原博実

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原 博実 Football pictogram.svg
名前
愛称 ヒロミ、アジアの核弾頭
カタカナ ハラ ヒロミ
ラテン文字 HARA Hiromi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1958年10月19日(56歳)
出身地 栃木県那須塩原市
身長 183cm[1]
体重 80kg[1]
選手情報
ポジション FW
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1981-1992 三菱重工 / 三菱自動車 192 (65)
代表歴2
1978-1988 日本の旗 日本 75 (37)
監督歴
1998-1999 浦和レッドダイヤモンズ
2002-2005 FC東京
2007 FC東京
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月23日現在。
2. 2007年12月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

原 博実(はら ひろみ、1958年10月19日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者サッカー解説者栃木県那須塩原市(旧・黒磯市)出身[2]日本サッカー協会専務理事。

横浜スポーツ&カルチャークラブでスタジアムDJを務める原大悟は実子[3]

来歴[編集]

選手時代[編集]

小学5年生時からサッカーに傾倒し[4]、中学生の頃には長身を活かしたヘディングを得意とした[5][6]1974年矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り[6]。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた[6]

1977年早稲田大学教育学部へ進学[2]。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ねて優勝を果たした[4]。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた[4]。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年次には主将を務めた[4]

1981年三菱重工業に入社し(勤労管理課[2])、日本サッカーリーグ(JSL)同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した[7]。中盤の構成力に欠ける三菱では、田口光久らが原を目掛けてフィード、原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うというシンプルなカウンター攻撃も多用された[4]1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。

社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからの呼び掛けに「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び[注 1]三菱重工業を退社した[7]。Jリーグでのプレーを望んでいたが[7]、コーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退した[8]

大学在学中に日本代表に初選出され[2]、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位[注 2]となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点[8]。)。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量からサイドで守備にも貢献することを求められたため[9][10]左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし[11][9](ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その得点力で「アジア核弾頭」の異名を取った。特に1986年ワールドカップ予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた[11]「雨中ゴール」、1987年ソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュート[12]が有名である。

指導者時代[編集]

浦和レッドダイヤモンズ[編集]

1992年5月に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督を務めた。

1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中[13]、新人の小野伸二トップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った[13][14]。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮向ければ」と主将に据えている[14][15]

1999年ファーストステージは負傷者が続出した影響もあって[16][17]13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった[18]。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている[18]。原自身は後に雑誌のインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された本『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。

2000年以降は浦和の育成担当としてクラブに残留するという選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し[17]、浦和を退団。

その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった[19]。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。

FC東京[編集]

2002年からFC東京の監督に就任[8]新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべく負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換[20][21]。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという[6]

初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった[22]4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃[23]で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。

解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿で[24][25][26]チーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた[27]。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。

2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどからJ2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった[26]。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。

2007年、監督に再任[28]。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカー[29]を続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった[30]

日本サッカー協会[編集]

2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編[31]。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され[31]、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した[31]

また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23サッカー日本代表の団長を務めた。

2013年12月より、JFA専務理事を兼務[2]。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した[32]。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって[33]技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念[34]

評価[編集]

監督としての戦術・若手育成[編集]

指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い[35]。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る[36]

浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。

その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた[37]横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている)今なら使っちゃうよ」という口説き文句で移籍を決断させた。

選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント[24]。原の下で5年間(2002-2005,2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねない。選手と正直に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している[38]

4バックシステムを好み[39]、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した[40]。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうか[39]である。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから[41]2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には本来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった[42]

解説・評論[編集]

原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯[注 3]に得点しましたね[43]」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言した[43]ことが、そのきっかけとなった。

試合に熱中するあまり解説を忘れることもしばしばだが、広い視野からの的確な指摘を分かりやすく視聴者に伝えるという解説者としての技量がある、さらに選手への批判も臆せず口にする。解説者を辞する時はスカパー!で特別番組が何本も作られた。コラムニストのえのきどいちろうもヒロミスタの一人である。

また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得[44]。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している[45]。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。

解説者としての出演歴[編集]

JFA技術委員長就任以降も不定期にメディア出演を行なっている。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1981 三菱 JSL1部 18 4
1982 14 18 7
1983 11 18 3
1984 9 18 8
1985 22 10
1986-87 22 8
1987-88 22 10
1988-89 18 3
1988-89 JSL2部 16 9 1 0
1990-91 JSL1部 18 3 1 0 0 0 19 3
1991-92 2 0 1 0
通算 日本 JSL1部 176 56
日本 JSL2部 16 9 1 0
総通算 192 65

その他の公式戦

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 75試合 37得点 (1978-1988)[2]


日本代表 国際Aマッチ その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1978 6 1 0 0 6 1
1979 2 0 1 0 3 0
1980 5 2 6 0 11 2
1981 10 1 8 5 18 6
1982 6 3 10 1 16 4
1983 10 6 18 7 28 13
1984 7 5 5 3 12 8
1985 10 5 8 4 18 9
1986 6 7 6 1 12 8
1987 11 7 15 1 26 8
1988 2 0 17 11 19 11
通算 75 37 94 33 169 70

得点数[編集]

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1978年12月13日 タイバンコク バーレーンの旗 バーレーン 4-0 勝利 1978年アジア競技大会
2 1980年6月9日 中華人民共和国広州 香港の旗 香港 3-2 勝利 広州国際大会
3 1980年6月18日 中華人民共和国、広州 香港の旗 香港 2-0 勝利 広州国際大会
4 1981年9月8日 マレーシアクアラルンプール アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 3-2 勝利 ムルデカ大会
5 1982年11月23日 インドニューデリー 南イエメンの旗 南イエメン 3-1 勝利 1982年アジア競技大会
6
7 1982年11月25日 インド、ニューデリー 韓国の旗 韓国 2-1 勝利 1982年アジア競技大会
8 1983年2月12日 シリアダマスカス シリアの旗 シリア 2-2 引分 親善試合
9
10 1983年9月4日 日本東京 フィリピンの旗 フィリピン 7-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
11 1983年9月7日 日本、東京 フィリピンの旗 フィリピン 7-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
12 1983年9月15日 日本、東京 チャイニーズタイペイの旗 チャイニーズタイペイ 2-0 勝利 ロサンゼルス五輪予選
13 1983年9月25日 ニュージーランドオークランド ニュージーランドの旗 ニュージーランド 1-3 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
14 1984年3月6日 ブルネイバンダルスリブガワン ブルネイの旗 ブルネイ 7-1 勝利 親善試合
15
16 1984年4月18日 シンガポール マレーシアの旗 マレーシア 1-2 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
17 1984年4月21日 シンガポール イラクの旗 イラク 1-2 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
18 1984年4月26日 シンガポール カタールの旗 カタール 1-2 敗戦 ロサンゼルス五輪予選
19 1985年2月23日 シンガポール シンガポールの旗 シンガポール 3-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
20 1985年3月21日 日本東京 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮 1-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
21 1985年5月18日 日本、東京 シンガポールの旗 シンガポール 5-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
22 1985年8月11日 日本、神戸市 香港の旗 香港 3-0 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
23 1985年9月22日 香港 香港の旗 香港 2-1 勝利 1986 FIFAワールドカップ予選
24 1986年7月25日 マレーシアクアラルンプール シリアの旗 シリア 4-0 勝利 ムルデカ大会
25 1986年8月1日 マレーシア、クアラルンプール マレーシアの旗 マレーシア 2-1 勝利 ムルデカ大会
26 1986年9月20日 大韓民国大田 ネパールの旗 ネパール 5-0 勝利 1986年アジア競技大会
27 1986年9月20日 大韓民国、大田 バングラデシュの旗 バングラデシュ 4-0 勝利 1986年アジア競技大会
28 1986年9月28日 大韓民国、大田 バングラデシュの旗 バングラデシュ 4-0 勝利 1986年アジア競技大会
29
30
31 1987年4月8日 日本、東京 インドネシアの旗 インドネシア 3-0 勝利 ソウル五輪予選
32 1987年5月27日 日本、広島市 セネガルの旗 セネガル 2-2 引分 キリンカップ
33 1987年6月26日 インドネシアジャカルタ インドネシアの旗 インドネシア 2-1 勝利 ソウル五輪予選
34 1987年9月18日 日本、東京 ネパールの旗 ネパール 9-0 勝利 ソウル五輪予選
35
36
37 1987年10月14日 中華人民共和国、広州 中華人民共和国の旗 中国 1-0 勝利 ソウル五輪予選

指導歴[編集]

  • 1992年 - 1999年 日本の旗 浦和レッドダイヤモンズ
    • 1992年6月 - 1994年 トップチーム コーチ
    • 1995年 - 1996年 ユース 監督
      • 1996年 サテライトチームコーチ (兼任)
    • 1997年 トップチーム コーチ (サテライト兼任)
    • 1998年 - 1999年 トップチーム 監督
  • 2002年 - 2005年 日本の旗 FC東京 トップチーム 監督
  • 2007年 日本の旗 FC東京 トップチーム 監督
  • 2009年 - 日本サッカー協会
    • 2009年2月 - 2014年9月 技術委員長 (強化担当)[2]
    • 2009年2月 - 特認理事[2]
    • 2009年11月 - 国際マッチメイク委員[2]
    • 2010年7月 - 理事[2]
    • 2013年12月 - 専務理事[2]
  • 2010年7月 - 日本プロサッカーリーグ 理事[2]

監督成績[編集]

年度 クラブ 所属 リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ナビスコ杯 天皇杯
1998 浦和 J 6位 61 34 22 - 12 予選リーグ敗退 ベスト8
1999 J1 13位* 13 15 3 4 8 ベスト8 -
2002 FC東京 9位 39 30 13 2 15 ベスト8 3回戦敗退
2003 4位 49 30 13 10 7 ベスト8 4回戦敗退
2004 8位 41 30 10 11 9 優勝 ベスト8
2005 10位 47 34 11 14 9 予選リーグ敗退 5回戦敗退
2007 12位 45 34 14 3 17 ベスト8 ベスト8
通算 日本 J1 - - 207 86 44 77 - -
総通算 - - 207 86 44 77 - -
  • 1999年は解任時点(1stステージ終了時)の順位。

関連情報[編集]

書籍[編集]

脚注[編集]

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注釈
  1. ^ Jリーグへの加盟申請をするためには、一定数のプロ契約選手が必要だった。
  2. ^ 後に三浦知良岡崎慎司が原を上回る得点数を記録。詳細はサッカー日本代表#記録を参照。
  3. ^ 原のtwitterアカウント名は「iijikantai(いい時間帯)」である。
出典
  1. ^ a b 国際親善試合 1988.09.13 東京・国立競技場 日本サッカー協会
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本サッカー協会 新専務理事に原博実理事が就任 日本サッカー協会 (2013年12月19日)
  3. ^ 原大悟プロフィール フットメディア
  4. ^ a b c d e f サッカー批評 69』 双葉社2014年、102-107頁。
  5. ^ 西部,97頁
  6. ^ a b c d 『FC東京ファンブック2005』 毎日新聞社2005年、4-11頁。
  7. ^ a b c 西部,53-55頁
  8. ^ a b c d 原 博実氏、来季監督就任合意のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年5月13日アーカイブ分) FC東京 (2001年12月5日)
  9. ^ a b 後藤健生,211-212頁
  10. ^ 後藤健生,226頁
  11. ^ a b 後藤健生,220-221頁
  12. ^ 後藤健生,233頁
  13. ^ a b コラム「14年前の今日(4月25日)」 浦和レッズ (2012年4月25日)
  14. ^ a b 西部,46-48頁
  15. ^ 『一途 山田暢久20周年メモリアルBOOK』 ベースボール・マガジン社2013年、42頁。
  16. ^ 福田正博が語る「浦和レッズと日本サッカーの20年」 Sportiva (2013年10月9日)
  17. ^ a b 西部,56頁
  18. ^ a b REDS VOICE Vol.36 浦和レッズ (2000年2月4日)
  19. ^ 西部,61頁
  20. ^ 『FC東京ファンブック2004』 毎日新聞社2004年、88頁。
  21. ^ 365日FC東京 <第33回> 強化部長 鈴木 徳彦 - ウェイバックマシン(2005年10月28日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2004年11月4日)
  22. ^ 後藤勝,96頁
  23. ^ 馬場康平 『まっすぐに平常心』 出版芸術社2010年、80頁。
  24. ^ a b 立正大サッカー部コーチ 戸田光洋さん【第2回】人間味あふれる指導者にあこがれを抱いた - ウェイバックマシン(2009年11月21日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2009年11月18日)
  25. ^ 【2004Jリーグヤマザキナビスコカップ F東京優勝報告会】椿原正浩社長・原博実監督コメント J's GOAL (2004年11月3日)
  26. ^ a b 原博実監督との来季契約について - ウェイバックマシン(2006年6月23日アーカイブ分) FC東京 (2005年12月4日)
  27. ^ “脱・原トーキョー”に成功。城福監督が新・東京を作った ゲキサカ (2009年11月3日)
  28. ^ 原 博実氏 来季監督就任のお知らせ - ウェイバックマシン(2006年12月16日アーカイブ分) FC東京 (2006年12月5日)
  29. ^ 西部,41頁
  30. ^ 原 博実監督との来季契約について - ウェイバックマシン(2007年11月22日アーカイブ分) FC東京 (2007年11月20日)
  31. ^ a b c サッカー協会、技術委員会を再編 強化トップに原博実氏 47NEWS (2009年2月12日)
  32. ^ サッカー批評 68』 双葉社2014年、40-45頁。
  33. ^ “大役”終えた原専務理事 新テーマは「JFAリフォーム」 スポーツニッポン (2014年7月25日)
  34. ^ 霜田氏が強化担当技術委員長 = 原氏の後任 - サッカー協会 時事通信 (2014年9月11日)
  35. ^ 西部,44頁
  36. ^ 西部,6-7頁
  37. ^ FC東京 原氏復帰 決定的 - ウェイバックマシン(2007年1月17日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2006年12月4日)
  38. ^ 『FC東京ファンブック2007』 毎日新聞社2007年、79頁。
  39. ^ a b 西部,83頁
  40. ^ J1クラブチーム監督アンケート結果 - ウェイバックマシン(2009年8月27日アーカイブ分) テレビ朝日
  41. ^ 西部,30-32頁
  42. ^ 馬場康平 『まっすぐに平常心』 出版芸術社2010年、174-176頁。
  43. ^ a b 後藤勝,94頁
  44. ^ 原監督『海外でやりたい』 - ウェイバックマシン(2008年1月21日アーカイブ分) 東京中日スポーツ (2007年12月25日)
  45. ^ 後藤勝,206頁
  46. ^ a b 第5回東アジア競技大会 日本代表選手団名簿 (PDF) 日本オリンピック委員会

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

プロフィール
特集

参考文献[編集]

先代:
小野剛
日本サッカー協会 技術委員長
2009年 - 2014年
次代:
霜田正浩