徳島ヴォルティス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徳島ヴォルティス
原語表記 徳島ヴォルティス
愛称 ヴォルティス
クラブカラー
創設年 1955年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン J2
ホームタウン 徳島市鳴門市美馬市
松茂町板野町北島町
藍住町を中心とした徳島県全県
ホームスタジアム ポカリスエットスタジアム
収容人数 20,000
代表者 髙本浩司
監督 美濃部直彦
公式サイト 公式サイト

Template(ノート 解説)サッカークラブpj

徳島ヴォルティス(とくしまヴォルティス、Tokushima Vortis)は、日本徳島県徳島市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

[編集] クラブの概要

[編集] ホームタウン

徳島市鳴門市美馬市松茂町板野町北島町藍住町を中心とした徳島県全県。

[編集] 運営会社

[編集] ホームスタジアム

徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場(ポカリスエットスタジアム)
徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場(ポカリスエットスタジアム)
※1993年までは徳島市にある大塚製薬徳島工場グラウンド(ナイター設備あり)を試合でも使用していた。また、一度Jリーグ昇格構想が上がった1993~95年ごろに、徳島県名西郡石井町の県有地にサッカー・ラグビー専用スタジアムの「徳島県スタジアム」(仮称)を建設する方針だったが、Jリーグ参戦見送りを受けてこのスタジアム建設計画も白紙・凍結された。Jリーグ昇格後の現時点でも新スタジアムの建設計画はなされていない。(後述

また、J2参戦後はJリーグチームのない高知県香川県でもホームゲームを行っており、2005・2006年は高知県立春野総合運動公園陸上競技場で、2007年は香川県立丸亀競技場で各1試合ずつホームゲームを行っている。

[編集] 応援スタイル

徳島ヴォルティスのサポーターは得点を取ると阿波踊りを踊る事で有名である。これは大塚FC時代からの伝統。ヴォルティスのJリーグ加盟が決まったときもクラブ事務所で阿波踊りを踊ったほどである。また応援に用いる鳴り物としては太鼓が一般的であるが、徳島では阿波踊りに用いる(かね、鉦鼓とも呼ぶ)も併用される。この応援スタイルはプロ野球四国・九州アイランドリーグ徳島インディゴソックスでも取り入れられている。

[編集] マスコットキャラクター

2008年現在、地名+ニックネームで表記されているJ1・J2の29チームの中で唯一マスコットが存在しない。 また、ホームゲームや徳島県内で開催されるイベントでは非公式マスコットの「ボール君」がクラブを代表して参加する。

[編集] クラブの歴史

[編集] 旧JFL・大塚FCヴォルティス徳島

徳島ヴォルティスの母体は1955年に結成された大塚製薬サッカー部である。大塚製薬は徳島県を代表する大企業で、同サッカー部は1978年開始の四国社会人リーグで第1回から3年連続優勝する強豪だった[1]。その後、1985年には徳島県リーグに降格したが、1989年には四国リーグへ復帰、翌1990年には一気に日本サッカーリーグ(JSL)2部へ初昇格して、そのまま1992年に新発足のジャパンフットボールリーグ(旧JFL)1部へ参加した。大塚製薬は四国最強の社会人サッカーチームとなったが、1993年にリーグ戦を開始するため全国から参加チームを募っていたJリーグには参加しなかった。

Jリーグが開幕して爆発的な人気を博すると、大塚製薬サッカー部をプロ化して徳島県に四国から初めてのJリーグチームを誘致しようという動きが活発になり、徳島県サッカー協会が主体となって約24万人の署名が集まった1994年に本格的な準備が進められた。本拠地は大塚製薬が本拠地として使っている鳴門陸上競技場や徳島市球技場ではなく、徳島県営の「徳島県球技場」(仮称)を新規に建設し(ホームスタジアムの項目を参照)、大塚製薬を責任企業とした新会社がクラブの運営に当たるという計画がまとまったが、当時のJリーグは1リーグ制で、収入に見合わない額まで運営費が高騰していた。徳島の新チーム計画でも年間運営費20億円以上、補填が必要な赤字額は年6-7億円と見込まれていた。この多額の出費に対する疑問が生まれ始め、大塚製薬を一代で大企業に育て上げた大塚正士元会長の強硬な反対が決め手となって[2]、同年9月13日に準会員申請を断念した。

1995年、大塚製薬サッカー部は従来の体制のまま、「大塚FCヴォルティス徳島」という愛称で活動する事になった。ヴォルティスとは古くから有名な鳴門海峡渦潮からヒントを得たもので、イタリア語で「渦」のヴォルティチェ(VORTICE)に、T-土佐(高知県)、I-伊予(愛媛県)、S-讃岐(香川県)と四国各地の旧国名を絡ませ、四国全域からの応援を受けようという姿勢を表現したものと説明された。他のJFLクラブの多くがプロ化してJリーグを目指す一方、大塚FCヴォルティス徳島はアマチュアを堅持し、JFL中位グループの一員となった。1998年には翌年に創設されるJリーグ2部(J2)への参加チームが発表されたが、大塚FCはこのJリーグ拡大に参加しなかった。一方、J2創設により消滅する予定だったJFLだが、アマチュアの全国リーグ存続を求める本田技研工業サッカー部(ホンダFC)の要望を入れて1999年から「日本フットボールリーグ」(新JFL)の発足が発表され、大塚製薬サッカー部はこちらへの参加を発表した。

なお、当時はブラジル人選手はプロ契約を結び、日本人選手はプロ選手と大塚製薬社員のアマチュア選手が混在していたが、Jリーグへの道が見えなくなった平岡靖成京都パープルサンガ)や土居義典川崎フロンターレ、当時JFL)はJリーグクラブやJリーグを目指すクラブへと移籍していった。これに対し、マリノス戦に日本代表DFの井原正巳からVゴールを奪ったFW関口隆男はアマチュアとして大塚FCに残留した。

大塚FCは天皇杯全日本サッカー選手権大会に打倒Jリーグチームという強い意気込みで臨み、1994年の第74回大会ではこの年にJFLから昇格したジュビロ磐田、1996年の第76回大会では前年のJリーグチャンピオンの横浜マリノスを破った。この2勝が、現在の徳島ヴォルティスを含め、Jリーグ1部チームに公式戦で勝利した全てである。1998年12月12日、大塚FCは第78回天皇杯3回戦で横浜フリューゲルス博多の森球技場で対戦した。この大会を最後に横浜マリノス(現在の横浜F・マリノス)への吸収合併が決まっていたフリューゲルスに対して大塚FCは善戦したが、2-4で敗れた。これは「ヴォルティス徳島」の名前で臨む最後の試合となり、ゴールを決めたブラジル人MFアウミールと日本人FW磯山和司はそれぞれJ2のFC東京大宮アルディージャへと移籍した。

[編集] 新JFL・大塚製薬サッカー部

1999年、大塚FCは大塚製薬サッカー部に登録チーム名を戻し、旧JFLからJ2に参加しなかったアマチュアチームを中心に結成された日本フットボールリーグ(新JFL)に参戦して6位となった。 新JFL参加チームのうち、前年の旧JFLでは大塚FCはHonda FCに次いで2番目の成績だったが、エジーニョ監督やブラジル人選手全員の退団によるチーム力低下は顕著に表れた。 しかし、同年にコーチから昇格した田中真二監督は徐々にチームの成績を引き上げ、2000年には4位、2001年シーズンには2位となった。

2002年の第4回JFLでは17試合10勝7分というリーグ無敗記録を作ったが [3]、 3位に終わり、Honda FCのリーグ優勝を許した。 第82回天皇杯3回戦で名古屋グランパスエイトに敗退したのが、この年の公式戦で唯一の黒星だった。 なお、この年には土居が川崎から復帰し、プロ選手として最後のシーズンを過ごした後、翌年にアマチュアとして関東社会人リーグ1部の青梅FCタイケンへ移籍していった。

2003年、大塚製薬はJFL初制覇に挑んだ。勝ち点差5の首位で迎えた後期第14節は2位のHonda FCとアウェーの本田都田サッカー場で対戦となり、3-3で引き分け、残り1試合を残してJFL初優勝を達成した。 第83回天皇杯は1回戦、2回戦を大勝し、3回戦は一昨年に0-5と大敗を喫した相手ジェフユナイテッド市原に再び挑むもこの年も0-5の大敗。Jとの差を見せつけられる。なお、この年限りで大塚製薬のエースとして活躍してきた関口隆男が引退し、ジュニアコーチ(2008年はU-18コーチ)へと転身した。

[編集] J2参入への長い道

1994年の準会員申請断念以降、大塚製薬サッカー部は会社の公式見解に従って、自らのJリーグ参加を否定し続けていた。 1998年には現職の社長が贈賄容疑で逮捕され(翌年に執行猶予付き有罪判決)、2000年には大塚正士が死去し、大塚製薬にはサッカー部の運営に関する大きな方針転換を行う機運は生まれなかった。

しかし、徳島県にJリーグクラブを作る、あるいは大塚製薬サッカー部を新たなJリーグクラブの母体にしようとする希望の火は、AWA SOULなどをはじめとした大塚製薬サッカー部のサポーターグループに灯され続けていた。 サポーター達はスタジアムで「ヴォルティス徳島」コールを続け、Jリーグへの封印が解かれる日を10年以上待った。

このような閉塞状況で、最初に動いたのは徳島県サッカー協会だった。 協会には2002年W杯時、歴史的に関係(バルトの楽園を参照)があり、本国からの入国や韓国・日本の遠隔地への移動に利用する関西国際空港、及び試合会場がある大阪市神戸市へ近い鳴門市をドイツ代表がキャンプ地に選ぶのではないかと見られていたが、ドイツからの現地視察団に対する徳島県の冷淡な態度や、主要練習施設になる鳴門陸上競技場の貧弱さがマイナスとなり、大詰めで宮崎市シーガイアに逆転を許した苦い経験があった。 そこで協会は県内トップチームの強化の必要性を痛感し、もし大塚製薬にその意思がないならば自前でクラブを作ってJリーグを目指そうと決断し、2002年徳島FCカバロス2002を発足した。 最下層の徳島県リーグ3部B(J1から数えると7部相当)からのスタートとなったが、県協会のバックアップで早期の昇格を目指しており、毎年昇格が叶えば2008年にJ2へたどり着ける計算だった。

続いて、香川県で動きがあった。 徳島の隣県で交通の便が良い香川県は、1998年の全国高等学校総合体育大会の主会場として収容人員3万人を数える四国最大の競技場、香川県立丸亀競技場を建設していた。 2000年からはJ1リーグ戦も開催し、天皇杯では毎年準々決勝を誘致するほどの積極的な活動を続ける香川県サッカー協会は、県内企業と共に「香川県にJリーグクラブを作る会」を組織し、この組織への大塚製薬サッカー部の譲渡を図った。 しかし、2002年、香川県側の申し入れに対し、大塚製薬は「サッカー部はあくまでアマチュアで、徳島のチームとしてJFLで活動する」という現状維持の姿勢を示し、その計画は失敗に終わった [4]

2003年4月、徳島県知事に県民環境部長として総務省(旧自治省)から出向していた飯泉嘉門が当選した。 飯泉の選挙公約には「徳島にJリーグクラブを作る」という一項目があり、徳島県サッカー協会によるプロチーム設立についての公開質問に対しても、極めて慎重な態度を崩さない前知事大田正に対して、飯泉は県のプロジェクトとして実現させると明快に答えた。

当選後、飯泉はその公約通りにJリーグクラブの創設へと精力的に取り組み始め、県庁内にプロジェクトチームを組織し、自らも大塚製薬や徳島県サッカー協会との交渉を始めた。 飯泉は埼玉県財政課長として埼玉スタジアム2002の建設予算獲得のために働き、さらに2002年W杯では2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会(JAWOC)の情報通信専門委員として大会運営に関わっていたため、サッカーを通じた地域社会の形成に精通しているという自負があった。 また、Jリーグバブルの1994年と違い、既にJ2が定着し、3億円前後での年間予算でもクラブの運営が可能という経営モデルが示されている事も飯泉は承知していた。 検討の結果、新チームの母体は大塚製薬サッカー部とし、本拠地は鳴門陸上競技場の小規模改修で予算を抑えるという案になった。

飯泉新知事の行動に対し、選挙で飯泉を支援した大塚製薬はサッカー部の譲渡を認めた。 また、大塚製薬は新会社へ出資するとともに新チームのユニフォームの胸スポンサーとして4億円の年間運営費の多くを負担し、グループ内の各企業もこれにならう事などが決まった。 しかし、新チームは県民チームであり、運営会社は大塚グループから外す事、練習拠点は徳島県が早期に整備して大塚製薬所有のグラウンドから移転することなどが定められた。 林威宏大場啓片岡功二などの大塚製薬の社員選手はJ2参加後に大塚製薬の出向社員として2シーズンの猶予が与えられた後、サッカーを引退して社業に専念するか、大塚製薬を退社してプロ契約を結ぶかのどちらかを選ぶ事になった。

一方、徳島県サッカー協会は飯泉構想に抵抗した。 既にカバロスを発足させ、大塚製薬の影響を排除したJリーグクラブの創設を目指していたためだが、カバロスのJリーグ参加にはまだ長い年月が必要で、大塚不在でのJリーグクラブ運営は現実性が乏しい事などから妥協し、カバロスを新チームの下部組織に移管する事で合意した。 さらに、焦点となっていた新チームの名称でも、大塚色が強すぎるもののサポーターが熱望していた「ヴォルティス」の復活を認めざるを得なかった。 ただし、今回は「徳島」を愛称の前に付け、"tis"と徳島以外の四国3県を関係づける意味を除去する(愛媛県では同じJFLに所属する愛媛FCがJリーグ昇格に向けて活動中だった)などの手直しが行われ、2004年7月に2005年からの新チーム名「徳島ヴォルティス」が発表された。

[編集] 大塚製薬最後の優勝

周囲でJリーグ参入への動きが急速に進む中、2004年の第6回JFLでも大塚製薬サッカー部は好調だった。

後期第6節まで18勝3分、前年からの無敗記録を33試合に伸ばし(補足3.)、独走態勢を築いた。 リーグ戦が中断した8月にはサウジアラビアでの国際親善大会、「アブゥドラ・アルファイサル・プリンスカップ」に田中監督と4人の選手が参加し、貴重な経験を積んだ [5]。 後期第10節、10月24日豊田市運動公園陸上競技場で行われたデンソーサッカー部戦で11-0で圧勝した段階で、J2参入の成績面での条件である2位以内を確定させ、事実上Jリーグ加盟が決定した。 11月21日に開かれたホンダFCとのホンダ都田サッカー場での対戦を2-0で勝利し、横浜FC(1999年-2000年)、ホンダFC(2001年-2002年)に次ぐ史上3チーム目のJFL2連覇を達成した。 ホンダ(本田技研)とは旧JFLの1994年から同じリーグに所属し、共に企業チームの強豪として各クラブのJリーグ昇格を阻止する「門番」の役割を果たしてきたが、この試合が最後の対戦となったため、双方のサポーターによる惜別のエールが交わされた。 大塚製薬は12月5日のリーグ最終戦(後期第15節、鳴門)も試合終了間際の大坪博和の決勝ゴールで横河武蔵野FCを2-1と下し、優勝に花を添えた。

そして、翌12月6日、Jリーグは徳島ヴォルティスのJ2参入を承認し、四国初のJリーグクラブが誕生した [6] 。 JFLでは21ゴールを挙げて得点王になった林が最優秀選手に選ばれ、得点ランク2位(20得点)の大島康明とベストイレブンでFWの2人を独占した。 他にも田中監督が最優秀監督、ベストイレブンにはDFで谷池洋平石川裕司、MFで片岡と筒井紀章の計6人が選ばれ、大塚製薬サッカー部は最高の形で歴史を締めくくり、新しい時代にチームを引き継いだ。

[編集] J2・徳島ヴォルティス

2005年より、当初単独チームでJリーグ入りを目指していた「徳島FCカバロス2002」を徳島ヴォルティスに移譲し、第1種のアマチュアチーム「徳島ヴォルティス・カバロス」に移行した。主として将来のプロ入りや国民体育大会出場を目指すアマチュア選手によって構成され、プロチームとユースチームの中間的な位置づけを担う事になった[7]2005年シーズンは負傷した林が1試合(開幕戦)のみの出場という誤算があったものの、新加入した羽地登志晃(12得点)と小林康剛(11得点)のFW2人が二ケタ得点を挙げる活躍を見せ、伊藤彰大森健作高橋範夫などの他の新戦力も片岡や大場などとうまく調和したチームは12チーム中9位に入り、7位の湘南ベルマーレとは勝ち点2差と善戦した。

2006年、2月5日に「徳島ヴォルティス・カバロス」が四国リーグ昇格を機に「徳島ヴォルティス・アマチュア」と名称を変更し、下部組織の充実が一層図られたが、トップチームは下位に低迷した。9月28日、大塚製薬から8年間チームを率いた田中真二監督が辞任し、東泰ヘッドコーチが新監督に就任したが、就任直後に行われた愛媛FCとの四国ダービーで敗れ(この年にJFLから昇格した愛媛とは通算4試合で1分3敗)、チームは浮上しないまま最下位の13位でシーズンを終えた。

全日程終了後、12月8日に今井雅隆新監督の就任が発表された。また、2年前の取り決め通りに大塚製薬の社員選手は翌年以降の進路選択を迫られ、大場は現役を引退して社業に専念、片岡は徳島とプロ選手契約を結んで大塚製薬を退社、林は選手を引退して徳島のユースコーチに就任など、それぞれの道を歩んだ。12月19日にはクラブ事務所が板野郡板野町犬伏にある徳島スポーツビレッジ内に移転した。この土地は板野町と大塚製薬が無料で貸与し、新年度からは練習場が徳島市内の大塚製薬徳島工場グラウンドからこちらに移される事になった。

2007年は今井新監督での巻き返しを図ったが、勝ち点はまたも伸び悩んだ。クラブはシーズン中にも横浜F・マリノスから塩川岳人の獲得、ヴァンフォーレ甲府との間で羽地と長谷川太郎の交換トレード(長谷川はレンタル移籍)などの戦力整備を行ったが、効果は現れなかった。特に第43節から第50節にかけての7試合連続無得点敗北は、この期間を挟む757分連続無得点と共にJリーグ記録を作るほどの極度の得点不足となり、最終成績では勝ち点33で2年連続の最下位に終わった(合計31得点もリーグ最少)。

2008年、徳島は前年まで京都サンガF.C.の監督だった美濃部直彦を新監督に迎え、小林・長谷川・青葉幸洋・筒井・大森らの退団(青葉・筒井・大森の3人は現役引退)を西河翔吾藤田泰成米田兼一郎などJ1経験を持つ選手の加入で対応する補強を行った。5月にはドゥンビア・セイドゥがコートジボワール代表に選ばれた。日本代表ではないが、徳島ヴォルティスからの代表選出は史上初となる。しかしそのドゥンビアが6月にBSCヤングボーイズに移籍することになった。

  1. ^ この時には愛媛県帝人サッカー部がJSL2部で活動中。
  2. ^ 出典: Number Web、「徳島ヴォルティス 踊る阿呆がやってくる」[1]。拒絶理由の一つに、高額なプロ契約選手は大塚製薬の社長よりも給料が高くなるのを嫌ったという説がある[要出典]
  3. ^ 新JFLでの1シーズン無敗記録はこの時のみ。この時の33試合連続無敗はJFL記録で、2003-04年の2シーズンにかけて大塚自身が作ったタイ記録と共に現在も残っている。
  4. ^ 以後、香川県サッカー協会は県内最強だった四国リーグ所属のサンライフFC(旧・香川紫雲FC)をJリーグクラブの母体とする方針へ転換し、2006年カマタマーレ讃岐が生まれた。
  5. ^ メンバーは、GK川北裕介、DF石川、MF筒井、FW大島。
  6. ^ 同時に、3位だったザスパ草津群馬県)のJ2参入も承認された。ザスパは最終節にHonda FCに0-3と大敗して3位に転落し、昇格条件を満たさなくなったが、2位に上がったHondaとは同じ勝ち点だった事、11月5日の後期第12節(群馬県陸)で、同年のJFLで最多の1万3743人の観衆を集めて大塚製薬に2-0と快勝した事が評価された。 一方、5位に終わった愛媛FCのJ2参入は見送られ、四国2チームの同時昇格とはならなかった。
  7. ^ この事例はジェフユナイテッド市原・千葉の下部組織、ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズと同様のケースである

[編集] チーム成績・歴代監督

年度 所属 試合 勝点 勝利 V勝 PK勝 引分 PK負 敗戦 順位 監督
1988年 徳島県1部 優勝 山出邦男
1989年 四国リーグ 14 27 13 - - 1 - 0 優勝
1990年 JSL2部 30 35 11 - - 2 - 7 10位
1991年 30 50 15 - - 5 - 10 6位
1992年 JFL1部 18 18 4 - - 6 - 8 8位
1993年 18 - 10 - - - - 8 4位 石井肇
1994年 JFL 30 - 18 - - - - 12 6位
1995年 30 57 19 - - - 0 11 5位
1996年 30 55 18 - - - 1 11 7位 エジーニョ
1997年 30 41 13 1 0 - - 16 7位
1998年 30 38 11 2 1 - - 16 9位
1999年 24 25 7 1 - 2 - 14 4位 田中真二
2000年 22 40 12 2 - 0 - 8 4位
2001年 30 68 21 - - 5 - 4 2位
2002年 17 37 10 - - 7 - 0 3位
2003年 30 72 23 - - 3 - 4 優勝
2004年 30 78 25 - - 3 - 2 優勝
2005年 J2 44 52 12 - - 16 - 16 9位
2006年 48 35 8 - - 11 - 29 13位 田中真二東泰
2007年 48 33 6 - - 15 - 27 13位 今井雅隆
2008年 美濃部直彦

[編集] 獲得タイトル

  • 1989年 四国サッカーリーグ優勝、地域リーグ決勝大会準優勝
  • 2003年 新JFL第5回優勝
  • 2004年 新JFL第6回優勝

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st)
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 2nd
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 2nd

[編集] チームカラー

  • チームカラーは青(

[編集] ユニフォームスポンサー

[編集] ユニフォームサプライ

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背番号 パンツ サプライヤー
2004年 POCARI SWEAT Amino-Value - - Mizuno
2005年 POCARI SWEAT アース 大塚製薬 - Mizuno
2006年 POCARI SWEAT アース 大塚製薬 - Mizuno
2007年 POCARI SWEAT アース 大塚製薬 - Mizuno
2008年 POCARI SWEAT アース 大塚製薬 AXAS Co. Mizuno

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク