サンフレッチェ広島

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Football pictogram.svg
サンフレッチェ広島
原語表記 サンフレッチェ広島F.C
愛称 サンフレッチェ、サンフ、サンフレ
クラブカラー
創設年 1938年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン ディビジョン1(J1)
ホームタウン 広島市
ホームスタジアム 広島ビッグアーチ
広島ビッグアーチ01.jpg
収容人数 50,000
運営法人 株式会社サンフレッチェ広島
代表者 本谷祐一
監督 ミハイロ・ペトロヴィッチ
公式サイト 公式サイト
   サッカークラブPJ

サンフレッチェ広島(サンフレッチェ ひろしま、Sanfrecce Hiroshima)は、広島市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

[編集] 概要

株式会社サンフレッチェ広島
SANFRECCE HIROSHIMA FC Co.,Ltd.
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 〒733-0036
広島市西区観音新町四丁目10番2号広島西飛行場ターミナルビル1階
電話番号 082-233-3233
設立 1992年4月24日
業種 サービス業
事業内容 プロサッカークラブの運営
代表者 取締役会長 久保允誉
代表取締役社長 本谷祐一
資本金 21億1,005万円[1]
売上高 22億87百万円 (09年1月期)[2]
総資産 8億10百万円 (同上)[2]
従業員数 33人(08年1月期)[3]
決算期 毎年1月[2]
主要株主 デオデオ 39.85%、マツダ 21.37%、広島県 4.27%、広島市 4.27%、中国電力 3.42%[1]
関係する人物 竹下虎之助(広島県(公選5代)知事)
古田徳昌(マツダ7代社長)
久保允誉(デオデオ2代社長)
特記事項:取締役会長の久保允誉はエディオン社長、エディオンWEST社長、デオデオ会長を兼務。
  
事務所のある広島西飛行場ターミナルビル

1991年Jリーグ加盟(オリジナル10のひとつ)。ホームタウン広島市。前身は自動車メーカー・マツダのサッカー部であるマツダサッカークラブ

チーム名の「サン」は日本語の「三」、「フレッチェ(複:frecce)」はイタリア語で矢を意味し、戦国大名・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。

チームカラーは、紫(青紫、VIOLET)。クラブスローガンは、「WE FIGHT TOGETHER」。

チームマスコットは、中国山地に生息するツキノワグマをモチーフとした「サンチェ君とフレッチェちゃん」。

チームエンブレム2005年1月10日(公式発表)に設立当初のものから現在のものに変更された(ロゴは変更なし)。[4]

ホームスタジアムは広島ビッグアーチ。練習は主に安芸高田市吉田サッカー公園、試合前や天候などの理由によりビッグアーチやその隣の補助競技場も利用している。以前の使用場所については下記スタジアムの項および練習場・キャンプ地の項を参照。

なお、下部組織についてはサンフレッチェ広島の下部組織を参照のこと。

運営法人(株)サンフレッチェ広島は1992年4月に設立。設立当初はマツダ系の、近年は家電量販店デオデオエディオンWEST)系の人物が社長に就任している。

グッズ・チケット等は広島市中区大手町にあるV-point、あるいはオフィシャルネットショップ「e-Vpoint」で購入できる。

以下に現在の株主を示す。

[編集] 歴史

[編集] 前史(マツダ時代)

詳細は「東洋工業サッカー部」を参照

1938年に創部された前身の東洋工業蹴球部は、サッカーどころ広島を代表するクラブとして、長く全国屈指の強豪チームとして活躍してきた。しかし、1970年代に入ると徐々に低迷し、1980年代に入ると2度に渡りJSL2部へ降格してしまう。1981年マツダサッカー部(マツダSC)に名称変更[注釈 1]1982年今西和男がサッカー部総監督に就任、のちにチームに多大な影響を与えたハンス・オフトをコーチに招聘した。[6][7]

低迷の原因が地方のハンディによる有力新人獲得の不足と見た今西とオフトは、クラブ全体の育成路線を推し進め、サテライトチームのマツダSC東洋クラブを強化し、中国サッカーリーグに参戦。若手により高い実戦経験を積ませることで戦力の底上げを図った。ここからは、後にオフト自身により日本代表に選出された森保一をはじめ、Jリーグ初期を支えた主力選手が多く生まれた。[8]サンフレッチェ広島の下部組織#マツダSCの試み参照)。また選手のみならず指導者育成にも着手し、ここから小林伸二をはじめとする数多くの指導者を育てた[9]。ここで確立されたさまざまな育成重視の方針は、現在の広島にも連綿と受け継がれている。

すでに動き出していたプロ化への布石として、当時ドイツ・ブンデスリーガで活躍していた風間八宏を獲得。彼のプロ意識は、クラブに大きな影響を与えた[7][8]

[編集] Jリーグ創設前夜

プロリーグ設立に向け着々と準備が進む中で、地域バランスの上からマツダSCも参加を強く要請されたが、母体となるマツダは財政的理由から降りようとした。そこへ、野村尊敬県サッカー協会会長をはじめとする多くの関係者・市民により参加要望運動が起き、それらの代表となった竹下虎之助県知事とマツダの古田徳昌社長とのトップ会談が行われた。会談翌日の1991年1月23日、正式にプロリーグ参加を表明。同年2月、プロリーグ参加10団体(オリジナル10)発表。関西以西、中国地方では唯一の参加となった。[6][10]

同年11月プロクラブ化に向け、旧広島県立美術館2階ロビーの四畳半ほどのスペースに、スタッフ4人からなる設立準備室を置いた[11](チーム名やチームカラー決定経緯については下記記録・出来事内の「チーム名」項を参照)。

1992年4月24日、広島県・広島市・マツダ・ダイイチ(現:デオデオ)・中国電力広島銀行等59団体の出資により設立。筆頭株主はマツダとなり、初代社長にはマツダ社長を退任した古田徳昌が就任、本社事務所を広島クリスタルプラザ4階に置いた。当初、母体となったマツダが財政的に支えきれそうになかったため[10]、Jリーグ参加条件であった「チーム名に企業名を入れない」意味を企業に説明して、出資団体を募った。その当時、オリジナル10のほとんどが親会社100%出資でチームを設立していたため、この官民の出資による設立はJリーグの方向性を示したと言える。

[編集] 1992年 - 1994年(バクスター時代)

1992年に、スチュワート・バクスターが監督に就任。イワン・ハシェックパベル・チェルニー盧廷潤ら能力重視で独自路線の外国人補強を行った。フジタから高木琢也(マツダ時代の1991-1992年シーズンから加入)、富士通から小島光顕などJリーグに参加しないチームから日本人を数名補強した。

当初は引退しコーチをしていたヤン・ヨンソン松田浩望月一頼を現役復帰させるほど選手層が薄く、1992年のJリーグヤマザキナビスコカップでは、10チーム中9位と不甲斐ない成績を残してしまった。しかし徐々に戦術が浸透すると、高木・前川など日本代表クラスの選手や、チェルニー・盧・ハシェックらの外国人勢が活き活きと活躍しだし、1994年には見事サントリーシリーズで初優勝を果たす。

この時代のサッカーは、Jリーグで初めてダブルボランチ(風間・森保)の4-4-2を採用し、またDFラインは片野坂知宏佐藤康之柳本啓成森山佳郎と、いずれも180cm以下の身長しかなかったが、DFラインを浅くとり裏のスペースはスピード豊かな佐藤・柳本で対応。これによって中盤がコンパクトになりその結果、高木のポストプレーも活きるようになった。この攻守に整った組織的サッカーとフェアプレー精神で広島サポーターのみならず、多くのJリーグサポーターを魅了した。[7][8]

しかし同年ニコスシリーズになると、高木に徹底マークが着いたため攻め手がなくなり[7]、組織的でオートメーション化したパスサッカーが逆に相手にパス展開を読まれてしまうようになり、トーレ・ペデルセンをCBに入れる3-5-2も試すなど試行錯誤したが、結局得点力が低下していった。

その結果、Jリーグチャンピオンシップではヴェルディ川崎に敗戦、惜しくも年間優勝には届かなった。

[編集] 1995年 - 1996年(ヤンセン時代)

チャンピオンシップでの敗戦でシステマティックなサッカーに限界を感じ、更なる個の成長を目指して1995年、ハンス・オフトの推薦[7]オランダ人のビム・ヤンセン監督が就任する。また、同年6月の取締役会で元マツダ副社長の信藤整の社長就任が決定した。

ジョン・ファンルーンピーター・ハウストラサントスらを補強し、バクスター時代のシステマティックなサッカーとはがらりと変わり、ヤンセンは選手個々の判断力を重視し、マンツーマンディフェンスの3-4-3を導入し、オランダ風のトータルフットボールを目指した。しかしあまりにも変わりすぎたため、ほとんどの選手たちはこれについていけず、さらには主力の高木・森保は怪我から満足に活躍できない状況で、チームは瓦解状態に陥った[7][8]。その後、3-6-1にシステム修正するも、成績は10位以下まで落ち込んでしまった。

前年度優勝した事により総年俸が上がり人件費が増加するものの、今年度は成績低迷により観客動員が減少したためクラブ財政を圧迫したこともあり、1995年シーズン終了後、システムについていけない選手を次々と放出[7]。風間にいたっては「選手として何一つ得る物がない1年だった」とはき捨て退団。特にバクスター時代のヒーローであったハシェック・片野坂・森山などが退団したことで、サポーターの怒りを買い、成績が下降するのと比例してさらに観客動員低下につながって行った[12]

その中でヤンセンはレギュラー起用した上村健一を初め、桑原裕義笛真人森秀昭久保竜彦ら若手を積極的に起用した。特に路木龍次はU-23アトランタ五輪代表を経て、日本代表にまで上りつめた。

リーグでは結局不調であったが、天皇杯で面目躍如、2年連続決勝進出を果たした。

[編集] 1997年 - 2000年(トムソン時代)

Jリーグバブルの崩壊によって経営的な陰りを見せ始め、徐々に選手育成型クラブへ向かおうとしていた1997年バルセロナオリンピックで名を上げ、若手育成に定評があったスコットランドエディ・トムソンが就任する。

同年末、クラブ経営難はピークに達し、母体であるマツダもフォード・モーター主導で経営建て直し中であったためクラブへさらに資金投入するわけにもいかず、結果クラブは経営危機に陥る[13]。Jリーグの中でも最初に表面化したため、マスコミからは「クラブ消滅」とまで煽られた[14]。 経営建て直しのためクラブ側は主力選手に減俸提示し、飲まないのであれば移籍金を得るため完全移籍で放出されることとなった[15]。結果、高木・森保・路木・柳本と次々と移籍していった。これに対し、サポーターは流出阻止のため抗議活動を行うものの、森保だけが完全からレンタル移籍に変わった[8]のみだったため失望し、更に観客動員は減少していった[12]。クラブ消滅の噂は新人スカウトにも影響し、本契約寸前で他チームと契約する選手も出た。

そこへ、経営建て直しに家電量販店のデオデオの介入が決定、1998年6月の取締役会で久保允誉の社長就任が決定した[14]。久保允誉のもとチーム運営は改善され、同年8月本社事務所を現在の広島西飛行場ターミナルビル1階に移転、同年11月には吉田サッカー公園完成、観客動員も徐々に増え、2000年度には6期ぶりの黒字となった。

一方チームは、限られた予算のなか他チームで構想外となった選手を中心に補強、藤本主税沢田謙太郎伊藤哲也吉田康弘山口敏弘らを安く獲得しながらも、久保竜彦・下田崇服部公太高橋泰らの若手を起用していった。また、トムソン自らスカウティングしたイアン・クルーク、自身が持つオーストラリアへの強いパイプを生かしてグラハム・アーノルドアウレリオ・ヴィドマートニー・ポポヴィッチハイデン・フォックススティーブ・コリカら外国人選手も補強した。

財政難からまともに戦力が整わなかったため、就任当初は5-3-2や時には前線に1人だけを残した5-4-1と極端な守備的サッカーを展開。オズワルド・アルディレス(当時清水エスパルス監督)から「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ。」[16]と言われるほどであった。一時はJ1参入決定戦圏内まで低迷したが、2ndステージで持ち直し回避できた。

就任3年目の1999年に至って堅守速攻のカウンターサッカーが熟成。上村、ポポヴィッチ、フォックスによる当時Jリーグ最強ともといわれた3バック、チームの攻撃を担った藤本、新たなるエース久保竜彦の覚醒によって、次々と強豪チームを撃破[17]。リーグ戦を1stステージ6位、2ndステージ8位と上々の成績を残し、またその冬にはユース所属の高校生Jリーガーである森崎和幸の活躍もあり、天皇杯決勝まで進んだ。翌2000年、更なる上位進出を目指したが、得点力不足が響き肝心なところで勝ち星を失う試合が続いた[18]。しかし森崎和が新人王を受賞するなど少なからず明るい話題はあった。

[編集] 2001年(ヴァレリー時代)

4年にわたる長期政権を終えトムソンが勇退した2001年、クラブはより攻撃的なサッカーを目指すために、ロシアヴァレリー・ニポムニシを新監督に招聘した。当時Jリーグで唯一3トップを採用し[19]、超攻撃戦術への大転換を図った。久保竜・大木勉・藤本・コリカが絡む前線は抜群の破壊力を誇ったが、守備練習にほとんど時間を割かなかったため、1stステージではほとんどカウンターアタックの餌食となり成績低迷、J2降格の危機に陥った。[20]

残留に向けオレグ・パシニンセルゲイ・スカチェンコを補強、相手に合わせて柔軟にシステムを変化させ、攻撃的なヴァレリー戦術を継続させながらもJ1残留を目指した。すると日本代表にも選ばれた久保竜彦と藤本、日本屈指の両アウトサイドとなる服部・駒野友一、森崎和幸・浩司兄弟、トゥーリオらの若手の活躍もあり、J1残留に成功。しかもその年の2ndステージは3位と、優勝した94年以来の好成績を残し、「来年こそ優勝を」という機運は高まった。[21]

ところが同年11月、ヴァレリーは夫人の病気を理由として急遽辞任する[注釈 2]。この際、ヴァレリーが新監督に推薦[22]したロシア人ガジ・ガジエフを、クラブがそのまま鵜呑みにして就任させてしまったことが、結果的に翌年の崩壊を招くこととなった。[23]

[編集] 2002年(ガジエフ/木村/小野時代)

2002年、新監督ガジエフは、前年に驚異的な活躍をしたコリカやオレグを「自分の戦術に合わない」とばっさりと放出。さらにキャンプでも選手たちの心を全く掴むことができずチームはバラバラのまま、またさらにはキャプテンの上村が開幕直前に大怪我をしてしまい[24]、計算できるCBがまったくいない最悪な状況でシーズンに突入した。 そのツケはすぐに回り、チームは戦術が全く噛み合わないまま連戦連敗を重ね、ミロや上村の怪我で急遽獲得したビロングの新外国人も軒並み期待外れに終わった。結局ガジエフは第8節終了後に健康上の理由により辞任。広島にとってはクラブ史上初のシーズン途中での監督交代劇だった。[22][23]

同年7月、コーチを務めていた木村孝洋が昇格する形で監督に就任、これがクラブ史上初の日本人監督となった。しかし低迷するチームの復調を託すことはあまりにもリスクがあり、消極的な采配に終始し毎試合システムや選手を入れ替えたため、さらにチームは混迷した。また主力の久保竜彦と藤本もコンディション不良による低調なパフォーマンスに終始し、他チームで構想外となった選手をレンタルで獲得するも期待はずれに終わってしまう。同年9月、小野剛をヘッドコーチに招聘すると、ようやく終盤になりチームとして形になるが結局勝ち点を伸ばせず、ステージ優勝経験のあるクラブとしては史上初のJ2降格が決まった。[23]

同年12月、責任を取って木村は辞任[23]。後任には小野が監督に昇格し、会見の場で「1年目にはJ1復帰、3年目にはJ1で優勝争い」という『3ヵ年計画』を発表した[25]。混乱から立ち直ったチームは本来の実力を発揮し天皇杯を3連勝、ベスト4入りを果たした。

同年末、長年クラブ運営にかかわってきた今西和男がJ2降格の責任を取って現場から離れ[6]、元Jヴィレッジ副社長の高田豊治ゼネラルマネージャーに就任した。

[編集] 2003年 - 2006年(小野時代)

J2降格を受け主力の久保竜彦と藤本の二人は移籍してしまったが、そのほかの主力は残留させることに成功、一方でサンパイオリカルドらのJで実績のあるブラジル人を獲得した。こうして迎えたシーズンは、1stレグ11試合を無敗(10勝1分)、10連勝を含む11戦負けなしの当時のJ2記録を樹立し序盤は独走した。だが次第にシーズン44試合の長丁場と相手チームの徹底的に守る戦術に苦戦、一時は3位まで後退するが終盤に巻き返し(このときの詳細については2003年J2第43節・最終節を参照)、1年でJ1返り咲きを決める。[26]

J1復帰後の2004年、上村・桑原・高橋などのベテラン・中堅を次々に放出し、森崎兄弟・駒野を中心とするチームの若返りに着手、高校生Jリーガーの高萩洋次郎前田俊介高柳一誠なども起用された。一方で補強では後手に回り、小村徳男ベット盛田剛平などベテラン中心の補強となった。チームは堅守を武器に健闘するものの、得点力の低さから勝ちきれない試合が続き、結果13引き分けと当時の年間最多引き分け記録を作ってしまった。[27]

翌2005年、就任3年目を迎え優勝争いの公約を果たすため積極的な補強に動く。佐藤寿人茂原岳人などの年代別代表時代の小野の教え子たち、ジニーニョガウボンなどブラジル人を獲得。新キャプテンに就任した森崎和、前年から起用してきた前田などの若手が融合し、チームは快進撃を続け一時は2位にまで浮上した。しかし、その後は下田の長期離脱や他チームの台頭もあり、最終的には7位でシーズンを終えた。特に、下田・ジニーニョ・小村のベテラン守備陣は鉄壁で、前半戦を終えた時点でどの試合も0分~45分の間は無失点という驚くべき記録を残し、佐藤寿は久保竜の移籍以降不在だったエースストライカーの座を勝ち取り、J1日本人得点王にも輝いている。[28]

同年には駒野が東アジア選手権から代表に定着、佐藤寿もシーズン終了後に代表に選出された。

2006年、昨年足りなかった部分をウェズレイ戸田和幸らJリーグ実績のあるベテランで補強し更なる上位進出を狙った。しかし、より高レベルのサッカーを目指して導入した中盤をフラットとする4-4-2が全く機能せず、開幕から守備が崩壊しリーグ戦10試合未勝利(クラブワースト記録)と低迷、第8節終了後に小野は責任を取って辞任した。[29]

[編集] 2006年 - 2007年(望月/ペトロヴィッチ時代)

後任には、GKコーチの望月一頼ドイツW杯本大会による中断期間までの暫定で就任した。望月は、前回降格した2002年の反省や、さらに中断までのリーグ4試合の間にできるだけ早くチームを立て直さねばならないという判断から、5バックによる超守備的な戦術を選択。守備に難のある選手をスタメンから外し、攻撃は佐藤寿の決定力に賭けた。これには一部のサポーターのみならず一部選手からも批判の声が上がるものの、このサッカーを終始貫くことにより、残留争いに優位に立てることとなる。リーグ戦4試合で勝ち点7という結果を残し、新監督のオーストリアミハイロ・ペトロヴィッチへとバトンを渡した。[30]

ペトロヴィッチは3-5-2を採用、DFラインからのビルドアップを最重視し本来はボランチを本職とする戸田・森崎和をセンターバックで起用、青山敏弘柏木陽介の若手を抜擢、この時期からウェズレイがチームにフィットし佐藤寿との抜群のコンビを見せ始め、最終的にはチーム総得点50のうち7割を二人でたたき出した[注釈 3]。結果、第31節でJ1残留を決定、最終的には10位で終了した。[31]

また同年、ドイツW杯本大会に駒野が代表選出、サンフレッチェから初のW杯本大会の日本代表メンバーとなった。その後も、佐藤寿と共にオシムジャパンに招集された。

2007年は、2005年から続いた積極的な補強と相次ぐ監督交代がクラブ財政を圧迫したため実のある補強ができず、ほぼ現有戦力で戦うこととなった[32]。同年には第三者割当増資を行いデオデオが筆頭株主となった[1]

年代別代表にのべ7人を送り出すようになり、現行ルールで決勝トーナメントへ進んだ事のなかったナビスコカップで初の決勝トーナメント進出を果たし、リーグでも序盤は好調を維持した。しかし頼みのウェズレイと佐藤寿の2トップが他チームに研究され得点力が徐々に低下、財政およびフロント指揮権[注釈 4]の問題から主な補強がイリアン・ストヤノフのみに止まり、控え組の底上げができていなかったことから主力を固定したため、代表招集も重なりコンディションが落ちはじめて守備が崩壊した。その結果、同シーズンJ1ワーストの71失点の16位で終え、その後行なわれた京都サンガF.C.とのJ1・J2入れ替え戦に敗れ、「2度目のJ2降格」が決定した。

これに対しクラブ幹部は若手を育てた実績を評価し、J2降格チームとしては異例の監督留任を決定[33]。同年の天皇杯ではこれまでの不調が嘘のような快進撃を見せ、2000年以来となる8年ぶりの決勝へ進出した。

監督は留任したもののJ2降格を受け組織を再編、社長の久保允誉が責任を取って辞任し会長に、元デオデオ取締役の本谷祐一が社長に新任、会長と社長を残しすべての常任取締役は退任した[34]。また、「強化本部」を軸とする1本部5部制から、トップチームの強化・育成普及などを担当する「管理強化本部」と営業・運営・広報などを担当する「事業本部」の2本部7部制を採用。管理強化本部長はデオデオ出身の社長が兼務、事業本部長はマツダからの出向の取締役が就任した[35]

[編集] 2008年 - (ペトロヴィッチ時代)

2008年、降格によりウェズレイと駒野が移籍したものの、監督留任によりほとんどの主力が残留し結果として戦力維持に成功し[33]、さらに久保竜彦が6年ぶりに復帰した。ただ、年間通じて主力に怪我人が続出し、戦術も1トップや時にはFWを置かない0トップを採用する状況にまでなった。しかし戦術変更が功を奏し、その中で青山敏弘・柏木陽介・高萩洋次郎・森脇良太佐藤昭大李漢宰槙野智章など中堅・若手が台頭し選手層の厚みに繋がった。[33]

同年3月のゼロックス・スーパーカップでは、PK戦のすえ勝利。これにより1994年のステージ優勝以来、2度目の「日本一」の称号を手にするとともに、大会初の「J2クラブによる優勝」を成し遂げた。またリーグ戦でも、J2史上初の「全節首位での優勝」・「9月中での優勝」、J2史上2チーム目となる「勝ち点100」を達成した。天皇杯でもその好調を維持しベスト8へ進出した。[33]

2009年も現有戦力で戦う路線は継続、主な補強も即戦力MFミハエル・ミキッチを獲得した程度に止まったものの、昨シーズン台頭した若手の力とペトロヴィッチが約1年間のJ2の期間をかけてチームに浸透させた戦術を武器に来期のAFCチャンピオンズリーグ出場権獲得は勿論、いまだJリーグで達成されていない、J1昇格1年目でのリーグ優勝を目指して出発した。

[編集] 年度別成績・歴代監督

[編集] リーグ戦

年度 所属 順位 試合 勝点 勝利 敗戦 引分 得点 失点 他公式戦 監督
年間
(チーム数)
ステージ
1993 J サントリー 5位
(10)
6位 18 - 9 9 - 23 24 - イングランドの旗 バクスター
J ニコス 5位 18 - 9 9 - 31 25
1994 J サントリー 2位
(12)
優勝 22 - 17 5 - 44 26 チャンピオンシップ
準優勝
J ニコス 4位 22 - 12 10 - 27 31
1995 J サントリー 10位
(14)
10位 26 39 13 13 - 39 33 - オランダの旗 ヤンセン
J ニコス 12位 26 28 9 17 - 28 43
1996 J 14位
(16)
- 30 30 10 20 - 36 60 -
1997 J 1st 12位
(17)
10位 16 21 8 8 - 22 23 - スコットランドの旗 トムソン
J 2nd 13位 16 15 5 11 - 21 27
1998 J 1st 10位
(18)
13位 17 19 7 10 - 22 33 -
J 2nd 9位 17 24 9 8 - 23 19
1999 J1 1st 8位
(16)
6位 15 27 9 6 0 30 18 -
J1 2nd 8位 15 21 7 7 1 24 25
2000 J1 1st 11位
(16)
10位 15 19 7 7 1 19 15 -
J1 2nd 11位 15 18 6 8 1 23 25
2001 J1 1st 9位
(16)
13位 15 13 5 10 0 25 33 - ロシアの旗 ヴァレリー
J1 2nd 3位 15 24 8 7 0 36 27
2002 J1 1st 15位
(16)
15位 15 10 3 11 1 14 26 - ロシアの旗 ガジエフ
日本の旗 木村孝洋[注釈 5]
J1 2nd 14位 15 16 5 8 2 18 21
2003 J2 2位
(12)
- 44 86 25 8 11 65 35 - 日本の旗 小野剛
2004 J1 1st 12位
(16)
13位 15 15 3 6 6 15 19 -
J1 2nd 11位 15 16 3 5 7 21 23
2005 J1 7位
(18)
- 34 50 13 10 11 50 42 -
2006 J1 10位
(18)
- 34 45 13 15 6 50 56 - 日本の旗 小野剛
日本の旗 望月一頼
オーストリアの旗 ペトロヴィッチ[注釈 6]
2007 J1 16位
(18)
- 34 32 8 18 8 44 71 入替戦 降格 オーストリアの旗 ペトロヴィッチ
2008 J2 優勝
(15)
- 47 100 31 4 7 99 35 スーパーカップ
優勝
2009 J1
(18)
- -

[編集] リーグ杯

年度 所属 ナビスコ杯 監督
1992 J 予選敗退 イングランドの旗 バクスター
1993 J 予選敗退
1994 J 1回戦敗退
1995 J 開催せず オランダの旗 ヤンセン
1996 J 予選敗退
1997 J 予選敗退 スコットランドの旗 トムソン
1998 J 予選敗退
1999 J1 2回戦敗退
2000 J1 2回戦敗退
2001 J1 3回戦敗退 ロシアの旗 ヴァレリー
2002 J1 予選敗退 ロシアの旗 ガジエフ
2003 J2 出場権なし 日本の旗 小野剛
2004 J1 予選敗退
2005 J1 予選敗退
2006 J1 予選敗退 日本の旗 小野剛、日本の旗 望月一頼[注釈 7]
2007 J1 準々決勝敗退 オーストリアの旗 ペトロヴィッチ
2008 J2 出場権なし
2009 J1 予選敗退

[編集] カップ戦

年度 所属 天皇杯 監督
1992 J 2回戦敗退 イングランドの旗 バクスター
1993 J ベスト4
1994 J ベスト8
1995 J 準優勝 オランダの旗 ヤンセン
1996 J 準優勝
1997 J 4回戦敗退 スコットランドの旗 トムソン
1998 J ベスト8
1999 J1 準優勝
2000 J1 4回戦敗退
2001 J1 4回戦敗退 日本の旗 木村孝洋(代行)[注釈 8]
2002 J1 ベスト4 日本の旗 小野剛
2003 J2 4回戦敗退
2004 J1 4回戦敗退
2005 J1 5回戦敗退
2006 J1 5回戦敗退 オーストリアの旗 ペトロヴィッチ
2007 J1 準優勝
2008 J2 ベスト8
2009 J1 3回戦敗退


[編集] クラブ記録

[編集] タイトル

なおオリジナル10の中で唯一、日本国内3大タイトル(Jリーグ(J1)年間、Jリーグカップ、天皇杯)を一度も獲得していない。

[編集] アラカルト

公式戦初試合
  • リーグ戦:2-1(1993年5月16日、Jサントリー第1節対ジェフユナイテッド市原戦)
  • リーグ杯:2-3(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1節対読売ヴェルディ戦)
  • カップ戦:2-0(1992年12月5日、天皇杯1回戦対同志社大学)
1試合最多
  • 得点
    • リーグ戦:7-1(2008年9月7日、J2第34節対FC岐阜戦)
    • リーグ杯:7-0(2009年5月30日、ナビスコカップ第4節対大宮アルディージャ戦)
    • カップ戦
      • 7-2(1999年12月26日、天皇杯準決勝ヴェルディ川崎戦)
      • 7-0(2000年12月10日、天皇杯3回戦水戸ホーリーホック戦)
  • 失点
    • リーグ戦:0-7(2009年10月25日、J1第30節川崎フロンターレ戦)
    • リーグ杯:0-5(1993年10月16日、ナビスコカップ対ガンバ大阪戦)
    • カップ戦:0-4(2001年12月16日、天皇杯4回戦対清水エスパルス戦) 
公式戦連続記録
  • 勝敗
    • 連勝:10試合(J2リーグ戦のみ、2003年3月23日-2003年5月10日)
    • 未敗戦:16試合(13(J2)+3(カップ)、2008年8月23日-2008年12月6日)
    • 引分:4試合(J1リーグ戦のみ、2004年10月3日-2004年10月31日)
    • 未勝利:14試合(1(カップ)+10(J1)+3(リーグ杯)、2005年11月3日-2006年4月29日)
    • 連敗:7試合(J1リーグ戦のみ、2002年7月24日-2002年8月31日)
  • 得失点
    • 得点:25試合(7(J1)+13(J2)+1(リーグ杯)+4(カップ)、2008年5月11日-2009年4月26日)
    • 無失点:7試合(J2リーグ戦のみ、2003年9月6日-2003年10月11日)
    • 無得点
      • 4試合(2(J)+2(チャンピオンシップ)、1994年11月16日-1994年12月2日)
      • 4試合(Jリーグ戦のみ、1995年8月26日-1995年9月9日)
    • 失点:17試合(12(J1)+3(リーグ杯)+2(カップ)、2005年11月27日-2006年4月29日)

[編集] 個人記録

[編集] タイトル

Jリーグ
リーグ杯
  • MVP
    • なし
  • ニューヒーロー賞
    • なし
その他
  • AFC月間最優秀ゴール賞(8月):久保竜彦(2000年8月19日、J1・2nd第10節対ガンバ大阪戦)[1]

[編集] アラカルト

試合出場記録
  • 最年少出場:高萩洋次郎(2種登録)、16歳8ヶ月3日(2003年4月5日、J2第4節対湘南ベルマーレ戦)
  • 最年長出場:小村徳男、36歳8ヶ月0日(2006年5月6日、J1第12節対アビスパ福岡戦)
  • 1シーズン最多:柳本啓成、55試合(50(J)+5(カップ)、1995年)
  • 公式戦連続出場:服部公太、143試合(74(J1)+44(J2)+14(リーグ杯)+11(カップ)、2002年11月30日-2006年4月22日)
    • リーグ戦のみ:服部公太、218試合(133(J1)+85(J2)、2002年11月30日-2008年11月30日)
ゴール記録
  • 最年少ゴール:高柳一誠(2種登録)、17歳10ヶ月10日(2004年7月24日、ナビスコカップ第6節対東京ヴェルディ1969戦)
    • リーグ戦:高萩洋次郎、18歳0ヶ月19日(2004年8月21日、J1・2nd第2節対セレッソ大阪戦)
  • 最年長ゴール:ウェズレイ、35歳4ヶ月28日(2007年9月16日、J1第25節対浦和レッドダイヤモンズ戦)
  • 1シーズン最多:佐藤寿人、31ゴール(28(J2)+2(カップ)+1(スーパーカップ)、2008年)
  • 1試合個人最多:高橋泰、4ゴール(2003年4月19日、J2第7節対横浜FC戦)
  • 公式戦初:森保一(1992年9月6日、ヤマザキナビスコカップ第1戦対読売ヴェルディ戦、前半25分)
    • リーグ戦:風間八宏(1993年5月16日、Jサントリー第1節対ジェフユナイテッド市原戦、前半1分)
  • 最速記録:佐藤寿人、開始8秒(2006年4月22日、J1第9節対セレッソ大阪戦)
その他
  • 最長在籍年数:下田崇、16年(1994年-)
  • 公式戦連続フルタイム出場:服部公太、143試合(上記連続出場と同じ)
    • リーグ戦のみ:服部公太、171試合(127(J1)+44(J2)、2002年11月30日-2007年10月6日)
  • 兄弟アベックゴール:森崎和幸森崎浩司(2004年5月5日、J1・1st第8節対セレッソ大阪戦)

[編集] 国際記録

[編集] 国際試合

親善および練習試合は除く

なし

[編集] 国際大会出場選手

W杯


夏季五輪


U-20W杯


U-17W杯
アラカルト
  • 日本人初招集
  • 日本人初国際Aマッチ出場
    • 高木琢也:1992年5月31日対アルゼンチン代表戦
    • 森保一:同上
  • 在籍時日本人最多キャップ:高木琢也:45試合(1992年-1997年)
  • 在籍時日本人最多ゴール:高木琢也:27ゴール(1992年-1997年)

[編集] 対戦成績

対戦通算成績

「対戦通算成績と得失点」については、Jリーグ公式サイト・サンフレッチェ広島の「対戦成績」の項を参照

相性
  • 清水エスパルスのホームスタジアムである日本平スタジアムを非常に苦手にしており、1995年の勝利を最後に、2006年までリーグ戦では1分9敗と11年間に渡りこのスタジアムで勝利を奪えていない。リーグ戦の通算成績でも2勝10敗1分と大きく負け越しており、まさに鬼門のスタジアムである。
  • 一方で、鹿島アントラーズのホームであるカシマサッカースタジアムでの相性がよく、1997年から2006年まで負け無しだった。通算成績でも鹿島を除くJ1所属経験のあるチームの中では2007年において唯一勝ち越していたが2009年3月22日J1第3節で負けたことで7勝1分7敗の五分になった。また、鹿島がこのスタジアムで初めて負けたときの相手が広島である。
  • ベガルタ仙台にはリーグ戦での勝利がない。2008年のJ2でJ全チーム(横浜フリューゲルス含む)から勝利を挙げるチャンスがあったが、J2新規加盟のFC岐阜ロアッソ熊本には勝利するも、仙台とは2分け1敗に終わった(2002年J1では0勝2敗)。ちなみに、広島以外で仙台に勝利したことがないのは、前述のFC岐阜、ロアッソ熊本以外ではザスパ草津のみである。

その他、詳細なデータは外部サイト(サンフレッチェ広島記録集)を参照。

[編集] リーグ戦ホームゲーム観客動員数

年度 所属 1試合
平均
試合数・
年間入場者
最多動員 最少動員
動員数 試合日 対戦 会場 動員数 試合日 天気 対戦 会場
1993 J 16,644 18 299,586 36,863 5月22日(土) V川崎 BA 9,672 12月8日(水) 名古屋 S
1994 J 17,191 22 378,195 42,505 9月3日(土) V川崎 BA 8,523 11月16日(水) 磐田 S
1995 J 11,689 26 303,903 20,265 3月29日(水) V川崎 BA 7,012 11月11日(土) 名古屋 BA
1996 J 8,469 15 127,040 18,863 3月20日(水) 鹿島 BA 4,491 11月6日(水) 福岡 BA
1997 J 6,533 16 104,534 10,504 8月20日(水) V川崎 BA 4,156 4月16日(水) BA
1998 J 8,339 17 141,769 17,020 8月8日(土) 鹿島 BA 4,132 5月2日(土) 市原 S
1999 J1 9,377 15 140,650 18,263 9月15日(祝) 横浜FM BA 3,812 4月10日(土) 曇/雨 G大阪 S
2000 J1 8,865 15 132,978 20,876 11月23日(祝) 磐田 BA 4,175 4月5日(水) BA
2001 J1 9,916 15 148,741 19,423 11月24日(土) 鹿島 BA 5,161 4月14日(土) 福岡 BA
2002 J1 10,941 15 164,111 18,404 11月23日(土) BA 6,481 3月16日(土) 京都 BA
2003 J2 9,000 22 198,004 26,158 9月23日(祝) 新潟 BA 3,471 4月9日(水) 水戸 S
2004 J1 14,800 15 222,005 29,332 5月2日(日) 浦和 BA 5,251 4月14日(水) 名古屋 BA
2005 J1 12,527 17 212,960 26,083 9月18日(日) 浦和 BA 6,230 7月13日(水) 磐田 BA
2006 J1 11,180 17 190,066 17,564 3月5日(日) 鹿島 BA 5,545 7月26日(水) 曇/雨 甲府 BA
2007 J1 11,423 17 194,199 22,675 9月15日(土) 浦和 BA 6,037 6月20日(水) 川崎 BA
2008 J2 10,840 21 227,631 19,349 9月23日(祝) 愛媛 BA 4,622 6月25日(水) 徳島 BA
2009 J1 17 月 日( ) BA 月 日( ) BA
  • Jリーグ全体からすると芳しいとは言えない状況である。
  • 広島ビッグアーチおよび広島スタジアムはほとんどの観客席に屋根がないため、天候が崩れると観客数に減少傾向がでる。2006年は動員が多く見込めるゴールデンウィークとリーグ終盤に雨が続き、観客動員に影響した。最近数年は「梅雨期の水曜日開催試合」に最小動員となる傾向にある。
  • Jリーグ開始時から最小動員が1万人を切っており、さらに90年代後半のJリーグバブル崩壊と共に急激に動員数が減っていることから、当初クラブ自体が営業努力を疎かにしていたことが分かる。そのほかの動員急減理由として、94年ステージ優勝メンバーである主力数人を放出したことやリーグ成績の低迷などが挙げられる。

その他現状については広島におけるサッカー専用スタジアム構想#広島ビッグアーチでの現状を参照

  • 略記について
    • BA:広島ビッグアーチ(キャパ50,000人)、S:広島スタジアム(キャパ13,800人)
    • V川崎:ヴェルディ川崎、名古屋:名古屋グランパスエイト、磐田:ジュビロ磐田、鹿島:鹿島アントラーズ、福岡:アビスパ福岡、柏:柏レイソル、市原:ジェフユナイテッド市原、横浜FM:横浜F・マリノス、G大阪:ガンバ大阪、京都:京都パープルサンガ、新潟:アルビレックス新潟、水戸:水戸ホーリーホック、浦和:浦和レッドダイヤモンズ、甲府:ヴァンフォーレ甲府、川崎F:川崎フロンターレ、愛媛:愛媛FC、徳島:徳島ヴォルティス

[編集] エピソード・アラカルト

[編集] 記録・出来事

チーム名

川淵三郎の著書『虹を掴む』によると、チーム名は「高貴な色」を付けた「広島パープル」で決定しかけたという。川淵と広島球団社長が一緒に飲んだ際に、川淵は愛称的なチーム名を期待していたが色だけのチーム名に難色を示し、その場にいた芸者らも川淵の意見に賛同して改名を考慮、結果としてチーム名は公募され、最も多かった毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんだ「スリーアローズ」をさらにもじり、「サンフレッチェ」の名前が誕生した、とある。ただ、この話は100%虚偽ではないにせよ、創作が混じっている。

元総監督の今西和男[6]および創設当時からのフロントスタッフ[11]のインタビューを整合すると以下のようになる。

  • チーム名は公募したところ、県花である「モミジ」やそこから連想する「赤」、そして「元就」に関するもので占められていた。その中で最多案ではなかったが「スリーアローズ」がクラブスタッフの目に止まった。ただ商標登録されていたため、それをもじり「サンフレッチェ」という言葉をスタッフ会議で作りだした。サンを日本語のまま残したのは、セイント(saint)のフランス語読みを意識したとも語っている。
  • 次にチームカラーは、当初マツダSCのチームカラーである「青」を考えていたが、他チームと色が被らないようにというJリーグ側の意向もあり、スタッフ会議でチームカラーの一新も決定した。そこで、広島サッカー界の名門・広島一中(現国泰寺高校)のチームカラーにあやかり、聖徳太子の冠位十二階で最上位を象徴し高貴なイメージがあるため、更にはナイトゲームで最も映える色として事前調査で判明したため、「紫」に決定した。
  • そこからチーム名を「パープル」にする提案も出たが、語感の悪さから却下された。

「日本語+イタリア語」による造語は珍しいが、語感がよいためか、1993年当時は組織内のトリオを「サンフレッチェ」と自称するものも出てきた。

ちなみに、イタリアには「サンフレ」という行政区がある。

チェアマン杯破損

1994年6月11日磐田スタジアムで行われたジュビロ磐田戦で、広島は2-1で勝利し、サントリーシリーズ優勝を決めた。ところがこの際、授与された高級クリスタル製のチェアマン杯(HOYAクリスタル特製)をサポーターに見せてやろうと、チームトレーナーが踏み台に上がろうとしたとき、興奮しすぎたため誤って転倒して手から落とし、チェアマン杯は粉々に破損。この珍事は翌日のスポーツ新聞の1面を飾った。クラブはその場でJリーグ側に陳謝、その後クラブには新しいチェアマン杯が送られた。

この件以降、チェアマン杯は金属製となった。また、割ってしまった旧チェアマン杯は一旦溶かされてペンダントとなった[36]

ちなみに当時その模様を伝えるニュースでは、森山佳郎が持ってサポーターの方へ向かい広告ボードで躓いた状況が放送されたため、多くのファンは「割ったのは森山」と考え、森山本人も以後会う人全員から疑われて否定に必死だったという。

ユニフォーム忘れ

1995年4月1日熊本市水前寺陸上競技場横浜フリューゲルス戦が行われた。この試合は当時九州にJリーグチームがなく、熊本県をホームタウンとほぼ同等の権限を持った特別活動地域の1つとしていた横浜Fのホームゲームなので、広島はアウェーゲームで使う白の2ndユニフォームを持参していた。ところが横浜Fの1stユニフォームは白。競技場に着いて初めてこのことに気付いた広島は球団事務所に紫の1stユニフォームを熊本まで届けるように頼んだが、当然ながら間に合うはずもない。そこで広島は横浜Fの了解を得て、競技場に来ていたサポーターからレプリカユニフォームを借り、それにテープで背番号を貼って試合に臨んだ。借りたユニフォームは当然サポーターのものなので、当時胸スポンサーだったマツダや背中スポンサーだった住建産業のロゴが描かれていないものもあった(自分が書いたサイン入りのユニフォームを着た選手もいた)。ちなみにパンツとストッキングは2ndユニフォームを使用したので、上から紫・紫・白という組み合わせだった。

試合は延長前半12分にイワン・ハシェックVゴールで広島が勝ったものの、後日Jリーグから制裁金が課せられた。

ちなみにユニフォームを貸したサポーターには、この試合でベンチ入りした監督・選手全員のサイン入り色紙がプレゼントされた。

初のJ2クラブ「日本一」達成

2008年3月1日国立霞ヶ丘陸上競技場で行われたゼロックス・スーパーカップにおいて、この年からJ2へ降格する広島が、前年のJリーグ年間王者ならびに天皇杯覇者であった鹿島アントラーズに勝利し、2部制ができた1999年以降初めてJ2のクラブがJ2リーグ戦優勝以外のタイトルを獲得する偉業を達成した。

初の「ベストメンバー規定」違反による罰則

詳細はベストメンバー規定#2009年・サンフレッチェ広島を参照

2009年6月3日、ナビスコ杯・対大分トリニータ戦において、先発メンバーのうち10人がJリーグ規約第42条違反、俗に言うベストメンバー違反とされ、同年9月15日のJリーグ理事会にて制裁金を科された。

ただ、広島は事前にリーグ側に規約について問い合わせを行っている事もあり、逆に規約の問題点も浮き彫りとなった。

[編集] 交流

吉田町(安芸高田市)

チーム名は上記のとおり毛利元就の故事にちなんで命名されたもので、このことから元就ゆかりの地である高田郡吉田町(現:安芸高田市)とサンフレッチェとの交流が始まった。その後交流が進み、吉田サッカー公園完成や、毎年清神社に必勝祈願参拝するなど、現在の吉田町はサンフレッチェのマザータウンとなっている。

詳細は吉田町 (広島県)#備考を参照

横川町(西区)[37]

2007年3月、広電バスがホームゲーム開催日に、JR・広電横川駅とビッグアーチを結ぶ臨時シャトルバスを開通した。このとき、サポーターが横川町商店街に、ポスターの張り出しやのぼり旗を掲げるようお願いして回った。これが契機となり、商店街ではサンフレッチェを応援する動きが始まった。試合前日には、横川駅にてクラブ職員および選手が試合告知活動を行っている。

他のJリーグクラブへの協力

発足当初、兵庫以西で唯一のJリーグクラブだったことから、広島は後に参入した西日本のクラブに積極的にノウハウ伝達や選手移籍などの支援を行ってきており、アビスパ福岡やヴィッセル神戸はスタッフに広島出身者を抱えていた。

大分トリニータや愛媛FCは、創設時に元広島総監督の今西和男がアドバイザーとして参加したこともあり、それぞれのクラブが成熟するまで、スタッフの派遣・若手選手のレンタル移籍・戦力外になった選手の斡旋などを精力的に行っていた。[7]

2008年、中国・四国地方のJリーグクラブで中国・四国Jクラブ情報懇談会を結成。定期的に集まり、おのおのクラブ運営の問題解決にむけ意見交換を行っている。

他競技交流

広島県内を拠点として活躍する8競技9団体でトップス広島(異競技間交流ネットワーク)を結成、相互競技応援や若年層向けにスポーツ教室の開催、自治体が主催するスポーツによる地域活性化事業に参加するなどしている。

それとは別に2競技1文化団体によるP3 HIROSHIMA(広島三大プロ共同体)という地域活性化プロジェクトを開始、家族向けに夏休み期間中各団体活動を体験する事業を行っている。

サンフレッチェ劇場[38]

ホームである広島ビッグアーチにおいて試合で勝利後、選手がトラメガ片手にサポーター席の前で選手自身が用意した扮装等パフォーマンスを行っている。

自チームサポーターに向けてパフォーマンスを行っていた中山雅史(ジュビロ磐田)や岡山一成(当時柏レイソル)に憧れた柏木陽介槙野智章が、2007年にホームゲームで勝利するとサポーター席の前にやってきてパフォーマンスを行っていたのが始まり。当初は2人の名前を取って「カシマキ劇場」と呼ばれていた。翌2008年、ここに森脇良太が加わり、現在の名前となった。

上記の3人のみならず、他の選手もゲストとして参加している。ちなみに、試合後の渋滞が緩和されるとして「クラブに公認」されており、公式ホームページにこの様子の動画が公開されている。

[編集] 所属

[編集] 監督・GM・社長

監督 在籍 勝敗 リーグ勝率 GM 社長
イングランドの旗バクスター 1992年4月25日
-1994年
勝ち:57(J:47,LC:4,EC6) 58.75% 今西和男
1992年-2002年
古田徳昌
1992年4月
-1995年6月
引分:なし
負け:50(J:33,LC:12,EC3,CS:2)
オランダの旗ヤンセン 1995年-1996年 勝ち:46(J:32,LC:6,EC:8) 39.02%
引分:3(J:3,LC:3) 信藤整
1995年6月
-1998年6月
負け:57(J:50,LC:5.EC:2)
スコットランドの旗トムソン 1997年-2000年 勝ち:73(J1:58,LC:7,EC:8) 47.45%
引分:5(J1:3,LC:2) 久保允誉
1998年6月
-2007年12月
負け:78(J1:65,LC:9,EC:4)
ロシアの旗ヴァレリー 2001年 勝ち:17(J1:13,LC:3,EC:1) 43.33%
引分:1(LC:1)
負け:20(J1:17,LC:2,EC:1)
ロシアの旗ガジエフ 2002年
-2002年7月17日
勝ち:3(J1:2,LC:1) 28.57%
引分:3(J1:1,LC:2)
負け:8(J1:5,LC:3)
日本の旗木村孝洋 2002年7月17日
-2002年12月4日
勝ち:6(J1:6) 30.00%
引分:2(J1:2)
負け:14(J1:14)
日本の旗小野剛 2002年12月4日
-2006年4月18日
勝ち:54(J1:29,J2:25,LC:3,EC:7) 56.41%
J1のみ:42.22%
高田豊治
2003年-2005年
引分:41(J1:27,J2:11,LC:3)
負け:46(J1:2,J2:8,LC:9,EC:4) 織田秀和
2006年-2007年
日本の旗望月一頼 2006年4月18日
-2006年6月7日
勝ち:3(J1:2,LC:1) 66.67%
引分:2(J1:1,LC:1)
負け:3(J1:1,リーグ杯:2)
オーストリアの旗ペトロヴィッチ 2006年6月7日- 勝ち:63(J1:19,J2:31,LC:5,EC:8) 61.73%
J1のみ:41.30%
引分:19(J1:10,J2:7,PR:1,SC:1) 本谷祐一
2008年-
負け:38(J1:27,J2:4,LC:3,EC3,PR:1)
  • 最長監督:トムソン、4年
  • 最短監督:望月一頼、2ヶ月22日
  • 就任時最年少:バクスター、38歳8ヶ月14日(1992年4月25日時点)
  • 就任時最年長:ヴァレリー、57歳4ヶ月5日(2001年1月1日時点)
  • 略記について
    • LC:リーグカップ、EC:カップ戦、CS:チャンピオンシップ、PR:入替戦、SC:スーパーカップ

[編集] 選手

トップチーム

サンフレッチェ広島の選手一覧を参照

下部組織

サンフレッチェ広島の下部組織を参照

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 紫紺 紫紺or白
FP(2nd) 白×グレー グレー
GK(1st) オレンジ オレンジ オレンジ
GK(2nd) 水色 水色 水色
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
FP 2nd
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 1st
Team colours Team colours Team colours
Team colours
Team colours
 
GK 2nd

[編集] チームカラー

紫色:色決定経緯については上記エピソード・アラカルト内の「チーム名」欄を参照

[編集] ユニフォームスポンサー

公式戦用[5]
箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
デオデオ DeODEO 1997年 2003年のみ「YourVoice」
背中 ライフ Life CARD 2003年
カルビー Calbee 1999年
パンツ エディオン エディオン 2009年 2003年のみ「DeODEO」
練習着[5]
箇所 スポンサー名 表記 備考
マツダ MAZDA
背中 ミズノ MIZUNO
左袖 広島銀行 広島銀行 クロスシャツ、ウインドブレーカー
右袖 中国電力 中国電力 同上
左袖 中電工 中電工 プラクティスシャツ
パンツ 産興 Tj Hiroshima
下部組織
スポンサー名 表記 備考
ユース マツダ MAZDA 背中
スクール フレスタ FRESTA 主に背中

[編集] 歴代スポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー 配色遍歴(1st、2nd)
1992年 - mazda - - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1993年 Ford mazda JUKEN - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1994年 Ford mazda JUKEN - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1995年 mazda - JUKEN - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
1996年 mazda - JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
1997年 DeODEO - JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
1998年 DeODEO - JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
1999年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2000年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2001年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2002年 DeODEO Calbee JUKEN - Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2003年 YourVoice Calbee LifeCARD DeODEO Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
2004年 DeODEO Calbee LifeCARD - Mizuno 紫・白・紫、白・紫・白
2005年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・紫・白
2006年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・紫・白
2007年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2008年 DeODEO Calbee LifeCARD アーバンコーポレイション Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
2009年 DeODEO Calbee LifeCARD エディオン Mizuno 紫・紫・紫、白・白・白
  • 広島市(または広島県)に本社を置く企業、もしくは広島が発祥の企業が協賛する傾向がある。
  • 現在のメインスポンサーはエディオングループのデオデオ。YourVoiceとは、当時存在していたエディオングループのオリジナルブランド。
  • 当初はフォードグループのマツダがメインスポンサーであったが、1997年以降練習用の胸スポンサーとなった。ちなみに、1993年 - 1994年のナビスコカップでは、胸ロゴからFordが外れチームロゴに、天皇杯は1992年と同じだった。
  • 最近は練習用スポンサーのほとんどを中国電力グループ(中電工および産興)が占めている。
  • Jリーグ発足時、オリジナル10のユニフォームサプライヤーはミズノの一括契約であったが、その中で現在もミズノと契約しているのは広島だけである。

[編集] スタジアム

ホームスタジアム推移

現在、公式戦はすべて広島ビッグアーチで行われている。

  • 1992年~ - 広島スタジアム
  • 1994年~ 広島ビッグアーチ(実公式な本拠地移転の届出は1996年)
    • 1994年~2003年 - 広島スタジアムと併用。
      • 年によって区々(1997年はリーグ戦・カップ戦すべてビッグアーチ、2003年はリーグ戦両所ちょうど半分ずつ、など)。
      • 1998年1stステージ - 広島ビッグアーチの施設・ピッチ改修のため、広島スタジアムをホームに。
    • 2004年~2006年 - リーグ戦は広島ビッグアーチ、カップ戦は広島スタジアム。
    • 2007年~ リーグ戦・カップ戦すべて広島ビッグアーチ。
Jサテライトリーグ

主に吉田サッカー公園、年に1試合のみ福山市の竹ヶ端で開催されている。以前はマツダ鯛尾グラウンドや広島広域公園第一球技場などでも行われていた。

専用スタジアム構想

詳細は「広島におけるサッカー専用スタジアム構想」を参照

[編集] 練習場・キャンプ地

吉田サッカー公園
練習場

現在、主に使用されるのは下記の3つ。

また、過去には下記の場所で練習していたこともある[39]。現在も吉田およびビッグアーチともに積雪で閉鎖された場合のみ使用されることがある。

キャンプ地
  • 現在のキャンプ日程は、まず広島で1週間ほど練習を行い、その間集合写真撮影や清神社にて必勝祈願を行う。その後一次キャンプを海外で、二次キャンプを宮崎・シーガイアで行なう。
  • 国内キャンプは、地元広島のほか、過去には大分県淡路島筑波大学(ともに冬季)、北海道松江市(ともに夏季)などで行われている。
  • 海外キャンプは監督の意向で決まることが多い(括弧内は行なった監督)。過去には東欧北欧(バクスター)、浦項スティーラース練習場(ヤンセン)、アデレード(トムソン)、グアム(小野剛)、アンタルヤ(ペトロヴィッチ)で行われている。
  • 珍しい練習として、2003年と2004年の春キャンプにて「野宿」が行われた。これは、ASE(Action Socialization Experience:社会性を育成する実体験・野外活動)によるトレーニングの一部で、たった一人で限られた食物とテントを持ち山の中で過ごし、孤独な時間の中で自分の心や人間関係を見つめなおすというもの。選手のみならず監督・コーチスタッフも行い、テント数が限られていたため半数近くがブルーシートで寝泊りしている。[40][41]

[編集] メディアなど

紙媒体
テレビ
ラジオ
応援歌
交通

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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注釈
  1. ^ 1980年代、社名変更やJSL1部昇降格を機に数度正式名称を変えている。1981年から「マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部」、1984年から「マツダスポーツクラブサッカー部」、1986年から「マツダサッカークラブ」。
  2. ^ 後に、フロントとのチーム方針を巡る意見の相違から、好条件を提示された中国・山東魯能監督に就任するための狂言と判明。
  3. ^ ウェズレイ16得点、佐藤寿は日本人得点王となる18点。
  4. ^ 2006年に組織再編を行い織田秀和強化部長が実質的な現場のトップとなったが、最終的な決定権は久保允誉社長に委ねられていた。ただ久保は本業であるエディオン社長の激務もあり、迅速な決定が下せない状況だった(ASSIST2007年冬号、6-9頁)。
  5. ^ 1st第1節から1st第8節 ガジエフ、1st第9節から2nd最終節 木村
  6. ^ 第1節から第8節 小野、第9節から第12節 望月、第13節から最終節 ペトロヴィッチ
  7. ^ グループリーグ第2戦まで小野、第3戦以降望月
  8. ^ ヴァレリー帰国に伴い代行として木村が指揮
出典

クラブ公式発表、紫熊倶楽部および季刊紙「ASSIST」、中国新聞を優先するソースとする。2次ソースとしてサンフレッチェ広島記録集SANFRECCE Diaryもあわせて参照。

  1. ^ a b c サンフレッチェ広島公式 (2007-9-26). "株式会社サンフレッチェ広島 増資についてのお知らせ". 2009-07-18 閲覧。
  2. ^ a b c 2008年度Jリーグ公開資料PDF
  3. ^ 中国新聞 (2009-01-01). "2009年新春トップインタビュー". 2009-08-12 閲覧。
  4. ^ サンフレッチェ広島公式(Internet Archive) (2005-1-11). "エンブレム変更について". 2009-07-22 閲覧。
  5. ^ a b c サンフレッチェ広島公式、株主・スポンサー企業
  6. ^ a b c d 広島サッカー向上委員会中国放送. "今西和男インタビュー". 2009-07-18 閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h GM考察 第1章 広島のドン:今西氏のクラブGM論(加部究)、サッカー批評vol.33、2006年12月、ISBN 4575478938
  8. ^ a b c d e 「ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に」、森保一西岡明彦共著、フロムワン、2004年2月刊、ISBN 4757210159
  9. ^ 記者コラム「見た 聞いた 思った」、ニッカンスポーツ (2005-5-29). "優れた指導者の条件". 2009-07-19 閲覧。
  10. ^ a b 田辺一球責任編集コラム (2006-5-1). "フリーキック". 2009-07-18 閲覧。
  11. ^ a b 「SIGMA REPORT」、紫熊倶楽部2009年5月号、P.20-21
  12. ^ a b 中国新聞 (1997-11-4). "ファン離れ加速の恐れ 夢を壊さぬ努力が必要". 2009-07-18 閲覧。
  13. ^ 中国新聞 (1998-4-8). "マツダ特集 サンフレ支援 揺れる心 - 合理主義の下". 2009-07-18 閲覧。
  14. ^ a b 広島経済大学・学ぶ会報告書 p.76-90PDF広島経済大学
  15. ^ 中国新聞 (1997-11-2). "入場料収入リーグ最低 存続かけ大ナタふるう". 2009-07-18 閲覧。
  16. ^ 中国新聞 (1998-8-5). "守るサンフレ完敗 ゴール遠し". 2009-07-23 閲覧。
  17. ^ 中国新聞 (1999-5-15). "オープンスペース 強さ本物、どこにでも勝てる". 2009-07-23 閲覧。
  18. ^ 中国新聞 (2000-5-27). "オープンスペース 決定力不足 ヒーロー求む". 2009-07-23 閲覧。
  19. ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001-1-26). "「守り」から「攻め」へ J唯一の3トップ". 2009-07-20 閲覧。
  20. ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001-7-24). "攻撃布陣、守備に反動/第1ステージ". 2009-07-20 閲覧。
  21. ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001-11-27). "浸透ヴァレリー流 第2Sの軌跡". 2009-07-20 閲覧。
  22. ^ a b 中国新聞(Internet Archive) (2002-7-17). "ガジエフ監督、退団へ". 2009-07-20 閲覧。
  23. ^ a b c d 中国新聞. "試練のサンフレ J2降格". 2009-07-20 閲覧。
  24. ^ 中国新聞(Internet Archive) (2002-9-29). "攻撃的守り指示へ上村復帰 29日京都戦". 2009-07-20 閲覧。
  25. ^ 中国新聞 (2004-8-1). "日本サッカーの未来 サンフレ 小野剛監督に聞く". 2009-07-23 閲覧。
  26. ^ 中国新聞. "サンフレ・グラフ J1への道". 2009-07-20 閲覧。
  27. ^ 中国新聞. "サンフレ2004総括". 2009-07-20 閲覧。
  28. ^ 中国新聞. "サンフレ2005回顧". 2009-07-20 閲覧。
  29. ^ 中国新聞. "小野体制崩壊". 2009-07-20 閲覧。
  30. ^ 中国新聞 (2006-5-6). "ピンポイント 手堅い望月流「合格」". 2009-07-22 閲覧。
  31. ^ 中国新聞(Internet Archive) (2006-12-5). "<ペトロビッチ流サンフレ再生・上>選手の特性見抜く名医". 2009-08-08 閲覧。
  32. ^ 中国新聞(Internet Archive) (2007-4-17). "2年連続の赤字 4億9800万円、補強・監督交代響く". 2009-07-22 閲覧。
  33. ^ a b c d スポーツナビ (2008-11-12). "J2を席巻した広島の強みと課題". 2009-08-12 閲覧。
  34. ^ 久保允誉インタビュー、ASSIST2007年冬号、6-9頁
  35. ^ 中国新聞 (2008-2-1). "フロントを2本部制に 組織見直し". 2009-07-18 閲覧。
  36. ^ 2009年10月16日付エル・ゴラッソ
  37. ^ 中国新聞メディアクラブ (2007-6-8). "サンフレと若者支援で町に活気を". 2009-07-18 閲覧。
  38. ^ 「サンフレッチェ劇場」によって渋滞解消?(J's GOAL)
  39. ^ 中国新聞 (1997-11-3). "イレブンから不満続出 施設面でも改善を要求". 2009-07-18 閲覧。
  40. ^ 淡路島でのトレーニング
  41. ^ サンフレッチェ広島キャンプでホイ(開運!?スポよた堂))
  42. ^ 中国新聞(Internet Archive) (2001-9-27). "ホームゲームのFM実況中継が好評". 2009-07-22 閲覧。
  43. ^ a b サンフレッチェ広島応援企画広島電鉄

[編集] 外部リンク