原博実

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原 博実 Football pictogram.svg
名前
愛称 ヒロミ、アジアの核弾頭
カタカナ ハラ ヒロミ
ラテン文字 HARA Hiromi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1958年10月19日(53歳)
出身地 栃木県那須塩原市
身長 183cm[1]
体重 76kg[1]
選手情報
ポジション FW
利き足 左足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1981-1992 三菱重工/三菱自動車 192 (65)
代表歴 2
1978-1988 日本の旗 日本 75 (37)
監督歴
1998-1999
2002-2005
2007
浦和レッドダイヤモンズ
FC東京
FC東京
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月23日現在。
2. 2007年12月23日現在。
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原 博実(はら ひろみ、1958年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者サッカー解説者栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)出身。日本サッカー協会技術委員長(強化担当)。

Jリーグでは、浦和レッドダイヤモンズ1998年 - 1999年途中)、FC東京2002年 - 2005年2007年)の監督を務める。リーガ・エスパニョーラに関し、造詣が深い。

目次

[編集] 来歴

[編集] 選手として

栃木県立矢板東高等学校から早稲田大学教育学部を経て日本サッカーリーグ三菱重工業サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード。ちなみに三菱→浦和のエースナンバーとされる背番号9番を、福田正博の前に付けていたのが原である。チームからの呼び掛け[2]に応じ31歳でプロ契約し三菱重工業を退社した。

日本代表として国際Aマッチ75試合に出場した。37ゴールは歴代3位の記録(ただし、Aマッチ以外の日本サッカー協会が認定している日本代表の試合を含めると171試合出場、72ゴールでゴール数は歴代2位となる)。ヘディングシュートを得意とし(ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その得点力で「アジア核弾頭」の異名を取った。特に'86W杯予選・ホーム北朝鮮戦での「雨中ゴール」、1987年ソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での決勝ヘディングシュートが有名である。

[編集] 指導者としての活動

[編集] 浦和レッドダイヤモンズ

1992年に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督等を経て1998年に監督に就任する。同年セカンドステージではチームを3位に導くものの、翌1999年ファーストステージは13位と振るわず、解任された。
その後スペインに渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。
原自身は後に雑誌のインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された本『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。

[編集] FC東京

2002年からFC東京の監督に就任。それまでは守備的で、速攻カウンター戦術のみだったチームに、スペインの香り漂う多彩なサイド攻撃を導入し、FC東京をJ1の上位争いに絡める位置へと押し上げた。特に初めての指揮となった2002年Jリーグ開幕戦、前年度王者鹿島アントラーズからあれよあれよと4点を奪い圧勝した試合は、今でも語り草になっている。
また監督インタビューでは解説者時代に引き続き名言を連発し、自チームのゴール時には現役時代さながらに体全体で喜びを表現するなど、チーム成績とは別の部分でもサポーターに愛される存在となっている。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。
契約期間最後の年である2005年は出だし良く首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどから成績が低迷、負けが混みJ2降格圏まで急降下し、一時は解任の危機とも報じられたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きが原因でクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった。
FC東京監督の就任当初はその監督手腕に対して懐疑論もあり、2002年初夏には敗戦後に”原ヤメロ”コールが起きた事もあったが、東京の監督を務めて4年、最終的には選手・チーム関係者・記者・サポーターすべてに愛され見守られる存在となった。退任報告の集会に5000人近くのファンが詰め掛けた。
原の退任後の2006年シーズン、FC東京の成績は振るわず、後任のガーロが半年で解任された。その後倉又寿雄が指揮を執り降格圏内からは免れたものの終始下位に沈んだ。このため、翌2007年シーズンから原が監督に再招聘されたが、シーズンを通して上位には浮上できず、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった。
FC東京監督就任後は、古巣・浦和をライバル視する発言を幾度となく繰り返していたが、一方で2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務めていた。また2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは喜びを語るとともに「浦和も非常に素晴らしいチームで、ナビスコはウチ(FC東京)が獲れましたけど、浦和は是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しいと思っています」とエールを送っている。

[編集] 日本代表

2009年2月12日、JFA技術委員長(強化担当)、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員に就任。2010 FIFAワールドカップ終了後のサッカー日本代表新監督選定の中心となった。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。

[編集] 評価

[編集] 監督としての戦術・若手育成

指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る[3]

浦和においては初年度に小野伸二を起用し、チームの大黒柱へと成長させた。若手の山田暢久をキャプテンに抜擢したこともあった。ただし、元々小野は広く注目されていたことからその功績をあまり重視しない見方もある。さらに翌年も盛田剛平らの新人選手の起用に拘泥しシーズン途中で解任された(浦和はこの年J2に降格)ことなどから、浦和時代の評価は分かれる。

浦和OBで、かつてのチームの中心選手だった福田正博は、「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。

その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川直宏茂庭照幸今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた。特に、横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対して「(故障者が出ている)今なら使っちゃうよ」という口説き文句で移籍を決断させた。

また4バックシステムをこよなく愛する監督としても知られ、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した[1]

[編集] 解説・評論

原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯に得点しましたね」[4]と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言したことが、そのきっかけとなった。

試合に熱中するあまり解説を忘れることもしばしばだが、広い視野からの的確な指摘を分かりやすく視聴者に伝えるという解説者としての技量がある、さらに選手への批判も臆せず口にする。解説者を辞する時はスカパー!で特別番組が何本も作られた。コラムニストのえのきどいちろうもヒロミスタの一人である。

また、浦和レッズ監督時代に指導したチキ・ベギリスタインFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことと関連して、スペイン語は堪能である。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時代でも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。

[編集] 解説者としての出演歴

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1981 三菱 JSL1部 18 4
1982 三菱 14 JSL1部 18 7
1983 三菱 11 JSL1部 18 3
1984 三菱 9 JSL1部 18 8
1985 三菱 9 JSL1部 22 10
1986-87 三菱 9 JSL1部 22 8
1987-88 三菱 9 JSL1部 22 10
1988-89 三菱 9 JSL1部 18 3
1988-89 三菱 9 JSL2部 16 9 1 0
1990-91 三菱 9 JSL1部 18 3 1 0 0 0 19 3
1991-92 三菱 9 JSL1部 2 0 1 0
通算 日本 JSL1部 176 56
日本 JSL2部 16 9 1 0
総通算 192 65

その他の公式戦

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 75試合 37得点(1978-1988)


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1978 6 1 0 0 6 1
1979 2 0 1 0 3 0
1980 5 2 6 0 11 2
1981 10 1 8 5 18 6
1982 6 3 10 1 16 4
1983 10 6 18 7 28 13
1984 7 5 5 3 12 8
1985 10 5 8 4 18 9
1986 6 7 6 1 12 8
1987 11 7 15 1 26 8
1988 2 0 17 11 19 11
通算 75 37 94 33 169 70

[編集] 得点数

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1978年12月13日 タイバンコク バーレーンの旗 バーレーン 4-0 勝利 アジア競技大会
2 1980年6月9日 中華人民共和国広州 香港の旗 香港 3-2 勝利 広州国際大会
3 1980年6月18日 中華人民共和国、広州 香港の旗 香港 2-0 勝利 広州国際大会
4 1981年9月8日 マレーシアクアラルンプール アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 3-2 勝利 ムルデカ大会
5 1982年11月23日 インドニューデリー 南イエメンの旗 南イエメン 3-1 勝利 アジア競技大会
6
7 1982年11月25日 インド、ニューデリー 韓国の旗 韓国 2-1 勝利 アジア競技大会
8 1983年2月12日 シリアダマスカス シリアの旗 シリア 2-2 引分 親善試合
9
10 1983年9月4日 日本東京 フィリピンの旗 フィリピン 7-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
11 1983年9月7日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 7-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
12 1983年9月15日 日本、東京 チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ 2-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
13 1983年9月25日 ニュージーランドオークランド ニュージーランドの旗 ニュージーランド 1-3 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
14 1984年3月6日 ブルネイバンダルスリブガワン ブルネイの旗 ブルネイ 7-1 勝利 親善試合
15
16 1984年4月18日 シンガポール マレーシアの旗 マレーシア 1-2 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
17 1984年4月21日 シンガポール イラクの旗 イラク 1-2 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
18 1984年4月26日 シンガポール カタールの旗 カタール 1-2 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
19 1985年2月23日 シンガポール シンガポールの旗 シンガポール 3-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
20 1985年3月21日 日本東京 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 1-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
21 1985年5月18日 日本、東京 シンガポールの旗 シンガポール 5-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
22 1985年8月11日 日本、神戸市 香港の旗 香港 3-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
23 1985年9月22日 香港 香港の旗 香港 2-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
24 1986年7月25日 マレーシアクアラルンプール シリアの旗 シリア 4-0 勝利 ムルデカ大会
25 1986年8月1日 マレーシア、クアラルンプール マレーシアの旗 マレーシア 2-1 勝利 ムルデカ大会
26 1986年9月20日 大韓民国大田 ネパールの旗 ネパール 5-0 勝利 アジア競技大会
27 1986年9月20日 大韓民国、大田 バングラデシュの旗 バングラデシュ 4-0 勝利 アジア競技大会
28 1986年9月28日 大韓民国、大田 バングラデシュの旗 バングラデシュ 4-0 勝利 アジア競技大会
29
30
31 1987年4月8日 日本、東京 インドネシアの旗 インドネシア 3-0 勝利 ソウル五輪予選
32 1987年5月27日 日本、広島市 セネガルの旗 セネガル 2-2 引分 キリンカップ
33 1987年6月26日 インドネシアジャカルタ インドネシアの旗 インドネシア 2-1 勝利 ソウル五輪予選
34 1987年9月18日 日本、東京 ネパールの旗 ネパール 9-0 勝利 ソウル五輪予選
35
36
37 1987年10月14日 中華人民共和国、広州 中華人民共和国の旗 中国 1-0 勝利 ソウル五輪予選

[編集] 指導歴

  • 1992年-1999年 浦和レッドダイヤモンズ
    • 1992年-1994年 トップチーム コーチ
    • 1995年-1996年 ユース 監督
    • 1997年 トップチーム コーチ (サテライト兼任)
    • 1998年-1999年 トップチーム 監督
  • 2002年-2005年 FC東京 トップチーム 監督
  • 2007年 FC東京 トップチーム 監督
  • 2010年 サッカー日本代表 監督代行

[編集] 監督成績

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
1998 J 浦和 6位 34 61 22 - 12 予選リーグ敗退 ベスト8
1999 J1 浦和 13位* 15 13 3 4 8 ベスト8 -
2002 J1 FC東京 9位 30 39 13 2 15 ベスト8 3回戦敗退
2003 J1 FC東京 4位 30 49 13 10 7 ベスト8 4回戦敗退
2004 J1 FC東京 8位 30 41 10 11 9 優勝 ベスト8
2005 J1 FC東京 10位 34 47 11 14 9 予選リーグ敗退 5回戦敗退
2007 J1 FC東京 12位 34 45 14 3 17 ベスト8 ベスト8
通算 - 207 - 86 44 77
  • 1999年は解任時点(1stステージ終了時)の順位。

[編集] 関連情報

[編集] 書籍

[編集] 脚注

  1. ^ a b 『1991-1992JSLイヤーブック』p55
  2. ^ Jリーグへの加盟申請をするためには、一定数のプロ契約選手が必要だった。
  3. ^ 西部謙司 (2007年8月15日). 最も愛される監督・原博実「ヒロミズム」. 出版芸術社. pp. 6-7頁. ISBN 9784882933274. 
  4. ^ 原のtwitterアカウント名は「iijikantai」(いい時間帯)である。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
  • 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992 ISBN 4-09-102301-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・サントリーシリーズ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102303-7
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1993・ニコスシリーズ ヤマザキナビスコカップ』、小学館、1993 ISBN 4-09-102305-3
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・サントリーシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102310-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1994・ニコスシリーズ』、小学館、1994 ISBN 4-09-102314-2
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1996』、小学館、1996 ISBN 4-09-102324-X
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1997』、小学館、1997 ISBN 4-09-102329-0
  • 『Jリーグオフィシャルガイド1998』、小学館、1998 ISBN 4-09-102335-5
  • 『J.LEAGUE Official Fans' Guide 1999』、トランスアート、1999 ISBN 4-88752-100-6

[編集] 外部リンク

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