モンテディオ山形
| モンテディオ山形 | |
|---|---|
| 原語表記 | モンテディオ山形 |
| 愛称 | モンテ |
| クラブカラー | ブルー イエロー |
| 創設年 | 1984年 |
| 所属リーグ | 日本プロサッカーリーグ |
| 所属ディビジョン | Jリーグ ディビジョン2 |
| ホームタウン | 山形市、天童市、鶴岡市 を中心とする山形県全県 |
| ホームスタジアム | NDソフトスタジアム山形 |
| 収容人数 | 20,315 |
| 運営法人 | 社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会 |
| 監督 | |
| 公式サイト | 公式サイト |
| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | |
| 種類 | 社団法人 |
|---|---|
| 本社所在地 | 〒994-0000 山形県天童市山王1-1 山形県総合運動公園内総合体育館2F |
| 設立 | 1998年1月19日 |
| 業種 | サービス業 |
| 事業内容 | サッカークラブの運営他 |
| 売上高 | 12億2,900万円 (2011年1月期) |
| 営業利益 | ▲7,300万円 (2011年1月期) |
| 純利益 | ▲7,300万円 (2011年1月期) |
| 純資産 | ▲2,300万円 (2011年1月期) |
| 総資産 | 1億9,100万円(2011年1月期) |
| 決算期 | 1月期 |
| 外部リンク | http://www.montedio.or.jp |
モンテディオ山形(モンテディオやまがた、Montedio Yamagata)は、日本の山形市、天童市、鶴岡市を中心とする山形県全県にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
目次 |
概要
1984年に創部された山形日本電気サッカー同好会が前身となり、1999年よりJリーグへ加盟している。なお、モンテディオ山形への名称変更は1996年で、「モンテディオ」とはイタリア語の「モンテ (Monte)」(山)と「ディオ (Dio)」(神)を合わせた造語で「神の山」を意味する。ホームタウンは山形市、天童市、鶴岡市を中心とする山形県全県。
ホームスタジアムはNDソフトスタジアム山形である(詳細は#ホームスタジアムの遍歴を参照)。練習場は山形県総合運動公園、山形県あかねヶ丘陸上競技場、第一貨物教育センター体育館、酒田市飯森山多目的グラウンドである。更に1994年のジャパンフットボールリーグ(旧JFL)時代はそれらにナイター照明設備がなかった関係で、ナイター設備がある山形県野球場で公式戦を開催した例もある。
加入当時は北海道・東北地方において唯一の旧JFL加盟クラブだった。
運営法人は社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会。他のJリーグチームの運営法人が全て株式会社なのに対して、唯一の社団法人による運営法人である。年会費は法人向けとして正会員が50万円、賛助会員が5万円。かつては個人向けとして後援会員が1万円で、2008年からは後援会員制度を廃止しファンクラブ制に移行。会費は年額6000円、特典としてファンマガジン「Rush」が毎月送られてくる。なお、後期からの入会については3000円となっている。 2009年のファンクラブ会費は3000円である。「Rush」の定期購読は選択制となった。
歴史
Jリーグ加盟以前(1987-1998年)
1984年に山形日本電気(NEC山形、現ルネサス山形セミコンダクタ)鶴岡工場内で創部された山形日本電気サッカー同好会が前身となり、1985年に山形工場内へ本拠地を移転した。
1987年、鶴岡地区リーグ在籍時に地元で1992年に開催のべにばな国体のサッカー競技承引企業に指定され、地元の有力高校から強化指定選手を採用するなど本格的に強化。1989年に発足した山形県社会人サッカーリーグで優勝、更に東北社会人サッカーリーグで1990年から1993年まで四連覇を果たした。なお、べにばな国体は成年1部で6位に入賞した。1994年よりジャパンフットボールリーグ(JFL)へ昇格(東北地区初のJFL昇格)、1995年より石崎信弘が監督に就任。1996年にアマチュアチームのままチーム名をモンテディオ山形へ変更。1998年に運営法人となる社団法人山形県スポーツ振興21世紀協会が設立されてプロ化。なお、1998年シーズンは一時期首位に立つも最終的には3位になった。
1999年 - 2008年(J2)
1999年
Jリーグ2部制開始とともにJリーグ ディビジョン2(J2)に参加。植木繁晴が監督就任。リーグ戦は7位で終了したが、最終節で大分トリニータの昇格を阻止した。
詳細は「1999年J2最終節」を参照
FW真下佐登史はJ2リーグ2位の18ゴールを挙げた。天皇杯では神戸、C大阪のJ1勢を破りベスト8に進出。
2000年
第1クールは開幕5連敗を喫して、11勝2分27敗で11クラブ中10位で終了。ただ、翌年にJ1へ昇格した浦和との対戦では第11節でJ2初黒星をつけ、第40節でも2-1で勝利。また、大分にも第41節で引き分けに持ち込み、目の前でのJ1昇格を阻止する。
2001年
柱谷幸一が監督就任。リーグ戦では後半に快進撃を続け、ホームで迎える最終節で90分での勝利を挙げれば自力でのJリーグ ディビジョン1(J1)昇格が可能となる2位を確保できる状況で最終節を迎えたが、0-0で90分間が終了した事から90分間での勝利を収めた3位の仙台が2位でJ1への昇格確定。山形は3位でJ1昇格はならなかった。
詳細は「2001年J2最終節」を参照
2002年
主力流出の影響を受けて開幕から4連敗。その後も勝ちきれない試合、連敗が重なり最終的に11位で終了。
2003年
開幕6試合まで1分5敗を喫し、7節目の鳥栖戦でようやく初勝利。その後徐々に調子を取り戻し8節~22節まで8勝5分2敗と一気に勝ち点を重ね4位につけたが、その後は勢いが落ち3連敗を3度し連勝が全くなく8位で終了。昇格を争った上位3チームには通算で1勝しかできずに終わった。柱谷は成績不振と自身の不祥事で監督を事実上解任された。
2004年
鈴木淳が監督就任。開幕3分と勝ちきれない試合が続いたが、その後安定した試合運びで上位に漬け込んだ。しかし終盤には失速し、最終節ホームでJ1・J2入れ替え戦を掛けて福岡と直接対戦したが敗れ、最終順位は4位。またもやJ1昇格はならなかった。ただFW大島秀夫が22得点を挙げてJ2得点ランキング2位となり横浜FMに移籍。そしてこの年にJ2を制した川崎に2勝1分1敗とこの年J2に参入していたチームの中で唯一勝ち越した。
2005年
- クラブスローガン:INNOVATION 我々が変わり、そして変えていく
シーズン後半まではJ1昇格争いに加わるも、第37節から4連敗を喫するなど終盤に失速。5位で終了。シーズン終了後に鈴木が新潟の新監督として事実上引き抜かれた。
2006年
- クラブスローガン:CONCENTRATION 集中
1999年のJ2初年度に参加した10チームのうち、J1昇格未経験は山形と鳥栖の2チームのみとなった。新潟の監督に就任した鈴木に代わり、横浜FMでトップチームコーチを務めた樋口靖洋が監督に就任。更に日本サッカー協会参事で山形県米沢市出身の新藤一晴が常務理事に就任し、サテライトリーグへの参加をスタートさせた。しかし、チームはFWレアンドロの決定力で得点力は増加したものの、守備に安定感を欠いた事や主力で怪我人も多く、開幕7試合未勝利やシーズン途中の10試合未勝利などで一時期は最下位に低迷し、最終的に8位でシーズンを終えた。なお、財政難で補強・有望新人の獲得が難しい状況の中、スカウト部門強化をねらい、鹿島元スカウト担当部長平野勝哉が強化育成部アドバイザーに就任。J2得点ランキング3位になったレアンドロは神戸に完全移籍した。
2007年
- クラブスローガン:再創生 リスタート
序盤は首位に立ったが、怪我人の続出を補いきれない選手層の薄さと、深刻な得点力不足から急速にチームは失速。第45節で愛媛に1-3で敗れ、昇格の可能性が消滅した。また、樋口監督と島根聡一、南省吾両コーチの契約非更新が発表された。 天皇杯ではG大阪と延長戦まで戦い、2-2で決着がつかず惜しくもPK戦で敗退。
2008年
- クラブスローガン:BE MOVING!
C大阪等の元監督の小林伸二を監督に招聘。同年開催の北京オリンピック日本代表のFW豊田陽平(名古屋よりレンタル移籍)、FW長谷川悠(柏よりレンタル移籍)を中心とした若手選手の活躍により、仙台とのみちのくダービーに9年ぶりに勝ち越すなど、シーズン中盤からはJ1自動昇格圏の2位をキープ。さらに首位を独走し、アウェー戦負けなしだった広島に初めて黒星をつける。その後も着実に勝ち点を積み重ね、11月30日第44節の愛媛戦(右図)に3-2で勝利を収めて、2位が確定した。翌12月1日のJリーグ臨時理事会でJリーグ ディビジョン1(J1)昇格が認められ、J2参加10年目にして、1999年のJ2初年度に参加したチームで9番目のJ1初昇格を果たした。
2009年 - 2011年(J1)
2009年
- クラブスローガン:J1出陣。
クラブ史上初のJ1・1年目のシーズンは開幕前に豊田が京都に完全移籍した一方、C大阪から古橋達弥を完全移籍で、川崎から植草裕樹、柏から小林亮をそれぞれレンタルで獲得。さらに2008年チーム得点王だった長谷川はレンタルを延長した。去年までレンタル移籍だった宮本卓也と石川竜也は完全移籍となった。また、外国人枠ではブラジル2部リーグのガマからアンドレ・シルバを、同1部のクルゼイロからジャジャを獲得。アジア枠でポルトガルのセトゥーバルからキム・ビョンスクを獲得した。
J1開幕戦はアウェーで磐田と対戦し、チーム記録となる6得点を奪い、6-2でJ1初勝利。その後は、ケガ人が続出して第16節終了時点でJ2降格圏内の16位まで順位を下げた。新加入のアンドレ・シルバとジャジャは出場機会をほとんど得ることなく途中契約解除となった。
苦境を打破するために浦和から赤星貴文を、広島から西河翔吾を、それぞれレンタル移籍で獲得。第30節終了時点では降格圏内の16位柏との勝点差を10に広げた。リーグ戦第31節の鹿島戦ではシュート0本(J1初)に終わるなど不名誉な記録を生んだが、11月28日の第33節にJ1残留が確定した(アウェー名古屋戦で0-2で敗れたものの、降格対象チームであった16位の柏が大宮戦[1]に1-1で引き分け、勝ち点差が4となったため)。最終順位は10勝9分15敗の勝点39の15位であった。
なお、天皇杯3回戦で明治大学にJ1史上初の対学生戦敗北を喫した。
シーズン終了後、長年チームを支えたレオナルド、小原章吾(愛媛に移籍)、財前宣之(タイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッドに移籍)ら10選手(期限付き移籍選手を含む)が退団した。
2010年
- クラブスローガン:前へ!
レンタル移籍で加入していた、2008年・2009年のチーム得点王・長谷川を柏から、昨季途中加入し残留に大きく貢献した西河を広島からそれぞれ完全移籍で、千葉を戦力外通告された下村東美をトライアウトからそれぞれ獲得。新人では大学出身の中野圭、伊東俊、さらに浦和ユースから中村隼の3人が入団。懸案であった攻撃陣は、鹿島から増田誓志、田代有三の2人をレンタル移籍で獲得。さらに元U-23韓国代表ハン・ドンウォンを城南一和から完全移籍で獲得した。レンタル移籍で加入している植草、小林亮の期間を延長し、新たに横浜FMからキム・クナンをレンタル移籍で獲得した。
3月19日の通常総会において海保宣生の後任として4月1日から川越進・県サッカー協会専務理事が新理事長に就任することが発表された。
開幕戦ではJ1昇格チームの湘南にドローとなる。序盤は昨年の堅守は影を潜め失点に苦しむ。苦戦が続いたが田代ら新戦力が徐々に噛み合い、第5節の広島戦でようやく1-0の完封の初勝利を挙げた。その後11節FC東京戦、12節新潟戦はともに3失点の連敗と不安を抱えたまま、第12節終了時点で4勝2分6敗の13位でFIFAワールドカップに伴うリーグ中断期間を迎えた。 リーグ再開後はナビスコカップから機能し始めた新布陣4-3-3がベースとなる。再開一戦目、J1では初となるみちのくダービー仙台戦に3-1で勝利。また、浦和やG大阪、横浜FMといった強豪相手にも勝利を収め、第32節の京都戦に勝利してJ1残留を決めた。天皇杯はベスト8へ進出した。
2011年
- クラブスローガン:「粘強」NEZZUGU
増田誓志、田代有三、キム・クナンがレンタル元に復帰するものの、福岡から大久保哲哉を完全移籍で、鹿島から船山祐二を完全移籍で、川島大地をレンタル移籍で獲得、またかつて東京Vに所属していたエルサムニー・オサマを獲得、レンタル移籍だった植草裕樹、小林亮を完全移籍で獲得した。ルーマニアのCFRクルージュからはUEFAチャンピオンズリーグにも出場経験のあるブラジル人DFウーゴを獲得した。
ところが、序盤戦からチーム内でけが人が続出、さらに新外国人のウーゴが4月に退団するなど、チームは第20節を終えて降格圏内の17位まで低迷した。そこで攻撃陣の強化を図って広島から山崎雅人をレンタル移籍で獲得したものの、最後まで浮上はできず、11月3日に残り3節を残してJ2降格が決定した。第32節で福岡に敗れ最下位に転落、そのまま浮上できずにシーズンを終えた。天皇杯は3回戦で敗退した。なお、シーズン終了を以て小林が監督を退任した。
2012年 - (J2)
2012年
新監督に元鹿島コーチの奥野僚右が就任。植草裕樹が神戸に、園田拓也が愛媛に、長谷川悠が大宮に、古橋達弥、下村東美が湘南に、宮崎光平が徳島に、佐藤健太郎が千葉に、大久保哲哉が横浜FCに完全移籍、マイコン、エルサムニー・オサマが退団したが、広島からレンタル移籍だった山崎雅人が完全移籍に移行し、鳥栖から永田亮太、昨シーズン草津でプレーした萬代宏樹を完全移籍で、清水から岡根直哉、柏から昨シーズンJFLの秋田でプレーした比嘉厚平をレンタル移籍で獲得、川島大地のレンタル移籍期間も延長された。
成績
詳細は「モンテディオ山形の年度別成績一覧」を参照
タイトル・表彰
- Jリーグ ディビジョン1
- J1フェアプレー賞:3回
- 2009年、2010年、2011年
- J1フェアプレー賞:3回
逸話
チーム名称の決定
1996年、将来のJリーグ昇格に向けて「NEC山形」からチームの名称変更を実施する事になった。県民などによる一般投票(投票総数1570票)の結果、「モンテディオ山形」・「オラクロス山形」・「ヴァーテクス山形」・「アルテリア山形」・「山形セレノール」という5つの名称候補の中から最多の490票を獲得した「モンテディオ山形」に決定した。
公益法人の設立
1999年からのJ2参入に向け、1996年9月、山形県サッカー協会・モンテディオ山形後援会・NEC山形による「モンテディオ山形法人設立準備室」が設置され、法人化に向けた準備を開始する。しかし、行政・NEC山形以外の出資企業が現れない為にJ2参入条件の一つである法人設立が難航した。1997年4月、当時のチーム運営母体のNEC山形が、法人化が実現しなかった場合の当年限りのJFL撤退を表明(但しユニフォームのスポンサー協賛は継続)し、山形県内の企業に法人化に向けた支援を求めた。
その後、同年5月には後に山形県副知事ならびに山形県スポーツ振興21世紀協会理事長となる金森義弘山形県教育長が積極的な行政支援を表明するなど、法人設立に向けての活動が促進され、1997年9月29日、モンテディオ山形法人設立準備室は運営母体を社団法人としてクラブを運営することを発表した。実際の法人設立は1998年2月。Jリーグも株式会社を運営母体と規定していた当時のJリーグ規約を改訂し、Jリーグチームとしては初となる公益法人格で1999年に発足したばかりのJ2リーグに参入を果たした。
J1昇格争い
2001年、J2リーグ戦はシーズン後半に快進撃を見せた山形を含めた最大6チームがJ1昇格に絡む大混戦となった。だが、京都が第43節の湘南戦に勝利してJ1自動昇格圏内の1位でJ1昇格を確定させ、最終節にJ1自動昇格圏内の2位を山形、仙台、大分の3チームが勝ち点差3という接戦の中で争う事となった。最終節に山形は暫定2位でホームに川崎を迎え、90分間以内で試合に勝てばJ1昇格が確定となる2位だったが、試合は0-0で90分間が終了してVゴール方式の延長戦に突入した。しかし、暫定3位だった仙台がアウェーでJ1昇格をすでに決めている京都から後半のロスタイムに先制点を挙げて0-1で試合終了、これで仙台は90分間以内に勝利を収めて2位を確定させ、山形はJ1昇格を逃した。また、J1昇格を逃した山形は延長戦の開始直後に失点して試合にも敗戦した。なお、J2リーグ戦でのVゴール方式採用はこのシーズンが最後である。
詳細は「2001年J2最終節」を参照
2004年、1シーズンを通して川崎がJ2リーグ戦を独走し、第36節の水戸戦でJ1自動昇格圏内の1位確定、第42節の水戸戦で大宮が2位確定でJ1昇格を決め、山形、福岡、京都を含めた残りの3チームはJ1・J2入れ替え戦に出場できる3位を争う事となった。43節で3位の福岡が勝利したためこの時点で京都が脱落。最終節ホームで福岡との直接対決となり山形を降して3位を確定させ、山形は4位でシーズンを終えた。
2005年、昨シーズン同様この年は京都がJ2リーグ戦を独走、第37節の水戸戦でJ1自動昇格を決め、福岡も4クール目に入ると徐々に3位以下を引き離し第42節徳島戦で昇格を決めた。よって入れ替え戦を山形、札幌、仙台、甲府の4チームに絞られたが、41節に3位の甲府とアウェーでの対戦。先制されたもののその後得点し1-1の引き分けに終わる。42節に草津に4-0で勝利したもの甲府も勝ったためその時点でJ1昇格は消滅。最終的に5位で終わる。
金森体制の終焉
2006年、樋口体制で迎えたシーズン序盤で早々と不甲斐無い成績になり、とうとう試合後には山形サポーターの一部からは監督の樋口靖洋(当時)や専務理事兼ゼネラルマネージャーの金村勲(当時)に対して引責辞任を求める座り込みの抗議行動までが起こった。そんな中でシーズン途中には理事長職の任期満了に伴って、同協会理事長の金森義弘(当時)が退任。金森の後任には山形県知事の齋藤弘(当時)が同協会理事長の後任人選を日本サッカー協会会長の川淵三郎(当時)に依頼し、川淵が推薦した鹿島で専務などを務めた経験のある海保宣生が同協会の新理事長に就任した。これにより、山形サポーターから樋口と共に成績不振での引責辞任を求められていた金村が『金森理事長』という後ろ盾を失った為に辞任へと追い込まれた。
その後に開かれた辞任の記者会見の席で金村は「成績不振が辞任の原因ではない」と発言したが、これでクラブの黎明期から長期に渡って続いてきた金森体制に終止符が打たれた。しかし、長年に渡る金森体制時代の基本姿勢でもあった「昇格争いをすれば観客動員が増え収入増になるはず」というずさんな経営計画が災いし、同年には約1億3000万程度の赤字を抱えてしまい、最終的にはその赤字の穴埋めをする為に『J1昇格準備金』として用意していた予算を大幅に取り崩すという深刻な事態になった。
今もなお、Jリーグ33クラブの中で入場料収入・広告料収入は下位クラスであり、地方自治体財政難に伴う補助金廃止など、クラブは慢性的な財政難で予断を許さない状態である。これにより2007年度の課題を『観客動員数の増加』と『広告料収入の増加』に絞って取り組む方針とそれに伴った『入場料の改定(値上げ)』が発表された。
「はえぬき」と「つや姫」
モンテディオ山形のユニフォームには1999年のJリーグ加盟初年度以来、山形県産のブランド米の名称をモチーフにした胸広告が掲出されている(2008年シーズンを除く)。
山形県農業協同組合中央会(JAグループ山形)はモンテディオのJリーグ加盟以来、長年にわたってユニフォームの胸広告スポンサーを務めている。2007年まではブランド米「はえぬき」の広告を掲出していたが、2008年の1シーズンだけ胸広告から一時撤退した。これは同年シーズン前、広告料の値上げを希望していたクラブ側と金銭面で折り合わなかったのが原因である。同年は同じくJリーグ昇格の初年度からユニフォームの背中広告スポンサーを務めていた平田牧場が胸広告のスポンサーとなり、同社の「平田牧場」のロゴが胸部分に入った。これにより事実上、サポーターに馴染みが深かった「はえぬきユニ」が消える事となった。ただ、JAグループ山形は胸広告から撤退こそしたものの、同年シーズンも引き続きチームスポンサーとして契約していた。
JAグループ山形は県内で開発された水稲の新品種「山形97号」に関し、翌2009年のJ1昇格に合わせ、再びクラブの胸スポンサーとなってPRする意向を示した。そしてJ1開幕直前の2009年2月23日、この新品種の名称が7つのネーミング候補の中から「つや姫」に選ばれると共に、急ピッチで胸ロゴの制作に着手。結局3月7日の開幕戦(対ジュビロ磐田、ヤマハスタジアム)には間に合わなかったものの、3月14日のホーム開幕戦(対名古屋、NDスタ)で新ユニフォームがお披露目された。但しスポンサー名儀はJAグループ単体ではなく、2009年は山形県とJAグループから成る「『つや姫』ブランド化戦略実施本部」、2010年はおいしい山形推進機構(事務局:山形県農林水産部新農業推進課)、全国農業協同組合連合会山形県本部(JA全農山形)、JAグループ山形、JA全農山形庄内米ファンクラブの、それぞれ連名によるものとなっている。
マスコット決定を巡る騒動劇
2005年にマスコットを作成することとなり8月公募を開始。1766点の応募より絞り込まれた3点に対するサポーター投票結果を参考に12月20日の第2回選定委員会でチームマスコットとなる1点を決定する予定だった。だが、選定委員会の席上でサポーター投票で最下位の岩石をモチーフとしたキャラクターを推す選定委員長である東北芸術工科大学教授(当時)上條喬久とそれに反発するサポーター選定委員2名との間で意見が分かれてしまい、そのために折衷案としてJリーグとしては初の異なるモチーフの2体がマスコットとして併用されることになった。ちなみに、その時の採用謝礼金の30万円は折半された。その後、2006年1月18日のJリーグ実行委員会よりマスコットとしての使用が承認され、名称についても公募を行い、同年6月30日に2体の名称をそれぞれ『ディーオ』と『モンテス』にする事が発表された。
登場からしばらく、ディーオ、モンテス共に他チームのマスコットの様な「着ぐるみ化」はされていなかったが、2008年1月に東北芸術工科大学の生徒が卒業作品として制作したディーオの着ぐるみが登場。同年3月には荘内銀行寄贈によるモンテスのエアドームが登場した。
モンテディオ山形フルモデルチェンジ構想
2008年、山形県スポーツ振興21世紀協会の海保理事長は、ホーム戦の観客動員数が慢性的に低迷していた状況を踏まえ、その梃子入れ策の一環としてクラブのイメージを一新する『モンテディオ山形フルモデルチェンジ構想』を打ち出した。7月以降、デザイナーで東北芸術工科大学教授の中山ダイスケにプランニングを依頼して、同月に3人の副理事長と会合を持ち、9月にはサポーター有志を招いて会合を開き、12月18日、これらを基に最終的にまとめた構想案を山形県総合運動公園総合体育館内の会議室で行われた非公開の臨時理事会で説明した。
- 概要
モデルチェンジ案は山形にこだわり、チームの新しいイメージを構築することを目的としたもので、中山は「チームが山形そのものにならなければならない」と主張、提案した新名称「月山山形」は中山自ら商標登録を出願して保護したほどだった。
だが、この名称案が報道などで山形県民に知られるところとなると、その奇抜過ぎる名称にサポーターはもとより多くの県民が強い拒絶反応を示した。そうしたこともあって、この臨時理事会に出席した13人の理事の半分以上がこの構想案に反対し、結局この日の理事会は「海保・中山・21世紀協会理事・公募のサポーターなどを含めた10人程度のプロジェクトチームを組織して、2009年5月のJリーグ理事会までをめどに結論を出す」という方針を決定したのみで、クラブ名称やイメージカラーの変更に関しては継続審議として終了。議論は当初の予定時間を1時間20分も上回る2時間30分にも及んだ[2]。
2009年1月30日、先の方針を受けて同構想を検討するプロジェクトチームの一般公募メンバーが決定、2月5日にはプロジェクトチームの初会合が行われた。しかしその後、2月25日と3月11日の計3回に渡って会合を重ねたものの、クラブ名称とイメージカラーの変更に関しては、参加メンバーから「『モンテディオ』は既にサポーターに親しまれている。愛着がある名前を変えてほしくない」「J1昇格をきっかけに全国でも知られるようになった」など、終始強い抵抗感が示された。結局3月の会合で「J1昇格でクラブへの関心が高まっている時期に、敢えて実施する必要はない」と結論付け、「クラブ名称『モンテディオ山形』は変更しない」「青と白を基調としたホーム用ユニフォームは変更しない」「黄色を基調としたアウェー用ユニフォームは今後の状況を踏まえて変更する」と決定。その一方で、チームが山形県全体をアピールしていく存在になるという理念を今後も活かしていくとした。そして3月19日に県総合運動公園総合体育館会議室で行われた同協会の通常総会で、海保は同構想の実現を断念すると報告[3]。海保は「J1昇格で盛り上がっている時こそ構想に取り組むべきだと考えたが、県民の合意がないと実現できない。今の盛り上がりをクラブの財産にする方に全精力を費やしていきたい」と語った。
『被・完全試合』
2009年の11月8日、J1の第31節、カシマスタジアムで行われたアウェーでの鹿島戦、山形側のシュート本数が0本というJのワースト記録を立てた。この試合では相手から11本のシュートを浴びせられ、完全に封じられる形で0-2で敗戦した。なお、このシーズンでは先に大分が対鹿島戦でシュート本数1本というリーグワースト記録を立てており、この記録を塗り替えた形となる。さらに先に10月31日に行われた天皇杯3回戦で明治大学に0-3で敗戦するという、初めてJ1クラブが大学生チームに敗戦するという事態も起こしており、この一件と合わせて各種メディアなどで盛んに報道され、選手のプロ意識の欠如、監督であった小林の戦略の欠陥などについて大きな批判を浴びせられた。
プレースキッカー不在の珍事
2011年の10月16日に行われたJ1第29節の対柏戦、試合前半に左サイドからのフリーキックを獲得。通常プレースキッカーは石川竜也が務めるのだが、この試合は欠場していたため別の選手が蹴ることになっていた。しかし、フリーキックの位置にボールが置かれてからしばらく経ってもプレースキッカー役の選手は現れず、全員ボールから離れてしまい、誰もフリーキックを蹴らないでいた。このシーズンは怪我人が多くメンバーを固定できないという事情を汲んでも、およそプロサッカークラブらしからぬプレースキッカー不在という前代未聞の事態が発生した(通常試合前にその役割は決めるというのが暗黙のルールである。)。これについては、両クラブのサポーターから大きなブーイングを浴びた(柏側のものは遅延行為に対するもの)なお、その1分後川島大地がフリーキックを蹴った(この試合は0-1で敗戦。)。
課題
人材の育成と定着
運営法人は他チームの様な株式会社ではなく、Jリーグに加盟しているチームの中でも珍しい公益法人(山形県スポーツ振興21世紀協会)なので運営赤字は出ない仕組みである。しかし、逆に選手の年俸や選手補強にかけられる予算が他チームよりも限られているために高額な年俸の選手は抱えられないという一面もあり、監督経験の少ない新人監督や他チームで戦力構想外となった解雇選手やレンタル移籍の選手を獲得せざるを得ない状況である。しかし、チームはそういった人材の育成には実績があり、山形での活躍を機に他チームへと移籍していく例が多い。また、自前の下部組織からトップチームへと昇格した例には、白井貞義(2000年昇格)、秋葉勝(2002年昇格)、佐藤永志(2009年昇格)がいる。
その反面、資金的な問題から他チームに引き抜かれそうな監督や主力選手に対しては金銭面での引き留めは大変難しく、結果的に彼らの大半はそのまま好条件のチームへ引き抜かれる事となる。そのため人材の流動が激しく、チームの成績もなかなか安定しない。2009年シーズン終了時点の最古参選手が、2002年にユースから昇格した地元・山形県出身の秋葉勝であり、それ以外の選手は、J1昇格を決めた2008年以降の加入者が大半を占めているという事実が、この事を裏付けている。
ホームスタジアムの問題
1994年からホームスタジアムとして使用している山形県総合運動公園陸上競技場(NDソフトスタジアム山形)は、山形県特有の厳しい気候に長年さらされた結果、近年ではシーズン中にも度々補修工事をしなければならない程までに老朽化している[4]。
その上、寒冷地であるがゆえに専用設備がきちんと整っていないスタジアムではオフシーズンに行う芝生の育成が大変難しい。例えば、前年のオフシーズンにピッチの芝生を大規模に張り替えた2005年シーズンのホーム開幕戦では、芝生が上手く根付かなかった為に選手がボールを蹴る度に芝生がめくり上がり、ピッチ上に多くの穴が空くなど試合内容にも少なからぬ影響を及ぼした。次節がアウェーでの試合のため、その間に芝生を根付かせようとしたものの結局は間に合わず、ホーム2戦目(湘南戦)は山形のホーム扱いで福島県のJヴィレッジにおいて開催された。
なお、天童市郊外に位置し、近辺にランドマークとなる施設や定期バス路線が存在しないという立地条件も問題点として挙げられる。公共交通機関を利用する場合は鉄道を利用する場合には無人駅である高擶駅からの徒歩(所要時間約25分)、天童駅または山形駅から、ホームゲーム開催日に運行されるシャトルバスの利用が必要である。また、メインスタンドの一部を除きスタジアムには屋根が設置されておらず、夏場の厳しい日差しや風雪といった山形県特有の厳しい気候下での試合観戦を強いられる場合があり、スタジアム本体も陸上トラックが設けられているためにピッチと観客席の距離が広くなっている。
また2009年の県内での最初の試合・名古屋戦(3月14日)のように開幕した3月に積雪のもとで試合をするケースもある。前述の経験を踏まえ、2010年のホーム開幕戦は気候が良くなるのを待って第3節・3月21日の浦和戦に設定された。
観客動員数の増加
Jリーグ加盟当初からの長年にわたるチームの宣伝不足や、「熱しづらくて冷めやすい」などと揶揄される山形県民の県民性もあってか、県民のチームに対する関心も低かった。J2時代の山形の観客動員数は唯一の営業的なドル箱カードとなる「みちのくダービー」以外は毎試合空席が目立ち、1試合の平均観客動員数は最下位クラスの約2000~6000人の間を長年推移して来た[5]。
Jリーグ加盟初年度からチームのチケット収入は伸び悩み、その現状はスポンサー収入にも少なからず影響を及ぼした。そのため、試合観客動員数の増加は長年に渡るチームの命題だった。2006年にフロント陣が刷新されるまでは目立った対策をほとんど行わなかったが、2006年に海保が理事長に就任してからは目標とする1試合の平均観客動員数をまずは「6000人」(2008年)と定め、更にはサポーターとクラブの合同で専門のプロジェクトチーム「B・Mミーティング」(2008年)を立ち上げた[6]。その結果、2008シーズン第15節仙台戦(15,422人)のみちのくダービー、第35節広島戦(14,392人)・第41節湘南戦(11,345人)・第43節熊本戦(13,018人)における昇格争いとJリーグ加盟後となる1シーズン4ゲームの10,000人突破を記録し、シーズン目標としていた1ゲーム平均6,000人を超える6,273人を記録した。ただし、2008年度おいて入場者の4分の1は招待券によるものであり、観客収入は約0.9億円であった。
2009シーズンにおいては、リーグ戦平均11,000人を目指し、結果目標を上回る12,056人となったが、1万5000人を上回るカード(浦和戦(20,102人)・新潟戦(17,171人)・鹿島戦(16,658人)・G大阪戦(16,547人))と1万人を割るカード(京都戦(6,554人)・大分戦(8,011人)・千葉戦(9,172人))と対戦カードによる観客動員の波が激しかった[7]。なお、2009年度の観客収入は3.39億円で前年度を大きく上回った。
ユニフォーム
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チームカラー
- 青、 白、 黄
ユニフォームについて
1999年までは青色(肩部分に白と黄色)のユニフォームであった。2000年より、青×白の縦ストライプのユニフォームに変更。以後2009年までの10年間採用され[8]、山形サポーターにとってなじみの深いものとなった。2010年からは、青地に白い縦線が左胸に1本入った新ユニフォームが採用された[9]。白いストッキングはアウェイのベガルタ仙台戦など対戦相手のユニフォームによって使用する。また、セカンドユニフォームが白ベースではない数少ないクラブである。
ユニフォームスポンサー
| 掲出箇所 | スポンサー名 | 表記 | 掲出年 | 備考 |
| 胸 | おいしい山形推進機構(山形県) JA全農山形 JAグループ山形 JA全農山形 庄内米ファンクラブ |
つや姫 | 2009年〜 | |
| 背中 | 平田牧場 | 平田牧場 | 1999年〜2007年、 2009年〜 |
2008年は胸 |
| 袖 | でん六 | でん六 | 2001年〜 | |
| パンツ | トプコン山形 | トプコン山形 | 2010年〜 |
ユニフォームサプライの遍歴
- 1999年 - 現在 プーマ
歴代ユニフォームスポンサー年表
| 年度 | 胸 | 背中 | 袖 | パンツ | サプライヤー |
| 1997 | - | 紅花の山形路 | 米エリアYAMAGATA | - | PUMA |
| 1998 | - | はえぬき | 四季感動の やまがた |
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| 1999 | 米どころ 山形県はえぬき |
平田牧場 | |||
| 2000 | |||||
| 2001 | はえぬき | でん六 | |||
| 2002 | NEC山形 | ||||
| 2003 | |||||
| 2004 | |||||
| 2005 | |||||
| 2006 | |||||
| 2007 | |||||
| 2008 | 平田牧場 | - | NECセミコンダク ターズ山形 |
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| 2009 | つや姫 | 平田牧場 | |||
| 2010 | トプコン山形 | ||||
| 2011 | |||||
| 2012 |
※ 2009年の胸スポンサーと背中スポンサーについては、開幕前に決定していたが、ユニフォームに掲出するロゴの制作が間に合わず(#「はえぬき」と「つや姫」を参照)、第1節はスポンサーロゴを掲示しなかった。
ホームスタジアムの遍歴
- 1994年、1996年- 山形県総合運動公園陸上競技場 (2007年、NDソフトスタジアム山形に改称)
- 1995年 山形市陸上競技場 (上述のスタジアムが改修のため)
以下は臨時開催
- 2004年 秋田市八橋運動公園陸上競技場(秋田市)(第18節福岡戦)
- 2007年秋田国体を控えイベント開催のノウハウ修練の場とするという秋田県側の名目、および新規観戦層開拓を狙うモンテディオ山形側の思惑が一致し、秋田県でのホーム開催が組み込まれた。しかし隣県とはいえ、山形市→秋田市の直線距離は他Jクラブのある仙台市や新潟市より遥かに遠かった。また、あいにくの豪雨で当地での当日客動員の思惑が外れ、観衆は1,647人に留まった。なお、これ以降、秋田での公式戦開催は無い。
公式マスコット
- ディーオ:カモシカをモチーフとしたマスコット。角を3本持ちスピードや力強さ、賢さを表現している。原案制作者は大阪芸術大学の薬師寺賢志郎。
- モンテス:岩石をモチーフとしたマスコット。頭部の3つの突起が出羽三山を表現しており、ユーモラスなキャラクターに仕上がっている。原案制作者は不明。
応援スタイル
アンセム
- Over the rainbow (モンテディオ山形Ver)
応援歌
チーム
- スポーツ県民歌 (モンテディオ山形Ver.)
- 原曲は全日本陸上競技大会(1948年)の開催を記念に作られた。なお、現在でも山形県では主にスポーツ競技の応援の際に、地元の選手を応援する目的で歌われている。モンテディオ山形の試合でも試合勝利時に歌われている曲。
- BLUE IS THE COLOUR (モンテディオ山形Ver.)
- 原曲はチェルシーFCの応援歌で、ほぼ原曲の英歌詞を踏襲しているが、「Chelsea」という部分が「Yamagata」と変えられている。また、モンテディオ山形Verでは「ララララ…」と歌いながらサポーター全員が横に動きながら飛び跳ねる事が付け加えられている。
- チームコール
- モンテディオコール
- 青き旗
- Park (モンテディオ山形Ver.)
- 原曲はシカゴ「Saturday In The Park」。
- FORZA山形
- SAMBA
- 山形DIO
- Get Goal
- バモ山形
- カモン山形
- SAMURAI (モンテディオ山形Ver.)
- 原曲は「Carnaval de Paris」
- 山形ゴール
- ハンドクラップ
- オレオ山形
脚注
- ^ 試合が終わってから約1時間後にキックオフ
- ^ 「スポーツ山形21 臨時理事会について」 モンテディオ山形オフィシャルウェブサイト
- ^ 「フルモデルチェンジ構想断念 モンテ運営の21世紀協理事長」 山形新聞、2009.03.19
- ^ 「改修工事のお知らせ」 モンテディオ山形オフィシャルウェブサイト、2006.07.14
- ^ J2リーグ 試合観客動員数 Jリーグ公式サイト
- ^ 「観客動員は苦戦中」 朝日新聞 山形県内版、2008.04.30
- ^ 「観客動員の波大きく」 山形新聞、2009.12.09
- ^ ただし、若干のマイナーチェンジは何度かあった。
- ^ 「モンテブルー強調 新ユニホーム発表」 山形新聞 2010.01.25
関連項目
外部リンク
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