サンフレッチェ広島
| サンフレッチェ広島 | |
|---|---|
| 原語表記 | サンフレッチェ広島F.C |
| 愛称 | サンフレッチェ、サンフ、サンフレ、熊 |
| クラブカラー | 紫 |
| 創設年 | 1938年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| 所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン1 (J1) |
| ホームタウン | 広島県広島市 |
| ホームスタジアム | 広島ビッグアーチ |
| 収容人数 | 50,000 |
| 運営法人 | 株式会社サンフレッチェ広島 |
| 代表者 | 本谷祐一 |
| 監督 | |
| 公式サイト | 公式サイト |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
サンフレッチェ広島(サンフレッチェ ひろしま、Sanfrecce Hiroshima)は、広島県広島市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] 概要
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | 非上場
|
| 略称 | S.FC |
| 本社所在地 | 〒733-0036 広島県広島市西区観音新町四丁目10番2号広島西飛行場ターミナルビル1階 |
| 設立 | 1992年4月24日 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | プロサッカークラブの運営[1] |
| 代表者 | 取締役会長 久保允誉 代表取締役社長 本谷祐一 |
| 資本金 | 21億1,005万円[1][3] |
| 売上高 | 27億28百万円 (2010年1月期)[1][4] |
| 総資産 | 7億86百万円 (同上)[4] |
| 従業員数 | 35人 (2010年12月現在)[1] |
| 主要株主 | エディオン 39.85%、マツダ 21.37%、広島県 4.27%、広島市 4.27%、中国電力 3.42%[3] その他株主 |
| 関係する人物 | 竹下虎之助(広島県(公選5代)知事) 古田徳昌(マツダ7代社長) 久保允誉(旧デオデオ2代社長) |
| 特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長を兼務。 | |
1991年Jリーグ加盟(オリジナル10のひとつ)。ホームタウンは広島市。前身は自動車メーカー・マツダ(旧・東洋工業)のサッカー部であるマツダサッカークラブ。
運営法人(株)サンフレッチェ広島は1992年4月に設立。設立当初はマツダ系の、近年は家電量販店・エディオン(旧デオデオ)系の人物が社長に就任している。なお2011年6月現在サンフレ運営法人を、エディオンの有価証券報告書では「関係会社」、マツダでは「持分法適用関連会社」として記載されている。
チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ」はイタリア語で「矢(の複数形:frecce)」を意味し、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。
チームカラーは、紫(青紫、VIOLET)。クラブスローガンは、「WE FIGHT TOGETHER 走撃」。
チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ君とフレッチェちゃん」。
チームエンブレムは2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。[5]
ホームスタジアムは広島ビッグアーチ。練習は主に安芸高田市の吉田サッカー公園、試合前や天候などの理由によりビッグアーチやその隣の補助競技場も利用している。以前の使用場所については下記スタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。
なお、下部組織についてはサンフレッチェ広島の下部組織を参照のこと。
グッズ・チケット等は広島市中区大手町にあるV-point、あるいはオフィシャルネットショップ「e-Vpoint」で購入できる。
[編集] 歴史
[編集] 前史(マツダ時代)
詳細は「東洋工業サッカー部」を参照
1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると2度に渡りJSL2部へ降格してしまう。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更[注釈 1]。1982年、今西和男がサッカー部総監督に就任、のちに日本サッカー界に多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。[6][7]
低迷の原因が地方のハンディによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた。[8](サンフレッチェ広島の下部組織#前史参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた[9]。ここで確立されたさまざまな育成重視の方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。
すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた[7][8]。
[編集] Jリーグ創設前夜
プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。関西以西、中国地方では唯一の参加となった。[6][10]
同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた[11](チーム名やチームカラー決定経緯については下記記録・出来事内の「チーム名」項を参照)。
1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(後のデオデオで現エディオン)・中国電力・広島銀行等59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため[10]、Jリーグ参加条件であった「チーム名に企業名を入れない」意味を企業に説明して、出資団体を募った。その当時、オリジナル10のほとんどが親会社100%出資でチームを設立していたため、この官民の出資による設立はJリーグの方向性を示したと言える。
[編集] 1992年 - 1994年(バクスター時代)
1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。イワン・ハシェック、パベル・チェルニー、盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。
当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン、松田浩、望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位に終わった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活躍しだし、1994年には見事サントリーシリーズで初優勝を果たす。
この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏・佐藤康之・柳本啓成・森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した。[7][8]
しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり[7]、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下していった。
その結果、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦、惜しくも年間優勝には届かなかった。
[編集] 1995年 - 1996年(ヤンセン時代)
チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦[7]でオランダ人のビム・ヤンセン監督が就任。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。
ジョン・ファンルーン、ピーター・ハウストラ、サントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたため、ほとんどの選手はついていけず、更に主力の高木・森保は怪我から満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った[7][8]。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。
前年度優勝した事により総年俸が上がり人件費が増加するものの、当年度は成績低迷により観客動員が減少し、クラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出[7]。風間に至っては「選手として何一つ得る物がない1年だった」と吐き捨て退団。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例して更に観客動員低下につながって行った[12]。
その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義・笛真人や森秀昭・久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。
リーグでは不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。
[編集] 1997年 - 2000年(トムソン時代)
Jリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年、バルセロナオリンピックで名を上げたスコットランド人エディ・トムソンが就任する。
同年末、クラブ経営難はピークに達し、母体であるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中であったためクラブへさらに資金投入するわけにもいかず、結果クラブは経営危機に陥る[13]。Jリーグの中でも最初に表面化したため、マスコミからは「クラブ消滅」とまで煽られた[14]。 経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった[15]。結果、高木・森保・路木・柳本と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの、森保だけが完全からレンタル移籍に変わった[8]のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった[12]。クラブ消滅の噂は新人スカウトにも影響し、本契約寸前で他チームと契約する選手も出た。
そこへ、経営建て直しに家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した[14]。久保允誉のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。
一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税・沢田謙太郎や伊藤哲也・吉田康弘・山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇・服部公太や高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルド、アウレリオ・ヴィドマー、トニー・ポポヴィッチ、ハイデン・フォックス、スティーブ・コリカら外国人選手も補強した。
財政難からまともに戦力が整わなかったため、就任当初は5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開。オズワルド・アルディレス(当時清水エスパルス監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」[16]と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。
就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破[17]。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、更なる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた[18]。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。
[編集] 2001年(ヴァレリー時代)
4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシア人ヴァレリー・ニポムニシを新監督に招聘した。当時Jリーグで唯一3トップを採用し[19]、超攻撃戦術への大転換を図った。久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。[20]
残留に向けオレグ・パシニンとセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。[21]
ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任[注釈 2]。この際、ヴァレリーが新監督に推薦[22]したロシア人ガジ・ガジエフをクラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。[23]
[編集] 2002年(ガジエフ/木村/小野時代)
2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」とばっさりと放出。更にキャンプでも選手たちの心を全く掴むことができずチームはバラバラのまま、また更にはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい[24]、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。 そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村の怪我で急遽獲得したミシェル・パンセ・ビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。結局ガジエフは第8節終了後に健康上の理由により辞任。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。[22][23]
同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えた為、更にチームは混迷。また主力の久保竜彦と藤本もコンディション不良による低調なパフォーマンスに終始し、他チームで構想外となった選手をレンタルで獲得するも期待はずれに終わってしまう。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になるが結局勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJリーグ ディビジョン2(J2)降格が決まった。[23]
同年12月、責任を取って木村は辞任[23]。後任に小野が監督に昇格し、会見の場で「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という『3ヵ年計画』を発表した[25]。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。
同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ[6]、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治がゼネラルマネージャーに就任した。
[編集] 2003年 - 2006年(小野時代)
J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本の二人は移籍したが、その他の主力は残留。一方でセザール・サンパイオやリカルド・カヴァルカンテ・リベイロらのJで実績のあるブラジル人を獲得した。こうして迎えたシーズンは、開幕から11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走した。だが次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)、1年でJリーグ ディビジョン1(J1)昇格を決める。[26]
J1復帰後の2004年、上村・桑原・高橋などのベテラン・中堅を次々に放出し、森崎兄弟・駒野を中心とするチームの若返りに着手、高校生Jリーガーの高萩洋次郎・前田俊介・高柳一誠なども起用された。一方で補強では後手に回り、小村徳男やベット・盛田剛平などベテラン中心の補強となった。チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまった。[27]
2005年、就任3年目を迎え優勝争いの公約を果たすため積極的な補強に動く。佐藤寿人・茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョやジョゼ・アントニオ・マルチンス・ガウボンなどブラジル人を獲得。新キャプテンに就任した森崎和、前年から起用してきた前田などの若手が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上。しかし、その後は下田の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁で、前半戦を終えた時点でどの試合も0分~45分の間は無失点という驚くべき記録を残し、佐藤寿は久保竜の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取り、J1日本人得点王にも輝いている。[28]
同年には駒野が東アジアサッカー選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。
2006年、昨年足りなかった部分をウェズレイや戸田和幸らJリーグ実績のあるベテランで補強し更なる上位進出を狙った。しかし、より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。[29]
[編集] 2006年 - 2007年(望月/ペトロヴィッチ時代)
後任に、GKコーチの望月一頼がドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任。望月は、前回降格した2002年の反省や、更に中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿人の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫いたことで、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリア人ミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した[30]。
新監督のペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘と柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人で叩き出した[注釈 3]。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。[31]
また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。
2007年、前々年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった[32]。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった[3]。シーズン序盤は前年からの好調をそのまま維持したが、頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究されると得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権[注釈 4]の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、控え組の底上げができていなかったことから主力を固定した為、A代表および年代別代表招集も重なりコンディションが落ち始めていた。その結果守備が崩壊、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。
これに対しクラブ幹部はペトロヴィッチの戦術と選手掌握力を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定[33]。同年の天皇杯はこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した。
同年末、J2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残し全ての常任取締役は退任した[34]。また、降格原因の一つとなったフロント陣の編成を改め、決定権の迅速化[注釈 5]を図った[35]。
[編集] 2008年 - 2011年 (ペトロヴィッチ時代)
これ以降、主力に常に怪我人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなった。しかし戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・高萩洋次郎・森脇良太・佐藤昭大・槙野智章や中林洋次など若手が台頭[33]、補強を同様の戦術に慣れたオシムチルドレンを中心に獲得した為、選手層の厚みにつながった。
2008年、降格によりウェズレイが退団、駒野友一がジュビロ磐田に引き抜かれたものの、監督留任によりほとんどの主力が残留し結果として戦力維持に成功し、更に久保竜彦が6年ぶりに復帰。同年3月のゼロックス・スーパーカップ(Jリーグ優勝の鹿島アントラーズが天皇杯も制した為、当時の規定により天皇杯優勝チームの代替として出場)で、PK戦の末、鹿島に勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。またリーグ戦でも、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目の「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した。[33]
J1復帰の2009年、即戦力MFミハエル・ミキッチを獲得するも現有戦力で戦う路線は継続、熟成したチーム戦術で躍進し、一時は優勝争いにも絡み、シーズン開幕前の下馬評を覆す大躍進を遂げ、最終的にはJ1昇格1年目での優勝はならなかったものの、J2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位で終えた。またこれに特筆すべきは、シーズンを通して森崎兄弟やストヤノフなど長期離脱者が相次いだにも関わらずこの順位で終えたことである。特にGKは正守護神として目されていた佐藤昭大が怪我で離脱。その後は中林洋次が台頭。また、下田崇も控えには復帰したものの、立場的には第4GKのルーキー原裕太郎までもがリーグ戦・カップ戦で先発デビューする程だった。前線の補強として柏レイソルから李忠成を完全移籍で獲得した。天皇杯は3回戦で敗退したが、J1リーグ戦3位のガンバ大阪が優勝した為、同4位の広島は繰り上がりで翌年のAFCチャンピオンズリーグへの出場権を獲得した。[注釈 6](前身大会を含めれば1969年アジアチャンピオンズトーナメント=3位入賞 以来41年ぶり2回目。チャンピオンズリーグ発足以後では初出場)[36]
2010年、柏木陽介が浦和レッズに移籍。また、橋内優也と平繁龍一を徳島ヴォルティスへ、内田健太を愛媛FCへ、佐藤昭大を鹿島アントラーズへと若手選手をレンタル移籍に送る一方、大分から西川周作を完全移籍で獲得した他、川崎から山岸智、G大阪から山崎雅人をレンタル移籍で獲得と即戦力を積極的に補強を行い充実した戦力を整えた。
2月24日、ホームで記念すべきAFCチャンピオンズリーグ2010の山東魯能との初戦を0-1で落とすと、続く2試合も敗れ3連敗してしまう。4戦目で初勝利を挙げ、最終戦では前年王者の浦項スティーラースに勝利するも3勝3敗で初のACLは予選敗退に終わった。リーグ戦ではACLの過密日程、故障者の続出もあり、前年から順位を落としたものの賞金圏内の7位に踏みとどまった。またクラブ初のJリーグカップの決勝に進出したが、ジュビロ磐田に敗れ、初のJリーグ3大タイトルの獲得とはならなかった。
2011年、長年チームを支えてきた下田崇が引退。槙野智章がドイツ・ブンデスリーガ・1.FCケルンに移籍。戦力外のイリアン・ストヤノフがファジアーノ岡山に移籍と守備陣が手薄になったが、京都サンガF.C.から元日本代表DF水本裕貴、リベロ候補としてクロアチアからアンテ・トミッチを獲得。また、トップ下の候補としてグルジア国籍の選手としては初のJリーガーとなるダビド・ムジリを獲得した。
リーグ戦では、序盤は上位争いにも顔を出し上々の出だしだったが、7月以降は勝てない試合が続き、優勝争いから脱落。結果、前年と同じく7位に終わった。カップ戦では振るわず、東日本大震災の影響でトーナメント方式になったJリーグカップでは、1回戦敗退。天皇杯でも、3回戦で敗れてしまった。また、2年連続で赤字になる見込みとなったことから累積赤字解消のため、高年俸となったペトロヴィッチの契約延長を断念した[37][38][39]。
[編集] 2012年(森保時代)
ペトロヴィッチとの契約を断念したチームは、ペトロヴィッチのサッカーを継承および調整し、現状のクラブ方針を把握している広島OBを登用することになり、その中でアルビレックス新潟のヘッドコーチでOBの森保一の名前が挙がることになった[40][41]。森保は3年ぶりの広島復帰で、クラブ史上初の生え抜きとなるトップチーム監督を務めることとなった[41][40]。
15年間在籍していた服部公太、中林洋次がファジアーノ岡山に、トミッチが愛媛FCに、髙柳一誠がコンサドーレ札幌に、盛田剛平がヴァンフォーレ甲府に完全移籍、山崎雅人(モンテディオ山形)、内田健太(愛媛FC)がレンタル移籍先に完全移籍、サガン鳥栖にレンタル移籍している岡本知剛のレンタル移籍期間が延長、ムジリ退団したが、アルビレックス新潟から千葉和彦、大宮アルディージャから石原直樹を獲得、2年間レンタル移籍していた平繁龍一が復帰、ファン・ソッコ、イ・デフォン、増田卓也が入団した。
[編集] 年度別成績
以下のものはサンフレッチェ広島の年度別成績一覧参照
- 年度別成績・歴代監督
- 対戦成績
- リーグ戦ホームゲーム観客動員数
[編集] タイトル
[編集] 国内タイトル
オリジナル10の中で唯一、日本国内3大タイトル(Jリーグ(J1)年間、Jリーグカップ、天皇杯)を一度も獲得していない。そのため、資料や統計の方法によっては無冠とする場合もある。
[編集] 国際タイトル
- 無し
[編集] 表彰
- Jリーグ
- リーグ杯
- MVP
- 無し
- ニューヒーロー賞
- 高萩洋次郎 - 2010年
- その他
[編集] 記録
[編集] クラブ記録
- 公式戦初試合
- リーグ戦:2-1(1993年5月16日、Jサントリー第1節 市原戦)
- リーグ杯:2-3(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1節 読売ヴェルディ戦)
- カップ戦:2-0(1992年12月5日、天皇杯1回戦 同志社大学戦)
- 1試合最多
- 得点
- リーグ戦:7-1(2008年9月7日、J2第34節 岐阜戦)
- リーグ杯:7-0(2009年5月30日、ナビスコカップ第4節 大宮戦)
- カップ戦
- 7-2(1999年12月26日、天皇杯準決勝 V川崎戦)
- 7-0(2000年12月10日、天皇杯3回戦 水戸戦)
- 失点
- リーグ戦:0-7(2009年10月25日、J1第30節 川崎戦)
- リーグ杯:0-5(1993年10月16日、ナビスコカップ G大阪戦)
- カップ戦:0-4(2001年12月16日、天皇杯4回戦 対清水戦)
- 公式戦連続記録
- 勝敗
- 連勝:10試合(J2リーグ戦のみ、2003年3月23日-2003年5月10日)
- 未敗戦:16試合(13(J2)+3(カップ)、2008年8月23日-2008年12月6日)
- 引分:4試合(J1リーグ戦のみ、2004年10月3日-2004年10月31日)
- 未勝利:14試合(1(カップ)+10(J1)+3(リーグ杯)、2005年11月3日-2006年4月29日)
- 連敗:7試合(J1リーグ戦のみ、2002年7月24日-2002年8月31日)
- 得失点
- 得点:25試合(7(J1)+13(J2)+1(リーグ杯)+4(カップ)、2008年5月11日-2009年4月26日)
- 無失点:7試合(J2リーグ戦のみ、2003年9月6日-2003年10月11日)
- 無得点
- 4試合(2(J)+2(チャンピオンシップ)、1994年11月16日-1994年12月2日)
- 4試合(Jリーグ戦のみ、1995年8月26日-1995年9月9日)
- 失点:17試合(12(J1)+3(リーグ杯)+2(カップ)、2005年11月27日-2006年4月29日)
[編集] 個人記録
- 試合出場記録
- 最年少:高萩洋次郎(2種登録)、16歳8ヶ月3日(2003年4月5日、J2第4節 湘南戦)
- 最年長:小村徳男、36歳8ヶ月0日(2006年5月6日、J1第12節 福岡戦)
- 1シーズン最多:柳本啓成、55試合(50(J)+5(カップ)、1995年)
- 在籍最多:服部公太、525試合(348(J1)+85(J2)+49(リーグ杯)+28(カップ)+2(入替戦)+1(スーパーカップ)+5(ACL)、1996年-2010年現在)
- 公式戦連続:服部公太、143試合(74(J1)+44(J2)+14(リーグ杯)+11(カップ)、2002年11月30日-2006年4月22日)
- リーグ戦のみ:服部公太、218試合(133(J1)+85(J2)、2002年11月30日-2008年11月30日)
- ゴール記録
- 最年少:高柳一誠(2種登録)、17歳10ヶ月10日(2004年7月24日、ナビスコカップ第6節 東京V戦)
- リーグ戦:高萩洋次郎、18歳0ヶ月19日(2004年8月21日、J1・2nd第2節対C大阪戦)
- 最年長:ウェズレイ、35歳4ヶ月28日(2007年9月16日、J1第25節 浦和戦)
- 1シーズン最多:佐藤寿人、31ゴール(28(J2)+2(カップ)+1(スーパーカップ)、2008年)
- 1試合個人最多:高橋泰、4ゴール(2003年4月19日、J2第7節 横浜FC戦)
- 在籍最多:佐藤寿人、120ゴール(73(J1)+28(J2)+11(リーグ杯)+6(カップ)+1(スーパーカップ)+1(ACL)、2005年-2010年現在)
- 公式戦連続:森崎浩司、5試合(J2リーグ戦のみ、2003年4月19日-2003年5月10日)
- リーグ戦のみ:5試合
- 森崎浩司(同上)
- 李忠成(J1のみ、2010年9月18日-2010年10月24日)
- リーグ戦のみ:5試合
- その他
- 最長在籍年数:17年
- 下田崇(1994年-2010年)
- 服部公太(1995年-2011年現在)
- 公式戦連続フルタイム出場:服部公太、143試合(上記連続出場と同じ)
- リーグ戦のみ:服部公太、171試合(127(J1)+44(J2)、2002年11月30日-2007年10月6日)
- 公式戦初ゴール:森保一(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1戦 読売V戦、前半25分)
- リーグ戦初ゴール:風間八宏(1993年5月16日、Jサントリー第1節 市原戦、前半1分)
- 最速ゴール:佐藤寿人、開始8秒(2006年4月22日、J1第9節 C大阪戦)
- 兄弟初アベックゴール:森崎和幸・森崎浩司(2004年5月5日、J1・1st第8節 C大阪戦)
[編集] 国際記録
[編集] 国際試合
- 親善および練習試合は除く
| 開催年 | 月日 | 大会名 | 対戦相手 | 会場 | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2010年 | 2月24日 | ACL2010 グループリーグ | 広島ビッグアーチ | ● 0-1 | |
| 3月10日 | 浦項スティールヤード | ● 1-2 | |||
| 3月24日 | ハインドマーシュ・スタジアム | ● 2-3 | |||
| 3月30日 | 広島ビッグアーチ | ○ 1-0 | |||
| 4月13日 | 山東省体育中心体育場 | ○ 3-2 | |||
| 4月27日 | 広島ビッグアーチ | ○ 4-3 |
[編集] 国際大会出場選手
- W杯
- 夏季五輪
- U-20W杯
- U-17W杯
- アラカルト
- 日本人初招集
- 日本人初国際Aマッチ出場
- 高木琢也:1992年5月31日対アルゼンチン代表戦
- 森保一:同上
- 在籍時日本人最多キャップ:高木琢也:45試合(1992年-1997年)
- 在籍時日本人最多ゴール:高木琢也:27ゴール(1992年-1997年)
[編集] エピソード・アラカルト
[編集] チーム名およびチームカラー
決定に直接携わった今西和男[6]およびフロントスタッフ[11]は次のように語っている。
- チーム名は公募したところ、県花である「モミジ」やそこから連想する「赤」、そして「毛利元就」に関するもので占められていた。その中で最多案ではなかったが、元就の故事・三本の矢にちなんだ「スリーアローズ」がクラブスタッフの目に止まった。ただ商標登録されていたため、それをもじり「サンフレッチェ」という名をスタッフ会議で作りだした。サンを日本語のまま残したのは、セイント(saint)を意識したとも。
- 次にチームカラーは、当初マツダSCのチームカラーである「青」を考えていたが、他チームと色が被らないようにというJリーグ側の意向[注釈 7]もあり、スタッフ会議でチームカラーの一新も決定した。そこで、広島サッカー界の名門・広島一中(現国泰寺高校)のチームカラーにあやかり、聖徳太子の冠位十二階で最上位を象徴し高貴なイメージがあるため、更にはナイトゲームで最も映える色として事前調査で判明したため、「紫」に決定した。
- そこからチーム名を「パープル」にする提案も出たが、語感の悪さから却下された。
また、川淵三郎の著書『虹を掴む』の中にも以下のようなエピソードがある。
- 川淵と広島球団社長との酒席で、広島社長がチーム名は「高貴な色」を付けた「広島パープル」に決定したと話した。川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮、結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した。
1993年当時は組織内のトリオを「○○のサンフレッチェ」と自称するものも出てきた。
- 西武ライオンズ:鹿取義隆・潮崎哲也・杉山賢人 - 救援投手。1993年の日本シリーズも参照。
- 自民党:河野洋平・石原慎太郎・橋本龍太郎 - 1993年衆議院議員総選挙で敗れ野党に転落した時に、党を担う次世代の若手としてアピールした。
設立当時はユニフォーム等で赤紫(パープル)を用いていたが、同じ紫をチームカラーとしているサンガとの差別化を図り近年は青紫(バイオレット)を用いている。
2011年からはユニホームサプライヤーがそれまでのミズノからナイキに変更されたこともあって、アウェー用ユニホームがそれまでの白から「朱色」に変更された。これは厳島神社の鳥居をイメージする色として採用されたという。なお白色ユニホームはサードユニホームとして引き続き採用される。
[編集] 記録・出来事
- チェアマン杯破損
1994年6月11日、磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。ところがこの際、授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)をサポーターに見せてやろうと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞の1面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。
この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割ってしまった旧チェアマン杯は一旦溶かされてペンダントとなった[43]。
ちなみに当時その模様を伝えるニュースでは、森山佳郎が持ってサポーターの方へ向かい広告ボードで躓いた状況が放送されたため、多くのファンは「割ったのは森山」と考え、森山本人も以後会う人全員から疑われて否定に必死だったという。
- ユニフォーム忘れ
1995年4月1日、熊本市水前寺競技場で横浜フリューゲルス戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームだった。広島は、4日後の4月5日に万博記念競技場でガンバ大阪戦を控えており、アウェーゲームが続くため横浜F戦を前に2試合分のアウェーゲーム用の準備[44]をし、熊本には白の2ndユニフォームを持参していた。ところが横浜Fの1stユニフォームは白(当時、白、またはそれに近い色を1stユニにしていたのは横浜Fの1チームだけであり、横浜Fとアウェーで対戦するクラブは必然的に1stユニを着用しなければいけなかった)。水前寺競技場に着いて間違いに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだ[44]が、当然ながら間に合うはずもない。
広島は横浜Fの了解を得て、まず白ユニを紫に着色することを思いつき、熊本県サッカー協会からスプレーを借りたが時間が足りなかった[44]。そこで、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ[44]。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、スポンサーのロゴが描かれていないものもあった。ちなみにパンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。
この試合はNHKBSにより生放送され、延長前半12分にイワン・ハシェックのVゴールで広島が勝利した[44]。広島の営業はスポンサーに詫びを入れに回り[44]、Jリーグから制裁金が課せられた。
ちなみにレプリカユニを借りたサポーターには「選手が着用したものだから洗わずに今すぐ返してほしい」と言われ、後日この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙をプレゼントした[44]。
- 初のJ2クラブ「日本一」達成
2008年3月1日、国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。
- 初の「ベストメンバー規定」違反による罰則
詳細はベストメンバー規定#2009年・サンフレッチェ広島を参照
2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。
ただ、広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。
[編集] 交流
- 吉田町(安芸高田市)
チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、吉田サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。
詳細は吉田町 (広島県)#備考を参照
- 横川町(西区)[45]
2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。
- 他のJリーグクラブへの協力
発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。
大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。[7]
2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。
- 他競技交流
広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。
それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。
- サンフレッチェ劇場[46]
広島がしゃもじの生産地であるため、しゃもじを鳴り物代わりとして使って応援するサポーターも一部いる(他、広島東洋カープなど広島県を本拠地とするスポーツクラブの応援団もそれを使う)が、ホームである広島ビッグアーチにおいて試合で勝利後、選手がトランジスタメガホン片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。
自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史(ジュビロ磐田)や岡山一成(当時柏レイソル)に憧れた柏木陽介と槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。
上記の3人のみならず、他の選手もゲストとして参加している。ちなみに、試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブ公認」となっており、公式ウェブサイトにこの様子の動画が公開されている。また、スカパー!の試合中継内でも放送される。
- ゴールパフォーマンス
2010年に槙野智章と森脇良太を中心にゴール後にさまざまなゴールパフォーマンスを行うようになり、全国ネットのスポーツニュースで取り上げられるなど注目された。
詳細は槙野智章#パフォーマンスを参照
[編集] 所属
- フロント
- トップチーム
- 下部組織
[編集] ユニフォーム
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||
[編集] チームカラー
紫色
- 色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照。
[編集] ユニフォームスポンサー
- 公式ウェブサイト 参照。なお同スポンサーでも表記名や掲出個所が年により変わっており、詳細は下記の歴代スポンサー年表参照。
- 公式戦用
| 箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 胸 | エディオン | エディオン | 1997年- | 表記は 1997年-2002年、2004年-2011年まではDeODEO 2003年はYourVoice エディオンは2009年-2011年までパンツに掲出、 2011年の3rdユニフォームにはedionとして胸に掲出 |
| 背中 | マツダ | MAZDA | 2010年- | 2010年にはACL用の胸にも掲出 |
| 袖 | k.a.a JAPAN | AS進学セミナー | 2011年- | |
| パンツ | エディオン | イードットコム | 2012年- |
- 練習着
| 箇所 | スポンサー名 | 表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 胸あるいは背中 | マツダ | MAZDA | 練習着の種類により異なる |
| 左袖 | 広島銀行 | 広島銀行 | |
| 右袖 | 中国電力 | 中国電力 | |
| パンツ | 産興 | Tj Hiroshima |
[編集] 歴代スポンサー年表
中国新聞HPの過去の成績で1996年以降のスポンサーを確認できる。
| 年度 | 箇所 | サプライヤー | 配色 | |||||
| 胸 | 袖 | 背中 | パンツ | 1st | 2nd | 3rd | ||
| 1992 | - | mazda | - | - | Mizuno | 紫白紫 | 白紫白 | |
| 1993 | Ford | JUKEN | - | |||||
| 1994 | - | 紫白紫 | 白紫白 | |||||
| 1995 | mazda | - | - | |||||
| 1996 | - | - | 紫紫紫 | 白白白 | ||||
| 1997 | DeODEO | - | - | |||||
| 1998 | - | - | 紫紫紫 | 白白白 | ||||
| 1999 | Calbee | - | ||||||
| 2000 | - | 紫紫紫 | 白白白 | |||||
| 2001 | - | |||||||
| 2002 | - | |||||||
| 2003 | YourVoice | LifeCARD | DeODEO | 紫白紫 | 白紫白 | |||
| 2004 | DeODEO | - | ||||||
| 2005 | アーバンコーポレイション | 紫紫紫 | 白紫白 | |||||
| 2006 | ||||||||
| 2007 | 紫紫紫 | 白白白 | ||||||
| 2008 | ||||||||
| 2009 | エディオン | |||||||
| 2010 | DeODEO/MAZDA | MAZDA | ||||||
| 2011 | DeODEO(1st・2nd) edion(3rd) |
AS進学セミナー | エディオン(1st・2nd) DeODEO(3rd) |
Nike | 紫紫紫 | 朱朱朱 | 白白白 | |
| 2012 | エディオン | イードットコム | ||||||
- 広島市(または広島県)に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛する傾向がある。
- 現在のメインスポンサーはエディオングループ。
- DeODEOとは、エディオングループの店舗ブランド。胸は同表記でも企業名変更や組織再編に伴いスポンサー名が変更しており、1997年から2009年まで(株)デオデオ、2010年が(株)エディオンWEST、2011年以降(株)エディオン。
- 2009年から続くパンツのエディオンは、当初から(株)エディオンがスポンサー。
- YourVoiceとは、当時存在していたエディオングループのオリジナルブランドで、スポンサー名は(株)デオデオ。
- FC岐阜のユニスポであるエイデンもエディオングループの店舗ブランドである。ただ岐阜の場合はエディオン本体ではなく社内カンパニーであるエディオン EASTカンパニーがスポンサー。
- 当初からずっとフォードグループのマツダがユニフォームスポンサーに入っている。
- 1993年と1994年のナビスコカップでは胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
- 1997年デオデオ(現エディオン)経営参加以降は、練習用の胸およびユースのスポンサーとなっている。ちなみにこの際、公式戦用胸スポンサーと同額で契約している[47]。
- 2010年公式戦背中スポンサーに復活。また同年のACL用の胸スポンサーになった。
- 最近は練習用スポンサーのほとんどを中国電力グループが占めている。一時は中電工も入っていた。
- Jリーグ発足時、オリジナル10のリーグ戦ユニフォームサプライヤーとして一括契約していたミズノと最も長く契約していたのは広島で、2011年にナイキがユニフォームサプライヤーになるまで18年間契約していた。
[編集] スタジアム
- ホームスタジアム推移
現在、Jリーグ主催公式戦はすべて広島ビッグアーチで行われている。
- 1992年 - 1994年:広島スタジアム
- 1994年 - 現在 広島ビッグアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年)
- 1994年から2003年まで広島スタジアムと併用。年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべてビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。
- 1998年1stステージは広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、広島スタジアムをホームに。
- 2004年から2006年までリーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。
- 2007年以降、リーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ。
- 1994年から2003年まで広島スタジアムと併用。年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべてビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。
- ※広島スタジアムは13000人収容だが、座席(イス)の部分が7000人程度しか収容できず、Jリーグが定める座席の収容人員の基準(J1:15000人、J2:1万人)を満たしていないために使用不可となった。但し、2011年8月13日の名古屋戦はビッグアーチが他のイベント開催優先の都合上使用不可の特例処置で、ゴール裏スタンドの一部に仮設座席をこしらえて広島スタジアムで開催された。
かつて行われていたJサテライトリーグでは、1997年ごろまでマツダ鯛尾グラウンドや広域第一などで行われ、吉田サッカー公園ができて以降は吉田、年に1試合のみ竹ヶ端で開催されていた。
- 専用スタジアム構想
詳細は「広島におけるサッカー専用スタジアム構想」を参照
[編集] 練習場・キャンプ地
- 練習場
現在、主に使用されるのは下記の3つ。
- 吉田サッカー公園:メイン練習場
- 広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ):ホームゲームの前日練習はここで行われることが多い。
- 広島広域公園補助競技場:ビッグアーチと同様。
また、過去には下記の場所で練習していたこともある[48]。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。
- マツダ健保グランド(呉市郷原):吉田ができる前のトップチーム専用練習場。現在は呉市が所有。
- マツダ鯛尾グランド(安芸郡坂):吉田ができる前のサテライトチーム専用練習場。現在はマツダラグビー部の練習場。
- マツダ体育館(南区大州):吉田ができる前のトレーニングジム。
- 中国電力坂グラウンド(安芸郡坂):中国電力が所有。
- 広島スタジアム(西区観音新町)
- キャンプ地
- 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や清神社にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを海外で、二次キャンプを宮崎・シーガイアで行なう。
- 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には大分県・淡路島(ともに冬季)、北海道・松江市・筑波大学(ともに夏季)などで行われている。2011年は沖縄県本部町でもキャンプを実施した。
- 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には東欧・北欧(バクスター)、浦項スティーラース練習場(ヤンセン)、アデレード(トムソン)、グアム(小野剛)、アンタルヤ(ペトロヴィッチ)で行われている。
[編集] メディアなど
- 紙媒体
- オフィシャル
- 紫熊倶楽部:オフィス・ウエンブリー発行、編集長中野和也
- サンフレッチェ広島アシストマガジン「Assist」:産興(Tj Hiroshima編集室)発行
- 新聞
- タウン情報誌
- 広島アスリートマガジン
- Tj Hiroshima:コラボ企画「PickupPlayer」
- テレビ
- NHK広島放送局
- GET DREAM(お好みワイドひろしま内、毎週金曜日)
- 広島ホームテレビ
- 広島テレビ放送
- 進め!スポーツ元気丸
- 広島スポーツ魂(旬感テレビ派ッ!内、隔週月曜日)
- テレビ新広島
- スポっちゅTV
- 波田予報士の当たる!?天気予報(ひろしま満点ママ!!内、ホームゲーム開催日の天気を予報)
- その他
- 熱血!サンフレ魂(ふれあいチャンネル)
- ラジオ
- AM(中国放送(RCCラジオ))
- バリシャキF.C.(道盛浩のバリシャキNOW内)
- サンデースタジアムGOGO!(※プロ野球シーズンオフのみ)
- FM
- サンフレッチェ・ラジオ・サポーターズクラブ “GOA〜L”(広島FM)
- 吉田流サッカー斬り(曜子とTOCOの口八丁手八丁!、FMちゅーピー)
- 2001年8月[49]から2008年末までスタジアムFM(実況:石橋真、解説:吉田安孝・足立修・山出久男など)を行っていたが、利用者が少なくなったため廃止
- 応援歌など
- 『SANFRECCE THEME』『SANFRECCE ANTHEM』藤島(手島いさむ&藤川朝洋、2010年)
- 『光の射すほうへ』THE CRANE FLY(2006年)
- 『Remember〜スタジアムへの道〜』神園さやか(2005年)
- 『GOAL and PROUD』加藤健一など(2003年)
- 『SAYYEA',JAN-GO』西城秀樹(1994年)
- 『ときめいてハットトリック-GET HAT TRICK-』村井亜紀withNOBU-SONS(1993年)
- 交通
- 2011年度サンフレッチェ電車5110号(広島電鉄)[50]
- サンフレッチェ広島ラッピングバス(イワミツアー)
- サンフレッチェタクシー(第一タクシー)
- サンフレッチェ路線バス(大町団地線、第一タクシー)
- 山陽自動車道・宮島SA(上り側)内にコーナーが設けられている。
- 乗車カードとシーズンパスと一体化したPASPY[50]
[編集] 関連項目
- 上記以外でクラブ創設に尽力した主な人物
- スタジアムDJ
- ユニコーン
- アンガールズ:ライブDVD名に元広島のチェルニーの名が使われている。
- サンフレッチェ広島の選手一覧
- 中四国サテライトリーグ
[編集] 注釈
- ^ 1980年代、社名変更やJSL1部昇降格を機に数度正式名称を変えている。1981年から「マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部」、1984年から「マツダスポーツクラブサッカー部」、1986年から「マツダサッカークラブ」。
- ^ 後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示された中国・山東魯能監督に就任するための狂言と判明。
- ^ ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点。
- ^ 2006年に組織再編を行い織田秀和強化部長が実質的な現場のトップとなったが、最終的な決定権は久保允誉社長に委ねられていた。ただ久保は本業であるエディオン社長の激務もあり、迅速な決定が下せない状況だった(ASSIST2007年冬号、6-9頁)。
- ^ 今まで久保がエディオンの社業と兼任していたクラブ社長業を、本谷がクラブ専任で行うこととなった。また、「強化本部」を軸とする1本部5部制から、トップチームの強化や育成普及などを担当する「管理強化本部」と営業や運営や広報などを担当する「事業本部」の2本部7部制を採用。管理強化本部長は本谷が兼務、事業本部長はマツダからの出向の取締役が就任した。
- ^ 前年度のJ1上位3チームならびに天皇杯優勝チームに翌年のAFCチャンピオンズリーグ出場権が与えられるが、J1上位3チームのいずれかが天皇杯を優勝した場合、J1第4位チームに繰り上がりで出場権が与えられる
- ^ マツダがリーグ加盟およびチーム詳細決定が遅かったせいもある。他にも、青と水色の「古河ゼブラ」の古河電工や、旧JFL時に濃い青を使っていたフジタやヤマハも、それぞれジェフ、ベルマーレ、ジュビロとしてリーグ加盟時に濃い青系から変えている。
[編集] 出典
クラブ公式発表、紫熊倶楽部および季刊紙「ASSIST」、中国新聞を優先するソースとする。2次ソースとしてサンフレッチェ広島記録集やSANFRECCE Diaryもあわせて参照。
- ^ a b c d e 中国新聞 (2011年1月1日). “中国新聞LEADERS倶楽部”. 2011年1月12日閲覧。
- ^ サンフレッチェ広島公式(英語版). “Club Profile”. 2010年11月28日閲覧。
- ^ a b c サンフレッチェ広島公式 (2007年9月26日). “株式会社サンフレッチェ広島 増資についてのお知らせ”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ a b 2009年度Jリーグ公開資料 (PDF)
- ^ サンフレッチェ広島公式(Internet Archive) (2005年1月11日). “エンブレム変更について”. 2009年7月22日閲覧。
- ^ a b c d 広島サッカー向上委員会、中国放送. “今西和男インタビュー”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h GM考察 第1章 広島のドン:今西氏のクラブGM論(加部究)、サッカー批評vol.33、2006年12月、ISBN 4575478938
- ^ a b c d e 「ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に」、森保一・西岡明彦共著、フロムワン、2004年2月刊、ISBN 4757210159
- ^ 記者コラム「見た 聞いた 思った」、ニッカンスポーツ (2005年5月29日). “優れた指導者の条件”. 2009年7月19日閲覧。
- ^ a b 田辺一球責任編集コラム (2006年5月1日). “フリーキック”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ a b 「SIGMA REPORT」、紫熊倶楽部2009年5月号、P.20-21
- ^ a b 中国新聞 (1997年11月4日). “ファン離れ加速の恐れ 夢を壊さぬ努力が必要”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ 中国新聞 (1998年4月8日). “マツダ特集 サンフレ支援 揺れる心 - 合理主義の下”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ a b 広島経済大学・学ぶ会報告書 p.76-90 (PDF)(広島経済大学)
- ^ 中国新聞 (1997年11月2日). “入場料収入リーグ最低 存続かけ大ナタふるう”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ 中国新聞 (1998年8月5日). “守るサンフレ完敗 ゴール遠し”. 2009年7月23日閲覧。
- ^ 中国新聞 (1999年5月15日). “オープンスペース 強さ本物、どこにでも勝てる”. 2009年7月23日閲覧。
- ^ 中国新聞 (2000年5月27日). “オープンスペース 決定力不足 ヒーロー求む”. 2009年7月23日閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001年1月26日). “「守り」から「攻め」へ J唯一の3トップ”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001年7月24日). “攻撃布陣、守備に反動/第1ステージ”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001年11月27日). “浸透ヴァレリー流 第2Sの軌跡”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ a b 中国新聞(Internet Archive) (2002年7月17日). “ガジエフ監督、退団へ”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ a b c d 中国新聞. “試練のサンフレ J2降格”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2002年9月29日). “攻撃的守り指示へ上村復帰 29日京都戦”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞 (2004年8月1日). “日本サッカーの未来 サンフレ 小野剛監督に聞く”. 2009年7月23日閲覧。
- ^ 中国新聞. “サンフレ・グラフ J1への道”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞. “サンフレ2004総括”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞. “サンフレ2005回顧”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞. “小野体制崩壊”. 2009年7月20日閲覧。
- ^ 中国新聞 (2006年5月6日). “ピンポイント 手堅い望月流「合格」”. 2009年7月22日閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2006年12月5日). “<ペトロビッチ流サンフレ再生・上>選手の特性見抜く名医”. 2009年8月8日閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2007年4月17日). “2年連続の赤字 4億9800万円、補強・監督交代響く”. 2009年7月22日閲覧。
- ^ a b c スポーツナビ (2008年11月12日). “J2を席巻した広島の強みと課題”. 2009年8月12日閲覧。
- ^ 久保允誉インタビュー、ASSIST2007年冬号、6-9頁
- ^ 中国新聞 (2008年2月1日). “フロントを2本部制に 組織見直し”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ 日本サッカー協会、AFCチャンピオンズリーグ2010 サンフレッチェ広島が出場権獲得
- ^ “ペトロビッチ監督退任へ 契約更新せず”. 中国新聞 (2011年11月10日). 2011年11月10日閲覧。
- ^ 中国新聞2011年11月10日付14面
- ^ “ペトロヴィッチ監督の来季契約について”. サンフレッチェ広島公式ウェブサイト (2011年11月9日). 2011年11月9日閲覧。
- ^ a b “【広島:森保一新監督就任会見】森保一監督コメント”. J's GOAL (2011年12月8日). 2010年12月13日閲覧。
- ^ a b “新監督に森保氏 クラブ初「生え抜き」”. 中国新聞 (2011年12月4日). 2010年12月8日閲覧。
- ^ 中国新聞 (2010年4月27日). “久保に最優秀ゴール賞”. 2010年6月5日閲覧。
- ^ 2009年10月16日付エル・ゴラッソ
- ^ a b c d e f g 「Jリーグ史上に残るトラブルを全員で乗り切ったこと」紫熊倶楽部2010年9月、p.20-p.21
- ^ 中国新聞メディアクラブ (2007年6月8日). “サンフレと若者支援で町に活気を”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ 「サンフレッチェ劇場」によって渋滞解消?(J's GOAL)
- ^ 中国新聞 (1998年1月10日). “マツダ特集 「貢献」と「再建」はざまで苦悩 -地域との関係”. 2010年2月10日閲覧。
- ^ 中国新聞 (1997年11月3日). “イレブンから不満続出 施設面でも改善を要求”. 2009年7月18日閲覧。
- ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001年9月27日). “ホームゲームのFM実況中継が好評”. 2009年7月22日閲覧。
- ^ a b サンフレッチェ広島応援企画
[編集] 外部リンク
- サンフレッチェ広島 公式ウェブサイト
- オフィシャル携帯サイト・TSSサンフレッチェ広島 - オフィシャルウェブサイト内紹介、TSSウェブサイト内紹介
- SANFRECCE HIROSHIMA CHANNEL - 公式YouTubeチャンネル(Flash Video)
- 公式 facebook - Facebook
|
|||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||