佐藤寿人

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佐藤 寿人 Football pictogram.svg
名前
愛称 ヒサト
カタカナ サトウ ヒサト
ラテン文字 SATO Hisato
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1982年3月12日(29歳)
出身地 埼玉県
身長 170cm
体重 69kg
選手情報
在籍チーム サンフレッチェ広島
ポジション FW
背番号 11
利き足 左足
ユースクラブ1
クラブ

1994-1996
1997-1999
春日部大増サンライズ
ジェフユナイテッド市原ジュニアユース
ジェフユナイテッド市原ユース
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
2000-2001
2002-2003
2003-2004
2005-
ジェフ市原
セレッソ大阪
ベガルタ仙台
サンフレッチェ広島
022 (2)
013 (2)
074 (29)
0233 (112)
代表歴 2
2006- 日本の旗 日本 031 (4)
1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月5日現在。
2. 2010年2月14日現在。
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佐藤 寿人(さとう ひさと、1982年3月12日 - )は、日本プロサッカー選手埼玉県春日部市出身。Jリーグサンフレッチェ広島所属。ポジションフォワード千葉県立市川南高等学校卒業

元日本代表MFの佐藤勇人二卵性双生児の実兄であり、森崎和幸/森崎浩司兄弟と共にJリーグ史上初の双子選手[1]

目次

[編集] 人物

プレースタイル

瞬間的なスピードに長け、ディフェンスラインの一瞬の隙をついて裏に抜け出し、ワンタッチでゴールを決める、ストライカータイプのフォワード。ルーズボールや裏に出されたパスへの嗅覚もさることながら、ポジショニングの上手さで相手ディフェンダーとの駆け引きに打ち勝って供給されるクロスボールをゴールに結びつける実力は日本人随一とも言われる[注 1][注 2][注 3][2][3][4]

Jリーグでは、ジュニーニョに次ぐ史上2人目で日本人では初である、8年連続2ケタ得点[注 4]を達成している。

このスタイルに加え、最近ではポストプレイもこなすようになり、チームでは1トップのセンターフォワードとして起用されることもある。前線からの献身的な守備[3]に加え、サイドに開きチャンスメイクも行う。日本代表ではアウトサイドで起用されることが多い。[4]

性格

真面目で、人の悪口を言わない、誰に対しても優しい性格[5]。また、非常に礼儀正しく、常にクラブやサポーターへの感謝の心を忘れず、現所属の広島だけでなく、過去に所属した千葉、C大阪、仙台への感謝の念もしばしば口にする。

尊敬する選手はフィリッポ・インザーギ[注 5]。そのプレースタイルもインザーギを模範としている。

家族

実兄は佐藤勇人。21歳で結婚、現在は2人の子を持つ父親でもある[1]。また好きで、ピッポ、ゴン、ムサシという3匹の犬を飼っている。ピッポはインザーギの愛称から、ゴンはインザーギと同じく尊敬するFWである中山雅史、ムサシは好きな漫画である『バガボンド』の主人公、宮本武蔵からの命名。ちなみに千葉の実家、兄の勇人も犬を飼っている。

[編集] 来歴

ユース時代

中学世代からより高いレベルで指導を受けるため、兄弟揃ってジェフユナイテッド市原ジュニアユースに入団する[注 6][6]。実家は春日部市でラーメン屋を営業していたが、これに伴い店を畳み、家族そろって千葉県八千代市に引っ越してきた[6]

その後、ジェフ千葉ユースに昇格、河内勝幸率いるU-16日本代表に選ばれ、U-16アジアユースに出場、レギュラーとして飯尾一慶と2トップを組んだ[7]

市原/C大阪時代

2000年、勇人と共にトップに昇格、同年にプロデビューを果たす。同年西村昭宏率いるU-20代表に選ばれアジアユースおよび翌2001年ワールドユースに出場した[1][8]

2002年、出場機会を求めて、西村昭宏率いるJリーグ ディビジョン2セレッソ大阪に移籍[1]。しかし春先にギラン・バレー症候群を発症した[8][9]ため出遅れ、西澤明訓の復帰、大久保嘉人の成長などでまたしても出場機会が得ることはできなかった。しかし、天皇杯で4試合3得点を挙げそれを目にした当時J1ベガルタ仙台がオファーを出し、レンタル移籍をする。

仙台時代

2003年、仙台移籍初年度で才能が開花し、公式戦34試合で13得点を記録[1]。仙台はJ2への降格が決定したが、J1チームからのオファーを全て蹴り、仙台へ完全移籍した。

2004年、44試合で20得点を記録し、J2の得点ランキング4位。日本人としては3位の成績を挙げる。名実共に「ベガルタの象徴」となり、サポーターから「Mr.仙台」と呼ばれた。しかし、チームは大量失点を繰り返すなど勝ちきれない試合が続き、6位で終わる。同年シーズン終了後、サンフレッチェ広島から移籍のオファーを受ける。その一方で、仙台からも残留を要請されたが、悩んだ末、広島への移籍を決断。

広島時代

2005年、移籍金1億6千万円(推定)[10]で広島に移籍する。同年2試合でハットトリックを記録。得点ランキング3位、日本人得点王となる18得点を挙げ、広島を一時は2位まで躍進させる原動力となり、2005年度ベストイレブンにも選出。その活躍が認められジーコ時代のA代表に初招集[8]、2006年2月11日アメリカ戦で初出場、アジアカップ最終予選のインド戦で代表初得点を決める。

翌2006年も18得点を挙げ、2年連続日本人得点王となった。リーグでは好調を維持していたが、代表で活躍出来ず、ドイツW杯本大会のメンバーからは漏れることになった。

2007年シーズンは下田崇に代わって選手会長に就任。イビチャ・オシム就任後も引き続きA代表に招集され、アジアカップに出場。5節の名古屋グランパスエイト戦において史上45人目のJ1通算50得点を達成した。しかし、チームは入れ替え戦の末J2へ降格。入れ替え戦終了後に、スタジアムのファンに対して、涙を流しながら「絶対に1年で(J1に)戻ってくる」と宣言し、他のチームからの移籍交渉を断り、残留した。

2008年、開幕直後こそ平繁龍一との2トップだったが、間もなく1トップ2シャドーのトップにポジションを変更、守備やポストプレーにも奮闘しながら得点を量産し、28得点を挙げてJ2得点王を獲得。チームの圧倒的な成績でのJ1復帰に貢献した。その活躍から、J2カテゴリ所属の選手にもかかわらず、引き続きA代表に選ばれた。

J1復帰となった2009年のリーグ戦では15得点を挙げ、一時は優勝争いにも絡み最終的にJ2からの昇格チームとしては当時最高の順位記録である4位となるチームに大きく貢献する。

2010年はリーグで好調を維持していたが、南アフリカワールドカップ本戦のメンバーからは外れた。9月8日に行われたナビスコカップガンバ大阪戦で右肩鎖関節脱臼という重傷を負い、約2ヶ月離脱したが、復帰初戦となった11月7日浦和レッドダイヤモンズ戦で後半アディショナルタイムに決勝点を挙げ 7年連続[注 4]2桁得点を達成した。

2011年、日本人として初の8年連続[注 4]2桁得点を達成した。

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2000 市原 25 J1 8 0 4 2 3 0 15 2
2001 市原 14 J1 14 2 3 1 0 0 17 3
2002 C大阪 24 J2 13 2 - 4 3 17 5
2003 仙台 11 J1 30 9 6 4 1 0 37 13
2004 仙台 11 J2 44 20 - 2 0 46 20
2005 広島 11 J1 32 18 6 2 2 0 40 20
2006 広島 11 J1 33 18 4 2 2 2 39 22
2007 広島 11 J1 34 12 6 1 5 1 45 14
2008 広島 11 J2 40 28 - 2 2 42 30
2009 広島 11 J1 34 15 5 5 1 1 40 21
2010 広島 11 J1 27 10 2 1 0 0 29 11
2011 広島 11 J1 33 11 2 1 2 2 37 14
2012 広島 11 J1
通算 日本 J1 245 95 38 19 16 6 299 120
日本 J2 97 50 - 8 5 105 55
総通算 341 145 38 19 24 11 404 175
その他の公式戦


国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2010 広島 11 6 1
通算 AFC 6 1

[編集] 個人記録

ユース経歴
  • 1998年 Jユース杯 得点王
プロ経歴
その他

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

年齢別代表
A代表

[編集] 試合数


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2006 12 3
2007 7 0
2008 6 0
2009 3 1
2010 3 0
通算 31 4

[編集] ゴール

# 年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1 2006年2月22日 日本横浜国際総合競技場 インドの旗 インド ○ 6-0 AFCアジアカップ2007予選
2 2006年3月30日 日本、大分スタジアム エクアドルの旗 エクアドル ○ 1-0 キリンチャレンジカップ2006
3 2006年8月16日 日本、新潟スタジアム イエメンの旗 イエメン ○ 2-0 AFCアジアカップ2007予選
4 2009年11月18日 香港香港スタジアム 香港の旗 香港 ○ 4-0 AFCアジアカップ2011予選

[編集] 注釈

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  1. ^週刊サッカーダイジェスト』2007年5月22日での「Jリーガー108選手が選ぶベストプレイヤー」という企画内で「ライン突破が上手い選手」では2位以下を大差で引き離して1位、また「シュートが上手い選手」では4位に選ばれた。
  2. ^ これはセレッソ大阪時代に短く限られた出場時間内に結果を残していた眞中靖夫のプレースタイルを目の当たりにし、「自分がプロサッカー選手として生き残るためには、何か一つ武器を」と思い立ち、現在のスピードを生かした、ポジショニングの巧みさ、ニアサイドに飛び込むスタイルを確立した(『紫熊倶楽部』2007年4月号)。
  3. ^ このプレースタイルを生かすため、季節・気候を問わず、常に半袖のユニフォームを着用する。ユニフォームを掴まれ、ライン突破を妨げられるリスクをできるだけ少なくするためである[要出典]
  4. ^ a b c 2004・2008年シーズンはJ2のため参考記録扱い。
  5. ^ 「ピッポ(インザーギの愛称)と同じピッチでプレーして、ユニフォームを交換したらそこで引退してもいい」や、ドイツW杯でもインザーギのレプリカユニフォームを着てずっとイタリアを応援。スーパーサッカー』ゲスト出演の時「W杯で最も印象に残ったゴールは?」という問いに「チェコ戦のインザーギのゴール」と答えるなど。また、彼が出場した2007年のFIFAクラブワールドカップ決勝戦では友人である中村憲剛常田真太郎と共に観客席で応援していた。
  6. ^ 当時、実家から通える浦和レッドダイヤモンズにはジュニアユースがなかったこと、およびジェフ市原の育成がいいという評判から。

[編集] 出典

  1. ^ a b c d e ASSIST、p23
  2. ^ 前進”. サンフレッチェ広島公式サイト. 2010年11月26日閲覧。
  3. ^ a b 選手データベース”. 週刊サッカーマガジン. 2010年11月26日閲覧。
  4. ^ a b 日本人トップタイの得点力。佐藤寿人の新しい武器とは?”. Sports Graphic Number (2009年5月15日). 2010年11月26日閲覧。
  5. ^ 【スペシャルインタビュー Vol.14】サンフレッチェ広島:森崎浩司選手”. J's GOAL (2005年9月12日). 2010年11月26日閲覧。
  6. ^ a b ASSIST、p21
  7. ^ ASSIST、p22
  8. ^ a b c J1日本人得点王・広島佐藤寿が初代表”. 日刊スポーツ (2005年12月27日). 2010年11月26日閲覧。
  9. ^ 難病糧に成長"スナイパー"佐藤”. (日刊スポーツより転用) (2003年6月20日). 2010年11月26日閲覧。
  10. ^ 【ヒュンメル】サンフレッチェ広島の佐藤寿人選手と契約”. ヒュンメル (2005年9月12日). 2011年1月14日閲覧。

[編集] 参考文献

  • 「あの頃、僕は」 『ASSIST』2008年春号

[編集] 関連情報

ラジオ
PV出演
CM
  • AS進学セミナー、2011年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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