水戸ホーリーホック

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水戸ホーリーホック
原語表記 水戸ホーリーホック
愛称 ホーリーホック
クラブカラー    
創設年 1994年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン2
ホームタウン 茨城県水戸市
ホームスタジアム
Ksdenkistadium10050501.jpg
ケーズデンキスタジアム水戸
収容人数 約12,000
運営法人 株式会社フットボールクラブ水戸ホーリーホック
代表者 沼田邦郎
監督 日本の旗柱谷哲二
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社フットボールクラブ水戸ホーリーホック
Football Club Mito HollyHock, Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 〒310-0852
茨城県水戸市笠原町136-1
設立 1997年2月7日
業種 サービス業
事業内容 サッカークラブの運営
代表者 沼田邦郎
資本金 5,200万円
売上高 3億6,600万円(2011年1月期)
営業利益 1,400万円 (2011年1月期)
純利益 1,600万円 (2011年1月期)
純資産 ▲3,500万円 (2011年1月期)
総資産 8,200万円 (2011年1月期)
決算期 1月期
外部リンク http://www.mito-hollyhock.net
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水戸ホーリーホック(みとホーリーホック、英文表記:Mito HollyHock)は、日本茨城県水戸市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

[編集] 概要

1994年にFC水戸として創設され、2000年よりJリーグへ加盟した。ホームタウン茨城県水戸市。ホームスタジアムはケーズデンキスタジアム水戸(Ksスタ、旧称:水戸市立競技場)である。詳細は「#スタジアム」を参照。

チーム名の「ホーリーホック(Hollyhock)」は英語で「タチアオイ)」を意味し、水戸藩徳川御三家のひとつ)の家紋の葵(ただし、これはフタバアオイのことで葵科ではない)から取られた。なお、名古屋グランパスエイトのチーム名候補の中にも「ハリホック」があり、語源は同じである。

マスコットキャラクターは「ホーリーくん」。竜をモチーフとしている。

[編集] 歴史

[編集] 前史

水戸市で1994年に創設されたフットボールクラブ水戸(FC水戸)が前身となり、1997年にプリマハムフットボールクラブ土浦(プリマハムFC土浦)を吸収合併して、現在の体制が固まった。

なお、プリマハムFC土浦は、1990年土浦市に本拠地を置いていたプリマハム土浦工場の実業団チームであり、当初の名称は「プリマアセノFC」であった。1996年全国地域サッカーリーグ決勝大会で準優勝、1997年からジャパンフットボールリーグ(旧JFL)へ昇格。しかし、プリマハムがサッカー部への支援を打ち切ったため、FC水戸へ吸収合併された[1]

なお、水戸ホーリーホックやJリーグの公式ホームページでは1994年をクラブの創設年と記載しており、プリマハムFC土浦と水戸ホーリーホックは別のクラブと見なされている。ただし、プリマハムFC土浦の持っていたジャパンフットボールリーグの参加資格を承継するために、形式的にFC水戸が吸収された形を取った。

[編集] 1997年 - 1999年(JFL)

[編集] 1997年

水戸ホーリーホックとして初の公式戦は1997年4月20日、旧JFL開幕戦の札幌戦(笠松運動公園陸上競技場)で、0-2で敗戦。ここから14連敗し(うち延長戦でのVゴール負けが2試合)、初勝利は7月19日、第15節の川崎戦(1-0)となった。なお、Jリーグ準会員だった川崎は、このシーズンの最終成績で勝ち点1及ばずにJリーグ昇格を逃している。水戸は後半戦に3勝を挙げたが、16チームのリーグ戦で最下位に沈んだ。しかし、札幌のJリーグ昇格と福島FCの消滅により、地域リーグ決勝大会2位チームとの入替戦は行われず、水戸は残留を決めた。

[編集] 1998年

監督に三浦俊也を迎え、巻き返しを図ったが、年間予算が1億円強と言われ、プロ契約選手でもガソリンスタンドや水産加工所でのアルバイトをしないと生活出来ない状況では成績の劇的な向上は難しく(NHKサンデースポーツでの特集によると年俸は100万円程度だったと報じられている)、最下位脱出が精一杯だった。この年、翌1999年からスタートするJリーグ ディビジョン2(J2)への加盟を申請するも、経営基盤の不安定さ、スタジアム改修に対する地元自治体の動きの鈍さから加盟は見送られ、日本フットボールリーグ(JFL)参加となった。

[編集] 1999年

監督が二宮浩に交代したが、9チームによる3回戦総当たり制(ステージ制)のリーグ戦で苦戦し、第1ステージでは6位に終わった。しかし、南光太などの活躍で第2ステージはこの年に優勝した横浜FCにこそ敗れたものの、7勝1敗の首位となり、通算では3位でシーズンを終えた。Jリーグへの昇格条件は「JFLで2位以内」だったが、優勝が特例参加による準会員資格の横浜FCだったため、JFL正会員の中では2位という点が考慮され、翌2000年からのJリーグ(J2)加盟が認められた(Jリーグの2部制導入後最初のJリーグ参入チームとなった)。

[編集] 2000年 - (J2)

[編集] 2000年

チーム初の外国人監督としてセルビア人バビチ・ブランコを招いた。J2昇格後の初公式戦を3月11日の浦和戦(駒場スタジアム)で迎え、結果は0-2で敗戦であった。資金・戦力の欠乏を理由に専門誌などでは先行きを危ぶまれたが、第2節の大分戦でJ初勝利をあげると、全試合出場を果たしたGK本間幸司を中心とした粘り強い守備や(失点数はリーグ7位タイ)、シーズン途中加入で36歳の高齢ながら元ブラジル代表の技を披露したFWジョン・パウロなどの活躍により、昇格初年度の最終順位は9位、しかも6位の鳥栖までは勝ち点5差という善戦を見せた。

[編集] 2001年

シーズン前に新潟から木澤正徳川崎から池田伸康などベテラン勢を獲得するも、シーズン前半は1勝しか挙げられなかった。その後、補強した韓国人選手の活躍や、メインスタジアムの笠松運動公園陸上競技場のグランドオープン効果などがあり、最終的には最下位を脱出し、11位で終了した。監督は川崎で指揮を執っていた小林寛を招いたが、7月にはゼネラルマネージャーへ転身し、コーチの菅野将晃が監督に昇格して後を継いだ。シーズン後、経営難からチーム存続問題が浮上し、FC水戸代表としてのプリマハムFC誘致からクラブ経営を続けた石山徹が社長を辞任し、小林が石山の所有株と社長職を引き継いで、チームのJリーグ加盟が暫定承認されることになった。なお、この年のチーム得点王(10得点)は東海大から加入して2年目の須藤大輔で、翌年に湘南へと移籍したが、その際の移籍金は苦しい水戸の財政を少なからず助けたとも言われている。

[編集] 2002年

小林新社長が経営安定化とチーム成績向上を迫られた一年となった。菅野体制2年目のチームではFW小野隆儀が14得点を挙げ、守備でもシーズン失点数はリーグ最下位ながら前年比20点減の73失点に抑えて、最終順位は前年より1つ上がり、10位となった。一方、J2リーグ戦1試合の平均観客数は前年の1559人から2739人に増え、2002年W杯のために来日していたコスタリカ代表との国際親善試合も実現した。これらの実績により、水戸はJリーグから加盟継続が正式に承認された。しかし、増えたとは言っても水戸の観客動員数はJ2最低で、平均の約4割にとどまっていたため、更なる努力が求められた。

[編集] 2003年

クラブの存続問題が一息ついたこの年、1980年代に日本代表の主将として活躍した前田秀樹を監督に迎え、守備重視からのカウンター戦術をベースにしたチーム強化に乗り出した。この年は同年シーズンにJ2へ降格していた広島からレンタル移籍で獲得したDFトゥーリオが活躍。センターバックとして水戸の守備を固めると共に、機を見てどんどん攻め上がり攻撃に厚みを加え、DFでありながらチーム内得点王となる10ゴールを記録した。トゥーリオは10月に日本への帰化が認められ、登録名を現在の田中マルクス闘莉王に変更した。これらの活躍もあって、水戸は4回戦制のJ2で開幕ダッシュに成功し、一時は首位、11節終了時の第1クールでも2位という好成績を挙げた。その後は徐々に順位を下げたが、最終順位でもチーム史上最高の7位にまで躍進した。10月からは過去の経営危機への反省から、運営資金を広く集め、地域社会での認知度を高めるために「水戸ホーリーホック支援持株会」が拠出金募集を開始した。

[編集] 2004年

チームスローガン:ムービングフットボール

前年大活躍した闘莉王のレンタル移籍が延長されず浦和へ完全移籍し、それまで長らくチームを支えたFWの小野、北川、ディフェンスラインを支えた冨田大介が移籍した。一方、川崎から小林康剛を、大宮から磯山和司など地元茨城出身の選手を獲得した。

開幕戦の湘南戦で9155人の観衆を集めた。この年の1試合平均観客数は3773人で、現在までの史上最高値となっている。しかし、前年と比較して主力が多数入れ替わった影響か、なかなか勝ち星が奪えずホームでは5月5日の大宮戦から10月16日の甲府戦まで13戦勝利なしという事態が続いた。この間、7月24日の川崎戦では、アウェー戦会場の等々力陸上競技場に集まった水戸サポーター有志による第1回納涼漢祭りが開催され、他チームのサポーターの間でも反響を呼んだ。結局、チームは年間6勝しかできなかったが、44試合中19試合(42%)の引き分け(勝ち試合6試合分)で積み上げた勝ち点が効いて、2年連続一桁順位の9位となった。

また、天皇杯4回戦で鹿島との「茨城ダービー」が公式戦で初めて実現した。偶然にも「茨城県民の日」である11月13日の対戦になった(試合は0-1で水戸の敗戦)。

[編集] 2005年

チームスローガン:ストロングハート

この年は、開幕前に2つの変化があった。この年から1月のチーム始動後の1次キャンプを福島県いわき市スパリゾートハワイアンズで行い、同所でキャンプ最終日にファンクラブ会員イベントを行うようになった。2月には「いばらきサッカーフェスティバル」として鹿島とのプレシーズンマッチが行われ、以後年1回の頻度で定例化した。鹿島は水戸市内でも公式ショップや小学生・幼稚園児(4種)向けのサッカースクール(旧内原町)などを開設しているため、後発の水戸とは競合関係にもあったが、この試合は両者の関係改善を示した。また、この年にJFLから草津が昇格し、水戸は草津との対戦を「北関東ダービー」と称して共同参加キャンペーンを実施した。10月には日立市出身のシンガーソングライターecoによる公式応援歌「走れ☆ホーリーホック!」が発売された。

一方、チームは強化策として前年の決定力不足解消のため、パラグアイ人FWのデルリスを獲得し、彼にボールを集中させるため基本システムをそれまでの4-4-2から4-5-1へと変更した。序盤は連敗をしたものの、システム変更策は功を奏し、デルリスは前半戦のみでチームトップの8得点を決めた。しかし、その得点力に注目した札幌がレンタル元のチームに好条件を出したため、デルリスがシーズン中盤に移籍したが、シーズン後半はDF陣の相次ぐ攻撃参加や、若手のファビオの加入などで2年ぶりの2桁勝利となった。

[編集] 2006年

チームスローガン:CHEMISTRY 〜新たなる融合〜

2月、チームの応援を盛り上げるための女子チアリーディングチーム、「Mito Holy's」(水戸ホーリーズ)を発足。4月2日からはJR水戸駅ビル「EXCEL」の屋上に新規設置された人工芝のミニサッカー場「FUTPARQUE MITO」(フットパルケ水戸)の運営を請け負うことになった。

チームは5月6日の第14節の札幌戦(笠松)で、レンタル移籍で加入したブラジル人FWアンデルソンハットトリックを達成。これは水戸の選手がJ2リーグ273試合目で記録した初のハットトリックだった。第15節の東京V戦ではクラブ史上初めて国立霞ヶ丘陸上競技場で試合を行い、アンデルソンの2試合連続ゴールで1-0と勝利した。

6月2日の横浜FC戦では横浜FCの連続無失点記録を770分で止めたり、6月24日の戦では、後半ロスタイムで土壇場の同点に追いつき引き分けに持ち込むなど、J2上位クラブを大いに苦しめた。8月13日には那珂川河川敷の水戸市市有地に3面整備された「水府町グラウンド」が開場し、クラブの悲願だった専用練習場「ホーリーピッチ」として水戸に利用権が与えられた。

シーズン後半から前田監督は将来の上位進出に備えるため、カウンター重視の守備的戦術からボールを保持し、ショートパスの連続から能動的にゴールへ迫る攻撃的な戦術への転換を開始した。これは「サッカーの質を上げるために必要な措置」と評価された反面、対戦相手の監督から「あまりにも消極的」と非難されても守り続けるのをやめたことで、逆に「内容は良いが勝てない」という試合が増えた。その結果、勝ち点は伸び悩み、昨年と同じ10位でのシーズン終了となった。1試合平均観客数も3017人まで落ち込んだ。

[編集] 2007年

チームスローガン:Believe in Myself あきらめない

前年17得点のアンデルソンが鳥栖へ移籍し、更にキャプテン吉本岳史が故障で離脱。その結果チームは出遅れ、シーズン初勝利は第13節の東京V戦となり、2勝目も第21節の山形戦となるなど、前半戦(第26節)終了時点でわずか3勝にとどまった。観客動員も更に落込み、第11節の湘南戦は3桁台の958人となった他、前半戦主催12試合中6試合で観客数が2000人以下となった。チームの勝敗のみならず、低予算でのクラブ経営、少人数体制での顧客サービスの低下、クラブスタッフの相次ぐ退職などからサポーターへのアプローチやスポンサーへの営業力が低下し、クラブ経営を問われる声が上がった。この状況に対し、クラブ株主の過半数から小林の経営責任を問う声が上がり4月23日付で宮田裕司が社長に就任した。

チームは旧JFL以来10年ぶりのリーグ戦最下位を回避するため、Jリーグで9シーズン目となるベテランのブラジル人MFビジュを獲得するなど、チーム戦力の再整備を行った。シーズン後半は昨年後半から続けてきたアクションサッカーの戦術が浸透してきたことにより前半より失点数が減った。最終成績は12位で8勝しか挙げられなかったが、そのうちの3勝は東京V、札幌、C大阪など、J2上位クラブから挙げた。

1月にはMF小椋祥平がU-22(22歳以下)日本選抜に選ばれ、次いで6月6日の北京オリンピックアジア二次予選マレーシア戦に出場した。小椋は修徳高校から2004年に入団、1年目からトップチームで出場し、他のプロチームを経由せずに水戸入りした「生え抜き」選手では最も高い年代の世代別代表入りとなった。

しかし、去就が噂されていた前田は2007年シーズン限りで監督を退任。更に、キャプテン吉本が横浜FCへ、小椋は横浜FMにそれぞれ移籍した。なお、シーズン3勝目となった6月17日の第22節愛媛戦が行われた水戸市立競技場は、この試合を最後に大規模な改装工事に入った。

また、チーム通算310得点(通称水戸GOAL)を、当時キャプテンだった吉本岳史がPKで決めている。

[編集] 2008年

チームスローガン:TOGETHER Concentrate the mind on the present moment.

水戸OBの木山隆之が監督に就任。補強は他のJクラブ出身選手の目立った獲得はせず、大学サッカーでそれなりの実績を挙げた選手の獲得に重点を置いた。また、浦和から赤星貴文東京Vから弦巻健人らをレンタルで獲得した。

開幕から5試合は、ここ2年間のJ1在籍経験チーム(うち3〜5節は2007年J1在籍クラブ)との対戦となった。結果として5節終了時点で1勝2敗2分と健闘するが(うち前年J1在籍クラブ全てから勝ち点を取った)、3月31日に社長の宮田裕司が、前年8月のクラブスタッフとの親睦会での飲酒運転が発覚し辞任(後任として沼田邦郎が就任)。更に、4月には取締役強化部長の鬼塚忠久が前述の宮田辞任に関連して退任、また水戸ホーリーホック初代社長であり、チームのJリーグ参戦に貢献した竹村徹(旧姓・石山)が死去した。

そんな中、5月に韓国五輪代表候補である朴柱昊が加入、5月末、7月に3連勝するなど、チーム成績は上昇機運に乗り、このシーズン加入した荒田智之が新人ながら多くの得点を挙げ、遠藤敬佑もU-19日本代表に選ばれた。また、9月7日にKKWINGにて行われた熊本戦において、Jリーグ昇格後100勝目となる勝利をあげた。更に、2008年9月28日の仙台戦では荒田の2ゴールなどで仙台から初勝利を上げたが、リーグ終盤はロングボール主体の戦いになってしまうなどゲーム内容が悪くなり失速、15チーム中11位でシーズンを終えた。勝ち点も、目標としていた50にはあとわずか届かなかった。

マスコットであるホーリーくんの入院及び手術(ホーリーくんの着ぐるみのリニューアル)をするための費用として、11月下旬から12月上旬にかけてサポーター有志からの募金とホーム最終戦で行われたチャリティーオークションで100万円以上の入院・手術費用が集まった。ホーリーくんの着ぐるみは2008年シーズン開始当初から頭が割れたり、しっぽがちぎれそうになったりしており、怪我(破損)した部分を包帯で巻き、なんとか試合会場やイベント会場に来ていた。また、試合やイベント会場でも、痛々しい姿を指摘する子どもたちの声もあった。着ぐるみの耐用年数は約2年と言われており、Jリーグの多くのチームは数体予備を用意しているが、予備が無く、チーム財政も厳しいため、今回の募金活動が行われた。

[編集] 2009年

チームスローガン:前へ。

この試合の勝利により、2009年2度目の4連勝を達成。

主将のDF平松大志FC東京へ移籍、チームの柱だったMF赤星が浦和へ復帰、またMFパク・チュホが鹿島へ移籍したが、浦和からFW高崎寛之、またFC東京から森村昂太愛媛FCからMF金泰橪をそれぞれレンタルで獲得。またJFLのFC琉球から、かつて名古屋でJ1でのプレー経験があるMF中島俊一を獲得した。更に、2月18日にはチーム発足以来初めて、A代表歴を持つ吉原宏太が加入した。

開幕戦は負けたが、以降は勝ち続け、9年ぶりの4連勝を飾り、4月26日の岡山戦で、荒田智之がチーム2人目のハットトリックを達成。5月に入ると、荒田、菊岡などの攻撃陣が相次いで負傷するなどし、その後に控えた上位相手に大量失点することが目立った。そのため、5月20日には湘南からFW山本孝平が、その翌週にはFC東京からMF下田光平が共に期限付きで加入した。6月以降は再び調子を上げ、第2クールでは再び4連勝を記録(右図)。上位4チームに負けただけで、順位も5位で折り返した。

第24節C大阪戦で、チーム通算400ゴールが達成された。この時、誰が400ゴールを挙げるかをファン・サポーターから募集しており、当たった人の中から抽選で1名に400ゴールを挙げた選手のサイン入り試合球が貰えることになっていた。しかし、当の400ゴールは、C大阪のDF前田和哉によるオウンゴールだった為、サインはこの試合にスタメン出場した選手全員のものが入ることになり、当選対象者も応募者全員の中から抽選で1名となった(オウンゴールの的中者がいなかった為)。7月8日の福岡戦でFW遠藤敬佑がチーム3人目のハットトリックを達成し、更に8月30日の岡山戦で高崎寛之が、チーム4人目のハットトリックを達成した。

「昇格しか見えない」というゲーフラが登場するほど好調だったが、第3クールでは5試合連続完封負けを含む8連敗を記録して失速。第45節終了時点で、J1昇格の可能性は消滅した。11月3日ケーズデンキスタジアム水戸(Ksスタ)が竣工。第48節の11月8日仙台戦で杮落しとなったが0-4で敗戦し、仙台のJリーグ ディビジョン1(J1)昇格を目前で決められ、Ksスタ初戦を飾ることは出来なかった。改修後の同スタジアムでは2戦目となる第49節の愛媛戦では中村英之のゴールで1-0と勝利し、Ksスタ初勝利を挙げたが、3試合目の第51節(最終節、12月5日湘南戦では2-0からの逆転負けを喫し、湘南にも目前でJ1昇格決定を許した。

2009年の最終成績は21勝20敗10分の勝ち点73で、18チーム中8位となった。J2リーグ参加10年目で初めて勝ち越すとともに、前述の通り1シーズンで3人のFW(荒田智之遠藤敬佑高崎寛之)がハットトリックを達成するなど、総得点でも70点台に到達した。

[編集] 2010年

チームスローガン:超えろ。

木山が監督に留任したが、2年間でリーグ通算31得点を決めたFW荒田が磐田へ完全移籍、荒田と共に得点を量産したFW高崎も浦和へ復帰。また、鈴木和裕村松潤金澤大将など、水戸で100試合以上出場した選手との契約が終了し退団となった。

補強として、草津にレンタル移籍していた小池純輝を完全移籍で獲得。更に、前年KリーグでプレーしていたMF大橋正博が9年ぶりに水戸に復帰。また岐阜からかつて大学、JFLで得点王を経験したFW片山真人が完全移籍で、C大阪からFW白谷建人をレンタル移籍でそれぞれ獲得。下田光平森村昂太のレンタル移籍期間も延長、更に新卒選手を7名獲得した。

開幕戦は勝利したもののその後5戦勝利なし。連勝は第6節-第7節の1度のみと最後まで成績は上向かないまま16位に沈んだ。総得点が19チーム中17位の29得点と、前年とは打って変わって得点力不足に苦しめられた。

この年は、水戸の観客動員数をワーストから脱出させようという試みが行われており、萩本欽一とのコラボ企画も行われている。特に、10月31日に行われた戦では、観客動員をクラブ史上初の1万人突破を目標に様々なイベントが企画され、10,181人が来場した。なお、木山が退任して、2011年シーズンより柱谷哲二を監督に迎えることになった。

[編集] 2011年

チームスローガン:かけろ。

2010年大卒新人の藤川祐司作田裕次大分へ完全移籍した。他には大和田真史栃木へ完全移籍、下田光平と森村昂太もレンタル期間の終了により退団。また、35試合に出場した大橋正博などが契約終了により退団した。

新加入選手でJリーグ経験者は栃木から移籍した岡田佑樹と、草津から移籍した尾本敬と、磐田から順天堂大学へと進学し、Jリーグ再挑戦となる岡本達也の3名のみであり、他は新卒選手9名が新たに加わった。また6月には鹿島などで活躍した元日本代表鈴木隆行(本人の希望によりアマチュア契約)の完全移籍加入があった。

1月16日の新体制会見の席上において、2010年にスポーツ振興投票対象試合安定開催特別会計から3000万円を借り入れていたこと、その返済期日が2011年1月末に迫っているが返済が困難なことから公式試合安定開催基金の借入申請を行ったことを発表した[2]

しかしシーズン開幕直後の3月11日東日本大震災により水戸も大きく被災。とりわけホームスタジアムであるKsスタはメインスタンドを中心に著しく損傷。周辺地域も被災していることや、東京電力福島第一原子力発電所事故による放射能漏れの影響への懸念から、一時活動停止していたが、その後練習を再開。スタジアムの問題については前年まで準本拠地であった笠松運動公園陸上競技場は全面的に立ち入りできないほど損傷が激しく、県内の周辺競技場も全て損壊しているため、K'sスタのメインスタンドを閉鎖(損壊箇所修繕を含めた耐震補強のため)し、バックスタンドおよびゴール裏に観客席を限定して使用することとなった。その後工事が進み、10月16日の東京V戦からメインスタンドの使用が再開された(ただし最初の2試合は工事資材の撤去作業の都合上「仮オープン」とし、10月30日の草津との試合から完全復旧となった)。[3]

この震災の影響で、スポンサーやテレビ放映収入などの激減が予想される事から、再建計画も見直しを迫られることとなった[4]

やがてクラブを支援する動きは大きな広がりを見せた。岐阜北九州は水戸をアウェーとして迎える直接対決で「震災復興支援招待席」を寄贈(前者・4月30日、後者・5月8日)。それぞれにつき水戸の応援に駆けつけるサポーターに対し500枚と300枚を用意して先着順に招待を行なった[5]。6月3日には前述の鈴木隆行の入団を発表。代表経験者が被災クラブの援助を理由に無報酬契約を発表したことで大きく報じられた。6月17日には「テイクアンドギヴ・ニーズ」との新規スポンサー契約により空白となっていたユニフォームの背中・パンツにスポンサーが入り(ユニフォームスポンサーが全て埋まるのは2006年以来5年ぶり)、また増資やサポーター有志の募金などにより、10月20日に公式試合安定開催基金からの借入金3000万円を完済[6]。さらに12月21日には水戸市議会において初めてホームタウン・水戸市からの出資が可決された[7]。かくして波乱に満ちた2011年シーズンの運営危機はクラブ内外の多くの助力により回避された。

なおこの年はリーグ戦の成績こそ20チーム中17位と振るわなかったものの、これまで一度も勝ち星のなかった京都から2勝を挙げ、天皇杯・3回戦ではJ1で優勝争いを繰り広げていたガンバ大阪を延長戦の末3-2で破り、クラブ創設以来初めて公式戦でJ1クラブに勝利するなど、今後の躍進を期待させるシーズンであった。

[編集] 2012年

チームスローガン:たつ

遠藤敬佑保崎淳が草津へ、小池純輝東京Vへ、神村奨新潟シンガポールへ、常盤聡北九州へ完全移籍、鶴野太貴ら4人が退団、補強は、甲府から元日本代表の市川大祐神戸から三島康平徳島から輪湖直樹名古屋から橋本晃司を完全移籍で獲得、キム・ヨンギ石神幸征内田航平鈴木雄斗が新加入した。また昨シーズンはアマチュア契約だった鈴木隆行とプロ契約を結んだ。

[編集] 成績

[編集] タイトル

[編集] スタジアム

笠松運動公園陸上競技場

現在のホームスタジアムである水戸市立競技場が改修される前は、メインスタンドに長いす式のベンチシートが設置されているのみで、それ以外は芝生席の5000人収容で、また照明設備も無く、ナイトゲーム開催も不可能であった。そのため、長年水戸市近郊のひたちなか市那珂市東海村にまたがる県立笠松運動公園陸上競技場をホームスタジアムとしていた。

Jリーグではホームタウンの中にあるスタジアムをホームスタジアムにすることが原則であり、モンテディオ山形ザスパ草津のように、本来の活動区域(前者は山形市、後者は草津町)にホームスタジアムとしてJリーグを開催できるスタジアムが無く、この問題をホームタウンを県内全域に広げたことで解消した例はあるが、水戸のようにホームタウンを広げることなくホームタウンの外にあるスタジアムをホームスタジアムにする例は特殊である。なお、Jリーグクラブ以外では、岡山県三菱水島FC(ホームタウン・倉敷市、ホームスタジアム・笠岡陸上競技場)、滋賀県MIOびわこ草津(ホームタウン・草津市、ホームスタジアム・湖南市民グラウンド陸上競技場)などが同様であった。

しかしながら、ホームタウンにこそ含まれていないもののひたちなか市総合運動公園陸上競技場も準ホームスタジアムとなっていたほか、上記4市村の他、笠間市大洗町茨城町城里町を含めた8市町村で「ホームタウン推進協議会」を設立している。

但し、水戸市立競技場の改修計画が発表され、2007年秋から工事を開始し、2009年11月に「ケーズデンキスタジアム水戸」(略称:Ksスタ)としてグランドオープン。Jリーグ公式戦は同8日のベガルタ仙台戦からとなった。この改修により収容人数は5,000人から12,000人に、メインスタンドに屋根を設置し、同時に独立シート化、照明も設置し、またバックスタンドも座席となり、アウェイゴール裏にはパナソニック製のアストロビジョンが設置された。2010年シーズンは1試合を笠松運動公園陸上競技場で開催した以外は全てKsスタで開催され、前述の問題は解消された。

練習はチーム専用グラウンドであるホーリーピッチの他、水戸市のツインフィールドなど水戸市近郊のグランドを利用している。

[編集] 主本拠地

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 青×紺
FP(2nd) 白×黒
GK(1st)
GK(2nd)
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd

[編集] チームカラー

  •    

[編集] ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
ケーズホールディングス ケーズデンキ 2001年- 1999年-2000年は背中
背中 なし
シーケル Seekel 2011年-
パンツ なし

[編集] ユニフォームサプライの遍歴

  • 1999年 - 2005年 プーマ
  • 2006年 - 2011年 mitre
  • 2012年 - 現在 GAVIC(株式会社ロイヤル)

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1999 Netz
TOYOTA
茨城銀行 K's
ケーズデンキ
PUMA
2000 トモエ乳業
2001 K's
ケーズデンキ
2002
2003
2004
2005 –/CMC –/imx –/思学舎モア
2006 CMC imx 思学舎モア mitre
2007 imx/–
2008 茨城空港 水戸証券
2009
2010
2011 seekel -/One Heart Wedding -/ARK CLUB GEIHINKAN
2012 GAVIC

[編集] エピソード

[編集] J2参加

水戸のJ2加盟が実現した理由の一つは、2002年の全国高等学校総合体育大会(インターハイ)のメイン会場としてJ1規格を満たすように改修される笠松運動公園陸上競技場のホームスタジアム使用が水戸市立競技場の代替として特例認可されたためであったが、その改修工事のために2000年は笠松での試合開催ができず、ひたちなか市総合運動公園陸上競技場と日立市民運動公園陸上競技場日立市)の2会場を中心に主催試合を行った。

そのうち、より規模の小さい日立では9試合が行われたが、その中に浦和戦のホームゲーム2試合が含まれ、公称収容人数8464人のスタンドは浦和サポーターを中心に超満員(観衆約6000人)となったが、ピッチ状態の悪さなどに批判が集まった。その後、日立での水戸戦開催は2007年の1試合(仙台戦)まで行われなかった。また、警備費用の負担という名目で水戸は浦和戦のみ各席種のチケット販売価格に通常から200円上乗せしたが、対戦相手によってチケット価格を変えるのは当時のJリーグでは珍しかった。[8]

[編集] 水戸ナチオ

2003年に監督に就任した前田秀樹は、資金面、戦力面で他クラブに劣る水戸で対等な勝負をするために、徹底した専守防衛によるリアクションサッカーを導入した。DFやサイドどころか中盤、前線に至るまでほぼ全員が自陣深くに引き、攻撃はカウンター一筋で決して自分たちからは攻めあがらず、何点のビハインドを背負おうと決して前の人数を増やさずに守り続けるという、極端なまでの守備戦術である。

この戦術は、ポゼッション(ボール保持)を半ば放棄しているため、相手の波状攻撃に耐え切れずに大量失点を食らうこともあったが、その分カウンターがうまくはまった時は快勝することも多く、特に攻撃的な戦術を組む上位クラブに対しては「守り切られてカウンターだけで負けかねない、侮れないチーム」という意識を植え付けることになった。また、上位だけでなく水戸以降にJリーグに加入した下位クラブにも徹底して引いたため、「横浜FC相手にリトリートするチームがあるとは思わなかった」(足達勇輔横浜FC監督)、「先制して、水戸が前に出てきたら仕掛けようと思ったら、出てこなかった」(望月一仁愛媛監督)など、しばしば相手の選手や監督を驚かせた。

こうした水戸の「超守備戦術」は、いつしかイタリアの「カテナチオ」になぞらえ、サポーターから「水戸ナチオ」と呼ばれるようになった。元はインターネットのサッカーコミュニティから生まれたスラングだったが、徐々に一般サポーターに浸透し、現在はマスコミでも水戸を説明する言葉としてしばしば用いられる。前田監督の最終年である2007年以降、水戸はポゼッションを高める攻撃的サッカーに方針を転換したが、今なお「水戸ナチオ」は水戸を象徴する代名詞となっている。

[編集] 様々なイベント

水戸サポーターは、ホームゲームの勝利後に、一部選手、社長、チアリーダーを交えて、選手がマイクロフォンで応援歌を歌ったり、全員で万歳三唱をしたり、アウェーゲームのゴール裏で屋台やゲームなどの夏祭りを開催する「納涼漢祭り」、前田秀樹監督を盛大に称える「前田祭り」、山形とのゲームで必ず行われる「コール合戦」など、独特のイベントを多数開催している。

これらは基本的にクラブはノータッチ、完全にサポーター主導で行われており、特に漢祭りは「Jリーグの奇祭」として、他クラブサポーターも多数参加する。詳細は納涼漢祭りを参照。

[編集] 新日本プロレスとのコラボレーション

2008年から新日本プロレスとのコラボ企画を行っている。2月14日にひたちなか市松戸体育館で行われた新日本プロレスひたちなか大会において、ホーリー君や、チアリーダーが登場するなどし、盛り上げた。6月13日の鳥栖戦には、6月15日の水戸市民体育館で行われる新日本プロレス水戸大会の宣伝も兼ねて、蝶野正洋の始球式参加や「I am Chono!!」シートを限定販売を行った。

[編集] 「見送り試合」の多さ

目前で相手クラブにJ1昇格を決められることが多く、特に2004年、2009年シーズンは自動昇格の2チーム双方を「お見送りする」という珍事を達成してしまった(2チームにJ1昇格を決められたのは他に2008年愛媛が該当)。お見送りになってしまった試合は以下である。一方で回避例もあり、2003年に対新潟戦で新潟のJ1昇格がかかっていたが、この試合は水戸が勝利した為、新潟の昇格は次節以降に持ち越しとなった。

2004年
  • 9月26日 第36節(笠松)水戸 1-2 川崎
  • 11月20日 第42節(大宮)大宮 3-1 水戸
2005年
  • 10月22日 第37節(西京極)京都 3-1 水戸
2007年
  • 12月1日 第52節(札幌ドーム)札幌 2-1 水戸
2009年[9]
  • 11月8日 第48節(Ksスタ)水戸 0-4 仙台
  • 12月5日 第51節(Ksスタ)水戸 2-3 湘南

[編集] スタジアムグルメ

水戸のスタジアムグルメは、パエリアパフェペロペロキャンディ風にしたウィンナーなど種類が豊富である。しかし、2009年には、食中毒事件を起こし、営業停止命令が出され、食中毒の主な原因となったピラフを販売した店舗は当面出店禁止となった。

[編集] スタジアムDJ

スタジアムDJは、寺田忍が担当している。寺田はホームゲームの進行役は勿論、アウェーゲームの試合にも度々訪れ、サポーター席で試合開始前にはホームゲーム同様に選手紹介を行っている。寺田の本職はケーブルテレビの制作スタッフで、スタジアムDJはボランティアで行なっている[10]

[編集] 観客動員

  • 観客動員について、2000年、2004年、2010年、2011年を除いて観客動員数はJ2最下位、2000年、2004年、2010年も下から2番目と、ほぼ毎年最下位か最下位から2番目のどちらかである。ちなみに2000年、2004年の最下位はそれぞれ甲府鳥栖で、双方とも当時クラブの存続危機に立たされていた。2010年の最下位はFC岐阜で、長良川競技場の改装で18試合中15試合を収容人数3000人台の長良川球技メドウで行ったため。

[編集] 観客数の多かったホームゲーム

順位 日時 所属 対戦相手 観客数 試合会場
1 2010年10月31日 J2 柏レイソル 10,181 ケーズデンキスタジアム水戸
2 2006年8月19日 柏レイソル 9,482 笠松運動公園陸上競技場
3 2004年3月13日 湘南ベルマーレ 9,155 笠松運動公園陸上競技場
4 2009年11月8日 ベガルタ仙台 8,463 ケーズデンキスタジアム水戸
5 2005年9月10日 ベガルタ仙台 8,158 笠松運動公園陸上競技場

[編集] 脚注

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  1. ^ 公式サイト クラブ沿革
  2. ^ Jリーグ『公式試合安定開催基金』借入申請について
  3. ^ 水戸ホーリーホック公式サイトのリリース
  4. ^ 2011年4月18日NHK総合テレビジョンサンデースポーツ」、及び同年4月21日朝日新聞より
  5. ^ 毎日新聞茨城版2011年4月3日
  6. ^ Jリーグ公式試合安定開催基金からの借入金返済のご報告
  7. ^ 水戸市議会定例会における水戸市出資承認について
  8. ^ 他にFC東京神戸も2段階料金制度を採っているほか、大宮が2007年シーズンに2段階料金制度を採用していた。
  9. ^ この2試合は新装されたKsスタでの開催(仙台戦は杮落とし)だったが、いきなり仙台、湘南のJ1昇格を見送ることになった。
  10. ^ Foot!」(J SPORTS)2011年12月1日放送より

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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