槙野智章

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槙野 智章
名前
愛称 マキ、トンジ[1]
カタカナ マキノ トモアキ
ラテン文字 MAKINO Tomoaki
基本情報
国籍 日本
生年月日 1987年5月11日(22歳)
出身地 広島県広島市西区
身長 180cm
体重 74kg
血液型 O
選手情報
在籍チーム 日本の旗 サンフレッチェ広島
ポジション DF
背番号 5
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ App (G)
2006-現在 日本の旗 サンフレッチェ広島 063 (8)
1. 国内リーグ戦に限る。2008年12月13日現在。
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

槙野 智章(まきの ともあき、1987年5月11日 - )は、日本サッカー選手広島県広島市西区草津出身。Jリーグサンフレッチェ広島所属。ポジションはディフェンダー広島県立吉田高等学校卒業

目次

[編集] プレースタイル

恩師の森山佳郎(広島ユース監督)曰く「一言で言うとファイター」、ミハイロ・ペトロヴィッチ(広島監督)曰く「DFらしいDF」。高い身体能力と闘争心を持ち、1対1の局面での強さに定評がある。

また、得点への意欲が非常に高いのも特徴[2]。2009年現在、広島では3バックの一角を務めているが、試合中もセットプレーのみならず、流れの中で自由に前線へ上がり、強引なドリブル突破からシュートを放つシーンもしばしば見られ、自らのポジションを「DFW(DFながらFWの役割も果たす)」と称する。

2008年途中からPKのキッカーを任されることも増えたが、ゴールに対して背を向けてボールのすぐそばに立ち、笛がなった瞬間に体を反転、ほとんど助走をつけずにキックする、という、非常に独特な蹴り方を行う[3]

[編集] 来歴

生粋の地元育ちで、サッカーファンという父と既にサッカーをしていた2人の兄の影響でサッカーを始め、井口明神FCからサンフレッチェ広島ジュニアユースに入団。当初はFWをしており森重真人平繁龍一らと2トップを組んでいたが、トップ下・サイド・ボランチ等様々なポジションを経験した後、コーチの月岡利明によりCBにコンバートされる[4]

2003年にサンフレッチェ広島ユースに昇格、一学年上の前田俊介や同級の柏木陽介、一学年下の平繁龍一らと日本クラブユースサッカー選手権連覇など日本一に4度輝く。その中で槙野は2年生(2004年)でレギュラーを獲得、特に一学年上の藤井大輔と組んだCBは、森山監督をして「同世代には絶対に破れない」と言わしめるほどの絶大な信頼を置かれていた。3年生の時には広島ユース・広島県選抜(おかやま国体)の主将を務めた。またU-17、U-18、U-19の各日本代表にも選出され主将を務めるなど中心選手として活躍した。

2006年にユースからトップへ昇格[5]。また同年11月に開催されたAFCユース選手権2006、翌2007年7月に開催されたFIFA U-20ワールドカップ2007では守備の要として、またムードメーカーとして[6]活躍した。

2007年、ダリオ・ダバツおよび盛田剛平の怪我により先発メンバーに抜擢され、以降レギュラーとして活躍している。同年末にJ2降格が決まった際も、佐藤寿人と並び真っ先に広島残留を表明。翌2008年から駒野友一の移籍に伴い背番号5をつけ、出場停止1試合を除いてすべての試合に出場し、J1昇格に貢献した。

2009年5月キリンカップ2010 ワールドカップ予選に臨む日本代表に初招集された[6]

[編集] 人物

非常にポジティブで物怖じしない性格。ムードメーカーな面を持ち合わせ、数々のエピソードを持つ[7][8]

「ミスター・サンフレッチェ」になると公言しており、憧れの選手の一人として1990年代のミスター・サンフレッチェである森保一の名前を挙げている。

地元・広島東洋カープファン。特に天谷宗一郎外野手と親交があり、広島アスリートマガジン2009年2月号にて対談を行っている。

[編集] 所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴
  • 2006年 - 現 在 : サンフレッチェ広島 

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2006 広島 28 J1 1 0 1 0 0 0 2 0
2007 広島 28 J1 18 1 4 0 5 0 27 1
2008 広島 5 J2 44 7 - 4 1 48 8
2009 広島 5 J1
通算 日本 J1 19 1 5 0 5 0 29 1
日本 J2 44 7 - 4 1 48 8
総通算 63 8 5 0 9 1 77 8
  • 2007年 : 入替戦2試合0得点
  • 2008年 : Jリーグスーパーカップ1試合0得点

[編集] 出場歴・タイトル

[編集] クラブチーム

アンダーカテゴリー
  • 日本クラブユース選手権U-15(2002年)
  • メニコンカップ日本クラブユースサッカー東西対抗戦U-15(2002年・西軍)
    • ※クラブユース選手権優秀選手より選抜
  • 日本クラブユース選手権(2003年・2004年優勝、2005年GL敗退)
  • 高円宮杯全日本ユース選手権(2004年優勝、2003年・2005年3位)
  • Jユースカップ(2003年優勝、2004年準優勝、2005年ベスト8)
  • 天皇杯全日本選手権(2003年1回戦敗退)
  • 国民体育大会広島県代表(2004年2回戦敗退、2005年3回戦敗退)
トップチーム

[編集] 代表

アンダーカテゴリー

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ サッカーマガジンデータベース参照。子どものころ、豚汁好きから彼の兄が付けたとのこと。
  2. ^ 「得点王を狙います」(入団会見のコメント)、「シーズン10得点が目標」(2008年の個人目標を聞かれた際のコメント)といったコメントをしばしば発し、目標の選手には田中マルクス闘莉王を挙げるなど。
  3. ^ ただし、2009年J1第2節大宮アルディージャ戦においてPKを失敗し、逆転負けの一因となった。そのためか、以降は主にイリアン・ストヤノフがPKキッカーを務めている。
  4. ^ 槙野智章 公式Webサイト参照
  5. ^ 同期は、橋内優也柏木陽介趙佑鎮
  6. ^ a b U-20W杯本大会では髪を赤に染めていた。これは戸田和幸2002 FIFAワールドカップ当時にしていたヘアースタイルを真似たもの。現地では「ジャパニーズ・ベッカム」と評され注目された。2009年にA代表に初招集されたときにも同様の髪型にしている(J'sGOALフォトニュース参照)。
  7. ^ 2004年、ユースの中国遠征での移動中、森山の隣に座った槙野は一人ひたすら喋っていたため、森山に「千円やるから10分だまれ」と言われた。その後10分黙り千円を貰ったあと、再び喋り続けた。
  8. ^ 2005年、ドイツへ遠征に行った際、飛行機の中で13時間一睡もせずに喋り続けた。まずはチームメイトと喋り、チームメイトが誰も相手にしなくなると隣にいた一般人のおじさんと喋り、おじさんが寝ると乗務員の控え室前に陣取ってスチュワーデスと喋り続けた。

[編集] 外部リンク

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