伊東輝悦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 伊東 輝悦 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | テル、テルドーナ→テルレレ | |
| カタカナ | イトウ テルヨシ | |
| ラテン文字 | ITO Teruyoshi | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1974年8月31日(34歳) | |
| 出身地 | 静岡県静岡市清水区 | |
| 身長 | 168cm | |
| 体重 | 70kg | |
| 血液型 | B型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | ||
| ポジション | MF(ボランチ) | |
| 背番号 | 7 | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1993-現 在 | 清水エスパルス | 437 (29) |
| 代表歴 | ||
| 1997-2001 | 27 (0) | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月8日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||
伊東 輝悦(いとう てるよし、1974年8月31日 - ) は静岡県清水市(現静岡市清水区)出身のプロサッカー選手。現在のJ1最多出場記録保持者(現役)。Jリーグ・清水エスパルス所属。
目次 |
[編集] プレースタイル
ずんぐりとした体型と重心の低いドリブルフォームから、マラドーナに擬えてテルドーナの異名を持っている。
ポジションはボランチ。元々は、守備的なボランチ(アトランタ五輪代表当時は広長優志、服部年宏)と組んで攻撃的な役割を担う事が多かったが、現在では攻撃的なボランチ(枝村匠馬など)と組み守備的な役割を担う事が多く、そのプレーぶりはマケレレにちなみ「テルレレ」と呼ばれることもある。センターバックの前で危険なスペースを消すカバーリングには定評がある。アトランタ五輪代表では、監督の西野朗から影のエース(表のエースは前園真聖)と呼ばれ、絶大な信頼を受けていた。トルシエ日本代表監督は伊東を「日本のデシャン」と評した。
また、ディフェンシブなポジションであるにも関わらず被警告数が極端に少ないフェアプレーも特徴である。本人曰く「ファウルで(相手を)止めるのは簡単だが、それでは成長がない」。体格的に恵まれないため、力ではなく相手の先を読みボールを奪う技術に優れ、奪った後のボールが味方へのパスになるようプレーをしている[1]。
[編集] 経歴
[編集] プロ入り前のプレー
小学生時代から多くのサッカー関係者に注目されていたが、当時は小柄なMFではなく長身FWだった。
東海大学第一高校時代は、後のアトランタオリンピック代表となる選手がチームメイトに他に3人居たが、地元開催で2枠の出場があったインターハイの準優勝のみが目立った成績となった(ちなみに決勝戦の相手は清水東で斉藤俊秀が所属していた)。 高校卒業後1993年に地元清水エスパルスに入団する。
[編集] Jリーグでのプレー
プロ3年目の1995年から頭角をあらわす。同年11月8日の鹿島アントラーズ戦(日本平スタジアム)にて、相手を3人抜き去って決めたゴールは語り草となっている。
1999年にスティーブ・ペリマン監督の下、Jリーグセカンドステージ優勝を果たしその年のベストイレブンに選出されるが、アタッキングゾーンでのプレーを求められなかったため、このころから攻撃的なプレーが少なくなる。2005年シーズン終盤から、攻撃的なボランチ枝村匠馬と組むことによりバイタルエリアを一人でカバーしている。
2007年11月11日のサンフレッチェ広島戦(日本平)にて、藤田俊哉に続いて史上2人目のJ1通算400試合出場を達成した(同一クラブ所属では史上初の快挙)。2008年5月11日の鹿島戦(日本平)ではJリーグ通算最多出場となる415試合出場を達成、2009年6月27日のFC東京戦(国立)にて、J1史上初となる450試合出場を達成した。
[編集] 日本代表としてのプレー
1996年のアトランタオリンピックに出場。初戦のブラジル戦で決勝ゴールを決めマイアミの奇跡の立役者となる。3戦目のハンガリー戦でも前園真聖の決勝ゴールをアシストした。
1998年のフランスW杯のメンバーにも岡田武史監督の下、選出されたが、試合に出場することはできなかった。
フランスW杯後に就任したフィリップ・トルシエ監督の下では運動量と守備的意識を買われ、ついにレギュラーの座を獲得する。トルシエ時代にはボランチ以外に右ウイングバックとして起用されることも多かった。2000年のカールスバーグカップ・メキシコ戦では初のゲームキャプテンを任せられるなど、トルシエ監督からは絶大な信頼を得る。しかし2002年の日韓W杯メンバーには、負傷から復帰した直後のタイミングとなってしまい選出されなかった。
[編集] 趣味
パチンコと登山が趣味。シーズンオフには登山のために海外を訪れるほどの山好きで、静岡朝日テレビ『スポーツパラダイス』の企画で雪山登山をした際には、今まで清水のチームメイトにすら見せたことがないという笑顔で楽しむ光景が放映された。その様子をゲストとしてスタジオで見ていた西澤明訓は「パチンコしてるときよりもいい顔をしている。」と評した。
[編集] 所属クラブ
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1993 | 清水 | - | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 3 | 1 |
| 1994 | 清水 | - | J | 6 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 |
| 1995 | 清水 | - | J | 44 | 4 | - | 1 | 0 | 45 | 4 | |
| 1996 | 清水 | - | J | 26 | 4 | 7 | 1 | 3 | 0 | 36 | 5 |
| 1997 | 清水 | 7 | J | 31 | 7 | 6 | 1 | 3 | 1 | 40 | 9 |
| 1998 | 清水 | 7 | J | 34 | 5 | 1 | 0 | 5 | 0 | 40 | 5 |
| 1999 | 清水 | 7 | J1 | 29 | 1 | 4 | 1 | 3 | 0 | 36 | 2 |
| 2000 | 清水 | 7 | J1 | 24 | 1 | 4 | 0 | 5 | 1 | 33 | 2 |
| 2001 | 清水 | 7 | J1 | 27 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 30 | 1 |
| 2002 | 清水 | 7 | J1 | 22 | 0 | 2 | 0 | 3 | 0 | 27 | 0 |
| 2003 | 清水 | 7 | J1 | 30 | 2 | 4 | 0 | 4 | 0 | 38 | 2 |
| 2004 | 清水 | 7 | J1 | 30 | 1 | 7 | 0 | 1 | 0 | 38 | 1 |
| 2005 | 清水 | 7 | J1 | 32 | 0 | 5 | 0 | 5 | 0 | 42 | 0 |
| 2006 | 清水 | 7 | J1 | 34 | 2 | 5 | 0 | 3 | 0 | 42 | 2 |
| 2007 | 清水 | 7 | J1 | 34 | 1 | 2 | 0 | 3 | 0 | 39 | 1 |
| 2008 | 清水 | 7 | J1 | 34 | 0 | 9 | 0 | 2 | 0 | 45 | 0 |
| 2009 | 清水 | 7 | J1 | ||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 437 | 29 | 59 | 3 | 45 | 3 | 541 | 35 | |
| 総通算 | 437 | 29 | 59 | 3 | 45 | 3 | 541 | 35 | |||
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| AFC | ACL | |||
| 2002-03 | 清水 | 7 | 3 | 0 |
| 通算 | AFC | 3 | 0 | |
[編集] 個人タイトル
[編集] 代表歴
[編集] 出場大会など
- 1996年 アトランタオリンピック
- 1998年 ワールドカップ フランス大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 27試合 0得点(1997-2001)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1997 | 1 | 0 |
| 1998 | 1 | 0 |
| 1999 | 7 | 0 |
| 2000 | 7 | 0 |
| 2001 | 11 | 0 |
| 通算 | 27 | 0 |
[編集] 関連項目
- マイアミの奇跡(1996年 アトランタオリンピック)
- 清水エスパルスの選手一覧
[編集] 脚注
|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||

