那須大亮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
那須 大亮 Football pictogram.svg
名前
愛称 ナス
カタカナ ナス ダイスケ
ラテン文字 NASU Daisuke
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1981年10月10日(33歳)
出身地 鹿児島県南さつま市
(横浜市生まれ[1])
身長 180cm
体重 75kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 浦和レッドダイヤモンズ
ポジション DF(CB、SB)、MF(DH)
背番号 4
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2002-2007
2008
2009-2011
2012
2013-
横浜F・マリノス
東京ヴェルディ
ジュビロ磐田
柏レイソル
浦和レッドダイヤモンズ
119 (6)
32 (1)
100 (7)
23 (0)
32(9)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年1月16日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

那須 大亮(なす だいすけ、1981年10月10日 - )は、鹿児島県南さつま市出身のサッカー選手Jリーグディヴィジョン1(J1)浦和レッドダイヤモンズに所属。ポジションはDF(CB、SB)MF(DH)

来歴[編集]

2002年駒澤大学3年時に、大学生Jリーガーとして横浜F・マリノスに入団。1年目は出場1試合にとどまった。

2003年、横浜FMに岡田武史監督が就任。中盤でのアンカー役となれる選手を求めていた同監督は、2002年に浦和レッズで現役引退したマリノスOB・井原正巳の推薦の下、浦和から獲得した河合竜二を起用しようとした。しかし河合のコンディションが万全ではなく、苦肉の策としてセンターバックの那須を起用することを決定。このコンバートが那須にとって重要な転機となった。

与えられたポジションは本職ではなかったが、持ち味であるディフェンス力でチームに貢献。試合出場を重ねる中で、チームの中心選手へと成長を遂げた。当時の日本代表エースである久保竜彦を獲得し優勝を目指していたチームにおいて、J1完全制覇の立役者となっただけでなく、自身も新人王のタイトルを獲得した。また、同年8月にはしばらく遠ざかっていたU-22日本代表にも復帰。存在感を徐々に増していった。

2004年初頭、アテネオリンピックを目指すU-23日本代表に招集。積極的にチームを引っ張り、新たに招集された田中マルクス闘莉王のお目付け役ともなった。3月に行われた、アテネオリンピック予選では、第4節のバーレーン戦で途中交代した鈴木啓太の代わりにキャプテンマークを巻き、第5節のレバノン戦では出場停止だったものの、最終節のUAE戦では先制点を挙げ、チームの予選突破に貢献。本大会直前には、山本昌邦監督からキャプテンに指名された。

しかし、現地ギリシャ入り後にコンディションを崩し、本大会初戦のパラグアイ戦で失点に直結する致命的なミスを犯し、前半のみで交代。2戦目のイタリア戦では、2点ビハインドの前半18分、負傷した徳永悠平に替わり途中出場。駒野友一と入れ替わる形で左SBに入り獅子奮迅のプレーを見せるも、日本は2-3で敗れた。最終戦となったガーナ戦は起用されず、不完全燃焼に終わった。

同年、横浜FMは浦和とのチャンピオンシップ(CS)に出場。2試合合計1-1(PK4-2)で勝利し、J1連覇を飾った。しかし、CS直前に負傷した那須はベンチでチームの優勝を見届ける形となった。これ以降は横浜FMにおいてプレーの幅を広げるなど成長を遂げ、中澤佑二松田直樹、河合竜二、栗原勇蔵らJ屈指のDF陣を擁するチームにおいて厳しいポジション争いの中で力を磨いていった。

2007年早野宏史監督の下で重用され、CB、SB、ボランチと多くのポジションで起用されたが、中でもSBとしての起用が多く、左SBが本職である小宮山尊信田中裕介、右SBの田中隼磨らを差し置いての起用であった。だが本職のCBとして代表を目指したい那須は移籍を模索。シーズン途中にFC東京からレンタル移籍のオファーが届いた際には、横浜FMに残る決断をしたが、シーズン終了後の2008年1月11日東京ヴェルディへの完全移籍が発表された。東京Vではキャプテンを任される試合もありレギュラーとして奮闘するも、自身初となるJ2降格を経験。

ここでセンターバックの若返り策を進めていたジュビロ磐田のオファーを受け、2009年完全移籍。ここでも主力選手として活躍し、2010年シーズンからは磐田の主将を務めた。磐田では2009年はセンターバックで起用されたが、2010年は前年度の失点の多さからアンカー役の選手を必要としたチーム方針により横浜時代同様中盤のボランチにポジションを変え、ナビスコカップ優勝に貢献。2011年シーズン前半は前年同様ボランチとして、 ロドリゴ・ソウト加入後は主に左SBで起用され、累積警告による出場停止を除く全試合に出場し、チームの4年ぶり一桁順位に貢献した。

2012年より柏レイソルに移籍[2]。柏では近藤直也増嶋竜也がCBとして出場した際は両SB、両者の欠場時にはCBを務めるも、リーグ戦での出場は23試合と5年振りに30試合を下回る結果に終わった。一方、天皇杯準々決勝の大宮アルディージャ戦では、試合途中にボランチから右SBにポジションを変更し、後半ロスタイムに工藤壮人の逆転ゴールをアシストするなど、全6試合中5試合に先発出場。柏レイソルとしては初となる天皇杯優勝に貢献した。

2013年1月5日浦和レッドダイヤモンズに完全移籍[3]。 開幕直後はAFCアジアチャンピオンズリーグでは先発出場、J1ではゲーム終盤で守備固めとしてボランチでの出場が続いていたが、3月30日アルビレックス新潟戦で怪我の永田充に代わって途中出場して以降、センターバックのレギュラーに定着。ACL予選第6節ムアントン・ユナイテッド戦からJ1第12節サガン鳥栖戦まで、自身初の公式戦4試合連続得点を記録した。
最終的にリーグ32試合でチーム3位の9ゴールと、それまで自己最多であった3ゴールを大きく更新する活躍を見せ、自身初となるJリーグベストイレブンに選出された。

エピソード[編集]

  • 2007年のマリノスのファン感謝イベントで中澤佑二率いる「DJオズマリノス」に若手選手に混ざって参加、「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」でダンスを披露した。
  • その性格の熱さから「マリノスの闘将」、「ヴェルディの闘将」と所属する先々のチームで命名されている。ちなみにサッカー以外でもすぐに熱くなるらしく、公私に親交のあるマリノスの坂田大輔には「やつはなんでも熱いから」と揶揄されている。
  • ボウリングでも熱くなるらしく、GUAPOブログでFC東京の中村北斗に所属事務所の忘年会でその熱さっぷりに「ナス(松)岡修造」とあだ名されていたことを公表されている。
  • 外食続きのためか、体脂肪が増えてしまったのを機に自炊を始めるようになる。なかでも彼オリジナルのカレーである通称「ナスカレー」は磐田の選手から好評であり、その評判を聞いた選手たちが次々と那須のもとを訪れるようになったという。
  • 大食漢であり、レイソルでチームメイトだった大谷秀和によると、「とにかくご飯が大好きで、『食わないとやせてしまうんだ!』と言ってメチャクチャ食べていた」という[4]
  • 2010年7月10日に一般女性と結婚[5]。2011年には第一子となる娘が生まれ、妻と共に練習場に連れてきたこともある。[6]

所属クラブ[編集]

ユース経歴
プロ経歴

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2001 駒大 4 - - -
2002 横浜FM 36 J1 3 0 0 0 1 0 4 0
2003 26 29 2 6 0 3 0 38 2
2004 24 1 3 0 1 0 28 1
2005 4 29 2 3 1 2 0 34 3
2006 16 1 9 1 3 0 28 2
2007 18 0 8 0 1 0 27 0
2008 東京V 5 32 1 6 0 1 0 39 1
2009 磐田 6 34 1 6 0 3 1 43 2
2010 33 3 11 0 2 0 46 3
2011 33 3 5 1 1 0 39 4
2012 23 0 3 0 5 0 31 0
2013 浦和 4 32 9 5 0 0 0 37 9
2014
通算 日本 J1 306 23 65 3 23 1 394 27
日本 - -
総通算 306 23 65 3 23 1 394 27

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2004 横浜FM 26 3 0
2005 4 5 1
2012 6 3 1
2013 浦和 4 5 2
通算 AFC 16 4

その他の国際公式戦

タイトル[編集]

代表歴[編集]

高校時代の全国大会歴[編集]

大学時代の全国大会歴[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]