清水エスパルス

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清水エスパルス
原語表記 清水エスパルス
愛称 エスパ
クラブカラー      オレンジ
創設年 1991年
所属リーグ 日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョン Jリーグ ディビジョン1
ホームタウン 静岡県静岡市
ホームスタジアム
Nihondaira stadium20090412.jpg
アウトソーシングスタジアム日本平
収容人数 20,299
運営法人 株式会社エスパルス
代表者 竹内康人
監督 アメリカ合衆国の旗アフシン・ゴトビ
公式サイト 公式サイト
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ
株式会社エスパルス
S-PULSE CO., LTD.
S-pluse clubhouse20080217.jpg
種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 〒424-0901
静岡県静岡市清水区三保2695-1
業種 サービス業
事業内容 サッカークラブの運営
資本金 5億5,500万円
売上高 34億8,600万円 (2011年1月期)
営業利益 ▲8,100万円 (2011年1月期)
純利益 ▲8,000万円 (2011年1月期)
決算期 1月期
主要株主 鈴与ホールディングス
外部リンク http://www.s-pulse.co.jp
特記事項:1998年2月1日、エスラップ・コミュニケーションズより営業権譲受
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清水エスパルス(しみずエスパルス、Shimizu S-Pulse)は、日本静岡県静岡市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

目次

[編集] 概要

1991年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市清水区(合併前は清水市)。ホームスタジアムは静岡市清水日本平運動公園球技場(アウトソーシングスタジアム日本平、静岡市清水区村松)。チーム発足当初は静岡県草薙総合運動場陸上競技場(静岡市駿河区聖一色)を準ホームスタジアムとしており、球団事務所も静岡市駿河区栗原にあった。練習場は三保グラウンドや静岡市清水総合運動場等を使用している。チーム名の「エス(S)」は静岡・清水・サッカーの頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する。

[編集] 歴史

[編集] Jリーグ加盟前 - 2008年まで

2008年ナビスコカップ決勝時のコレオグラフィー

1992年のJリーグカップ7月4日大阪市長居陸上競技場にてガンバ大阪と初試合。公式サイトではこの日を「エスパルスの誕生日」としている。

Jリーグ創設時からの加盟チーム「オリジナル10」のひとつである。母体チームを持たない純粋市民参加クラブとして発足した。ただし、厳密に言えば、Jリーグに加盟する前の結成当時は、地元のサッカー少年団である「清水フットボールクラブ」のOBが中心となり、静岡県出身者を中心にスカウトした社会人クラブチームの「清水FC」を結成して静岡社会人リーグに加盟していたが、このJリーグ加盟を機に清水エスパルスへと名称を変更したものである。

当初は市民やテレビ静岡(静岡市)、中日新聞東海本社浜松市)、フジテレビジョン[注 1]等が出資する株式会社エスラップ・コミュニケーションズにより運営されていたが、1997年に経営破綻。その後、鈴与をはじめとした地元企業が出資する株式会社エスパルスが1998年2月にエスラップ社より営業権を譲り受けた(詳細は後述)。

1991年5月設立の運営会社は資本金の約1割が市民の持ち株である。エスパルス発足当初は、地元出身の優れた選手達を補強し、特に堀池巧大榎克己長谷川健太の「清水東三羽烏」の地元への移籍は当時の清水サポーターを賑わせた。また、初代主将となる三浦泰年や新人選手として澤登正朗などを補強し、第1回ナビスコカップ 準優勝(1992年)を果たす。その後もナビスコカップ優勝(1996年)、J1 2ndステージ優勝(1999年)、天皇杯優勝(2001年)など、数々のタイトルを獲得した。

リーグ戦では2003年は11位、2004年は14位、2005年は終盤まで残留争いをし、15位で残留を決めるなど低迷期が続いた。低迷した主な原因として若手選手の育成に課題があった。それまで、チームはユースから大量の選手を昇格させるという方針をとってきたが、これらの選手の多くが満足に結果を残してきたとは言い難かった。そのため、スカウトの充実や、ユース選手だけでなく外部からの選手の補強を図ることで、チームの復活を目指した。その結果、2005年度にデビューした枝村匠馬兵働昭弘青山直晃ら若手選手が主力として定着し、同年の天皇杯で準優勝の成績を収める。

リーグ戦でのトリプル5(5位以内・勝ち点50以上・50得点以上)の達成を目指して迎えた2006年も新人の藤本淳吾が主力として定着し、青山直晃が日本代表に選出されるなど前年以上に若手選手が台頭。また、元日本代表の森岡隆三市川大祐伊東輝悦斉藤俊秀らも復調して開幕から上位につけ、最終的に4位でシーズンを終え、目標であったトリプル5も達成(4位・勝ち点60・得点60)。一時の低迷期からの脱却に成功、強豪復活を果たした。また、12年ぶりに年間順位でジュビロ磐田を上回った。シーズン終了後には藤本淳吾が新人王を獲得する一方で森岡隆三が出場機会を求めて移籍するなど、世代交代を象徴するシーズンであった。

[編集] 2009年

新戦力として横浜FCから太田宏介を、浦和から永井雄一郎を、名古屋からフローデ・ヨンセンを獲得し大型補強に成功。更に札幌期限付き移籍していた平岡康裕も復帰。その一方で、高木和道矢島卓郎西澤明訓といった主力が移籍した。

開幕戦の大宮戦ではスコアレスドローに終わり、リーグ開幕戦で初めて無得点に抑えられた。それでも夏場までは、引き分けが多い(28節までに11引き分け)ものの、負けないサッカーを展開。特にホームでは負けることがなく、前年から続くリーグ戦ホーム無敗記録を20まで伸ばした(ただし、その間にナビスコカップのホームゲームで山形に負けている)。この快進撃はフロントに高く評価され、9月29日には長谷川健太の来季監督続投を発表。10月3日の第28節広島戦で1対1で引き分けるも得失点差で鹿島を上回り首位に立つ。しかし、第29節の負ければJ2降格となる大分にシーズン初の逆転負けをしたのを皮切りに、第30節にはFC東京戦ではシーズン初のリーグ戦ホームでの1対2での黒星になるなど、転がり落ちるように連敗を喫し、優勝はおろかACL出場権の得られる3位以内もなくなった。第34節のホーム最終戦の名古屋戦での引き分けにより連敗は5で止まり、最終的な順位は7位に終わった。また、天皇杯は準決勝で名古屋にPK戦で敗れベスト4となった。

[編集] 2010年

2010年度天皇杯決勝時のコレオグラフィー

長谷川体制6年目となる2010年は、新戦力として千葉からボスナーを、VfLボーフムから、3年ぶりのJリーグ復帰となる小野伸二を獲得。に期限付き移籍していた杉山浩太東京Vに期限付き移籍していた廣井友信も復帰した。また、鍋田亜人夢がユースチームから3年ぶりにトップ昇格を果たした。

戦術面では、それまでのリトリートして守りを固めてから速攻するスタイルからポゼッションを高めて主導権を握り続け、攻撃的な姿勢を貫くスタイルに変更し、3トップを基本の布陣とするシステムを採用した。FWの3人は頻繁にポジションチェンジを繰り返すためセンターとウイングの役割に違いは無く、動き回ってパスを引き出すという戦術を敷いている。

第9節の浦和戦で、鹿島、磐田に続き3チーム目のJ1通算300勝を達成した。

[編集] 2011年

6年間チームを率いた長谷川健太との契約を更新せず、新監督として元イラン代表監督のアフシン・ゴトビを招聘した。

伊東輝悦市川大祐甲府へ移籍)、西部洋平湘南へ移籍)、ヨンセンに戦力外通告を行い、また、日本代表である藤本淳吾(名古屋へ移籍)、本田拓也(鹿島へ移籍)、岡崎慎司VfBシュトゥットガルトへ移籍)をはじめ、兵働昭弘へ移籍)、青山直晃横浜FMへ移籍)、や原一樹(浦和へ移籍)も他クラブへ移籍するなど、多くの主力選手が清水を退団した。

東京Vから高木俊幸、湘南から村松大輔、韓国Kリーグ水原から元日本代表の高原直泰ギリシャ・スーパーリーグイラクリスから元日本代表の小林大悟を獲得した。全国高等学校サッカー選手権大会で優勝した滝川第二高校から得点王を獲得した樋口寛規が新加入した。また、2月にオーストラリアAリーグシドニーFCからオーストラリア代表アレックス・ブロスケを獲得した。開幕戦の戦では0-3で大敗するなど、序盤戦では戦術の未熟さや守備面での不安を抱え成績も上向かなかった。その後は小野、高原などの活躍もあり、6勝4分け1敗と好調を維持し上位を伺う位置につけたものの、第6節C大阪、第19節広島、第20節新潟と続く夏場のアウェー3連戦全てを0-4で大敗し3連敗。これを受けクラブは緊急補強として、8月にオランダ北京五輪代表のDFカルフィン・ヨン・ア・ピンと元スウェーデン代表アーセナルにも所属したフレドリック・ユングベリを獲得し、立て直しを図ったが、上位に食い込むまでには至らず、逆に終盤J2降格の決まっていたアビスパ福岡に2点リードの状態から追いつかれて引き分けると、その後の残り3戦を3連敗と、守備に課題を残したまま、10位でシーズンを終了した。

また、9月にはGKコーチで、かつて清水の正GKだった真田雅則が急逝するという訃報があった。

開幕直後に発生した東日本大震災によるリーグ戦の中断期間中にはJリーグクラブで唯一海外での被災者支援のチャリティーマッチを行なう為オランダに渡り、アヤックス・アムステルダムと対戦した。この試合の入場料などの収益と約2週間の募金活動で合計約600万ユーロ(約7億2600万円)が集まり、オランダ赤十字を通して義援金として寄付されている[1]

[編集] 2012年

ゴトビ体制2年目。

永井雄一郎(横浜FCへ完全移籍)、木島悠大分へ完全移籍)に戦力外通告、山本真希が札幌へ、児玉新がC大阪へ完全移籍、岡根直哉山形へ、竹内涼北九州へ期限付き移籍、昨シーズン熊本へ期限付き移籍していた長沢駿京都へ、新潟へ期限付き移籍していた武田洋平G大阪へ期限付き移籍、熊本に期限付き移籍している廣井友信の期限付き移籍が延長された。

補強は、大分から姜成浩、甲府から吉田豊が完全移籍で加入、犬飼智也河井陽介八反田康平柏瀬暁が新加入した。

2011年シーズンの経験と反省を生かすべく、2012年は1月から始動し、同月23日から26日、2012アジアスーパーチャレンジカップに出場[2][注 2]

[編集] 成績

[編集] 開幕戦戦績

年度 対戦相手 スコア 勝敗
1993年5月16日 横浜フリューゲルス 2-3 負け
1994年3月12日 横浜フリューゲルス 1-0 勝ち
1995年3月18日 柏レイソル 3-2 Vゴール勝ち
1996年3月16日 鹿島アントラーズ 1-4 負け
1997年4月12日 柏レイソル 1-0 勝ち
1998年3月21日 コンサドーレ札幌 4-1 勝ち
1999年3月6日 ヴェルディ川崎 3-1 勝ち
2000年3月11日 セレッソ大阪 3-2 勝ち
2001年3月10日 柏レイソル 1-2 負け
2002年3月3日 ヴィッセル神戸 1-0 Vゴール勝ち
2003年3月22日 名古屋グランパスエイト 2-2 引分
2004年3月13日 サンフレッチェ広島 1-1 引分
2005年3月5日 サンフレッチェ広島 1-1 引分
2006年3月5日 ヴァンフォーレ甲府 2-0 勝ち
2007年3月3日 ヴィッセル神戸 1-0 勝ち
2008年3月8日 大分トリニータ 1-2 負け
2009年3月8日 大宮アルディージャ 0-0 引分
2010年3月6日 サンフレッチェ広島 1-1 引分
2011年3月5日 柏レイソル 0-3 負け

[編集] タイトル

[編集] 国内タイトル

[編集] 国際タイトル

[編集] 個人別

Jリーグ
ヤマザキナビスコカップ
アジアカップウィナーズカップ
  • 最優秀選手 (MVP)
    • 2000年 アレックス

[編集] その他受賞

  • 功労選手賞
    • 2002年 カルロス・サントス
    • 2006年 澤登正朗
  • フェアプレー特別賞
    • 1998年
  • フェアプレー賞 高円宮杯
    • 2008年
  • エスパルス栄誉賞 (1999年に制定)
    • 1999年 スティーブ・ペリマン、長谷川健太、堀池巧
    • 2000年 カルロス・サントス
    • 2002年 大榎克己
    • 2005年 真田雅則
    • 2006年 澤登正朗
    • 2010年 伊東輝悦、市川大祐

[編集] クラブ記録

[編集] 連勝記録

  • リーグ戦
    • 9試合 【1993年7月31日 NICOS第2節 対広島 - 1993年11月6日 NICOS第10節 対広島】
    • 9試合 【1994年3月26日 サントリー第5節 対V川崎 - 1994年4月30日 サントリー第13節 対平塚】

[編集] 連敗記録

  • リーグ戦
    • 7試合 【1996年5月4日 第12節 対浦和 - 1996年9月7日 第18節 対V川崎】

[編集] 連続無敗記録

  • リーグ戦
    • 13試合 【2009年7月4日 第16節 対京都 - 2009年10月3日 第28節 対広島】
  • リーグ戦ホーム
    • 22試合 【2008年7月20日 第18節 対新潟 - 2009年10月3日 第28節 対広島】

[編集] 連続未勝利記録

  • リーグ戦
    • 8試合 【2004年11月23日 2nd第14節 対C大阪 - 2005年4月16日 第6節 対大分】
    • 8試合 【2009年10月3日 第28節 対広島 - 2010年3月6日 第1節 対広島】

[編集] 最多得点記録

  • リーグ戦
    • 6-0 【1998年9月12日 2nd第4節 対福岡】
    • 6-3 【2001年10月13日 2nd第8節 対神戸】
    • 6-3 【2010年8月1日 第16節 対湘南】

[編集] 最多失点記録

  • リーグ戦
    • 1-6 【1995年6月24日 サントリー第19節 対横浜F】

[編集] 連続得点記録

  • リーグ戦
    • 21試合 【2009年5月5日 第10節 対千葉 - 2009年10月25日 第30節 対FC東京】

[編集] 連続失点記録

  • リーグ戦
    • 16試合 【2005年7月13日 第16節 対FC東京 - 2005年11月20日 第31節 対柏】

[編集] 連続無失点記録

  • リーグ戦
    • 6試合 【1993年8月4日 NICOS第3節 対横浜M - 1993年8月28日 NICOS第8節 対V川崎】 (J1リーグ記録)

[編集] 個人記録

[編集] リーグ戦通算出場記録

※2010年11月23日現在。他チームでの出場も含む。
※現在清水に所属中、もしくは、引退時に清水に所属していた選手のみ記載。

[編集] リーグ戦シーズン最多得点

[編集] リーグ戦通算最多得点

  • 85得点 - 澤登正朗

[編集] リーグ戦無失点記録

[編集] リーグ戦記念ゴール

  • 7500得点目 - 久保山由清 【2001年11月3日 2nd第12節 対市原】
  • 15000得点目 - 辻尾真二 【2011年5月22日 第12節 対大宮】

奇しくも、背番号15を着けた2選手が記念ゴールを決めている。

[編集] ハットトリック

[編集] 観客動員記録

[編集] 年度別観客動員記録

年度 合計
動員数
最多
動員数
最少
動員数
平均
動員数
ホーム
試合数
備考
1993 332,312 51,825 8,699 18,462 18
1994 433,981 52,218 9,652 19,726 22 第2ステージは日本平改修工事で使用できず
暫定的に草薙陸上競技場を本拠地とした
1995 513,425 43,502 12,611 19,747 26 日本平改修完成 (3月)
1996 194,432 21,931 7,348 12,962 15
1997 158,208 17,756 6,177 9,888 16
1998 209,061 19,544 9,314 12,298 17
1999 193,246 20,059 8,237 12,883 15 初のステージ優勝
2000 186,336 19,539 7,356 12,422 15
2001 239,596 52,959 6,375 15,973 15
2002 224,443 19,763 11,258 14,963 15
2003 244,264 33,679 10,445 16,284 15
2004 203,521 39,120 8,230 13,568 15
2005 216,784 21,730 7,280 12,752 17
2006 243,137 24,920 9,079 14,302 17
2007 271,180 20,318 11,460 15,952 17 アストロビジョンの設置
2008 282,190 20,330 13,855 16,599 17
2009 304,900 30,851 9,756 17,935 17 ネーミングライツの導入
2010 306,017 38,851 7,117 18,001 17 バックスタンドにエレベーター設置
4,757,033 15,546 306

[編集] エピソード

[編集] ヤマハ発動機サッカー部との統合案

Jリーグ創設期の1991年、静岡県では本田技研工業サッカー部(本拠地・浜松市/当時日本サッカーリーグ(JSL)1部)が、Jリーグへの参加を早々と見送ったことにより、ヤマハ発動機サッカー部(本拠地・磐田市/当時JSL1部/現・ジュビロ磐田)と、清水FC(本拠地・旧清水市/現・エスパルス)の2チームが、Jリーグの初年度参加資格を争うことになった。

ヤマハ発動機サッカー部は、JSL1部で無敗優勝を成し遂げる等、豊富な資金力や高い実績・ノウハウを持っていた。これに対し、清水FCは発足したばかりであったことから資金も実績も乏しく、当時は非常に不利な状況に置かれていた。しかし、ヤマハ発動機サッカー部が本拠地とする磐田市には、Jリーグの基準を満たす高規格のスタジアムが存在しなかった。故に同サッカー部は、非公式で隣接する大都市の浜松市を本拠地化する方向で動いた。だが、浜松市内にはヤマハ発動機のライバル企業である、本田技研工業やスズキの本社等がある為、地元行政は中立公平の立場から「特定の企業のために公共施設を改修・建設はできない」とする頑な姿勢を示し、ヤマハ発動機側は浜松本拠地化構想を断念した。

その頃、清水FC側は内外に向け、清水市がサッカーの町であることを積極的にアピールし、当時Jリーグ理事長であった川淵三郎の理解を得た。しかし川淵は、実業団でクラブ運営の経験がない清水FCに対して、現実的な不安を拭いきれず、「静岡県に2つのプロクラブが並存することは時期尚早」という論理付けの下、ヤマハ発動機サッカー部と清水FCを統合し、清水市を本拠地とすることを両クラブ関係者に提案した。しかし、この提案はヤマハ発動機サッカー部には到底受け入れることができないものであった。その理由は、ヤマハ発動機サッカー部が本拠地とする磐田市は浜松市を中心とした県西部で、清水FCが本拠地とする旧清水市は静岡市を中心とした県中部であり、静岡県は面積が広く、常日頃、東部・中部・西部を分けて考えることが多く、時にはライバル視することもある、また文化圏・地域経済圏も東京寄り(志向)の中部・東部と、名古屋寄り(志向)の西部とで異なっていたからである。故に、ヤマハ発動機側にとって川淵の提案は、資金やノウハウを清水FC側に無償提供するだけで、地元には大きなメリットは見込めないものに映った。

このような経緯から、企業の論理を嫌う川淵は、「市民クラブ」の理念の下で発足した清水FCに初年度参加資格を与えた。一方、落選したヤマハ発動機サッカー部は、主力選手が次々と他チームに引き抜かれる最悪の状況に追い込まれ、一時期は社内会議で解散まで議論した。しかし、この際に現場関係者や支援者がチームの存続を強く訴え、社有地の東山グラウンド(磐田市)を改修して自社スタジアムを建設し、一年遅れでJリーグへ加入することとなった。

[編集] 経営危機とクラブ再生

他チームのように経営母体を持たない市民クラブとして誕生した清水エスパルスだったが、1997年、運営会社エスラップ・コミュニケーションズが経営破綻、クラブ消滅の危機に陥る」[公式 1] 。しかし、多くの市民、サポーターがクラブ存続の署名活動や募金活動を実施して[公式 1]署名は30万人を超えたほどである[要出典]。また、その声に応えるように地元企業の鈴与等が資金援助を行った結果存続危機を乗り切り、翌1998年「株式会社エスパルス」が新たに設立された[公式 1]。なおクラブ消滅の危機に陥った際、アルディレス監督が率先垂範して契約更新を行い主力選手の他クラブへの流出を防いだことも知られている。

[編集] 日本代表選手

FIFAワールドカップ日本代表
オリンピック日本代表
  • 1996年アトランタオリンピックで、清水からの選出人数3人は、横浜マリノス(当時)、ジュビロ磐田サンフレッチェ広島と並び、最多タイである。
  • 1996年アトランタオリンピックのグループリーグ初戦のブラジル戦で、伊東が決勝ゴールをあげた(マイアミの奇跡)。
  • 2000年シドニーオリンピックでは、市川大祐と戸田和幸が予備登録メンバーに残っている。
  • 2008年北京オリンピックで、清水からの選出人数3人は全クラブ中で最も多い。また、本大会出場は叶わなかったが、枝村匠馬が予備登録メンバーに残り、青山直晃がバックアップメンバーとして選出されている。岩下敬輔平岡康裕武田洋平なども代表合宿に招集を受けていた。
U-20W杯日本代表
  • 1999年のナイジェリア大会では、市川大祐が大会直前で疾病にかかり、本登録メンバーから外れている。
  • 2005年オランダ大会で、山本真希が飛び級ながら最終候補まで残った。
  • 2007年カナダ大会の予選を兼ねた2006年のAFCユース選手権には、山本真希が10番を背負い出場している。
U-17W杯日本代表

[編集] キャッチフレーズ

新生エスパルスとなった1998年より毎年チームのテーマを掲げたキャッチフレーズが用いられるようになった[公式 2]

1998年 「Break Through」[公式 3]
選手一人ひとりが、そしてチームが立ちふさがる壁を「突破」し、栄光に向かって「突き進んでいく」。
1999年 「dream stadium 1999」[公式 4]
観る者を魅了し、夢と感動をみんなで共有できるような空間・スタジアムを創造。
2000年 「big mission 2000」[公式 5]
前年、2ndステージ優勝という結果を出したエスパルス。チームがさらなる成長を遂げることで、サポーターに大きな夢と感動を提供できる、それが2000年のエスパルスに与えられた使命(mission)である。
2001年 「Dynamic Soccer 2001」[公式 6]
Dynamic Soccerで相手を圧倒する。攻守の切り替えが速い、攻撃的なサッカーを目指す。次なる目標であるリーグ優勝を目指してチーム、サポーターとが一丸となって闘う。
2002年 「Orange Fantasia 2002」[公式 7]
オレンジの選手・サポーターたちが、ともにフェアで華麗なプレーを繰り広げ、夢舞台(Fantasia)を創りあげる。
2003年 「EXCITING FIELD 2003」[公式 8]
2003年新静岡市誕生という記念すべきシーズンをチームと市民とで興奮と感動を分かち合う為、最後まで激しく戦い続けることを誓う。HOME TOWNが歓喜の声に包まれる新たな歴史のスタートとする。
2004年 「HARD & ATTACK 2004」[公式 9]
ハードなトレーニングで極限まで身体能力を高め、精神を研ぎ澄まし妥協なき攻撃的サッカーを展開。「HARD & ATTACK」を標榜し、サポーターを魅了する「戦闘集団」へと生まれ変わる。
2005年 「2005 かける想い」[公式 10]
クラブ、チームのアイデンティティーを見つめ直し、「エスパルス」に“懸ける”想いとプライドを強く再確認、そして今シーズンに“賭ける”気持ちを、ピッチの中を勇敢に“翔ける”ことで表現し、チームの再生を目指す。サポーターへ熱いメッセージを伝えるべく、クラブとサポーター・ホームタウンとをつなぐ確かな橋を“架ける”ことを使命として取り組んでいく。
2006年 「かける想い S-PULSE 2006」[公式 11]
「エスパルス」に懸ける想いとプライドを強く再確認し、ピッチを勇敢に翔けることで勝負に賭ける熱い気持ちをサポーターに伝えるとともに、クラブとサポーター・ホームタウンとをつなぐ確かな橋を架けることを使命として取り組んでいく。昨季、長谷川健太監督就任の際にクラブ一丸となって掲げた「かける想い」を2年に渡って継承し、さらなる飛躍を遂げる。
2007年 「かける想い S-PULSE 2007」[公式 12]
「かける想い」を掲げ着実な成長を遂げてきた2シーズンを経て、3年目となる2007シーズンではさらなる高み(NEXT STAGE)への飛躍を遂げる。
2008年 「WE BELIEVE 2008」[公式 13]
共に戦ってきたサポーター、チームメイト、積み上げた努力、幾度となく流した涙、そして自分自身。その全てを信じ、いよいよ歓喜のときを迎えるべく、すべての人と、地域とエスパルスが一体とならなければならない。一人ひとりの信じる力が大きな後押し。どんなに困難な状況でも最後まで諦めることなく、己を信じて戦い抜く。
2009年 「WE BELIEVE 2009」[公式 14]
共に戦ってきたサポーター、チームメイトの存在。積み上げた努力、幾度となく流した涙。そして、自分自身。その全てを信じ、いよいよ歓喜のときを迎えるべく、すべての人と、地域とエスパルスが一体とならなければならない。一人ひとりの信じる力が大きな後押し。どんなに困難な状況でも最後まで諦めることなく、己を信じて戦い抜くことを誓う。
2010年 「THE CONFIDENCE」[公式 15]
2009シーズンはリーグ戦で10年ぶりの首位に立ったが、最終的には7位。ナビスコカップ、天皇杯はともにベスト4。「あと少し」と言われるものの、タイトルに手が届きそうで届かない現実。あの試合、あの場面で何が足りなかったのか。『勝者』となるために必要なことは何なのか。自らを信じ、仲間を信じて、サポーターと共に頂点を目指して戦いに挑む。
2011年 「Spirit Up!」
それは、選手たちにとっては「魂を吹き込む」という意味。そして、彼らを支えるサポーターにとっては「元気づける」「鼓舞する」ための言葉。今シーズン、新しい監督、新しい仲間を得て、それぞれの想いをさらに強くし、一丸となってエスパルスたる魂を呼び覚ますために。或いは彼らを信じ、鼓舞し続ける強い絆をチームの力とするために。
2012年 「「一」One Team,One Mission.」
それは、すべての始まり、すべての根源。そして同時に、最高位を意味するもの。クラブ創設から20年。2012年、エスパルスが掲げるのは「一」の一文字。監督、選手、スタッフ、サポーターともに、一念のもと、一心に、ただ一つの目標を掴み取り、新しい歴史の一ページを拓くために。あるのは、誇り高き一つのチームと、一つの使命のみ。One Team,One Mission.エスパルスは、2012年、最上の輝きへ。一意専心、至高の闘いを誓う

[編集] ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) オレンジ オレンジ オレンジ
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
GK(3rd) グレー グレー
FP 1st
FP 2nd
GK 1st
GK 2nd
GK 3rd

[編集] チームカラー

  •      「エスパルスオレンジ」(鮮やかなオレンジ色)
    • チームのホームタウンである静岡県が日本でも有数のミカンの生産地であり、また喜び・希望・若さ・前進・元気などをイメージさせる色であることがチームを象徴するにふさわしいとして定められた。
      • 当初は清水市(現:静岡市清水区)が港を中心として発展してきた街であることや、市内のサッカー強豪高校が青系統のユニフォームを使用していることなどから市民には青が馴染みのある色であったため青系のチームカラーが検討されていた。しかしJリーグ創設時の10チームの中に青系統をチームカラーにしたクラブが既に多数(横浜マリノス、横浜フリューゲルス、ガンバ大阪)あったことから差別化を図ることや各クラブ間の色のバランスをとるために「オレンジ」となった。

[編集] ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
鈴与 Suzuyo 2006年 - 2003年途中 - 2004年までは袖
背中 江崎グリコ glico 1992年 -
アウトソーシング アウトソーシング! 2011年 -
パンツ 日本航空インターナショナル JAL 2011年 - 1992年 - 2005年は胸、2006年 - 2010年は袖
2011年4月導入の「新鶴丸マーク」ではなく旧ロゴを使用

[編集] ユニフォームサプライの遍歴

  • 1992年 - 1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はプーマ
  • 1997年 - 2012年(予定) リーグ戦・カップ戦ともプーマ
  • 尚、2011年現存の1リーグ時代から参加したチームの内、チーム創設以来ユニフォームサプライヤーを変更していないのは清水と磐田のみ。

 (リーグスタート時、全チーム共通で着用したミズノを除く)

[編集] 歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992 JAL HONEN glico PUMA
1993 Mizuno/PUMA
1994
1995
1996
1997 PUMA
1998
1999
2000
2001
2002 豊年
2003 豊年/Suzuyo
2004 Suzuyo
2005 star☆ THE 3RD PLANET
2006 Suzuyo JAL
2007 CRS
2008 SAN-AI
2009
2010
2011 アウトソーシング! JAL

日本航空の胸ロゴは日本でのユニフォーム広告の先駆けであった。かつてはどこのクラブも胸にはクラブ名が入ったユニフォームを着用していたが、当時日本航空の社員が欧州サッカークラブの胸スポンサーを見て、市民球団で特定の企業イメージが無かった清水に、ユニフォーム胸部分にJALのロゴを入れるよう働きかけたのがはじまりであった。スポンサーロゴによる広告収入が魅力的であることから、その後他クラブも導入するようになった。

2010年1月19日にJALが会社更生法を申請して経営再建に入ったため、スポンサーを継続することが困難となったが、チーム創設以来継続して支援を行っていた事に敬意を表し、2010年以降も無償で広告を提供することとなった。

JALの広告の下に描かれていた世界地図(中世の世界地図がモチーフ)が清水のユニフォームのトレードマークでもあったが2007年にユニフォームサプライヤーのプーマの世界戦略モデルユニフォーム導入にともない一時消滅するも、2012年シーズンより復活することが決定している[4] 。

江崎グリコも初年度からスポンサーを務め、サポーターが歌うチャントの中には、グリコ商品のCMソングを元にしたものがある。

[編集] スポンサー

[編集] 出資会社

[編集] マスコットキャラクター

エスパルスとサポーターを結ぶ掛け橋となるように願い、「友達(パル)」の語源よりとり、名づけられた。サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクターとして誕生した。また耳の羽は現代版羽衣。フィールドを素早く飛び回る、選手の姿を象徴しデザインされている。

  • パルちゃん - マスコットキャラクターとしては当代随一のエンターテイナーとして絶大な人気を誇り、本拠地での試合前のショーは名物となっている。背番号0。
  • こパルちゃん -「小っちゃなパルちゃん=小パルちゃん」。背番号12。2匹いる。パルちゃんの子供ではない。

[編集] サポーターの特徴

[編集] 応援スタイル

サポーターによる応援では多くの楽器を用いてサンバを踊るなど、応援に関してはJリーグクラブの中でもかなり特徴的な応援である。静岡県は在日ブラジル人の比率が高く[注 3]、さらにサッカー少年団の遠征などでブラジルとの交流が深かったため、ブラジルの文化であるサンバが受け入れられやすい環境にあった上、エスパルスの発足当時は監督・コーチ・外国人選手もブラジル人が多かった[注 4]事もあり、エスパルスではサンバ応援が定着し、その後も継承された。なお、Jリーグの発足直後はヴェルディ川崎横浜フリューゲルスでもサンバ隊による応援が行われていたが、横浜Fのサポーター有志が中心となって作られた横浜FCを最後に他のクラブではサンバによる応援が姿を消したため、Jリーグではサンバはエスパルス独特のものとなった。

2011年からはサンバ応援の「エスパルスサンバ隊」がブログとツイッターを開始し、試合での活動やサンバ練習の予定などを公表している。一方、全てポルトガル語で歌われるサンバとは別に、日本語の歌詞が付いた応援歌やチャントも作られている。

また、日本平で試合に勝利すると公式応援歌「王者の旗」が流されるが(下記参照)、2008年からはサポーターが応援の一種であるロコロコ(通称:勝ちロコ。原曲はブラジルのサンパウロFCのサポーター“INDEPENDENTE”が歌っている)が踊るようになり、2009年以降選手・サポーター・ORANGE WAVE・パルちゃん含めて皆で踊るようになった。

[編集] 公式応援歌

「王者の旗」

  • 作詞:一般公募作品
  • 作曲:林哲司
  • 2000年8月30日制定

ホームゲームでエスパルスが勝利した試合の後、場内に流され、サポーターが合唱する。CDでは高井治が歌っている。

また、サポーターズソングとしてribbonが歌う「"S"ENSATIONAL WIND」が存在していた。

[編集] 関連施設

  • エスパルスドリームフィールド (フットサル施設)
    • エスパルスドリームフィールド清水
    • エスパルスドリームフィールド静岡
    • エスパルスドリームフィールド富士
    • エスパルスドリームフィールド藤枝
    • エスパルスドリームフィールド駿東
  • エスパルスドリームハウス (オフィシャルショップ)
    • エスパルスドリームハウス清水
    • エスパルスドリームハウス静岡葵
    • エスパルスドリームハウス静岡駿河(エスパルスドリームフィールド静岡併設)
    • エスパルスドリームハウス駿東 (エスパルスドリームフィールド駿東併設)
    • エスパルスドリームハウス藤枝 (エスパルスドリームフィールド藤枝併設)
    • エスパルスドリームハウス富士 (エスパルスドリームフィールド富士併設)
    • エスパルスドリームハウス静岡駅 (静岡駅ビルパルシェ内)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

注釈
  1. ^ フジテレビジョンが資本参加していたことからJリーグ創設当初の数年間国立霞ヶ丘陸上競技場でも主催試合を一部行っていた。2006年鹿島アントラーズとの対戦でも使われた。
  2. ^ 2012アジアスーパーチャレンジカップは、香港香港スタジアム)で開催の東アジアのクラブによるトーナメント戦。1回戦は清水エスパルス(日本)とサウス・チャイナ(香港)、広州富力中国)と城南一和韓国)がそれぞれ12月23日に対戦し、その結果のもと、1月26日に決勝戦と3位決定戦を行う[3]
  3. ^ 近年は日系ブラジル人の減少が指摘されているが、2009年でも静岡県には約4万2千人の在日ブラジル人がいるとされる。これは静岡県全体の人口の約1.1%に当たり、日本全体(約0.2%)の5倍を超える比率となる。ただし、その居住者は静岡市よりも県西部の浜松市などに多いともされる。「在日ブラジル人」の項目も参照。
  4. ^ 当時エスパルスの選手だった向島建の回想によると、三浦泰年・知良兄弟の伯父である納谷聖司(当時の私設応援団「シャペウラランジャ」代表)がブラジルからプロのサンバ隊を清水に招き、日本人にサンバの基本を教えたとされる。出典:川崎フロンターレ公式サイト「TATSURU'S CHECK」2004年9月16日付 「サポーターの存在」
出典
  1. ^ 清水がオランダで慈善試合 義援金は約7億円 スポーツナビ 2011年4月14日
  2. ^  スポニチ Sponichi Annex (2012年1月25日 13:34). “清水新オプションは“4トップ” 高原「成熟させたい」”. 2012年1月25日閲覧。
  3. ^  静岡新聞 SBS (2011年12月22日 07:54). “エスパルス - 1月に香港の大会に参加”. 2012年1月25日閲覧。
  4. ^ 清水6年ぶり「地図柄」復活 クラブW杯出場見据え - スポーツニッポン、2011年11月18日
  1. ^ a b c  清水エスパルス (1998年1月). “1997 忘れえぬ静岡ダービー”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  2. ^  清水エスパルス 公式WEBサイト (2012年1月25日 13:34). “HISTORY”. CLUB. 2012年1月25日閲覧。
  3. ^  清水エスパルス (1999年1月). “1998 日本から世界へ”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  4. ^  清水エスパルス (2000年1月). “1999 7年目の証明”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  5. ^  清水エスパルス (2001年1月). “2000 築かれた次世代の礎”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  6. ^  清水エスパルス (2002年1月). “2001 チームに蓄積された経験の結実”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  7. ^  清水エスパルス (2003年1月). “2002 天皇杯制覇、そしてW杯”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  8. ^  清水エスパルス (2004年1月). “2003 得意のサイド攻撃爆発せず不完全燃焼の1年に”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  9. ^  清水エスパルス (2005年1月). “2004 避けて通れなかった分岐点”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  10. ^  清水エスパルス (2006年1月). “2005 青年監督の見つめる先、そしてミスターエスパルスの引退”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  11. ^  清水エスパルス (2007年1月). “2006 苦難を乗り越え迎えた収穫のとき”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  12. ^  清水エスパルス (2008年1月). “2007 上位で戦い続ける自信”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  13. ^  清水エスパルス (2009年1月). “2008 不振と悔しさから這い出し、手にした強さ”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  14. ^  清水エスパルス (2010年1月). “2009 頂上まであと少し、手応えを感じた1年”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。
  15. ^  清水エスパルス (2011年1月). “2010 長谷川エスパルス最終年 またもタイトルにあと一歩届かず”. HISTORY. 2012年1月25日閲覧。

[編集] 外部リンク

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