石崎信弘
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| 石崎信弘 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ノブリン、石さん | |
| カタカナ | イシザキ ノブヒロ | |
| ラテン文字 | ISHIZAKI Nobuhiro | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1958年3月14日(51歳) | |
| 出身地 | 広島県広島市中区 | |
| 身長 | 175cm | |
| 体重 | 72kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| ポジション | DF | |
| 監督歴 | ||
| 1995-98 1999-01途 2001途-03 2004 2005 (代行) 2006-08 2009-現 在 |
NEC山形/モンテディオ山形 大分トリニータ 川崎フロンターレ 清水エスパルス 東京ヴェルディ1969 柏レイソル コンサドーレ札幌 |
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| ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj | ||
石崎 信弘(いしざき のぶひろ、1958年3月14日 - )は、広島県広島市中区出身の元サッカー選手、現在はサッカー指導者。ちなみに一人称は広島弁での「わし」である。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 選手時代
県立広島工業高校(通称・県工)時代は河内勝幸、金田喜稔、楚輪博、木村和司、猿沢茂、室野哲雄らとスペクタクルなサッカーを展開し全国高校選手権 ベスト4。
その後東京農業大学を経て1980年に当時日本リーグ2部に在籍し川崎市に本拠を置いていた東芝サッカー部(コンサドーレ札幌の前身)に加入。2部時代には5年連続ベストイレブンに選ばれるなど活躍する。川勝良一は一年後輩の同僚。2年間ルームメイトだったが、川勝は1度も部屋を掃除しなかったという。1993年に現役引退した。
[編集] 指導者時代
選手生活の晩年には既にコーチ稼業にも踏み出しており、引退からわずか2年後の1995年に当時JFLであったNEC山形(1996年以降はモンテディオ山形)の監督に就任。全国的に名の通った選手はいなかったが、4シーズンの指揮・指導の結果、年々ステップアップさせ1998年には優勝争いを繰り広げ、山形をJFL3位にまで押し上げる結果を残した。
サッカー界屈指の若手監督との評価を受け、Jリーグを含む複数チームからのオファーを受けたが、当時山形より下位でJFLを終えて1999年、発足したばかりのJ2に加盟した大分トリニータに招聘され監督に就任。新しい環境でチャレンジしたかった事と大分が積極補強を掲げた点が就任の理由。大分スポーツ公園総合競技場の完成前は練習環境も整わず、中位予想のチームを優勝争いさせ最終節を前に2位に浮上。勝てば自力で昇格を決めることが出来たが、最終節で奇しくも古巣の山形に引き分けという形で行く手を阻まれ、勝ち点1の差で惜しくも3位にとどまった(秋天の陽炎を参照)。翌年の2000年は昇格候補に挙げられ、再び優勝争いに絡んだものの、またも勝ち点1差で3位に終わり(2000年J2最終節を参照)、2001年はスタートダッシュに失敗しシーズン途中で解任される。しかし在任中には、加地亮らを育てた。
同年7月、J2に降格し低迷する川崎フロンターレの監督に就任。リーグ戦こそ7位に終わるもその年の天皇杯ではリストラ選手の活躍により準決勝まで進出する。2002年には川崎を4位に押し上げ、2003年には最終節まで昇格争いに絡みながら、またしても勝ち点1差に泣き3位に終わる(2003年J2第43節・最終節を参照)。同年の天皇杯を最後に辞任。しかし我那覇和樹など、ここでも若手選手を育て2006年、優勝争いに躍り出たフロンターレの礎を築いたとして再評価されている。
2004年、清水エスパルスのヘッドコーチとして初めてJ1に関わることとなった。同年7月にはアントニーニョ監督の辞任に伴って監督に昇任、J1で初采配を振るうことになったが、アラウージョ、チョ・ジェジンという強力なFWを擁しながらもセカンドステージは守備が崩壊し16位中14位に終わり、チームを立て直すことができず辞任(後に事実上解任されていたことが明らかになった)。
2005年には東京ヴェルディ1969のヘッドコーチに就任したが、オズワルド・アルディレス監督が成績不振(前半戦終了次点で17位と低迷)の責任を取って7月19日に解任されたことを受け、3試合ではあるが急遽監督代行に就任した。親善試合では、スター選手を集め、当時銀河系軍団と呼ばれていたレアル・マドリードを3-0で破った。
2006年からはJ2に降格した柏レイソルの監督に就任。「いい選手が皆出て行ってしまった」と漏らしながらも、「残った選手はサッカーに飢えている選手。彼らにいい刺激を与えてあげれば、非常にいいチームになる。」とし、さらには彼の指導を受けた山根巌、岡山一成を獲得し、崩壊しかけたチームを見事再生させる。選手からは「石さん」の愛称で親しまれ、「親父のような存在」として多大な信頼も得た。練習のミニゲーム敗戦チームの選手に一発芸をさせる「罰ゲーム」を名物にし、ファンの心をつかむ。若手の底上げを図りながらチームをまとめ、J2では突出した資金力とフランサやディエゴの力もあり、最終節の湘南ベルマーレ戦で自身初となるJ1昇格を決めた。
2007年は李忠成や菅沼実など若い選手を起用しながらも、フランサや移籍してきた古賀正紘や太田圭輔の活躍もあり、昇格組ながらシーズン前半戦は優勝争いを演じ、昇格組としては上々の8位でシーズン終了させるなど改めてその手腕が発揮された。
2008年は、一時3位となるなど好調であったが、故障による戦力の低下や外国人の起用法の迷い、中盤守備の問題により、中盤以降に失速する悪癖は改善されず、32節まで残留争いに巻き込まれた。この結果、2008年限りで柏レイソル監督を退任する(事実上の解任)こととなった。退任決定後、第88回天皇杯準優勝に導いた。
2009年からはコンサドーレ札幌の監督に就任。チームの1年でのJ1復帰を託される。
[編集] 所属クラブ
- 1973年 - 1976年 広島県立広島工業高等学校
- 1976年 - 1980年 東京農業大学
- 1980年 - 1993年 東芝サッカー部
[編集] 指導歴
- 1995年 - 1998年 NEC山形/モンテディオ山形:監督
- 1999年 - 2001年6月 大分トリニータ:監督
- 2001年7月 - 2003年 川崎フロンターレ:監督
- 2004年 - 2004年6月 清水エスパルス:ヘッドコーチ
- 2004年7月 - 2004年11月 清水エスパルス:監督
- 2005年 - 2005年7月 東京ヴェルディ1969:ヘッドコーチ
- 2005年7月 - 2005年8月 東京ヴェルディ1969:監督代行
- 2005年8月 - 2005年12月 東京ヴェルディ1969:コーチ
- 2006年 - 2008年 柏レイソル:監督
- 2009年 - 現 在 コンサドーレ札幌:監督
[編集] 監督成績
| 年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝ち点 | 順位 | チーム |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995年 | 旧JFL | - | 30 | 13 | 17 | -- | 41 | 10位 | NEC山形/モンテディオ山形 |
| 1996年 | 旧JFL | - | 30 | 16 | 14 | -- | 49 | 8位 | |
| 1997年 | 旧JFL | - | 30 | 19 | 11 | -- | 56 | 5位 | |
| 1998年 | 旧JFL | - | 30 | 22 | 8 | -- | 64 | 3位 | |
| 1999年 | J2 | - | 36 | 21 | 12 | 3 | 63 | 3位 | 大分トリニータ |
| 2000年 | J2 | - | 40 | 26 | 11 | 3 | 49 | 3位 | |
| 2001年* | J2 | - | 11* | 6 | 5 | 0 | 18 | 6位 | |
| 2001年途* | J2 | - | 24* | 12 | 11 | 1 | 37 | 7位 | 川崎フロンターレ |
| 2002年 | J2 | - | 44 | 23 | 10 | 11 | 80 | 4位 | |
| 2003年 | J2 | - | 44 | 24 | 7 | 13 | 85 | 3位 | |
| 2004年途 | J1 | 2nd | 15 | 4 | 10 | 1 | 13 | 14位 | 清水エスパルス |
| 2006年 | J2 | - | 48 | 27 | 14 | 7 | 88 | 2位 | 柏レイソル |
| 2007年 | J1 | - | 34 | 14 | 12 | 8 | 50 | 8位 | |
| 2008年 | J1 | - | 34 | 13 | 14 | 7 | 46 | 11位 | |
| 2009年 | J2 | - | コンサドーレ札幌 |
※2001年は第11節終了後に大分監督を解任、第21節から川崎監督に就任。表中の勝敗分・勝ち点数は石崎が監督だった試合の合計、順位はチームの最終順位。
[編集] 評価
J2において勝ち点差1での昇格失敗を3度重ねたことから、悲運の名将とも言われる。しかし、彼の戦術の基本は「中盤の強烈なプレッシャーで相手の良い所を消す」ことにあるとも言われており、長丁場を闘うJ2では対策された時や、リーグの終盤に疲労がたまってきて機能しなくなった際にもろく、勝負強さという面で問題があるのではと指摘する声もある。
一方で、激しい練習量で養ったスタミナと精神力を背景に、長いリーグ戦を戦い抜けるチームを作り上げる能力については目覚しい実績を残しており評価が高い。また、特にJFLやJ2の貧弱な環境においても工夫と熱意で練習環境を整備する姿勢は、関係者やサポーターからも好意的に受け止められている。大分や川崎ではフィジカルコーチを置かず、自らがトレーニングメニューを考案して、他チームから来た選手が驚くほど多くの練習を課した。この豊富な練習量はチームの根幹を形成するのには不可欠だが、時として多くの負傷者を生み、チーム戦力を低下させる危険性も持っている。
この最たる例が2006年以降の柏レイソルである。前年のJ2降格に伴う主力選手の相次ぐ移籍で崩壊状態にあった柏は、年末になって石崎を監督に招聘した。準備期間が短くチーム編成の選択肢が少ない中、石崎は古邊考功らをフィジカルコーチとしてスタッフに加えながら激しい練習でチームの再生に着手し、若手中心のメンバーをベテランが引っ張るというチームを作り上げた。序盤は首位を走るが、中盤以降なかなか勝てなくなる。しかし最終節において何とか2位に入り、昇格を決める。復帰した2007年のJ1リーグでそれまでと打って変わって上位に入るなど、石崎が退任する2008年までの柏は石崎の特徴を非常に色濃く持つチームとなった。
[編集] 「石崎組」
戦術眼に富み、人情に厚い石崎を慕う人間は多い。そこから、石崎がチームを移ると共に移籍を志願し、複数のクラブで再び石崎の指導を受ける選手も現れる。一人の映画監督の下に付く俳優や技術スタッフの参加者が固定化し、ほぼ同一の製作チームが複数の映画に携わる形態[1]に例えられ、これを「石崎組」と呼ぶ例がある。
その中には、上で述べたように選手が「石崎の下でプレーしたい」とクラブに移籍を志願して実現させる場合もある。この最も顕著な例が岡山一成である[2]。ただし、山根巌は石崎が柏監督就任時に自ら呼び寄せ、現役引退を撤回させた事を認めている、特別な存在である[3]。一方、塩川岳人は1999年に石崎と一緒に山形から大分に移り、2000年に単独で川崎に移籍したが、2001年に石崎の方が自分のいる川崎へ移ってきた経験を持つ。これは石崎の人望の深さを示すが、移籍元のクラブには選手の引き抜きという悪感情を与える場合もある。特に1999年の大分と山形の関係はこれが顕著で、同年最終節での「秋天の陽炎」の伏線となった[4]。
なお、石崎は能力や性格を知っている「石崎組」の選手をチームの掌握に上手く役立てているが[5]、これらの選手が必ずチームでレギュラーを獲得できるわけではない。岡山は柏でJ1に昇格した2007年に試合出場が減り、石崎の勧めで仙台へ移籍している[6]。
また、サッカーライターの江藤高志も「石崎組」の一員である。大分県出身の江藤は大分の取材を通じて石崎と親交を深め、石崎の川崎監督就任後は自らも取材対象の中心を川崎に移した[7]。また、石崎が柏の監督になった後、2007年には雑誌「サッカーJ+」で石崎の少年時代を題材にした連載「小説 石崎信弘物語」を執筆した[8]。
[編集] 複数のクラブで同時に在籍した選手
| 選手名 | 所属クラブ |
|---|---|
| 山根巌 | 大分(1999年-2001年途中)、川崎(2003年)、柏(2006年-2008年) |
| 茂原岳人 | 川崎(2002年-2003年)、柏(2008年) |
| 北嶋秀朗 | 清水(2004年)、柏(2006年-2008年) |
| 太田圭輔 | 清水(2004年)、柏(2007年-2008年) |
| 杉山浩太 | 清水(2004年)、柏(2008年) |
| アレックス | 川崎(2002年)、柏(2008年) |
| 塩川岳人 | 山形(1995年-1998年)、大分(1999年)、川崎(2001年途中-2003年) |
| 庄司孝 | 山形(1995年-1998年)、大分(2000年-2001年途中) |
| シジクレイ | 山形(1997年-1998年)、大分(2000年) |
| 若松大樹 | 山形(1998年)、大分(1999年-2001年途中) |
| 佐藤由紀彦 | 山形(1998年)、柏(2006年-2007年) |
| 岡山一成 | 川崎(2002年-2003年)、柏(2006年-2007年途中) |
[編集] エピソード
- 石崎とは東農大サッカー部の同期で、家族ぐるみでの付き合いも深い友人であるジュビロ磐田元監督の長澤和明が、NEC山形の監督に就任することが内定、その長澤の要請により石崎がコーチに就任することも内定していた。しかし当時8歳の長澤の長女まさみ(現在、女優)が「静岡を離れたくない」と山形への転居を嫌がったため、長澤はNEC山形監督への就任をやむなく辞退することとなった(その直後に長澤はL・リーグの鈴与清水の監督に就任。)。そのため、NEC山形は代役として石崎に監督就任を要請。ここから石崎の指導者人生が始まったのである。
- 前述のように石崎家と長澤家との関係が深いため、現在でも家族同士で食事をすることも多い。石崎が東京ヴェルディ監督(代行)時代に「(長澤)まさみちゃんと飯食ったよ」とミーティングで選手たちに話したら、非常に羨ましがられたということもあった。
- 出身地の広島弁を話し、共通語のイントネーションも広島弁のようになる点で、同郷の野球解説者達川光男と似ている。
- 自流の広島風お好み焼きが得意料理。所属クラブ内でバーベキューなどがあると必ずお好み焼きを焼いている。選手からも好評なようで、2008年には『石さんレシピ広島風お好み焼き』が日立柏サッカー場での柏主催試合で販売している[9]。
- FCバルセロナのファンで、試合のビデオをミーティングに持ち込む事がある。2001年には大分監督解任後にスペインでの研修を計画していたが、出発直前に川崎からの監督就任要請を受けて取りやめた経緯がある。
- 現役時代は短気だったが、山形を指導して怒鳴ってもその後結果がよくないと、以降は指導法を変え選手を怒鳴らない優しい監督として知られる。なお本人によれば、既に気心の知れている選手に対しては今も怒鳴るとか。
- サポーターやインターネットコミュニティではノブリンと呼ばれる。これは本人が親戚との会話で、冗談で「ノブリンと呼んで」といったのに由来する。ちなみに「ノブリン」の愛称はフォークソングデュオ「あのねのね」のメンバー・原田伸郎が自らをこう呼んでいたのを借用したとのことである。本人を直接知る選手・関係者からは石さんと呼ばれる。
- 2003年に川崎フロンターレのJ1昇格をわずか勝ち点1差で逃したため辞任したが、その後に行われた第83回天皇杯ではホームグラウンド・等々力陸上競技場で最後の試合となる2回戦(国見高校戦)終了後にサポーターの前で挨拶をした際、その終了後にグラウンド内に大量に進入したサポーターらによって胴上げをされた。2007年に柏レイソルを率いて迎えた等々力競技場での川崎戦でも、山根巌と共に拍手で迎えられるなど今でも川崎のサポーターから根強い支持を受けている。
- アナウンサー渡辺真理の大ファンである。
- 東京ヴェルディのコーチを解任された後、某Jリーグチームのサテライト監督の就任が決まっていた。最終交渉を夕方に控え、午前中は夫人と映画館に居た石崎の携帯に電話がかかってきた。最初は無視したもの2度目は「緊急の要件かな!?」と思った電話に出たところ柏レイソルから監督就任の電話でありこのオファーで急転、柏の監督就任が決まった。「おかげで映画の一番いいシーンは見られんかった」(本人談)[10]
- サッカー指導者の高橋真一郎(広島県立松永高等学校)や木村孝洋(広島県立広島皆実高等学校)は同い年。2008年には柏で石崎監督の下に高橋ヘッドコーチが就任した。
- 90年代初めに、それまでは赤だった東芝サッカー部のユニフォームがACミランにあやかり赤と黒の縦縞に変更となったのは彼のアイデアによるものと言われている。なお、このユニフォームはコンサドーレ札幌となった現在でも引き継がれており、クラブの歴史、伝統の象徴として札幌サポーターも大切に扱っている。奇しくも2009年からは石崎が札幌の指揮を取ることになり、その年のキックオフイベントでは「石崎が赤黒の元に帰って参りました!」とファン・サポーターに向けてコメントしている。
[編集] 脚注
- ^ 例えば、黒澤明の「黒澤組」、山田洋次の「山田組」が挙げられる。
- ^ 岡山は「石さんをJ1に昇格させて男にしたい」として、石崎退任後にJ1昇格を果たした川崎から2006年に柏へ移籍した。
- ^ 逆に山根も、2002年に大分のJ1昇格に貢献した後に移籍を志願し、2003年には石崎と共に川崎で再びJ2を戦う決断をしている。
- ^ 逆に、2001年J2最終節(第44節)では石崎監督の川崎が山形のJ1昇格を阻止した。
- ^ 清水ではかつて自分が指導した選手が不在で、成績も振るわなかった。
- ^ 当初はレンタル移籍、2008年に完全移籍。
- ^ 現在も川崎のオフィシャルマッチデープログラムやJリーグの公式ニュースサイト「J's GOAL」で川崎関連の記事を執筆している。
- ^ 同誌vol.7-11の5回、同誌の休刊に伴い終了。
- ^ 柏レイソルの公式リリース、[1]
- ^ 「Sports Graphic Number」692号より
[編集] 関連項目
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