀に批判的な社員5人が30日付での解雇通告を受けていたことも発覚[24](11月30日に撤回)し前途に暗雲が漂った。しかし、これがチーム存続への最後のチャンスと見る鳥栖市は交渉が不調に終わった場合、ホームタウン返上とクラブへの支援打ち切りを表明[25]。新取締役の選任は否決された[26]

結局、2005年1月に人材派遣会社・クリーク・アンド・リバー社の社長で佐賀県出身の井川幸広を中心に出資して設立された「株式会社サガンドリームス」に対し、経営権を2400万円(譲渡費用2100万円、2004年12月-2005年1月の運営費用など300万円)で譲渡することを発表した。旧法人は解散(清算)となり、ようやく経営問題は解決となる。「サガンドリームス」の社長に就任した井川は、経営譲渡にあたって「サガン鳥栖のクラブ名の継続使用」「松本の続投」の2つの条件を出したが、条件は2つとも受け入れられた[27]

2005年 [編集]

クラブスローガン :「夢激闘

この年からのクラブスローガンは親会社のサガンドリームスに因んで、頭文字に「夢」を使用した漢字3文字のものが使われている。

Jでの実績がある宮原裕司氏原良二ビジュを完全移籍、一柳夢吾矢野大輔八田康介などを期限付き移籍で獲得。また、新居辰基飯尾和也髙地系治といった実力者を下部リーグから獲得した。ヘッドコーチには長年東京Vを指導した岸野靖之、コーチに元鹿島内藤就行を招聘した。

序盤は新加入の選手が多いことによる連携不足が目立ったものの尻上がりに調子を上げ、第15節終了時点では自動昇格圏内の2位にいた。しかし、第16節の草津戦での不可解なPK判定による敗戦(家本政明参照)や、DFを中心とした故障者の続出などで、最終的には8位で終えたが、圧倒的な強さでJ1昇格を果たした 京都から3勝を挙げる健闘も見られた。

個人では、新居が17得点を挙げてJ2の日本人得点王となった。また、鈴木孝明も15点を挙げ、2人で2004年のチーム総得点分の得点(32点)を稼いだ。

2006年 [編集]

クラブスローガン :「夢超戦

オフに元韓国代表でC大阪でも活躍したMF尹晶煥や、DF金裕晋など、韓国人選手を3人補強。日本人選手も大幅に入れ替え、積極的な補強を行った。攻撃陣では新居がJ2の日本人得点王になるなど選手に成長が見られ始めたことで、松本は「上位5チームの中で争うところまでいきたい」と述べた。また、この時期に松本の「総監督」就任が一部報道で噂されたが、結局は監督を続投した(ただし、翌年の松本は実際の指揮をヘッドコーチの岸野に任せている)。

ポゼッションサッカーを導入し、「DFは体を張って守る」「攻撃はとにかく前線にボールを放り込む」というJ2中位以下のチームでは典型的なサッカーからの脱却を目指した。シーズン序盤は新居でしか得点できない試合が続いて出遅れ、一時は最下位に転落した。しかし戦術が浸透してくると負けないサッカーを展開するようになる。後半戦では特に守備が安定したことで(第3クール以降の失点20はリーグ最少)優勝した横浜FCと同じ14勝を挙げ、第48節には4位に浮上。第49節の東京V戦に敗れてJ1昇格は無くなったが、最終順位は過去最高の4位となった。

2007年 [編集]

クラブスローガン :「夢必翔

松本が監督を勇退してGMに就任し、後任監督に岸野が昇格。水戸からFWアンデルソンを、この年の大学生GKで一番と評価された赤星拓を、J1クラブとの争奪戦を制して獲得した。その他にも、各ポジションに伸びしろがある若手選手を獲得した一方、2年連続でJ2の日本人得点王となった新居が千葉に移籍し、期限付き移籍中だった濱田武金裕晋が所属元に復帰。さらには、GKシュナイダー潤之介仙台へ移籍した。

開幕戦の福岡とのダービーで大敗。第1クールは前年以上に成績が悪かったが、第2クールからは、怪我人が復帰し、大分から移籍してきた柴小屋雄一を中心とした守備が安定し勝点25を積み上げたが、第3クールと第4クールと踏ん張れず、第47節の東京V戦に敗れてJ1昇格の可能性は消滅。

しかし、24得点をあげ、日本人得点王となった藤田祥史や、FWからサイドバックにコンバートされた日高拓磨ら、若手選手が成長。また、天皇杯4回戦で新潟を破った。

2008年 [編集]

クラブスローガン :「夢結蹴

オフには、尹晶煥山口貴之村主博正吉田恵といった30代の選手との契約を更新せずに、若手選手中心に補強を行った。その結果、最年長の選手は石田博行の28歳(1979年生まれ)となり、石田以外の選手は全員1980年代生まれとなった。

開幕戦で山形に勝ち、J2参戦10年目にして開幕戦初勝利を挙げると、その勢いでJ1昇格争いに絡んだ。この年1度も首位を明け渡すことなく優勝した広島との試合時間の兼ね合いで、クラブ史上初めて暫定首位に立ったこともある。8月にはゲームメーカーであるMF船谷圭祐を獲得したが、第3クールに入ると下位チームへの取りこぼしが目立ち、昇格争いから脱落。最終順位は6位であった。なお、同じ九州でライバルの福岡が8位に終わり、鳥栖は初めて福岡をリーグ戦の順位で上回った。天皇杯では大分神戸のJ1勢に勝利を収めて、ベスト8へ進出。

2009年 [編集]

クラブスローガン :「夢昇格

岸野体制3年目。藤田祥史大宮に移籍し、レンタル移籍の船谷圭祐が所属元の磐田に復帰した一方、ブラジル2部・3部のクラブで42試合29得点のFWトジン、MF島田裕介、元日本代表山田卓也や、右SB柳沢将之、左SB磯崎敬太などを獲得した。

しかし、開幕直後に3連敗、一時は最下位となった。5月に横浜FMより山瀬幸宏ハーフナー・マイクを、8月に大分からホベルト期限付き移籍で獲得。彼らの活躍もあり、J1昇格争いに絡める位置まで迫ったが、終盤の上位対決(仙台、湘南、甲府)で1分け2敗に終わった。

J2最終節では、高地系治の後半ロスタイムの2得点で、勝てば優勝となるはずであったセレッソ大阪を相手に奇跡的な逆転勝利を収めた。また、C大阪の優勝を目前で阻止した。なお、このシーズンをもって岸野が監督を退任した。

天皇杯では同じ佐賀県の佐賀県立佐賀東高等学校と対戦した。

また2009年より、九州地区のJリーグ・JFLチームが若手育成を目的として発足させた九州チャレンジャーズリーグに参加を決めたため、Jサテライトリーグから撤退した。

2010年 [編集]

クラブスローガン :「夢一岩

岸野の後任監督には前年からコーチとして現場復帰していた尹晶煥が昇格する予定だったが、尹が取得しているAFCのA級ライセンスではJリーグで監督を行えないと判断された。そこで、監督就任に必要なS級ライセンスをチームスタッフで唯一取得していたGMの松本が、GMは解職の上で4年ぶりに監督に復帰。尹はヘッドコーチとなり、実際のチームの指揮を主として執っていくのと同時に、S級ライセンスの取得も並行して行っていくことになった[28]

オフには岸野が監督に就任した横浜FC高地系治柳沢将之など主力を含む選手やコーチが多く移籍(鳥栖出身者の横浜FCへの移籍は鳥栖からの直接移籍に留まらず、シュナイダー潤之介や藤田祥史のように鳥栖から他チームを経て横浜FC入りした選手も複数いて、一部からは「横浜FCの鳥栖化」とも揶揄された)。ハーフナー、島田などもレンタル期間が終了し退団した。一方、福岡大学からMF藤田直之Honda FCからMF早坂良太、京都からFW豊田陽平、韓国の大学からMF金民友とDF呂成海等を多く獲得したが、前年の主力の多くがレンタル移籍だったに対して、ほとんどが完全移籍での獲得となった。

このように主力も含めて選手の入れ替わりが大きかったため、試合によってはGK以外のスタメン全員が新加入組ということもあった。そのため戦術の浸透や連携の構築に苦労し、前半戦は上位に付けていたが中盤以降は失速。結果的にはサガンドリームスの経営となってからはワーストの9位でシーズンを終えた。なおこの年は金民友が韓国代表となり、鳥栖から初めてのA代表選出となった。

2011年 [編集]

クラブスローガン :「夢結束

前年S級ライセンスを取得した尹が監督に就任。またGKコーチに高嵜理貴が就任。なお、松本は新たに設けられたアドバイザーに就任していたが、任期途中の2011年5月末に退任した。

この年も横浜FCへの移籍が多く、主将や選手会長も務めたDF飯尾和也、昨シーズン途中からレンタル移籍していたMF野崎陽介が完全移籍した。そのほかにも、DF日高拓磨札幌へ、MF衛藤裕徳島へ、MF長谷川博一が大分へ、それぞれ移籍し、GK浅井俊光、DF市原大嗣、MF朴庭秀、MF金浩男、MF下地奨が退団、GK首藤慎一は引退、FW萬代宏樹草津にレンタル移籍した。

補強は、DF浦田延尚、DF金明輝、MF永田亮太、MF米田兼一郎、MFキム・ビョンスクが完全移籍で、MF岡本知剛、MF國吉貴博がレンタル移籍で加入、GK奥田達朗、DF守田創、FW野田隆之介が新加入、DF田中輝和が完全移籍となり、また豊田のレンタル移籍期間を延長した。前年と異なり、この年は主力の多くを残留させることができた。さらにシーズン開幕後の4月30日に、故障の影響で前年限りで湘南を退団していた新居辰基が完全移籍で5年ぶりに復帰した。

開幕戦はFC東京に惜敗したが、東日本大震災による中断明けとなった第8節(2試合目)の横浜FC戦で岸野が退団してから初めて勝利すると勢いに乗り、5月終了時点で2位に浮上した。6月と7月はともに1勝ずつとやや苦戦し、シーズン試合数の半分(19試合)を消化した時点では7勝6敗6分(勝ち点27)の7位で、J1昇格圏内の3位とは勝ち点10差が付いていた。しかし、第24節(20試合目)から16試合連続無敗(11勝5分)で第31節(29試合目)で2位に再浮上した。第37節で3位の徳島と勝ち点差で並ぶ状況での直接対決で3-0で快勝した。

最終節は熊本戦に引き分けて、2位でシーズンを終了。12月の臨時理事会でJ1昇格が決定した。なお、1999年のJ2創設から13年目で初のJ1昇格となり、23得点を挙げた豊田がクラブ初のJ2得点王に輝いた。なお、鳥栖の昇格をもってJ2創設時の所属10チーム(いわゆるJ2オリジナル10)は、全チーム最低1回はJ1に昇格したことになる。

2012年 - (J1) [編集]

2012年 [編集]

クラブスローガン :「超!結戦

チーム初のJ1での戦いとなった2012年は尹が前年から引き続き監督を務めた。前年J2得点王となり去就が注目されていたエースFWの豊田陽平が完全移籍で残留したほか、MF國吉貴博もレンタルから完全移籍、MF岡本知剛はレンタル移籍期間を延長した。新戦力としては、MF船谷圭祐、DF犬塚友輔、DF小林久晃をそれぞれ完全移籍で、MF高橋義希、DF金根煥、MF水沼宏太、FWトジンがレンタル移籍で加入した。さらに、2011年特別指定選手だったFW岡田翔平、MF黒木晃平、DF黒木恭平が新加入した。高橋とトジンは3年ぶり、船谷は4年ぶりの復帰となった。

一方で、DF浦田延尚愛媛に、MF山瀬幸宏富山に、MF永田亮太山形に移籍、DF田中輝和、MF米田兼一郎、MF柳澤隼、MFキム・ビョンスクが退団、DF金明輝とFW新居辰基が引退、昨シーズン草津にレンタル移籍していたFW萬代宏樹山形へ完全移籍した。

J1昇格でも著しい戦力補強を行わなかったこともあり、開幕前は同じ昇格組の札幌と並んでJ2降格候補の筆頭に挙げられていたが、第3節の横浜FM戦でJ1初勝利を挙げると、J1昇格の要因ともなった豊富な運動量に、前線からのプレスからのショートカウンターを組み合わせた戦術が機能し[29]、ホームでの圧倒的な強さ[注 4]もあって、前半戦を6勝6分5敗の10位で折り返す[31]。後半戦に入っても大量失点の試合もあったものの好調を維持し、第27節からの3連敗もあったものの(シーズン中で唯一の連敗)、逆にそこから4連勝を果たし、途中の第31節・磐田戦での勝利により3節を残してJ1残留を決め[32]、首位争いにこそ絡めなかったものの第33節終了時には3位に浮上し、AFCチャンピオンズリーグ2013 (ACL) への出場権に手が届く位置にまでつけた。結果的に最終節で横浜FMに敗れACL出場はならなかったが、初昇格初年度のチームとしてはJ1が18チームとなった2005年度以降では最高順位となる5位でシーズンを終えた[33]。エースのFW豊田は得点ランキング2位となる19得点を挙げ、九州のチーム初となるJリーグベストイレブンに選出された。

J2クラブも参加していた2001年大会以来11シーズンぶりの参加となったナビスコカップでは、4試合を消化した時点で3勝1敗と、決勝トーナメント進出も狙える好位置につけていたが、残るアウェー2試合でいずれも大敗し、最終的にグループ5位となり決勝トーナメント進出を逃した。また、天皇杯では、ベストアメニティスタジアムで開催された2回戦でJFLカマタマーレ讃岐に0-1で敗れた。

2013年 [編集]

クラブスローガン :「超!奮迅。

2012年の好成績を受け、2012年10月25日の時点で、監督の尹晶煥との契約更新を発表。2013年1月4日、同監督との契約が2014年までの2年契約であることを、竹原稔サガンドリームス社長が公表。同時に、2012年度の収入が、J2時代の2011年のほぼ倍に相当する約14億円であったことも発表された[34]

選手では、DF犬塚友輔、DF守田創と契約を更新せず、期限付き移籍終了でMF岡本知剛広島に復帰)、DF金根煥横浜FMに復帰後新潟に完全移籍)、FWトジンが退団した。また、2012年途中から富山に期限付き移籍していたMF國吉貴博が富山に完全移籍、DF黒木恭平愛媛に、MF黒木晃平熊本にそれぞれ期限付き移籍することとなった。

一方、他クラブからの獲得オファーもあった(中には海外からの高額オファーもあったと本人が後日語っている[35])FW豊田陽平との契約を更新するなど主力選手の流出を最低限にとどめることに成功。また、期限付き移籍で加入していたMF高橋義希仙台から、MF水沼宏太横浜FMからそれぞれ完全移籍。その他の戦力補強は、福岡からMF末吉隼也のほか、オンセ・カルダスからMFジョナサン(2012年はパルメイラスでプレー)、ミジョナリオスからFWディエゴといずれも10代のコロンビア人選手を完全移籍で獲得し、横浜FMからDF金井貢史G大阪からDF金正也サンパウロFCからロニを期限付き移籍でそれぞれ獲得。新卒選手としては、2012年に特別指定選手としてプレーしたMF清武功暉、DF坂井達弥、DF岸田翔平の大卒3選手と、地元佐賀東高出身のFW平秀斗が加入した。

戦力補強 [編集]

鳥栖に加入する選手は長らく「他のチームから採ってもらえなかった選手」が多い傾向があったが、新居辰基高橋義希藤田祥史などの若手の成長で育成面での評価も高まっており、またビジネスホテルとして使われていた建物を選手寮として借り上げる[36]など、若手選手の住環境が改善されたことで、高卒・大卒の有力選手も集まるようになってきた。例を挙げると、2007年(平成19年)の新加入選手13人の内、7人が他のJクラブと獲得を争った選手であり、特に赤星拓谷口堅三はJ1クラブとの争奪戦を制して獲得した。なお、高卒・大卒選手獲得が活発化したのは、松本育夫が監督となった2004年(平成16年)以降である。

若手選手獲得に積極的な理由として、鳥栖の財政力では多額の移籍金を費やした補強に頼れないことから、若手を育てて主力に成長させるという意図がある。そのため、指導スタッフを充実させて、日本一厳しいと言われている練習に取り組んで鍛え上げている。

2009年(平成21年)度所属の選手の中には地元佐賀県の出身が1人もおらず、ホームタウンを置く都道府県の出身者がいないのはJリーグ36クラブ(当時)の中で唯一であった。2010年(平成22年)度は2種登録選手ながら田本宗平月成大輝の佐賀県出身選手が誕生している。

2011年(平成23年)以降は大卒の選手数人をベストアメニティが社員として雇用し、社員選手として在籍させる方針であると報じられている[37]。基本的にはチームの練習に参加し、月1回程度社員教育を行う予定で、引退後はベストアメニティの社員として雇用するという。

高卒 大卒
2004 高橋義希下司隆士 加藤秀典小井手翔太奈良崎寛
2005 中林洋次長谷川豊喜 鈴木孝明
2006 金正訓栫大嗣 浅井俊光衛藤裕蒲原達也廣瀬浩二日高拓磨藤田祥史
2007 太田弦貴副島貴司栗山裕貴谷口堅三ジョズエ 赤星拓内間安路野崎陽介
2008 島嵜佑下地奨朴炡慧
2009 サムエル 渡邉将基長谷川博一武岡優斗池田圭
2010 藤田直之呂成海金民友
2011 守田創 野田隆之介奥田達朗
2012 黒木晃平岡田翔平黒木恭平
2013 平秀斗 坂井達弥清武功暉岸田翔平

成績 [編集]

タイトル [編集]

個人 [編集]

スタジアム・練習場 [編集]

ホームスタジアムは、JR鳥栖駅に隣接するベストアメニティスタジアムである[1]。また、ホームゲームのうち年数試合を佐賀県総合運動場陸上競技場佐賀市)で開催している(主に芝生生育管理の関係で秋を中心に年1-2試合。2012年は春1、秋2の3試合)。かつては沖縄県総合運動公園陸上競技場沖縄県沖縄市)を公式戦で使用したことがあり、これは沖縄県初のJリーグ開催であった。

練習会場は鳥栖スタジアム北部グラウンド(鳥栖市北部グラウンド)、鳥栖市陸上競技場を主に使用し[1]、ベストアメニティスタジアム、佐賀県総合運動場陸上競技場、吉野ヶ里歴史公園小郡市陸上競技場福岡県)も利用する。2011年(平成23年)シーズンにJ1昇格を決めたことを受けて専用練習場やクラブハウスの建設が計画されている[38]

現所属選手 [編集]

クラブ情報 [編集]

マスコット [編集]

永久欠番 [編集]

2005年(平成17年)1月30日、Jリーグ初の永久欠番に制定。

佐賀大学教授で佐賀県サッカー協会理事長だった坂田は1994年(平成6年)、静岡県浜松市にあったPJMフューチャーズを佐賀県鳥栖市に誘致し、鳥栖Fを発足させた。クラブチーム中興の祖であり、経営難による鳥栖Fの消滅後も、設立活動に尽力を注ぎ、チームを復活させた。チームの再興を見届け、2000年(平成12年)1月7日死去(命日1月7日にちなみ意志を受け継ぐという意味で17番を永久欠番に制定)。

なお、他クラブがサポーターナンバーを「12」としているのに対し、サガン鳥栖は「17」を同ナンバーとしている。これには、スタメン11人の選手と控え選手5人の計16名(制定当時。現在は18名)の「次」として「共に戦う17番目の選手」という意味合いもある。

佐賀県プロサッカー振興協議会 [編集]

クラブ経営が行き詰まり、クラブ解散が濃厚となった2004年(平成16年)9月、佐賀県と県内各市町村は、県内の企業・団体などと共同でサガンの後援団体・「佐賀県プロサッカー振興協議会」を立ち上げた。この会では、サガンを県民参加型のクラブ運営にするため、ホームゲーム(鳥栖スタジアム、佐賀県総合運動場陸上競技場で開催)に各市町村の市民を招待するほか、サガンの選手を招いた少年サッカー教室や各種イベントを展開するというもの。また、2005年(平成17年)のシーズン開幕前には鳥栖スタジアムにこの会の事務所を移転させた。クラブ事務所との併設となり、チームとの連携をより強化することになった。

ホームゲーム招待事業 [編集]

2005年(平成17年)以降、「サガン・ドリームス」がチケットを提供する形で、佐賀県プロサッカー振興協議会によるホームゲームへの佐賀県民の無料招待事業が始まった。この事業により、それまでJ2で最低レベルの観客動員数が、2005年(平成17年)には前年比2倍以上に伸び、J1経験のないJ2チームでトップクラスの観客動員となった。ただし、全入場者数の約半数は無料招待によるもので、有料入場者数を伸ばすことが課題であった。社長の井川は2006年(平成18年)5月28日の株主総会で、Jリーグでは前例のない「有料入場者数の公表」を検討していると発表した(2006年(平成18年)には、公式ホームページのトップに「前節の入場者内訳」と題して、「公式入場者数」「有料入場者数」「地域招待者数」「招待地域」及び「累計有料入場者数」を公開した)。

ちなみに2006年(平成18年)シーズンの平均観客動員数はJ2で4位である。上位3チームは仙台、札幌、柏といずれもJ1経験チームでかつホームタウンが政令指定都市もしくは首都圏にあるチームであり、人口が6万人強の鳥栖市を本拠地としている鳥栖は健闘していると言える。しかし、J2ではトップクラスの座席数を誇る鳥栖スタジアムが本拠なだけに空席は目立った。

集客活動の歴史 [編集]

サガン鳥栖サポーター
2003年(平成15年)「Road To 25,000 In 鳥栖スタ」
ゴール裏のサポーターを中心に立ち上げた「Road To 25,000 In 鳥栖スタ」という大集客キャンペーン。2003年(平成15年)7月19日のアルビレックス新潟戦を皮切りに徐々に観客を伸ばす仕掛けだったが、アビスパ福岡とのダービー以外の客足は振るわなかった。
  • 08/02 vs福岡 目標10,000人(結果 5,756人) ※2003年(平成15年) 平均観客動員 3,172人
2004年(平成16年)「Road to 25000 震源地TOSU! 鳥栖スタを揺らせ」
前年の反省を踏まえて「Road to 25000 震源地TOSU! 鳥栖スタを揺らせ」という新たなキャンペーンが始まる。これは9月4日の福岡とのダービーに焦点を当てた集客キャンペーンで、チケットバンクという新しいシステムを導入。全国のサッカーファンから寄付されたチケットで地元の小学生を招待する企画だった。各地のJクラブサポーターを始め40団体が支援、2111人の子供達を招待することに成功。満員とはならなかったが、後にクラブ運営を引き継ぐ井川幸広の初観戦を促した。
  • 09/04 vs福岡 目標25,000人(結果 9,565人) ※2004年(平成16年) 平均観客動員 3,610人
2006年(平成18年)「夢プラン21 鳥栖スタジアムを満員にしたい」
鳥栖市が行っている子供の夢をかなえる青少年健全育成事業「夢プラン21」に鳥栖北小学校3年生の生徒の提案「鳥栖スタジアムを満員にしたい」が採用される。これによって行政、クラブのバックアップの元、スポンサーの1つであるブリヂストンも支援を表明。11月12日湘南ベルマーレ戦を目標に活動を行い、鳥栖スタジアムでのJリーグ公式戦最多(当時)となる18,231人の観客を集め、このことがブリヂストンの支援継続と年間スポンサー料アップにつながった[39]
  • 11/12 vs湘南 目標20,000人(結果18,231人) ※2006年(平成18年) 平均観客動員 7,465人
2007年(平成19年)「BSデー『どこまでも行こう!ブリヂストンサマーフェスタwith 吹奏楽団』」
2006年の「夢プラン」を引き継ぐ形でブリヂストンは支援を継続、「夏休み最後の思い出づくり」をコンセプトに8月最後のホームゲームを冠マッチ「ブリヂストンデー」(BSデー)として支援を行った。2007年(平成19年)8月25日の水戸ホーリーホック戦がBSデーに設定され、日本最高峰の企業吹奏楽団「ブリヂストン吹奏楽団久留米」と地元高校の吹奏楽団との協演など様々な企画が催され、当日は16,661人を動員する[39]も、目標の2万人越えは達成できず、平均観客動員数も前年を下回った。
  • 08/25 vs水戸 目標20,000人(結果 16,661人) ※2007年(平成19年) 平均観客動員 6,114人
2008年(平成20年)「BSデー 2万人の夢結蹴」
前年、2万人越えの目標を達成できなかった反省を踏まえて、サポーターも「×2運動」という新たな集客作戦を展開。ブリヂストン側もかつて無い規模の動員を2008年(平成20年)も実施し、9月20日のロアッソ熊本戦に21,029人という2万人越えを実現させる。その後、J1昇格を決めた2011年(平成23年)12月3日の熊本戦で記録した22,532人と言う記録が出来るまではクラブレコードとして残り続けた。
  • 09/20 vs熊本 目標20,000人(結果21,029人) ※2008年(平成20年) 平均観客動員 7,261人

スタジアムDJ [編集]

  • YUYA(鳥栖F時代から担当)

支援自販機 [編集]

地域におけるサガン鳥栖支援の提案として、球団が「サガントス支援自販機」の設置場所を募っている[40]。設置オペレーションにかかる費用が発生しない代わりに売上収益金をサガン鳥栖へ還元することを条件としており、球団側では実質的に「募金箱」の位置づけと考えている。コカ・コーラウエストがオペレーションを担当している。

ユニフォーム [編集]

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) [1]
FP(2nd) [1]
GK(1st) ピンク ピンク ピンク
GK(2nd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

チームカラー [編集]

  •      ブルー[1]     ピンク[1]

ユニフォームについて [編集]

  • アクセントやチームエンブレムなどで使われているピンクは、鳥栖Fのチームカラー(ピンクと紺)を継承"[41]
  • サガン鳥栖発足当時からユニフォームは紺系の青を基調としていたが、2006年(平成18年)シーズンからは紺系から水色(やや緑がかった水色)に変更された。この色は「サガンブルー」と名付けられ、佐賀平野の大地と澄んだ大空をイメージしている。
  • 2011年(平成23年)から使用するユニホームは「ブルー・ピンク」という基本カラーはそのままだが、デザインアドバイザーとして14代酒井田柿右衛門が監修に携わり、ラインの入れ方などの提案を行なっている。
  • 2013年からのユニフォームは、ニューバランス傘下のアメリカのスポーツ用品メーカー・ウォーリア・スポーツ英語版とサプライヤー契約を締結した。サガン鳥栖との契約は同社にとってリヴァプールFCプレミアリーグ)、セビージャFCリーガ・エスパニョーラ)に次ぐ3クラブ目、アジアでは初のサプライヤー契約だという[42]

ロゴ・エンブレム [編集]

2005年(平成17年)までのエンブレムは、クラブ名の頭文字「S」と「T」の組み合わせと、佐賀県の地図をモチーフとしたものだった[41]2006年(平成18年)は「J1昇格への元年」と位置付け、ロゴとエンブレムを一新。新しいエンブレムはカチガラス(筑紫平野に生息する天然記念物カササギ)を取り入れ、このカチガラスはsagantosuの隠し文字で描かれている[41]。また、ピンクとサガンブルーと、更に5色(上から、青、黄、黒、緑、赤)の勝利(Victory)の頭文字であるVが描かれており、この5色は五大陸を意味し、『True champions in the hearts of all who love Sagantosu.』(「サガン鳥栖を愛する全ての人と共に、真のチャンピオンになる」という意味)がエンブレムを引き締めている[41]。新しいロゴは、今までよりシャープなイメージで強さを感じるデザインにし、ロゴの上下の飾りが「V」のイメージで、勝利にこだわっている。

ユニフォームスポンサー [編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
ディーエイチシー DHC 2008年-
背中 ブリヂストン BRIGESTONE 2006年- 2013年より上段にシンボルマーク「B」が入る
佐賀新聞社 佐賀新聞 2012年-
パンツ ベストアメニティ BEST AMENITY 2010年-

トレーニングウェアスポンサー [編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記
練習着胸・ビブス ナチュラルライフ らいふ薬局
練習着背中 髙山質店 gage
練習着袖 ロキテクノ ROKI

ユースユニフォームスポンサー [編集]

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出チーム
ブリヂストン BRIDGESTONE U-18・U-15・U-15唐津
背中 村岡屋 村岡屋 さが錦 U-18・U-15・U-15唐津

ユニフォームサプライの遍歴 [編集]

歴代ユニフォームスポンサー年表 [編集]

年度 背中 パンツ サプライヤー
1997 - - DIREC TV - NIKE
1998 -
1999
2000 東洋新薬
2001 アサヒ緑健
2002 -
2003 - DELL'ERBA
2004 PRINCESS TENKO TOSU 参勤交代の湯
2005 - -/Value Link -/CREEK&RIVER -/エイチ・エス証券 Mizuno
2006 BBIQ[注 5] UMBRO BRIDGESTONE BTU UMBRO
2007 -
2008 DHC BBIQ SUMCO
2009 SUMCO -
2010 BEST AMENITY
2011
2012 佐賀新聞
2013 Warrior

注釈 [編集]

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  1. ^ 「ホームタウンの中心となる自治体」であれば鹿島アントラーズ鹿嶋市、66,648人)やザスパ草津草津町、6,845人)の方が小さいが、鹿島は鹿嶋市を含む茨城県南部の5市を、草津は同町と、試合上の本拠地である前橋市をメインとした群馬県全域をホームタウン活動区域としている。
  2. ^ 当初は熊地が滞在していた佐賀市内のビジネスホテルや佐賀県サッカー協会の事務所などで作業をしていた。
  3. ^ 後にこの2つの記録はギラヴァンツ北九州が2010年から2011年にかけて更新している。
  4. ^ リーグ戦では11勝3分3敗(2012年シーズンの全18クラブを通じて最高勝率[30])、ナビスコカップでは3勝負けなし。リーグ戦では第14節の川崎戦までナビスコカップ含めホームでは負けなしだった上、3敗のうち1敗は佐賀県総合運動場陸上競技場での名古屋戦のため、ホームのベストアメニティスタジアムでの公式戦敗戦はリーグ戦2敗および天皇杯2回戦対カマタマーレ讃岐戦敗戦の計3敗のみ。
  5. ^ 「BBIQ」は九州電力の子会社である九州通信ネットワーク (QTNet) の光ブロードバンドサービスの名称だが、実際にスポンサードしていたのは九州電力佐賀支店である。

出典 [編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v クラブガイド:サガン鳥栖 Jリーグ公式サイト
  2. ^ a b c d e f g 2011年度Jクラブ情報開示 資料 (PDF) Jリーグ公式サイト
  3. ^ 日本サッカー協会、サガン鳥栖承認 - 佐賀新聞1997年2月14日
  4. ^ 新生「サガン鳥栖」スタート - 佐賀新聞1997年2月17日
  5. ^ サガン鳥栖に2選手入団、地場企業が確保 - 佐賀新聞1997年3月11日
  6. ^ サガン98年度赤字3173万円 - 佐賀新聞1999年3月22日
  7. ^ サガン鳥栖、田中ら7人解雇 - 佐賀新聞1998年11月17日
  8. ^ サガン鳥栖に新戦力 - 佐賀新聞1999年1月19日
  9. ^ サガン臨時株主総会「高祖社長」を承認 - 佐賀新聞2001年9月21日
  10. ^ サガン鳥栖、高祖氏が社長辞退へ - 佐賀新聞2001年10月23日
  11. ^ サガン社長に古賀氏 - 佐賀新聞2002年3月29日
  12. ^ サガン古賀社長辞任へ - 佐賀新聞2002年11月23日
  13. ^ サガン監督に千疋氏 - 佐賀新聞2002年12月24日
  14. ^ 「叶った夢」サガンJ1昇格 <上> サポーターが支えた17年 - 読売新聞九州版2011年12月5日
  15. ^ サガン、古賀社長ら辞任へ - 佐賀新聞2003年10月11日
  16. ^ ニュースさがTOP サガン鳥栖、新社長候補に楠田氏 - 佐賀新聞2003年10月21日
  17. ^ サガン鳥栖、新経営陣が就任撤回 - 佐賀新聞2003年12月10日
  18. ^ 創価学会「ニッポン洗脳」 の不気味 - 週刊文春2005年3月31日号
  19. ^ J2鳥栖の松本育夫監督、球団事務所に出入り禁止 - 日刊スポーツ 2004年11月15日
  20. ^ Jリーグ、サガンへの出資表明 - 佐賀新聞2004年2月15日
  21. ^ ニュースさがTOP Jリーグ、鳥栖支援策を撤回 - 佐賀新聞2004年7月2日
  22. ^ ニュースさがTOP サガン鳥栖・古賀社長退任へ - 佐賀新聞2004年10月1日
  23. ^ サガン新体制なお混とん - 佐賀新聞2004年11月24日
  24. ^ 経営陣は迷走、社員5人解雇 - 日刊スポーツ2004年11月24日
  25. ^ サガン経営井川氏受諾、チェアマン「歓迎」 - 佐賀新聞2004年11月27日
  26. ^ サガン鳥栖新取締役選任を否決 - 佐賀新聞2004年12月6日
  27. ^ サッカーJ2サガン鳥栖に関するお知らせ 株式会社クリーク・アンド・リバー社プレスリリース 2004年11月26日
  28. ^ 2010シーズン 松本GMが監督就任、尹コーチがヘッドコーチ就任 サガン鳥栖ニュースリリース 2009年12月7日
  29. ^ 藤島大 (2012年11月16日), “<スモールクラブのJ1サバイバル術> サガン鳥栖の浪漫飛行。~“降格候補筆頭”躍進の秘訣~”, Sports Graphic Number (816), http://number.bunshun.jp/articles/-/293738 2012年12月9日閲覧。 
  30. ^ ホーム・アウェイ別勝敗表 2012Jリーグ ディビジョン1
  31. ^ サガン鳥栖J1初参戦、前半回顧 健闘10位 - 佐賀新聞2012年7月10日
  32. ^ J1:鳥栖、残留確定 磐田の猛反撃しのぎ - 毎日新聞2012年11月7日
  33. ^ 【鳥栖】初昇格チームとして最高順位5位 - 日刊スポーツ2012年12月1日
  34. ^ J1鳥栖 収入倍増14億円、尹監督と新たに2年契約 読売新聞 2013年1月5日付記事
  35. ^ 目指すはサッカーA代表 星稜高OBの豊田、鈴木が躍進誓う - 北國新聞2013年1月8日
  36. ^ 設備充実 サガン鳥栖が元ホテルに選手寮 - 佐賀新聞2009年2月28日
  37. ^ ベストアメニティ、サガン鳥栖選手を社員採用 - 佐賀新聞2010年12月10日
  38. ^ 「叶った夢」サガンJ1昇格 <下> 専用練習場の設置急務 - 読売新聞九州版2011年12月7日
  39. ^ a b J.LEAGUE NEWS PLUS vol.1 - サガン鳥栖 史上最高入場者数達成の舞台裏・小学生の夢が紡いだ熱狂スタジアム (PDF) - Jリーグ公式サイト内
  40. ^ 自動販売機設置案内 - サガン鳥栖公式サイト内
  41. ^ a b c d エンブレムの世界 サガン鳥栖『サッカーマガジン』2012年2月21日号、ベースボール・マガジン社、2012年、雑誌23883-2/21, 052頁。
  42. ^ “2013シーズン ユニフォームサプライヤー決定のお知らせ” (プレスリリース), 株式会社サガンドリームス, (2012年12月21日), http://www.sagantosu.jp/news_detail.asp?c_idx=10000674&contents_code=100104 2012年12月21日閲覧。 

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]

公式サイト
ニュース記事