石崎信弘
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | ノブリン、石さん | ||||||
| カタカナ | イシザキ ノブヒロ | ||||||
| ラテン文字 | ISHIZAKI Nobuhiro | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1958年3月14日(53歳) | ||||||
| 出身地 | 広島県広島市中区 | ||||||
| 身長 | 175cm[1] | ||||||
| 体重 | 70kg[1] | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| ポジション | DF | ||||||
| ユースクラブ1 | |||||||
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| クラブチーム1 | |||||||
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| 監督歴 | |||||||
| 1995-98 1999-01途 2001途-03 2004 2005 (代行) 2006-08 2009-現在 |
NEC山形/モンテディオ山形 大分トリニータ 川崎フロンターレ 清水エスパルス 東京ヴェルディ1969 柏レイソル コンサドーレ札幌 |
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| 1. 国内リーグ戦に限る。現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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石崎 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )は、広島県広島市中区出身の元サッカー選手、現在はサッカー指導者。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 選手時代
県立広島工業高校時代は河内勝幸、金田喜稔、楚輪博、木村和司、猿沢茂、室野哲雄らと共に全国高校選手権ベスト4を経験した。
その後東京農業大学を経て1980年に当時日本サッカーリーグ2部に在籍し川崎市に本拠を置いていた東芝サッカー部(コンサドーレ札幌の前身)に加入。ハードなディフェンスで[2]2部時代には5年連続ベストイレブンに選ばれるなど活躍する。1991年に一旦コーチ兼主務となるがシーズン序盤に選手として追加登録され、その後1993年に現役引退した。
[編集] 指導者時代
[編集] モンテディオ山形
選手生活の晩年には既にコーチ稼業にも踏み出しており、引退から2年後の1995年に当時ジャパンフットボールリーグ所属であったNEC山形(1996年以降はモンテディオ山形)の監督に就任。4シーズン指揮を取った中で1998年には優勝争いの末、山形をジャパンフットボールリーグ3位にまで押し上げる結果を残した。これによりJリーグを含む複数チームからのオファーを受けた[要出典]。
[編集] 大分トリニータ
関連: 1999年J2最終節、2000年J2最終節
1999年、発足したばかりのJ2に加盟した大分トリニータに招聘され監督に就任。新しい環境でチャレンジしたかった事と大分が積極補強を掲げた点が就任の理由。[要出典]この年の大分は最終節を前に2位に浮上。勝てば自力で昇格を決めることが出来たが、最終節で前所属であった山形に引き分け、年間3位の成績で同シーズンを終えた。山形との勝ち点差は1であった。
翌年の2000年は昇格候補に挙げられ、再び優勝争いに絡んだものの、またも勝ち点1差で3位となり、2001年はスタートダッシュに失敗しシーズン途中で解任された。
[編集] 川崎フロンターレ
関連: 2001年J2最終節、2003年J2第43節・最終節
同年7月、J2に降格し低迷する川崎フロンターレの監督に就任。リーグ戦では7位の成績でシーズンを終えたがその年の第81回天皇杯では準決勝まで進出した。2002年には川崎を4位に押し上げ、2003年には最終節まで昇格争いに絡みながら、年間3位でシーズンを終えた。2位のサンフレッチェ広島とは勝ち点差1であった。同年の第83回天皇杯を最後に川崎監督を退任した。
[編集] 清水エスパルス・東京ヴェルディ
2004年、清水エスパルスのヘッドコーチとして初めてJ1に関わることとなった。同年7月にはアントニーニョ監督の辞任に伴って監督に昇任、J1で初采配を振ることになったが、アラウージョやチョ・ジェジンという強力なFWを擁しながらもセカンドステージは守備が崩壊し16位中14位に終わり、シーズン終了後監督を辞任した。
2005年には東京ヴェルディ1969(東京V)のコーチに就任したが、オズワルド・アルディレス監督が成績不振(前半戦終了時点で17位と低迷)の責任を取って7月19日に解任されたことを受け、3試合ではあるが急遽監督代行に就任した。親善試合では、スター選手を集め、当時銀河系軍団と呼ばれていたレアル・マドリードを3-0で破った。その後、クラブがバドンを新監督にすると再びコーチとして補佐したが、東京VのJ2降格を阻止できず、このシーズン限りで解任された。
[編集] 柏レイソル
2006年には柏レイソルの監督に就任。「いい選手が皆出て行ってしまった」と漏らしながらも、「残った選手はサッカーに飢えている選手。彼らにいい刺激を与えてあげれば、非常にいいチームになる。」とし、[要出典]さらには彼の指導を受けた山根巌、岡山一成を獲得し、崩壊しかけたチームを再生させた。若手の底上げを図りながらチームをまとめ、J2では突出した資金力とフランサやディエゴなどの選手の存在により、最終節の湘南ベルマーレ戦で自身初となるJ1昇格を経験した。
2007年は引き続き柏の監督を務め、李忠成や菅沼実など若い選手を起用した。フランサや移籍してきた古賀正紘や太田圭輔の活躍もあり、シーズン前半戦は優勝争いを演じ、年間8位の成績でシーズンを終えた。
柏での指揮が3年目になった2008年は、一時3位となるなど好調であったが、故障による戦力の低下や外国人の起用法の迷い、中盤守備の問題により、中盤以降に失速する悪癖は改善されず、[要検証]32節まで残留争いに巻き込まれた。この結果、2008年限りで柏レイソル監督を退任することとなった。退任決定後、第88回天皇杯準優勝を経験した。
[編集] コンサドーレ札幌
2008年12月、コンサドーレ札幌監督に就任する旨が発表された[3]。同年度は通算21勝16分14敗の成績を残し、年間6位の成績でシーズンを終えた。
2010年度は、内村圭宏、近藤祐介、中山雅史、藤山竜仁、李漢宰を補強したが、昨季のレギュラーである西大伍、ダニルソンの放出によりワールドカップでの中断前での成績は19チーム中12位、最終順位は13位となった。 2011年度は、石川直樹、西嶋弘之、藤田征也、上里一将などの主力の移籍により厳しい序盤戦となり、折り返しの17節時点では20チーム中10位であったが、砂川誠に加え河合竜二、李昊乗、ジオゴなどの新戦力が活躍を見せた他、若手も数多く台頭を見せて快進撃を展開、最終的に3位となりJ1復帰を決めた。
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1980 | 東芝 | JSL2部 | |||||||||
| 1981 | - | ||||||||||
| 1982 | |||||||||||
| 1983 | |||||||||||
| 1984 | |||||||||||
| 1985 | |||||||||||
| 1986 | |||||||||||
| 1987 | |||||||||||
| 1988-89 | |||||||||||
| 1989-90 | 29 | JSL1部 | 22 | 1 | 2 | 0 | |||||
| 1990-91 | 9 | 0 | 2 | 0 | |||||||
| 1991-92 | 34 | 5 | 0 | - | |||||||
| 1992 | 旧JFL | - | |||||||||
| 1993 | - | ||||||||||
| 通算 | 日本 | JSL1部 | 36 | 1 | 4 | 0 | |||||
| 日本 | JSL2部 | ||||||||||
| 日本 | 旧JFL | - | |||||||||
| 総通算 | |||||||||||
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 5試合0得点
- 1991年
- コニカカップ 1試合0得点
[編集] 経歴
- JSL(1部)初出場:1989年10月8日 対本田技研戦(本田技研都田サッカー場)
- JSL(1部)初得点:1990年1月27日 対本田技研戦(平塚競技場)
[編集] 指導歴
- 1991年 東芝:コーチ兼主務
- 1995年 - 1998年 NEC山形/モンテディオ山形:監督
- 1999年 - 2001年6月 大分トリニータ:監督
- 2001年7月 - 2003年 川崎フロンターレ:監督
- 2004年 清水エスパルス
- 2004年 - 2004年6月 :ヘッドコーチ
- 2004年7月 - 2004年11月 :監督
- 2005年 東京ヴェルディ1969
- 2005年 - 2005年7月 :コーチ
- 2005年7月 - 2005年8月 :監督代行
- 2005年8月 - 2005年12月 :コーチ
- 2006年 - 2008年 柏レイソル:監督
- 2009年 - 現在 コンサドーレ札幌:監督
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 順位 | 試合 | 勝点 | 勝 | 分 | 敗 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
| 1995 | 旧JFL | NEC山形 | 10位 | 30 | 41 | 13 | - | 17 | - | 予選敗退 |
| 1996 | 旧JFL | 山形 | 8位 | 30 | 49 | 16 | - | 14 | - | 3回戦 |
| 1997 | 旧JFL | 山形 | 5位 | 30 | 56 | 19 | - | 11 | - | 3回戦 |
| 1998 | 旧JFL | 山形 | 3位 | 30 | 64 | 22 | - | 8 | - | 4回戦 |
| 1999 | J2 | 大分 | 3位 | 36 | 63 | 21 | 3 | 12 | 2回戦 | 3回戦 |
| 2000 | J2 | 大分 | 3位 | 40 | 81 | 26 | 3 | 11 | 1回戦 | 3回戦 |
| 2001 | J2 | 大分 | - | 11 | 18 | 6 | 0 | 5 | 2回戦 | - |
| J2 | 川崎 | 7位 | 24 | 37 | 12 | 1 | 11 | 準々決勝 | 準決勝 | |
| 2002 | J2 | 川崎 | 4位 | 44 | 80 | 23 | 11 | 10 | - | 準々決勝 |
| 2003 | J2 | 川崎 | 3位 | 44 | 85 | 24 | 13 | 7 | - | 4回戦 |
| 2004 | J1 | 清水 | - | 15 | 13 | 4 | 1 | 10 | 準々決勝 | 4回戦 |
| 2005 | J1 | 東京V | - | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | - | - |
| 2006 | J2 | 柏 | 2位 | 48 | 88 | 27 | 7 | 14 | - | 4回戦 |
| 2007 | J1 | 柏 | 8位 | 34 | 50 | 14 | 8 | 12 | 予選リーグ | 4回戦 |
| 2008 | J1 | 柏 | 11位 | 34 | 46 | 13 | 7 | 14 | 予選リーグ | 準優勝 |
| 2009 | J2 | 札幌 | 6位 | 51 | 79 | 21 | 16 | 14 | - | 3回戦 |
| 2010 | J2 | 札幌 | 13位 | 36 | 46 | 11 | 13 | 12 | - | 3回戦 |
| 2011 | J2 | 札幌 | 3位 | 38 | 68 | 21 | 5 | 12 | - | 2回戦 |
| 2012 | J1 | 札幌 | ||||||||
- 2001年は第11節終了後に大分監督を解任、第21節から川崎監督に就任。表中の勝敗分・勝ち点数は石崎が監督だった試合の合計、順位はチームの最終順位。
[編集] 評価
J2において勝ち点差1での昇格失敗を3度重ねたことから、悲運の名将とも言われていた。[要検証]
石崎の戦術の基本は「中盤の強烈なプレッシャーで相手の良い所を消す」ことにあり[4]、勝ち点3が取れる勝利を逃して勝ち点1の引き分けで終わる試合が多くなるため、J2での高い勝率が必要であるJ1昇格の目標達成には「勝ちきれない」と批判される場合もある。
激しい練習量で養ったスタミナと精神力を背景に、長いリーグ戦を戦い抜けるチームを作り上げる能力については目覚しい実績を残している。[要出典]また、特にジャパンフットボールリーグやJ2の貧弱な環境においても工夫と熱意で練習環境を整備する姿勢は、関係者やサポーターからも好意的に受け止められている。[要検証]大分や川崎ではフィジカルコーチを置かず、自らがトレーニングメニューを考案して、他チームから来た選手が驚くほど多くの練習を課した。[要出典]この豊富な練習量はチームの根幹を形成するのには不可欠だが、時として疲労の蓄積からより多くの負傷者を生み、チーム戦力を低下させる危険性も持っている。[要検証]
この最たる例が2006年以降の柏レイソルである。前年のJ2降格に伴う主力選手の相次ぐ移籍で崩壊状態にあった柏は、年末になって石崎を監督に招聘した。準備期間が短くチーム編成の選択肢が少ない中、石崎は古邊考功らをフィジカルコーチとしてスタッフに加えながら激しい練習でチームの再生に着手し、若手中心のメンバーをベテランが引っ張るというチームを作り上げた。序盤は首位を走るが、中盤以降なかなか勝てなくなる。しかし最終節において何とか2位に入り、昇格を決める。復帰した2007年のJ1リーグでそれまでと打って変わって上位に入るなど、石崎が退任する2008年までの柏は石崎の特徴を非常に色濃く持つチームとなった。
[編集] 「石崎組」
人情に厚い石崎を慕う人間は多い。そこから、石崎がチームを移ると共に移籍を志願し、複数のクラブで再び石崎の指導を受ける選手も現れる。一人の映画監督の下に付く俳優や技術スタッフの参加者が固定化し、ほぼ同一の製作チームが複数の映画に携わる形態[5]に例えられ、これを「石崎組」と呼ぶ例がある。[要出典]
その中には、上で述べたように選手が「石崎の下でプレーしたい」とクラブに移籍を志願して実現させる場合もある。この最も顕著な例が岡山一成である。岡山は「石さんをJ1に昇格させて男にしたい」として、石崎退任後にJ1昇格を果たした川崎から2006年に柏へ移籍した。また、2009年1月1日の天皇杯決勝では、同月末で仙台との契約が切れた後の新チームが決まっていない状態で、柏側サポーターの席に登場し、柏や石崎を応援した事もある。ただし、山根巌は石崎が柏監督就任時に自ら呼び寄せ、現役引退を撤回させた事を認めている、特別な存在である[要出典]が、その山根も、2002年に大分のJ1昇格に貢献した後に移籍を志願し、2003年には石崎と共に川崎で再びJ2を戦う決断をしている。一方、塩川岳人は1999年に石崎と一緒に山形から大分に移り、2000年に単独で川崎に移籍したが、2001年に石崎の方が自分のいる川崎へ移ってきた経験を持つ。
このような移籍の発生は石崎の人望の深さを示すが、移籍元のクラブには選手の引き抜きという悪感情を与える場合もある。特に1999年の大分と山形の関係はこれが顕著で、同年最終節での伏線となった[6]。
なお、石崎は能力や性格を知っている「石崎組」の選手をチームの掌握に上手く役立てているが[7][8]、これらの選手が必ずチームでレギュラーを獲得できるわけではない。岡山は柏でJ1に昇格した2007年に試合出場が減り、石崎の勧めで仙台へ移籍している[9]。
また、サッカーライターの江藤高志も「石崎組」の一員である。大分県出身の江藤は大分の取材を通じて石崎と親交を深め、石崎の川崎監督就任後は自らも取材対象の中心を川崎に移した[10]。また、石崎が柏の監督になった後、2007年には雑誌『サッカーJ+』で石崎の少年時代を題材にした連載「小説 石崎信弘物語」を執筆した[11]。
[編集] 複数のクラブで同時に在籍した選手
| 選手名 | 所属クラブ |
|---|---|
| 高木純平 | 清水(2004年)、札幌(2010年-) |
| 箕輪義信 | 川崎(2001年途中-2005年)、札幌(2009年-2010年) |
| 石川直樹 | 柏(2006年-2008年)、札幌(2009年途中-2010年) |
| 山根巌 | 大分(1999年-2001年途中)、川崎(2003年)、柏(2006年-2008年) |
| 茂原岳人 | 川崎(2002年-2003年)、柏(2008年途中) |
| 北嶋秀朗 | 清水(2004年)、柏(2006年-2008年) |
| 太田圭輔 | 清水(2004年)、柏(2007年-2008年) |
| 杉山浩太 | 清水(2004年)、柏(2008年) |
| アレックス | 川崎(2002年)、柏(2008年) |
| 塩川岳人 | 山形(1995年-1998年)、大分(1999年)、川崎(2001年途中-2003年) |
| 庄司孝 | 山形(1995年-1998年)、大分(2000年-2001年途中) |
| シジクレイ | 山形(1997年-1998年)、大分(2000年) |
| 若松大樹 | 山形(1998年)、大分(1999年-2001年途中) |
| 佐藤由紀彦 | 山形(1998年)、柏(2006年途中-2007年) |
| 岡山一成 | 川崎(2002年-2003年)、柏(2006年-2007年途中)、札幌(2011年途中-) |
[編集] エピソード
石崎は6つのJリーグチーム(ジャパンフットボールリーグ時代の山形を除く)で指揮を執って選手との信頼関係を築き、さらにはネットユーザーを含めたサッカーファン(サポーター)とも親近感を持って接しているため、エピソードが多く存在する。
- 石崎とは東農大サッカー部の同期で、家族ぐるみでの付き合いも深い友人であるジュビロ磐田元監督の長澤和明が、NEC山形の監督に就任することが内定、その長澤の要請により石崎がコーチに就任することも内定していた。しかし当時8歳の長澤の長女まさみ(現在、女優)が「静岡を離れたくない」と山形への転居を嫌がったため、長澤はNEC山形監督への就任を辞退することとなった (その直後に長澤はL・リーグの鈴与清水FCラブリーレディースの監督に就任した) 。そのため、NEC山形は長澤の代役として石崎に監督就任を要請した[12]。ここから石崎のサッカー監督としてのキャリアが始まることになる。
- 前述のように石崎家と長澤家との関係が深いため、現在でも家族同士で食事をすることも多い。一緒にみかん狩りに行ったこともあるという。石崎が東京ヴェルディ監督(代行)時代に「(長澤)まさみちゃんと飯食ったよ」とミーティングで選手たちに話したら、非常に羨ましがられたということもあった[13]。
- 自流の広島風お好み焼きが得意料理。所属クラブ内でバーベキューなどがあると必ずお好み焼きを焼いている。選手からも好評なようで、2008年には『石さんレシピ広島風お好み焼き』が日立柏サッカー場での柏主催試合で販売している[14]。売れ行きは好調で、石崎は退任後の2009年も引き続き販売されている。
- 90年代初めに、それまでは赤だった東芝サッカー部のユニフォームがACミランにあやかり赤と黒の縦縞に変更となったのは、当時主将だった石崎のアイデアによるもの[15][16][17]。なお、このユニフォームはコンサドーレ札幌となった現在でも引き継がれており、クラブの歴史、伝統の象徴として札幌サポーターも大切に扱っている。奇しくも2009年からは石崎が札幌の指揮を取ることになり、その年のキックオフイベントでは「石崎が赤黒の元に帰って参りました!」とファン・サポーターに向けてコメントしている。
- 川勝良一は東芝サッカー部で一年後輩の同僚。2年間ルームメイトだったが、几帳面な石崎のおかげで、川勝は1度も部屋を掃除しなかったという。[要出典]
- FCバルセロナのファンで、試合のビデオをミーティングに持ち込む事がある。2001年には大分監督解任後にスペインでの研修を計画していたが、出発直前に川崎からの監督就任要請を受けて取りやめた経緯がある。[要出典]
- サポーターやインターネットコミュニティではノブリンと呼ばれる。これは本人が親戚との会話で、冗談で「ノブリンと呼んで」といったのに由来する。ちなみに「ノブリン」の愛称はフォークソングデュオ「あのねのね」のメンバー・原田伸郎が自らをこう呼んでいたのを借用したとのことである。[要出典]本人を直接知る選手・関係者からは石さんと呼ばれる。
- 2003年に川崎フロンターレのJ1昇格を勝ち点1差で逃したため辞任したが、その後に行われた第83回天皇杯ではホームグラウンド・等々力陸上競技場で最後の試合となる2回戦(国見高校戦)終了後にサポーターの前で挨拶をした際、その終了後にグラウンド内に大量に進入したサポーターらによって胴上げをされた。2007年に柏レイソルを率いて迎えた等々力競技場での川崎戦でも、山根巌と共に拍手で迎えられた。[要出典]
- 東京ヴェルディのコーチを解任された後、某Jリーグチームのサテライト監督の就任が決まっていた。最終交渉を夕方に控え、午前中は夫人と映画館に居た石崎の携帯に電話がかかってきた。最初は無視したもの2度目は「緊急の要件かな!?」と思った電話に出たところ柏レイソルから監督就任の電話でありこのオファーで急転、柏の監督就任が決まった。石崎本人は後、「おかげで映画の一番いいシーンは見られんかった」との発言を残している[18]。なお、石崎就任の公式発表がされるまで、柏の新監督候補には別の人物が複数のメディアで報道されていた。[要出典]
- 柏では選手から「石さん」の愛称で親しまれ、「親父のような存在」として多大な信頼も得た[19]。練習のミニゲーム敗戦チームの選手に一発芸をさせる「罰ゲーム」を名物とした。[要出典]
- サッカー指導者の高橋真一郎(広島県立松永高等学校)や木村孝洋(広島県立広島皆実高等学校)は同い年で同郷の広島県出身。2008年には柏で石崎監督の下に高橋ヘッドコーチが就任し、2009年には石崎の後任として高橋が新監督となったが、シーズン途中で解任された。
- 出身地の広島弁を話し、一人称も広島弁での「わし」である。
- アナウンサー渡辺真理の大ファンである。[要出典]
- 2011年にAFCアジアカップ決勝オーストラリア戦で決勝ゴールを決めた李忠成のボレーシュートは石崎が伝授したもの。李が柏所属時代、練習前に行われたサッカー番組の収録でボレーシュート対決に自信満々に挑んだところ、惜しくも小倉隆史に敗れた。あまりの悔しさに練習開始までボレーの練習をしていたところ、練習時間に現れた石崎が「カラダ寝かしゃぁいいんだよ」とアドバイスしたところ一転して李自身さえ驚くほど自在に打てるようになった。ちなみに石崎は李の決勝ゴールを見ることができず、後日その情報を知ったという。[要出典]
[編集] 参考文献
- 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
- 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-100-6
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-102-2
- 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-104-9
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8116-7
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8134-5
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2004』、コナミメディアエンタテインメント、2004 ISBN 4-86155-802-6
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2005』、コナミメディアエンタテインメント、2005 ISBN 4-86155-805-0
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2006』、コナミ、2006 ISBN 4-86155-811-5
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2007』、コナミデジタルエンタテインメント、2007 ISBN 978-4-86155-839-9
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2008』、コナミデジタルエンタテインメント、2008 ISBN 978-4-86155-847-4
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2009』、コナミデジタルエンタテインメント、2009 ISBN 978-4-86155-850-4
- 『J.LEAGUE OFFICIAL FANS' GUIDE 2010』、コナミデジタルエンタテインメント、2010 ISBN 978-4-86155-852-8
- 『Jリーグオフィシャル・ファンズ・ガイド2011』、朝日新聞出版、2011 ISBN 978-4-02-190215-4
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-099-9
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2000』、トランスアート、2000 ISBN 4-88752-101-4
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2001』、トランスアート、2001 ISBN 4-88752-103-0
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2002』、NTT出版、2002 ISBN 4-7571-8117-5
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2003』、NTT出版、2003 ISBN 4-7571-8135-3
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2004』、コナミメディアエンタテインメント、2004 ISBN 4-86155-801-8
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2005』、コナミメディアエンタテインメント、2005 ISBN 4-86155-806-9
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2006』、コナミ、2006 ISBN 4-86155-812-3
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2007』、コナミデジタルエンタテインメント、2007 ISBN 978-4-86155-840-5
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2008』、コナミデジタルエンタテインメント、2008 ISBN 978-4-86155-846-7
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2009』、コナミデジタルエンタテインメント、2009 ISBN 978-4-86155-851-1
- 『J.LEAGUE YEARBOOK 2010』、コナミデジタルエンタテインメント、2010 ISBN 978-4-86155-853-5
[編集] 脚注
- ^ a b 『1990-1991JSLイヤーブック』p51
- ^ 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 2001』p210
- ^ コンサドーレ札幌 新監督に石崎 信弘氏が就任 コンサドーレ札幌公式サイト 2008.12.29付ニュースリリース
- ^ その評価例として、主に札幌についての評論家活動をしている平川弘が石崎の札幌監督就任時に「3トップを用いたり、と一見攻撃的に見えるが、前線からの守備を重視し、相手の長所を消すきめ細かな戦術を好む。そしてそれを実現するために必要な運動量、ハードワークを選手に求める。」と北海道新聞での連載コラムで言及している。北海道新聞「燃えろ!コンサドーレ 平川弘の通信簿」2009年1月14日[1]
- ^ 例えば、黒澤明の「黒澤組」、山田洋次の「山田組」が挙げられる。
- ^ 逆に、2001年J2最終節(第44節)では石崎監督の川崎が山形のJ1昇格を阻止した。
- ^ 2009年の札幌でも守備強化とムードメーカーとして石川直樹に期待している。日刊スポーツ2009年7月17日[2]、北海道新聞2009年7月31日[3]
- ^ 清水ではかつて自分が指導した選手が不在で、成績も振るわなかった。
- ^ 当初はレンタル移籍、2008年に完全移籍。
- ^ 現在も川崎のオフィシャルマッチデープログラムやJリーグの公式ニュースサイト「J's GOAL」で川崎関連の記事を執筆している。
- ^ 同誌vol.7-11の5回、同誌の休刊に伴い終了。
- ^ スポーツニッポン『特報面』 2006年12月22日付参照
- ^ 東京スポーツ、2007年8月17日、1面
- ^ 柏レイソルの公式リリース、[4]
- ^ 日本経済新聞 2007年7月2日夕刊「駆ける魂」
- ^ J's GOAL | J'sGOALニュース | 【2009シーズン始動!】
- ^ [5]
- ^ 「Sports Graphic Number」692号より
- ^ 石川直樹もこのように語っている。北海道新聞2009年7月31日。
[編集] 関連項目
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