柳沢敦
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| 柳沢 敦 | ||
|---|---|---|
| 名前 | ||
| 愛称 | ヤナギ QBK | |
| カタカナ | ヤナギサワ アツシ | |
| ラテン文字 | YANAGISAWA Atsushi | |
| 基本情報 | ||
| 国籍 | ||
| 生年月日 | 1977年5月27日(32歳) | |
| 出身地 | 富山県射水市 | |
| 身長 | 177cm | |
| 体重 | 75kg | |
| 血液型 | O型 | |
| 選手情報 | ||
| 在籍チーム | ||
| ポジション | FW | |
| 背番号 | 13 | |
| 利き足 | 右足 | |
| クラブチーム1 | ||
| 年 | クラブ | App (G) |
| 1996-2003 2003-2004 2004-2006 2006-2007 2008- |
178 (71) 15 (0) 29 (0) 42 (9) 32 (14) |
|
| 代表歴 | ||
| 1998-2006 | 58 (17) | |
| 1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月8日現在。 ■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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柳沢 敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日 - )は、富山県射水郡小杉町(現射水市)出身のサッカー選手である。ポジションはフォワード。
目次 |
[編集] プレイスタイル
オフ・ザ・ボールの動きへの評価が高く[1]、ボールを扱う技術は国内屈指と評価されている。[要出典]しかし本人は「点を取るだけがFWではない」[2]「たとえGKと1対1になっても、必ずしもシュートは打つ必要がない」等と語り[3]、物議をかもしたこともある。
[編集] 来歴
ラーメン屋を営む両親のもとに生まれた。小学校1年になり小杉SSCに入団しサッカーを始め、中学時代にはFCひがしジュニアユースに所属し、U-15日本代表に選出されている。[4]富山第一高等学校では3年連続で国体および高校総体への出場を経験し、高校3年時の高校選手権では超高校級選手として大会の目玉となりJリーグのスカウトの注目を集めた。
1996年に富山第一高校卒業後、鹿島アントラーズに入団し5月にナビスコ杯アビスパ福岡戦でプロデビューをとげた。この年はリーグ戦で6得点をあげている。翌1997年は18得点をマークして新人王に選出され、さらに1998年にも22得点を記録するなど鹿島のエースに成長した。岡田ジャパンでA代表へ初招集され、1998年2月15日の親善試合オーストラリア戦で代表デビューを飾った。4月4日の対京都パープルサンガ戦では1試合4ゴールも記録している。5月5日の対ジュビロ磐田戦でもハットトリックを達成。しかしゴールへの執着心に欠ける点を岡田監督から指摘され、フランスW杯の最終メンバーに入るには到らなかった。
1999年に新しく日本代表監督に就任したトルシエ監督下の指揮するU-23代表のエースとして期待されていたが、同年に行われた代表合宿を抜け出して当時の恋人梨花と密会していたとの記事が写真週刊誌フライデーに掲載されたことが原因となり一時期代表に呼ばれなくなった。
2000年は6月6日に行われたハッサン二世国王杯のジャマイカ戦でA代表初ゴールを挙げた。レバノンで開催されたアジアカップサウジアラビア戦では高原との交代で途中出場したものの、積極的なプレーを見せないことにいらだったトルシエ監督によってわずか7分後に奥との交代を命じられた[5][6]。翌2001年は12得点をあげ鹿島のJリーグ優勝に貢献しJリーグベストイレブンを受賞した。
2002年の日韓ワールドカップにもFWとして選出された。W杯ではゴールを決めることができなかったが、ロシア戦で決勝点につながるアシストを記録するなど活躍をみせた。中田英寿からもチーム内のMVPとして戸田とともに名前を挙げられている。これらの活躍が評価され、2003-2004シーズン開幕前にイタリアセリエAの古豪サンプドリアに期限付きで初の海外移籍を果たした。同年12月24日にはモデルの小畑由香里と入籍している。
[編集] セリエA
2003年から2004年シーズンはサンプドリアでリーグ戦15試合に出場するも無得点に終わった。クラブ側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団、引き続き海外でのプレーを希望し、同セリエAのFCメッシーナと契約、鹿島からの1年間の期限付き移籍の形をとった。
2004年-2005年はメッシーナ移籍後、8月22日コッパ・イタリアの1回戦でアチレアレから1ゴール1アシストの活躍でイタリア公式戦初ゴールをあげ、レッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載るなどしたが、[7]リーグ戦では22試合で無得点に終わる。またこの期間、ジーコからも日本代表の招集がかからなくなった時期があった。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。W杯アジア最終予選イラン戦を控えた2005年3月22日、藤田俊哉の負傷離脱後に日本代表に緊急招集。これが2004年7月13日の親善試合セルビア・モンテネグロ戦以来8カ月ぶりの招集だった。イラン戦では途中出場を果たし、福西のゴールにつながるポストプレイをこなした。6月3日のバーレーン戦では1トップとして先発に復帰し、W杯出場のかかった6月8日の北朝鮮戦では5試合523分ぶりのゴールをあげた。またコンフェデレーションズ杯のメキシコ戦でもゴールをあげる活躍を見せた。
2005-2006シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望しメッシーナに完全移籍を果たす。ただ、このときはメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になるという形を取った。シーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれるなど、一定の評価を得ていたが、出場機会は乏しくノーゴールが続いた。苦しいシーズンが続いたが日本代表に招集されたホンジュラス戦では2ゴールをあげるなどの活躍もみせた。2007年11月現在、これが最後の国際Aマッチのゴールである。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年2月28日に契約は解除され、2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。
[編集] Jリーグ復帰後
2006年の鹿島では背番号は13番をつけ、復帰戦となった3月11日のJリーグ開幕戦のサンフレッチェ広島戦ではスタメンでフル出場、ハットトリックを達成した。これがJリーグでは、自身3度目のハットトリックとなった。しかし同年3月25日のジェフ千葉戦で右足の痛みを訴えて交代、翌日に右第5中足骨骨折で全治2カ月と診断された。怪我の影響が心配される中、2006年ドイツW杯日本代表の23人に選出される。5月30日の本選前のテストマッチドイツ戦で試合に復帰。ドイツW杯では対オーストラリア戦、クロアチア戦に出場、決定的なチャンスを逃した際に「急にボールが来たので。」とコメントをし物議を醸し、ネット上を中心にQBKという新語で侮蔑された。最終戦のブラジル戦は当然欠場。W杯終了後にはレンタル元のメッシーナとの交渉により、鹿島アントラーズへ完全移籍した。オシム新監督就任後の日本代表には選出されず、J復帰元年は4得点に終わった。
2007年シーズン前には本田泰人の引退を受けて鹿島の新主将、選手会長に就任した[8]。4月21日に左第5中足骨(小指)骨折。ナビスコ杯準々決勝第二戦の広島戦で85日ぶりに復帰し2アシストを記録。リーグ戦では第5節を最後にフル出場がなく、田代有三、興梠慎三の台頭でスタメン落ちも多くなっていた。
2008年は出場機会を求め京都サンガF.C.への移籍を決断した。3月16日に移籍後リーグ2戦目の大宮戦で、ゴール前での混戦からこぼれ球を決め移籍後初ゴールを決める。その後もコンスタントに得点を重ね、従来課題とされていた得点力を改善し、自身2001年以来の二桁得点、同季の日本人最多得点である14点をマークした。特にマリノス戦での一点目はファウルのリスタートと同時にボールを置き、スペースへの走りこみからボレーシュートを決めるという難易度の高い印象的なゴールを見せた。同年は7年ぶりにJリーグベストイレブンにも選出された。
[編集] 所属クラブ
- 1990年 - 1992年 FCひがし
- 1993年 - 1995年 富山第一高校
- 1996年 - 2003年 鹿島アントラーズ
- 2003年 - 2004年 サンプドリア(レンタル移籍)
- 2004年 - 2005年 FCメッシーナ(2004年7月~レンタル移籍、2005年7月からは完全移籍)
- 2006年 - 2007年 鹿島アントラーズ(2006年3月1日から6月30日までレンタル移籍、2006年7月以降は完全移籍)
- 2008年 - 現 在 京都サンガF.C.
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1996 | 鹿島 | - | J | 8 | 5 | 6 | 1 | 1 | 0 | 15 | 6 |
| 1997 | 鹿島 | 13 | J | 25 | 8 | 9 | 2 | 5 | 2 | 39 | 12 |
| 1998 | 鹿島 | 13 | J | 32 | 22 | 5 | 0 | 1 | 0 | 38 | 22 |
| 1999 | 鹿島 | 13 | J1 | 26 | 9 | 3 | 1 | 2 | 0 | 31 | 10 |
| 2000 | 鹿島 | 13 | J1 | 26 | 6 | 3 | 0 | 3 | 1 | 32 | 7 |
| 2001 | 鹿島 | 13 | J1 | 26 | 12 | 5 | 2 | 1 | 1 | 32 | 15 |
| 2002 | 鹿島 | 13 | J1 | 27 | 7 | 3 | 0 | 5 | 1 | 35 | 8 |
| 2003 | 鹿島 | 13 | J1 | 8 | 2 | - | - | 8 | 2 | ||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2003-04 | サンプドリア | 13 | セリエA | 15 | 0 | 3 | 0 | - | 18 | 0 | |
| 2004-05 | メッシーナ | 20 | セリエA | 22 | 0 | 2 | 1 | - | 24 | 1 | |
| 2005-06 | メッシーナ | 13 | セリエA | 7 | 0 | 0 | 0 | - | 7 | 0 | |
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006 | 鹿島 | 13 | J1 | 23 | 4 | 3 | 1 | 2 | 1 | 28 | 6 |
| 2007 | 鹿島 | 13 | J1 | 19 | 5 | 6 | 2 | 5 | 2 | 30 | 9 |
| 2008 | 京都 | 13 | J1 | 32 | 14 | 6 | 1 | 2 | 0 | 40 | 15 |
| 2009 | 京都 | 13 | J1 | ||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 252 | 94 | 49 | 10 | 27 | 8 | 328 | 112 | |
| イタリア | セリエA | 44 | 0 | 5 | 1 | - | 49 | 1 | |||
| 総通算 | 296 | 94 | 54 | 11 | 27 | 8 | 377 | 113 | |||
その他の大会成績 32試合13得点
鹿島アントラーズ通算成績 1996-2003年 2006-2007年 320試合110得点
[編集] 個人タイトル
- 1997年 - 新人王、Jリーグ優秀新人賞
- 1998年 - Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞
- 2001年 - Jリーグ ベストイレブン、日本年間最優秀選手賞、Jリーグ優秀選手賞
- 2008年 - J'sGOAL月間MIP(7月)、Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 58試合 17得点(1998-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1998 | 2 | 0 |
| 1999 | 4 | 0 |
| 2000 | 10 | 4 |
| 2001 | 6 | 5 |
| 2002 | 9 | 0 |
| 2003 | 5 | 2 |
| 2004 | 8 | 2 |
| 2005 | 10 | 4 |
| 2006 | 4 | 0 |
| 通算 | 58 | 17 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2000年、6月6日 | モロッコ | ○4-0 | 親善試合 | |
| 2. | 2000年、6月18日 | 日本 | ○2-0 | 親善試合 | |
| 3. | 2000年、6月18日 | 日本 | ○2-0 | 親善試合 | |
| 4. | 2000年、10月14日 | レバノン | ○4-1 | AFCアジアカップ2000 | |
| 5. | 2001年、8月15日 | 日本 | ○3-0 | 親善試合 | |
| 6. | 2001年、7月1日 | 日本 | ○2-0 | 親善試合 | |
| 7. | 2001年、7月1日 | 日本 | ○2-0 | 親善試合 | |
| 8. | 2001年、10月7日 | イングランド | △2-2 | 親善試合 | |
| 9. | 2001年、11月7日 | 日本 | △1-1 | 親善試合 | |
| 10. | 2003年、10月8日 | チュニジア | ○1-0 | 親善試合 | |
| 11. | 2003年、10月11日 | ルーマニア | △1-1 | 親善試合 | |
| 12. | 2004年、2月12日 | 日本 | ○2-0 | 親善試合 | |
| 13. | 2004年、7月9日 | 日本 | ○3-1 | 親善試合 | |
| 14. | 2005年、6月8日 | タイ | ○2-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 15. | 2005年、6月16日 | ドイツ | ●1-2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 | |
| 16. | 2005年、9月7日 | 日本 | ○5-4 | 親善試合 | |
| 17. | 2005年、9月7日 | 日本 | ○5-4 | 親善試合 |
[編集] エピソード
- 最も尊敬する選手は三浦知良。
- 幼稚園児だった1983年10月、その年富山県で開催された第7回全国育樹祭開会式に出席していた皇太子明仁親王・同妃美智子(現在の天皇・皇后)の前で他の園児たちとお遊戯を披露する。子どもたちは美智子妃を「近くにお見せしたいものがある」と誘い、美智子妃は子どもたちと手をつないで走り出し、柳沢も美智子妃のすぐ後ろを走った(その瞬間の報道写真が現在も残っている)。それから18年たった2002年、日本代表対スウェーデンの親善試合を天皇・皇后が観覧した際、選手ひとりひとりに声がけをした際、柳沢は皇后に「昔、富山に来られたときのことをご記憶でございますか」と尋ねた。皇后はすぐに思い出し、柳沢が「そのときにお遊戯をしました」と明かしたところ、大変驚いたという。
[編集] コマーシャル出演
[編集] 書籍
- 俺のシュートを受けてみろ!-若きストライカーの自画像(1997年、主婦と生活社、ISBN 4391120364)
- 柳沢敦(鹿島アントラーズ)カレンダー2003(2002年、ハゴロモ、ISBN 489495317X)
[編集] DVD
- 柳沢敦DVDバイオグラフィーAの肖像(2003年)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 柳沢敦 愛される理由。 ――なぜ彼はあの時、蹴らなかったのか? - サッカー日本代表コラム - NumberWeb
- ^ 柳沢敦インタビュー
- ^ 救世主・柳沢「オフ・ザ・ボール」で絶大な信頼
- ^ 柳沢敦 Atsushi Yanagisawa | Sports Section, DISCOVERY ENTERTAIMENT
- ^ YouTube yanagisawa
- ^ アジアカップを振り返る -1- 《アジアカップ2000 レバノン大会》, J's GOAL
- ^ "“海峡の王様”柳沢に最高の評価". スポニチ Sponichi Annex (2004-11-02). 2009-03-19 閲覧。
- ^ "柳沢、日本人3代目主将で出直し". スポニチ Sponichi Annex (2007-02-07). 2009-03-19 閲覧。
[編集] 外部リンク
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