柳沢敦
|
|||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | ヤナギ | ||||||
| カタカナ | ヤナギサワ アツシ | ||||||
| ラテン文字 | YANAGISAWA Atsushi | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1977年5月27日(34歳) | ||||||
| 出身地 | 富山県射水市 | ||||||
| 身長 | 177cm | ||||||
| 体重 | 75kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | ベガルタ仙台 | ||||||
| ポジション | FW | ||||||
| 背番号 | 13 | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
|
|||||||
| 代表歴 | |||||||
|
|||||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月19日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
|||||||
| ノートでこのテンプレートの色について意見を募集しています。 | |||||||
柳沢 敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日 - )は、富山県射水郡小杉町(現射水市)出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。元日本代表。
目次 |
[編集] 概要
スペースの作り方、オフ・ザ・ボール、ダイレクトプレーを得意とする。2002年日韓W杯での日本の得点、予選リーグ突破に貢献した。反面、シュートチャンスでもシュートではなく、パスを選択してしまう欠点がある。本人も「点を取るだけがFWではない」[1]「たとえGKと1対1になっても、必ずしもシュートは打つ必要がない」などと語り[2]、物議を醸したこともある。一方で、高い技術と器用さをフィリップ・トルシエやジーコなど歴代の日本代表監督から評価され、コンスタントに代表招集されたが、代表での得点は親善試合に偏っており、その勝負弱さはしばしば批判の的となっていた(後述)。
[編集] 来歴
ラーメン屋を営む両親のもとに生まれた。小学校1年になり小杉SSCに入団しサッカーを始め、中学時代にはFCひがしジュニアユースに所属し、U-15日本代表に選出されている[3]。富山第一高等学校では3年連続で国体および高校総体への出場を経験し、高校3年時の高校選手権では超高校級選手として大会の目玉となりJリーグのスカウトの注目を集めた。
1996年に富山第一高校卒業後、鹿島アントラーズに入団し、5月にナビスコ杯福岡戦でプロデビュー。この年はリーグ戦で5得点を挙げている。翌1997年は8得点を挙げて新人王に選出され、更に1998年にも22得点を記録するなど鹿島のエースに成長した。岡田ジャパンでA代表へ初招集され、1998年2月15日の親善試合オーストラリア戦で代表デビューを飾った。4月4日の対京都戦では1試合4得点を記録している。5月5日の対磐田戦でもハットトリックを達成。しかし、代表での得点はなく(後述)、岡田監督からはゴールへの執着心に欠ける点を指摘され、フランスW杯の最終メンバーからは外れた。
1999年に日本代表監督に就任したトルシエの指揮するU-23代表のエースとして期待されていたが、シドニー五輪アジア1次予選最中にチームを無断で抜け出して、当時の恋人梨花と密会していたとの記事が写真週刊誌フライデーに掲載されたことが原因となり、チームから強制的に外され、その後も一時期代表に呼ばれなくなった。
2000年は6月6日に行われたハッサン2世国王杯のジャマイカ戦でA代表初ゴールを挙げた。レバノンで開催されたアジアカップサウジアラビア戦では高原直泰との交代で途中出場したものの、絶好の決定機にシュートしないなど、消極的なプレーにいらだったトルシエ監督によってわずか7分後に奥大介との交代を命じられた[4]。翌2001年は12得点を挙げ鹿島のJリーグ優勝に貢献しJリーグベストイレブンを受賞した。
2002年の日韓ワールドカップにもFWとして選出された。W杯ではゴールを決めることができなかったが、ロシア戦で決勝点につながるアシストを記録するなど活躍をみせた。中田英寿からもチーム内のMVPとして戸田と共に名前を挙げられている。これらの活躍が評価され、2003-04シーズン開幕前にイタリアセリエAの古豪サンプドリアに期限付きで初の海外移籍を果たした。同年12月24日にはモデルの小畑由香里と入籍。
[編集] セリエA
2003-04シーズンはサンプドリアでリーグ戦15試合に出場するも無得点に終わった。クラブ側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団、引き続き海外でのプレーを希望し、同セリエAのFCメッシーナと契約、鹿島からの1年間の期限付き移籍の形をとった。
2004-05シーズンはメッシーナ移籍後、8月22日コッパ・イタリアの1回戦でアチレアレから1ゴール1アシストの活躍でイタリア公式戦初ゴールをあげ、レッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載るなどしたが、[5]リーグ戦では22試合で無得点に終わる。またこの期間、ジーコからも日本代表の招集がかからなくなった時期があった。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。W杯アジア最終予選イラン戦を控えた2005年3月22日、藤田俊哉の負傷離脱後に日本代表に緊急招集。これが2004年7月13日の親善試合セルビア・モンテネグロ戦以来8カ月ぶりの招集だった。イラン戦では途中出場を果たし、福西のゴールにつながるポストプレイをこなした。6月3日のバーレーン戦では1トップとして先発に復帰し、W杯出場のかかった6月8日の北朝鮮戦では5試合523分ぶりの得点を挙げた。またコンフェデレーションズ杯のメキシコ戦では難易度の高いゴールを決める活躍を見せた。
2005-06シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望し、メッシーナに完全移籍を果たす。ただ、この時はメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になるという形を取った。シーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれるなど、一定の評価を得ていたが、出場機会は乏しくノーゴールが続いた。苦しい時期が続いたが日本代表に招集されたホンジュラス戦では2ゴールを挙げるなどの活躍もみせた。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年2月28日に契約は解除され、2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。
[編集] Jリーグ復帰後
2006年の鹿島では背番号は13番をつけ、復帰戦となった3月11日のJ1開幕戦のサンフレッチェ広島戦ではスタメンでフル出場、ハットトリックを達成した。これがJリーグでは、自身3度目のハットトリックとなった。しかし、3月25日の千葉戦で右足の痛みを訴えて交代、翌日に右第5中足骨骨折で全治2カ月と診断された。怪我の影響が心配される中、2006年ドイツW杯日本代表の23人に選出され2試合に出場したが、消極的なプレーに終始し、クロアチア戦では決定機を外し無得点に終わり批判を浴びる[6][7]。W杯終了後にはレンタル元のメッシーナとの交渉により、鹿島へ完全移籍した。オシム新監督就任後の日本代表には選出されず、J復帰元年は4得点に終わった。
2007年シーズン前には本田泰人の引退を受けて鹿島の新主将、選手会長に就任した[8]。ナビスコ杯準々決勝第2戦の広島戦で85日ぶりに復帰し、2アシストを記録。しかし、リーグ戦では第5節を最後にフル出場がなく、田代有三、興梠慎三の台頭でスタメン落ちも多くなっていた。
2008年は出場機会を求め京都サンガF.C.への移籍を決断した。低迷するチームの残留に貢献し、3月16日に移籍後リーグ2戦目の大宮戦で、ゴール前での混戦からこぼれ球を決め移籍後初ゴールを決める。夏場以降はコンスタントに得点を重ね続け、従来課題であった得点力を改善し、自身2001年以来の二桁得点、同季の日本人最多得点である14得点を記録した。同年は7年ぶりにJリーグベストイレブンにも選出された。
2009年もエースとして期待されたが、開幕前に痛めた左ひざの影響で本調子が出ずに4月に半月版の手術のため離脱。第15節に復帰してからは不動のレギュラーとして試合に出続けた。また前年と同じく低迷するチーム事情により本来のポジションではない位置でのプレーを任せられチームの残留に貢献した。
2010年から佐藤勇人の退団を受け、サンガの新主将に任命された。5月5日の清水戦で、史上6人目のJリーグ通算100ゴールを達成した際、前日に第一子(長男)が誕生したことで、京都の他の出場選手と共に「ゆりかごダンス」を披露した。しかし、クラブはその後も低迷が続き、J2降格が濃厚になった11月にクラブから戦力外通告を受ける。この決定に対し、サポーターからは疑問の声が上がり、Jクラブとしては珍しく公式サイトにて声明文が発表された。2008年以来の凱旋となった鹿島戦では、これまでの労をねぎらった横断幕が鹿島サポーターから掲げられ、交代時には大きな拍手が沸き起こった。
2011年、ベガルタ仙台に完全移籍。背番号を今までの13から30にし、移籍会見では背番号だけの得点を決めたいと抱負を語った。開幕戦はベンチ入りしたが出番がなく、震災による中断期間中に古傷の違和感を訴え手術を決断。仙台でのデビューは6月16日までずれ込んだ。J1第27節横浜FM戦で移籍後初ゴールを決めたが、シーズン途中に膝の再手術を行うことになり、公式戦17試合1得点にとどまった。また再手術の決定後に来季への契約も延長された。2012年には中島裕希の移籍に伴い背番号13に変更。
[編集] エピソード
- 最も尊敬する選手は三浦知良。
- 幼稚園児だった1983年10月、その年富山県で開催された第7回全国育樹祭開会式に出席していた皇太子明仁親王・同妃美智子(現在の天皇・皇后)の前で他の園児たちとお遊戯を披露する。子どもたちは美智子妃を「近くにお見せしたいものがある」と誘い、美智子妃は子どもたちと手をつないで走り出し、柳沢も美智子妃のすぐ後ろを走った(その瞬間の報道写真が現在も残っている)。それから18年たった2002年、日本代表対スウェーデンの親善試合を天皇・皇后が観覧した際、選手ひとりひとりに声がけをした際、柳沢は皇后に「昔、富山に来られたときのことをご記憶でございますか」と尋ねた。皇后はすぐに思い出し、柳沢が「そのときにお遊戯をしました」と明かしたところ、大変驚いたという。
- ドイツW杯2戦目の対クロアチア戦では加地亮からGKのタイミングを外したラストパスを無人のゴール前で受け、難易度の高いアウトサイドでゴール外にいるゴールキーパーの股下を抜いて外した[9][10]。集中力を欠いたパフォーマンスと受け取られ[11]、世界各国から批判される[12][13][14]。ジーコも柳沢を批判している[15]。これは、試合後の「急にボールが来たので」とのコメントとあいまって[16]、それまでの代表におけるパフォーマンスの象徴とみなされている[17]。この発言はQBKとの略称が生まれるほどの反響を呼び[18][19]、同年の現代用語の基礎知識2007年版にも掲載された[20]。なお、帰国後のインタビューにおいて、「加地がシュートを打つ体勢だったから、打つと思ってキーパーにつめていこうという意識だったんですけど、シュートが急にこっちに来て、足を出して・・・。う~ん、予測できてなかったと言えばそうだった。ああいうのに反応できてこそとは思うし、やっぱり決めるべきチャンスだったと思いますね」と弁明している[21]。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- 1990年 - 1992年 FCひがし
- 1993年 - 1995年 富山第一高校
- プロ経歴
- 1996年 - 2003年
鹿島アントラーズ - 2003年 - 2004年
サンプドリア (レンタル移籍) - 2004年 - 2005年
FCメッシーナ (2004年7月~レンタル移籍、2005年7月からは完全移籍) - 2006年 - 2007年
鹿島アントラーズ (2006年3月1日から6月30日までレンタル移籍、2006年7月以降は完全移籍) - 2008年 - 2010年
京都サンガF.C. - 2011年 -
ベガルタ仙台
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1996 | 鹿島 | - | J | 8 | 5 | 6 | 1 | 1 | 0 | 15 | 6 |
| 1997 | 13 | 25 | 8 | 9 | 2 | 5 | 2 | 39 | 12 | ||
| 1998 | 32 | 22 | 5 | 0 | 1 | 0 | 38 | 22 | |||
| 1999 | J1 | 26 | 9 | 3 | 1 | 2 | 0 | 31 | 10 | ||
| 2000 | 26 | 6 | 3 | 0 | 3 | 1 | 32 | 7 | |||
| 2001 | 26 | 12 | 5 | 2 | 1 | 1 | 32 | 15 | |||
| 2002 | 27 | 7 | 3 | 0 | 5 | 1 | 35 | 8 | |||
| 2003 | 8 | 2 | - | - | 8 | 2 | |||||
| イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2003-04 | サンプドリア | 13 | セリエA | 15 | 0 | 3 | 0 | - | 18 | 0 | |
| 2004-05 | メッシーナ | 20 | 22 | 0 | 4 | 1 | - | 26 | 1 | ||
| 2005-06 | 13 | 7 | 0 | 0 | 0 | - | 7 | 0 | |||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2006 | 鹿島 | 13 | J1 | 23 | 4 | 3 | 1 | 2 | 1 | 28 | 6 |
| 2007 | 19 | 5 | 6 | 2 | 5 | 2 | 30 | 9 | |||
| 2008 | 京都 | 32 | 14 | 6 | 1 | 2 | 0 | 40 | 15 | ||
| 2009 | 22 | 4 | 5 | 1 | 2 | 1 | 29 | 6 | |||
| 2010 | 31 | 3 | 5 | 3 | 2 | 0 | 38 | 6 | |||
| 2011 | 仙台 | 30 | 17 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 18 | 1 | |
| 2012 | 13 | ||||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 322 | 102 | 60 | 14 | 31 | 9 | 413 | 125 | |
| イタリア | セリエA | 44 | 0 | 7 | 1 | - | 51 | 1 | |||
| 総通算 | 366 | 102 | 67 | 15 | 31 | 9 | 464 | 126 | |||
その他の公式戦
- 1997年
- スーパーカップ 1試合2得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1998年
- スーパーカップ 1試合1得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 1999年
- スーパーカップ 1試合1得点
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2001年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2002年
- スーパーカップ 1試合0得点
その他の国際公式戦
- 2003年
- A3チャンピオンズカップ 2試合1得点
- その他の大会通算成績 32試合13得点
- 鹿島アントラーズ通算成績 1996-2003年 2006-2007年 320試合110得点
[編集] 個人タイトル
- 1997年 - 新人王、Jリーグ優秀新人賞
- 1998年 - Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞
- 2001年 - Jリーグ ベストイレブン、日本年間最優秀選手賞、Jリーグ優秀選手賞
- 2008年 - J'sGOAL月間MIP(7月)、Jリーグ ベストイレブン、Jリーグ優秀選手賞
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 58試合 17得点(1998-2006)
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1998 | 2 | 0 |
| 1999 | 4 | 0 |
| 2000 | 10 | 4 |
| 2001 | 6 | 5 |
| 2002 | 9 | 0 |
| 2003 | 5 | 2 |
| 2004 | 8 | 2 |
| 2005 | 10 | 4 |
| 2006 | 4 | 0 |
| 通算 | 58 | 17 |
[編集] ゴール
| # | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2000年6月6日 | モロッコ | ○4-0 | 親善試合 | |
| 2. | 2000年6月18日 | 日本 | ○2-0 | キリンカップサッカー2000 | |
| 3. | |||||
| 4. | 2000年10月14日 | レバノン | ○4-1 | AFCアジアカップ2000 | |
| 5. | 2001年8月15日 | 日本 | ○3-0 | 親善試合 | |
| 6. | 2001年7月1日 | 日本 | ○2-0 | キリンカップサッカー2001 | |
| 7. | |||||
| 8. | 2001年10月7日 | イングランド | △2-2 | 親善試合 | |
| 9. | 2001年11月7日 | 日本 | △1-1 | 親善試合 | |
| 10. | 2003年10月8日 | チュニジア | ○1-0 | 親善試合 | |
| 11. | 2003年10月11日 | ルーマニア | △1-1 | 親善試合 | |
| 12. | 2004年2月12日 | 日本 | ○2-0 | 親善試合 | |
| 13. | 2004年7月9日 | 日本 | ○3-1 | キリンカップサッカー2004 | |
| 14. | 2005年6月8日 | タイ | ○2-0 | 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 | |
| 15. | 2005年6月16日 | ドイツ | ●1-2 | FIFAコンフェデレーションズカップ2005 | |
| 16. | 2005年9月7日 | 日本 | ○5-4 | 親善試合 | |
| 17. |
[編集] CM出演
[編集] 書籍
- 俺のシュートを受けてみろ!-若きストライカーの自画像 (1997年、主婦と生活社、ISBN 4391120364)
- 柳沢敦(鹿島アントラーズ)カレンダー2003 (2002年、ハゴロモ、ISBN 489495317X)
[編集] DVD
- 柳沢敦DVDバイオグラフィーAの肖像 (2003年)
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 柳沢敦インタビュー
- ^ 救世主・柳沢「オフ・ザ・ボール」で絶大な信頼
- ^ 柳沢敦 Atsushi Yanagisawa | Sports Section, DISCOVERY ENTERTAIMENT
- ^ アジアカップを振り返る -1- 《アジアカップ2000 レバノン大会》 J's GOAL
- ^ ““海峡の王様”柳沢に最高の評価”. スポーツニッポン (2004年11月2日). 2009年3月19日閲覧。
- ^ W杯オーストラリア戦/読者採点-10点満点中の3.77
- ^ W杯クロアチア戦/読者採点-10点満点中の2.18
- ^ “柳沢、日本人3代目主将で出直し”. スポーツニッポン (2007年2月7日). 2009年3月19日閲覧。
- ^ 2006 FIFA ワールドカップ 日本 VS クロアチア 柳沢決定機逃す
- ^ BBC SPORT WORLD CUP 2006 Virtual Replay - BBCによる再現
- ^ フランスのレキップ紙は、「技術以前の問題だ」と断じている。
- ^ リティ「ギプスつけても決まる」柳沢酷評
- ^ ブラジル報道、日本を酷評
- ^ BBC SPORT
- ^ ジーコ「いまこそ本心を語ろう」Number Web、2006年9月28日
- ^ 中日新聞、2006年06月19日
- ^ 柳沢敦 愛される理由。――なぜ彼はあの時、蹴らなかったのか?
- ^ Yahoo!辞書
- ^ 「柳沢がW杯クロアチア戦「QBK」語った」 日刊スポーツ 2011年2月26日
- ^ J-CASTニュース 流行語大賞狙う 「急にボールが来たので」
- ^ 泣いてたまるか!鹿島アントラーズFW 柳沢敦 サンスポ 2007年1月16日
[編集] 外部リンク
|
|||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||