モンテディオ山形
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| モンテディオ山形 | |
|---|---|
| 原語表記 | モンテディオ山形 |
| 愛称 | モンテ |
| クラブカラー | ブルー イエロー |
| 創設年 | 1984年 |
| 所属リーグ | Jリーグ |
| 所属ディビジョン | ディビジョン1 (J1) |
| ホームタウン | 山形市、天童市、鶴岡市 を中心とする山形県全県 |
| ホームスタジアム | NDソフトスタジアム山形 |
| 収容人数 | 17,939 |
| 運営法人 | 社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会 |
| 代表者 | 海保宣生 |
| 監督 | 小林伸二 |
| 公式サイト | 公式サイト |
モンテディオ山形(モンテディオやまがた、Montedio Yamagata)は、日本の山形県にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
[編集] クラブの概要
1999年、Jリーグ加盟。チームの母体は1984年に結成されたNEC山形(NECの子会社である「山形日本電気」、現・NECセミコンダクターズ山形)鶴岡工場サッカー部、1985年には山形工場内へ本拠地移転。1996年にチーム名をNEC山形よりモンテディオ山形へ変更。なお、チーム名の「モンテディオ」とはイタリア語の「モンテ (Monte)」(山)と「ディオ (Dio)」(神)を合わせた造語で「神の山」の意味する。ホームタウンは山形県山形市、天童市、鶴岡市を中心とする全県。
ホームスタジアムはNDソフトスタジアム山形。この他、以前は山形市陸上競技場や鶴岡市小真木原公園陸上競技場でも公式戦を開催した。うち、山形市陸上競技場は練習場として現在でも使用している(他に山形県総合運動公園球技場、補助競技場なども練習に使用)。更に1994年の旧JFL昇格時にはそれらにナイター照明設備がなかった関係で、ナイター設備がある山形県野球場で公式戦を開催した例もある。ちなみに、加入当時は北海道・東北地方において唯一の旧JFL加盟クラブであった。
運営法人は社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会。他のJリーグチームの運営法人が全て株式会社なのに対して、唯一の社団法人による運営法人である。年会費は法人向けとして正会員が50万円、賛助会員が5万円、個人向けとして後援会員が1万円であったが、2008年からは後援会員制度を廃止しファンクラブ制に移行。会費は年額6000円、特典としてファンマガジン「Rush」が毎月送られてくる。なお、後期からの入会については3000円となっている。 2009年のファンクラブ会費は3000円である。「Rush」の定期購読は選択制となった。
[編集] クラブの歴史
[編集] Jリーグ加盟以前(1987-1998年)
実業団時代の1987年、鶴岡地区リーグ在籍時に地元で5年後の1992年に開催されるべにばな国体のサッカー競技承引企業に指定され、地元の有力高校から強化指定選手を採用するなど本格的な強化を始める。その後、1989年には発足したばかりの山形県リーグで優勝し、東北地域リーグでは1990年の初優勝から1993年までに4季連続優勝を果たす。そして、1992年のべにばな国体では、成年1部にて6位入賞。べにばな国体終了後目標をJFL昇格に照準を変えていたチームは1994年に東北地区初のJFL昇格を果たした。1995年より石崎信弘が監督となり、チームは地力を付けながら年々順位を上げて、1998年には一時期首位に立つも最終的には3位になる。
[編集] J2時代(1999-2008年)
1999年、Jリーグ2部制開始とともにJ2に参加。元ベルマーレ平塚監督である植木繁晴が監督就任。15勝4分17敗で7位という結果だったが、最終節で大分トリニータの昇格を阻止(秋天の陽炎参照)し存在を示した。FW真下佐登史はJ2リーグ2位の18ゴールを挙げる活躍を見せた。天皇杯ではヴィッセル神戸、セレッソ大阪のJ1勢を破りベスト8に進出。
2000年、第1クールは開幕5連敗とスタートダッシュに失敗し、11勝2分27敗で11クラブ中10位に終わる。しかし、この年J2所属だった浦和レッズとは2勝2敗とし(第11節では浦和のJ2初黒星、第40節では、前節大分との直接対決を制し、大分との差を広げる意味で浦和にとって絶対に勝たなければならないゲーム(大分は第40節ゲーム無し)にて、2-1と勝利)また、第41節では、大分にロスタイムのゴールにて引き分けに持ち込み、前年同様昇格争い中のチームの鬼門となる。
2001年、柱谷幸一が監督に就任。この年のリーグ戦では後半に快進撃を続け、ホームで迎える最終節で90分での勝利を挙げれば自力でJ1昇格(Jリーグ理事会での承認は必要)となる2位を確保できる状況で最終節を迎えたが、注目度が異様に高まり独特な雰囲気となった会場でいつもどおりのゲーム運びができず、試合はスコアレスドローのまま90分で終了し延長戦に突入。延長戦開始前に3位の仙台がアウェーで迎えた最終節を90分間で勝利した為、この時点で仙台のJ1昇格と山形のJ2残留が決定した。惜しくも3位でリーグ戦を終了する。
2002年、主力流出の影響を受けて11位と低迷。
2003年、柱谷監督が自身の不祥事で謹慎処分を受けた影響もあって8位に終わり、柱谷はこの年限りで事実上解任された。
2004年は新たに鈴木淳(現・アルビレックス新潟監督)を監督に迎え、再び上位に進出。4位で最終節を迎え、3位アビスパ福岡との直接対戦に勝てばJ1・J2入れ替え戦に進出という状況まで粘ったが、その最終節で敗れ、またもやJ1昇格の道が絶たれた(最終順位は4位)。
2005年もシーズン後半までJ1昇格争いに加わるも、第37節から4連敗を喫するなど終盤に失速。J2リーグ5位で終了した。シーズン終了後には鈴木監督がアルビレックス新潟の新監督として事実上引き抜かれた。
2006年、J2初年度(1999年)に参加した10チームのうち、J1昇格未経験は山形とサガン鳥栖の2チームのみとなった。新潟の監督に就任した鈴木前監督に代わって、横浜F・マリノスでトップチームコーチを務めた樋口靖洋が監督に就任。 さらに日本サッカー協会参事で山形県米沢市出身の新藤一晴が常務理事に就任し、サテライトリーグへの参加をスタートさせた。しかし、チームはFWレアンドロの決定力で得点力は増加したが、守備に安定感を欠いた。また怪我人も多く、開幕7試合未勝利やシーズン途中の10試合未勝利など、一時期は最下位に低迷。第44節の札幌戦で引き分けた時点でJ1昇格への可能性が早々に消滅し、最終的には8位で終了した。また、財政難で補強・有望新人の獲得が難しい状況の中、スカウト部門強化をねらい、鹿島アントラーズ元スカウト担当部長平野勝哉が強化育成部アドバイザーに就任した。
2007年、序盤は首位を走るなど快進撃を見せたが、怪我人の続出を補いきれない選手層の薄さと、深刻な得点力不足から急速にチームは失速。第45節で愛媛FCに1-3で敗れ、昇格の可能性が消滅した。また、樋口監督と島根聡一、南省吾両コーチの契約非更新が発表された(樋口はJ1大宮アルディージャ監督に就任)。
2008年は、大分トリニータをJ1へ昇格させ、セレッソ大阪でJ1優勝争いを経験した小林伸二を監督に招聘。同年開催の北京オリンピック日本代表選手の本大会メンバーに選出されたFWの豊田陽平(名古屋グランパスよりレンタル移籍)を中心とした若手選手の活躍により、仙台とのみちのくダービーに9年ぶりに勝ち越すなど、シーズン中盤からはJ1自動昇格圏の2位をキープ。11月30日第44節で愛媛FCと対戦、試合終了間際の後半43分と44分に石川竜也と豊田がそれぞれゴールを挙げ、3-2で逆転勝利。2位が確定し、J2参加10年目にして悲願のJ1初昇格が決定した(翌12月1日のJリーグ臨時理事会で昇格が承認されて正式に昇格決定)。J2初年度参加10チームの中では9チーム目のJ1昇格となった。
[編集] J1時代(2009年-)
2009年、クラブ史上初めてのJ1昇格をした1年目のシーズンは開幕前にJ1昇格の立役者である豊田が京都サンガF.C.に完全移籍するものの、セレッソ大阪から古橋達弥、川崎フロンターレから植草裕樹、柏レイソルから小林亮を獲得、去年までレンタル移籍だった宮本卓也と石川竜也は完全移籍となった。また、外国人枠ではブラジルからアンドレ・シルバを、同年2月にはブラジル1部リーグのクルゼイロECからジャジャを獲得した。開幕前は他チームと比べても戦力的に劣っている為に周囲からは懐疑的な目で見られていた山形ではあったが、初めてのJ1の開幕戦となるアウェーでのジュビロ磐田戦において、2-2の同点スコアから一気に6-2のスコアでまさかの逆転劇を演じ、開幕戦でいきなりのJ1初勝利を大量得点で飾ると周囲を驚かせた。J1初ドローは次節の名古屋グランパス戦であった。優勝候補の名古屋グランパスとの試合は雪の中で行われ、両者得点を許さず0-0のドローとなった。
[編集] 逸話
[編集] チーム名称の決定
1996年、将来のJリーグ昇格に向けて「NEC山形」からチームの名称変更を実施する事になった。県民などによる一般投票(投票総数1570票)の結果、「モンテディオ山形」・「オラクロス山形」・「ヴァーテクス山形」・「アルテリア山形」・「山形セレノール」という5つの名称候補の中から最多の490票を獲得した「モンテディオ山形」に決定した。
[編集] 公益法人の設立
1999年からのJ2参入に向け、1996年9月、山形県サッカー協会・モンテディオ山形後援会・NEC山形による「モンテディオ山形法人設立準備室」が設置され、法人化に向けた準備を開始する。しかしながら、行政・NEC山形以外の出資企業が現れない為にJ2参入条件の一つである法人設立が難航した。1997年4月、当時のチーム運営母体であったNEC山形が法人化が実現しなかった場合の当年限りのJFL撤退を表明(但しユニフォームのスポンサー協賛は継続)し、山形県内の企業に法人化に向けた支援を求めた。
その後、同年5月には後に山形県副知事ならびに山形県スポーツ振興21世紀協会理事長となる金森義弘山形県教育長が積極的な行政支援を表明するなど、法人設立に向けての活動が促進され、1997年9月29日、モンテディオ山形法人設立準備室は運営母体を社団法人としてクラブを運営することを発表した。(実際の法人設立は1998年2月)Jリーグも株式会社を運営母体と規定していた当時のJリーグ規約を改訂し、Jリーグチームとしては初となる公益法人格で1999年に発足したばかりのJ2リーグに参入を果たした。
[編集] J1昇格争い
2001年、J2リーグ戦はシーズン後半に快進撃を見せた山形を含めた最大6チームがJ1昇格に絡む大混戦となった。だが、京都パープルサンガが第43節の湘南ベルマーレ戦に勝利してJ1自動昇格圏内の1位でJ1昇格を確定させ、最終節にJ1自動昇格圏内の2位を山形、ベガルタ仙台、大分トリニータの3チームが勝ち点差3という接戦の中で争う事となった。そして、最終節に山形は暫定2位でホームに川崎フロンターレを迎え、90分間以内で試合に勝てばJ1昇格が確定となる2位という状況であったが、試合は0-0で90分間が終了してVゴール方式の延長戦に突入した。しかし、暫定3位だったベガルタ仙台がアウェーでJ1昇格をすでに決めている京都パープルサンガから後半のロスタイムに先制点を挙げて0-1で試合終了、これでベガルタ仙台は90分間以内に勝利を収めて2位を確定させ、山形はJ1昇格を逃した。また、J1昇格を逃した山形は延長戦の開始直後に失点して試合にも敗戦した。なお、J2リーグ戦でのVゴール方式採用はこのシーズンが最後であった。
詳細は「2001年J2最終節」を参照
2004年、1シーズンを通して川崎フロンターレがJ2リーグ戦を独走し、第36節の水戸ホーリーホック戦でJ1自動昇格圏内の1位確定でJ1昇格を決め、第42節の水戸ホーリーホック戦で大宮アルディージャも2位でJ1自動昇格圏内の2位確定でJ1昇格を決めたが、山形、アビスパ福岡、京都パープルサンガを含めた残りの3チームはJ1・J2入れ替え戦に出場できる3位を争う事となった。しかし、ホームでアビスパ福岡との直接対決となった最終節はアビスパ福岡が山形を降して3位を確定させ、山形は4位でシーズンを終えた。
[編集] 金森体制の終焉
2006年、樋口体制で迎えたシーズン序盤で早々と不甲斐無い成績になり、とうとう試合後には山形サポーターの一部からは監督の樋口靖洋(当時)や専務理事兼ゼネラルマネージャーの金村勲(当時)に対して引責辞任を求める座り込みの抗議行動までが起こった。そんな中でシーズン途中には理事長職の任期満了に伴って、同協会理事長の金森義弘(当時)が退任。金森の後任には山形県知事の齋藤弘(当時)が同協会理事長の後任人選を日本サッカー協会会長の川淵三郎(当時)に依頼し、川淵が推薦した鹿島アントラーズで専務などを務めた経験のある海保宣生が同協会の新理事長に就任した。これにより、山形サポーターから樋口と共に成績不振での引責辞任を求められていた金村が『金森理事長』という後ろ盾を失った為に辞任へと追い込まれた。
その後に開かれた辞任の記者会見の席で金村は「成績不振が辞任の原因ではない」と発言したが、これでクラブの黎明期から長期に渡って続いてきた金森体制に終止符が打たれた。しかし、長年に渡る金森体制時代の基本姿勢でもあった「昇格争いをすれば観客動員が増え収入増になるはず」というずさんな経営計画が災いし、同年には約1億3000万程度の赤字を抱えてしまい、最終的にはその赤字の穴埋めをする為に『J1昇格準備金』として用意していた予算を大幅に取り崩すという深刻な事態になった。
今もなお、Jリーグ33クラブの中で入場料収入・広告料収入は下位クラスであり、地方自治体財政難に伴う補助金廃止など、クラブは慢性的な財政難で予断を許さない状態であり、これにより2007年度の課題を『観客動員数の増加』と『広告料収入の増加』に絞って取り組む方針とそれに伴った『入場料の改定(値上げ)』が発表された。
[編集] 「はえぬき」の撤退
2008年、Jリーグ加盟の初年度からユニフォームの胸広告スポンサーを務めていたJAグループ山形が、広告料の値上げを希望していたクラブと金銭面で折り合わなかった為に胸広告スポンサーから撤退した。この為、「はえぬき」の文字が2007年シーズン限りでユニフォームの胸部分から消え、その代わりに2008年からは同じくJリーグ昇格の初年度からユニフォームの背中広告スポンサーを務めていた「平田牧場」の文字が新しくユニフォームの胸部分に入った。これにより事実上、サポーターに馴染みが深かった「はえぬきユニ」が消える事となった。なお、「はえぬき」は現在でもスポンサーに名を連ねている。その後JAグループ山形は県内で開発された新型の水稲「山形97号」をJ1昇格後に再びスポンサーとしてアピールする意向を示しており、2009年2月に山形97号のブランド名が「つや姫」に決定した直後、正式に胸スポンサーとして復活した。なお「つや姫」自体の市販開始は2010年の予定。
[編集] マスコット決定を巡る騒動劇
2005年にマスコットを作成することとなり8月公募を開始。1766点の応募より絞り込まれた3点に対するサポーター投票結果を参考に12月20日の第2回選定委員会でチームマスコットとなる1点を決定する予定だった。だが、選定委員会の席上でサポーター投票で最下位の岩石をモチーフとしたキャラクターを推す選定委員長である東北芸術工科大学教授(当時)上條喬久とそれに反発するサポーター選定委員2名との間で意見が分かれてしまい、その為に折衷案としてJリーグとしては初の異なるモチーフの2体がマスコットとして併用されることになった。ちなみに、その時の採用謝礼金の30万円は折半された。その後、2006年1月18日のJリーグ実行委員会よりマスコットとしての使用が承認され、名称についても公募を行い、同年6月30日に2体の名称をそれぞれ『ディーオ』と『モンテス』にする事が発表された。
登場からしばらく、ディーオ、モンテス共に他チームのマスコットの様な「着ぐるみ化」はされていなかったが、2008年1月に東北芸術工科大学の生徒が卒業作品として制作したディーオの着ぐるみが登場。同年3月には荘内銀行寄贈によるモンテスのエアドームが登場。
[編集] クラブ初のJ1昇格
1999年にJ2へ昇格した山形ではあったが、2001年と2005年にはJ1昇格をする機会があったものの達成する事が出来ず、結局は約9年間をJ2で過ごす事となった。しかし、J2参戦9年目となった2008年は昇格請負人とも呼ばれる小林伸二を監督に迎えて、豊田陽平といった若手選手の活躍などもあってシーズン中盤から2位をキープする他、ベガルタ仙台との「みちのくダービー」を9年ぶりに勝ち越すなどの快進撃を続けた。そして、第44節にアウェーでの愛媛FCにおいて試合終了間際に3-2の逆転勝利を飾ると、ついに念願のJ1昇格を果たした。これは、J2初年度参加10チームの中では9チーム目のJ1昇格である。
[編集] モンテディオ山形フルモデルチェンジ構想
2008年12月18日、山形県内でのチームに対する知名度の向上と主催試合の観客動員数増加を目的に海保宣生と東北芸術工科大学教授の中山大輔が同年7月に3人の副理事長との間で設けた会合と同年9月にサポーター有志との間で設けた会合での意見を汲んだ上で最終的にまとめた『モンテディオ山形フルモデルチェンジ構想』を天童市の県総合運動公園総合体育館会議室で行われた非公開の臨時理事会で説明した。しかし、出席した13人の理事の半分以上が協会側の提案した同構想に反対した為に、この日の理事会は当初の予定時間を1時間20分も上回る2時間30分にまで及んだものの、主に「海保宣生理事長・中山大輔・山形県スポーツ振興21世紀協会理事・公募のサポーターなどを含めた10人程度のプロジェクトチームを組織して、2009年5月のJリーグ理事会までをめどに結論を出す」という方針を決めたのみで終わった[1]。
2009年1月30日、同構想を検討するプロジェクトチームの一般公募メンバーが決定、同年2月5日にはプロジェクトチームの初会合が行われた。その後、同年2月25日と3月11日の計3回に渡って会合を重ねた結果、同構想の実現化を断念する結論に至り、同年3月19日に天童市の県総合運動公園総合体育館会議室で行われた同協会の通常総会で同構想を断念する旨を報告した[2]。
- 概要
[編集] 課題
[編集] 人材の育成と定着
運営法人は他チームの様な株式会社ではなく、Jリーグに加盟しているチームの中でも珍しい公益法人(山形県スポーツ振興21世紀協会)であるので運営赤字は出ない仕組みであるが、逆に選手の年俸や選手補強にかけられる予算が他チームよりも限られている為に高額な年俸の選手は抱えられないという一面もあり、監督経験の少ない新人監督や他チームで戦力構想外となった解雇選手やレンタル移籍の選手を獲得せざるを得ない状況であるが、チームはそういった人材の育成には定評があり、山形での活躍を機に他チームへと移籍していく例が多い。
その反面、資金的な問題から他チームに引き抜かれそうな監督や主力選手に対しては金銭面での引き留めは大変難しく、結果的に彼らの大半はそのまま好条件のチームへ引き抜かれる事となるので人材の流動が激しく、チームの成績もなかなか安定しないが、他チームに好条件で引き抜かれる選手の多くはレンタル移籍の場合がほとんどなので、チームにとってはあまり金銭的な利益が発生しない。
なお、自前の下部組織からトップチームへと昇格した例には、2000年に昇格した白井貞義、2002年に昇格した秋葉勝などがいる。
[編集] ホームスタジアムの問題
山形県総合運動公園陸上競技場(NDソフトスタジアム山形)は、1994年からモンテディオ山形がホームスタジアムとして使用しているスタジアムである。山形県特有の厳しい気候に長年さらされた結果、近年ではシーズン中にも度々補修工事をしなければならない程までに老朽化している[3]。
その上、寒冷地であるがゆえに専用設備がきちんと整っていないスタジアムではオフシーズンに行う芝生の育成が大変難しい。例えば、前年のオフシーズンにピッチの芝生を大規模に張り替えた2005年シーズンのホーム開幕戦では、芝生が上手く根付かなかった為に選手がボールを蹴る度に芝生がめくり上がり、ピッチ上に多くの穴が空くなど試合内容にも少なからぬ影響を及ぼした。ちなみに、次節がアウェーでの試合であった為、その間に芝生を根付かせようとしたものの結局は間に合わず、ホーム2戦目(湘南ベルマーレ戦)は山形のホーム扱いで福島県のJヴィレッジにおいて開催された。
なお、天童市郊外に位置し、近辺にランドマークとなる施設や定期バス路線が存在しないという立地条件も問題点として挙げることができる。公共交通機関を利用する場合は鉄道を利用する場合には無人駅である高擶駅からの徒歩(所要時間約25分)、天童駅または山形駅から、ホームゲーム開催日に運行されるシャトルバスの利用が必要である。また、メインスタンドの一部を除きスタジアムには屋根が設置されておらず、夏場の厳しい日差しや風雪といった山形県特有の厳しい気候下での試合観戦を強いられる場合があり、スタジアム本体も陸上トラックが設けられている為にピッチと観客席の距離が広くなってしまっている。
また2009年の県内での最初の試合・名古屋グランパス戦(3月14日)のように開幕した3月に積雪のもとで試合をするケースもある。
[編集] 観客動員数の増加
Jリーグ加盟当初からの長年にわたるチームの宣伝不足や「熱しづらくて冷めやすい」などと揶揄される山形県民の県民性もあってか、県民のチームに対する関心も大変低く、Jリーグ加盟以来、モンテディオ山形の試合観客動員数の状況は唯一の営業的なドル箱カードとなる「東北ダービー」以外は毎試合空席が目立つ程に深刻で、1試合の平均観客動員数はJ2でも最下位クラスの約2000~6000人の間をJリーグ加盟の年から長年推移して来た[4]。
その為、Jリーグ加盟初年度からチームのチケット収入は伸び悩み、その現状はスポンサー収入にも少なからず影響を及ぼす程であった。その為、試合観客動員数の増加は長年に渡るチームの命題であったが、2006年にフロント陣が刷新されるまでは目立った対策をほとんど行わなかった。しかし、2006年に海保が理事長に就任してからは目標とする1試合の平均観客動員数をまずは「6000人」(2008年)と定め、更にはサポーターとクラブの合同で専門のプロジェクトチーム「B・Mミーティング」(2008年)を立ち上げた。[5]。
[編集] チーム成績・歴代監督
| 年度 | 所属 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | 監督 | 総監督 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1994年 | 旧JFL | 30 | ― | 10 | 20 | ― | 13位 | 杉澤直樹 | ― |
| 1995年 | 30 | 41 | 13 | 17 | ― | 10位 | 石崎信弘 | ― | |
| 1996年 | 30 | 49 | 16 | 14 | ― | 8位 | ― | ||
| 1997年 | 30 | 56 | 19 | 11 | ― | 5位 | ― | ||
| 1998年 | 30 | 64 | 22 | 8 | ― | 3位 | ― | ||
| 1999年 | J2 | 36 | 48 | 15 | 17 | 4 | 7位 | 植木繁晴 | ― |
| 2000年 | 40 | 33 | 11 | 27 | 2 | 10位 | ― | ||
| 2001年 | 44 | 80 | 27 | 14 | 6 | 3位 | 柱谷幸一 | ― | |
| 2002年 | 44 | 35 | 6 | 21 | 17 | 11位 | ― | ||
| 2003年 | 44 | 55 | 15 | 19 | 10 | 8位 | ― | ||
| 2004年 | 44 | 71 | 19 | 11 | 14 | 4位 | 鈴木淳 | ― | |
| 2005年 | 44 | 64 | 16 | 12 | 16 | 5位 | ― | ||
| 2006年 | 48 | 65 | 17 | 17 | 14 | 8位 | 樋口靖洋 | ― | |
| 2007年 | 48 | 58 | 15 | 20 | 13 | 9位 | ― | ||
| 2008年 | 42 | 78 | 23 | 10 | 9 | 2位 | 小林伸二 | ― | |
| 2009年 | J1 | ― |
[編集] 獲得タイトル
- 2008年までなし
[編集] ユニフォーム
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[編集] チームカラー
- 青
- 白
- 黄色
[編集] ユニフォームスポンサー
| 掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 胸 | 山形県・JAグループ山形 | つや姫 | 2009年〜 | |
| 背中 | 平田牧場 | 平田牧場 | 1999年〜2007年・2009年〜 | 2008年は胸 |
| 袖 | でん六 | でん六 | 2001年〜 | |
| パンツ | NECセミコンダクターズ山形 | NECセミコンダクターズ山形 | 2002年〜 | 2002年〜2007年まではNEC山形 |
[編集] ユニフォームサプライの遍歴
- 1999年~ プーマ
[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 背中 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
| 1997年 | - | 紅花の山形路 | 米エリアYAMAGATA | - | PUMA |
| 1998年 | - | はえぬき | 四季感動のやまがた | - | PUMA |
| 1999年 | 米どころ山形県はえぬき | 平田牧場 | 四季感動のやまがた | - | PUMA |
| 2000年 | 米どころ山形県はえぬき | 平田牧場 | 四季感動のやまがた | - | PUMA |
| 2001年 | はえぬき | 平田牧場 | でん六 | - | PUMA |
| 2002年 | はえぬき | 平田牧場 | でん六 | NEC山形 | PUMA |
| 2003年 | はえぬき | 平田牧場 | でん六 | NEC山形 | PUMA |
| 2004年 | はえぬき | 平田牧場 | でん六 | NEC山形 | PUMA |
| 2005年 | はえぬき | 平田牧場 | でん六 | NEC山形 | PUMA |
| 2006年 | はえぬき | 平田牧場 | でん六 | NEC山形 | PUMA |
| 2007年 | はえぬき | 平田牧場 | でん六 | NEC山形 | PUMA |
| 2008年 | 平田牧場 | - | でん六 | NECセミコンダクターズ山形 | PUMA |
| 2009年 | つや姫※ | 平田牧場※ | でん六 | NECセミコンダクターズ山形 | PUMA |
※第1節はスポンサー決定直後のため、掲示なし
[編集] チーム名変遷
- 1984年 NEC山形サッカー同好会
- 1985~1996年 NEC山形サッカー部
- 1996年~ モンテディオ山形
[編集] ホームスタジアムの遍歴
- 1994年、1996年~ 山形県総合運動公園陸上競技場(2007年、"NDソフトスタジアム山形"に改称)
- 1995年 山形市陸上競技場(上述のスタジアムが改修のため)
[編集] 公式マスコット
- ディーオ:カモシカをモチーフとしたマスコット。角を3本持ちスピードや力強さ、賢さを表現している。原案制作者は大阪芸術大学の薬師寺賢志郎。
- モンテス:岩石をモチーフとしたマスコット。頭部の3つの突起が出羽三山を表現しており、ユーモラスなキャラクターに仕上がっている。原案制作者は不明。
[編集] 応援スタイル
[編集] アンセム
- Over the rainbow(モンテディオ山形Ver)
- 選手入場時にはサポーターも一緒に歌う。
[編集] 応援歌
[編集] チーム
- スポーツ県民歌(モンテディオ山形Ver)
- 原曲は全日本陸上競技大会(1948年)の開催を記念に作られた。なお、現在でも山形県では主にスポーツ競技の応援の際に、地元の選手を応援する目的で歌われている。モンテディオ山形の試合でも試合勝利時に歌われている曲。
- BLUE IS THE COLOUR(モンテディオ山形Ver、原曲はチェルシーFCの応援歌)
- 全て原曲の英歌詞。ただ、モンテディオ山形Verでは、原曲の歌詞にある「Chelsea」という部分が「Yamagata」と変えられている。また、モンテディオ山形Verでは「ララララ…」と歌いながらサポーター全員が横に動きながら飛び跳ねる事が付け加えられている。
- チームコール
- モンテディオコール
- 青き旗
- Park(モンテディオ山形Ver、原曲はシカゴ「Saturday In The Park」)
- FORZA山形
- SAMBA
- 山形DIO
- Get Goal
- バモ山形
- カモン山形
- SAMURAI(モンテディオ山形Ver、原曲は「Carnaval de Paris」)
- 山形ゴール
- ハンドクラップ
- オレオ山形
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
[編集] 外部リンク
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