茂庭照幸

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茂庭 照幸 Football pictogram.svg
名前
愛称 モニ[1]
カタカナ モニワ テルユキ
ラテン文字 MONIWA Teruyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1981年9月8日(30歳)
出身地 神奈川県厚木市
身長 181cm
体重 82kg
選手情報
在籍チーム セレッソ大阪
ポジション DF
背番号 3
利き足 右足[1]
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1999-2001
2002-2009
2010-
湘南ベルマーレ
FC東京
セレッソ大阪
52 (0)
172 (1)
67 (0)
代表歴 2
2003-2006 日本の旗 日本 9 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。2012年1月25日現在。
2. 2006年12月30日現在。
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茂庭 照幸(もにわ てるゆき、1981年9月8日 - )は、神奈川県厚木市出身のプロサッカー選手。元日本代表。ポジションディフェンダー(主にセンターバック)。Jリーグセレッソ大阪所属。神奈川県立大秦野高等学校(現・神奈川県立秦野総合高等学校)卒業。

2006年ドイツW杯日本代表

目次

[編集] 来歴

1993年、小学校時代は厚木市のゴールプランダーズ(GP)に所属し、6年生の時に神奈川県代表として全日本少年サッカー大会に出場しベスト8。

中学時代からベルマーレのユースで育つ。一時期は中学の陸上部、バスケットボール部を掛け持ちしていた時期もあった。

1999年にベルマーレ平塚ユースに籍を置いたままトップチームに招集されJ1初出場。翌2000年J2降格・体制変更とともに改称し湘南ベルマーレとなったクラブのトップチームに昇格し、第3節大分トリニータ戦でスターティングメンバーに起用されると、その後もコンスタントに出場を重ねた。

2002年、J1のFC東京に1年間の期限付き移籍。当初は慣れないサイドバックにしかポジションがなかったが、原博実監督により次第に本来の定位置であるセンターバックのポジションを与えられるようになった。2003年にはFC東京に完全移籍し、センターバックの定位置を獲得。以後2006年まで在籍したジャーンとのコンビは堅守速攻スタイルのチームの軸となった。

2009年、それまで開幕には負傷で間に合わないことが多かったが、同年は万全で開幕スタメンに名を連ねた。しかし、開幕以後公式戦4戦で3失点以上の敗戦を3度喫したことから、DF陣の試行錯誤の時期を経て、5月からは城福浩監督がセンターバックにボランチの今野泰幸をコンバートし、ブルーノ・クアドロスとコンビを組ませたことでチーム成績が安定したことから両選手をレギュラーCBとして固定。また、同時期に茂庭は左足底腱の負傷に苦しんでいた事も重なりポジションを失った。8月に負傷から復帰したが、以後の出場機会は今野が代表招集により不在のナビスコカップ準決勝と、ブルーノ・クアドロスが出場停止の10月4日・対名古屋戦(瑞穂陸上競技場)のみとなり、その名古屋戦では相手FWケネディのヒジが茂庭の顔面に入り左眼窩底骨折の重傷を負い入院・手術し戦線から再離脱。この試合が同年最後の試合出場となった。2009年12月、FC東京は公式ホームページ上で来季の契約を結ばないことを発表。同月30日にセレッソ大阪への完全移籍が発表された。

C大阪へ移籍した2010年は、大分より移籍してきた上本大海とのコンビでCBとしてこの年リーグ2位の失点数となる堅守を構築し、チームのJ1復帰1年目でのAFCチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献。さらに公式戦全試合出場も果たし復活のシーズンとなった。2011年には退団した羽田憲司に代わってキャプテンを務めた[2]

[編集] 日本代表

2000年、U-19日本代表としてアジアユース選手権に出場。2001年にはU-20代表としてワールドユースアルゼンチン大会のメンバーにも選ばれたものの、負傷により帰国。

2002年、U-21日本代表としてトゥーロン国際大会釜山アジア大会に出場。 2003年、U-22日本代表として活動するかたわら、フル代表に選出され親善試合の対チュニジア代表戦で初の代表キャップを記録した。同年の東アジアサッカー選手権でもフル代表に選出。

2004年、日本代表候補合宿に参加するも、アテネオリンピック優先という方針でU-23代表に合流。この直後、合宿期間中に小笠原満男大久保嘉人らと共に夜間無断外出していたことが発覚し(キャバクラセブン)、フル代表からは排除される格好になった。アテネオリンピック日本代表として3試合にフル出場したが、グループリーグ突破はならなかった。

2005年には辞退選手の代替として急遽コンフェデレーションズカップの日本代表に追加選出され、無断外出による排除措置は事実上解消された。続く東アジアサッカー選手権では、A代表としての初ゴールを記録した。

当初、2006年ドイツW杯の日本代表メンバーには選ばれなかったが、開催地のドイツボンで本番前調整中に負傷の田中誠磐田)の代替として5月30日に追加選出された。その際休暇ホノルルにおり、現地時間の午前4時に強化部長からの国際電話で叩き起こされて代表選出を知らされたという[3]。急遽休暇の予定を繰り上げハワイから一旦日本に帰国、その後ドイツへ赴き日本代表に合流。アテネオリンピック代表からは駒野友一に続く選出となった(アテネオーバーエイジ枠の小野伸二は除く)。グループリーグ初戦のオーストラリア戦で坪井慶介の負傷交代により急遽出場。このように「急遽」尽くしで出られないと思っていたワールドカップのピッチを踏む事になった展開に茂庭本人は「俺はこういう何か(強運)を持っているタイプなんだなと思った」と語る。

オシム体制以後はケガやコンディション不良などが重なり招集されていない。

[編集] トピックス

  • 対人守備能力が高く、プレシーズンマッチではあったがロナウドに対して互角に戦い、2005年シーズンにおいては得点王を独走していたガンバ大阪FWアラウージョに対してシュートすら打たせずゲームから消すことに成功している。
  • ファウルを与えることが極めて少なく、センターバックでありながら2005年にフェアプレー賞を受賞するなど、被イエローカードも少ない。
  • 城福浩監督は、茂庭について「パスの技術はJ1でプレイする他のCBと比較しても高いレベルにあるが、90分間を戦う集中力に欠ける」とコメントした[4]
  • 明るいパーソナリティでスポーツ系テレビ番組にも出演歴があり、「サッカー選手になっていなかったら?」との問いには「芸能人・タレント」と回答する目立ちたがり屋であるが[5]、FC東京の応援番組等でチームメイトに語られる実際の性格は、非常にシャイな内面を持ち、実際にファンと接する際には「あえてめんどくさそうに対応している」とFC東京での同僚である石川直宏に指摘されている。
  • 小学校の頃キックベースが流行っていたので「ゴールプランターズ」というクラブチームに入った。しかしそこはサッカークラブだったというのがサッカーをはじめたきっかけ。
  • 湘南時代の背番号は2番、22番、FC東京でも2番と「2」にこだわりがあったが、2010年より所属するセレッソ大阪では背番号が3に決まり、初めて「2」以外の番号を付ける事になった。
  • 湘南当時在籍したパラシオスに厳しく指導をされていた。「モニー!ウェーーークアーープ!」と試合中に叫ばれたことも。
  • クラブチームおよび日本代表における茂庭への応援スタイルは、「も・に・わ!」と連呼しながら「わ」の所で両腕を使って頭の上に輪を作る、独特のものである。
  • 石川直宏とは小学校時代から県大会や選抜・代表チームなどで常に顔を合わせており、親密であるとともに、同じプロサッカー選手として良きライバルと見なしていることを、各種のインタビューで語っている。
  • アテネ五輪予選では阿部勇樹の蹴った得点になりそうな直接フリーキックが茂庭の体に当たってしまい得点を逃したことがあった。この珍事は、「週刊サッカーダイジェスト」に連載されていた4コマ漫画『スーパーさぶっ!!劇場』で「どんな状況でも茂庭がシュートをブロックする幻影が見えてしまう阿部」という格好のネタにされていた。
  • 2003年10月8日チュニジア戦でA代表初出場。この試合での柳沢敦へのアシストが決勝点になった。その試合中「そこはおまえがいけ」と中田英寿にコーチングをするが「なんでだよ」と言い返される。それ以前にも中田に挨拶に行った際「ベルマーレにいた茂庭です」と言うと「そうなの?」と返されたり(もっとも、中田在籍時の茂庭は二種登録でユースが主戦場だったため、練習で顔を会わせる事は少なかった)、試合中に「おい、モ!モ!」と「茂」だけ連呼されていた(実際は中田が茂庭をからかっていたと宮本が後に語っており、ベルマーレの後輩と言う事なのか、中田には珍しく茂庭個人を集中的にからかう節があった)。
  • 2003年12月7日東アジア選手権香港戦、ナイジェリアから帰化したローレンス・アカンドゥを見て「アイツ絶対香港じゃない!」と思ってそれを試合中にどうしても伝えたくなり、プレーが中断した時に宮本恒靖に「ツネさん!ちょっときてください!アイツ香港人じゃないっすよね?絶対違いますよ!」と伝えた。試合中だったのでマークの確認だと思った宮本は拍子抜けし「…お、おう」の 生返事の後、自分の位置に戻っていった。
  • 2005年10月26日に、愛車のトヨタ・ランドクルーザーV8が盗難にあった。12月に監督を退任した原博実からはお別れイベントの際「クルマの事はもう忘れろよ」との言葉を置き土産に貰った。翌年4月20日にはナンバープレートだけが見つかり、茂庭の元に戻った。(ちなみにそのナンバープレートの数字は茂庭という名前を意識したものだった)。戻ったナンバープレートと一緒に写真に写っている茂庭ははしゃいでいる。
  • 「人生の3分の1は寝てる時間だなぁ…そうだ!高級ベッド買おう!」と安直な発想で高級ベットを購入した。
  • 後輩には自らの胸をこぶしで叩きながら「痛がるんじゃねえ!ハートだ!ハートが強ければ痛くない!」という名言を残す。しかしその茂庭がチームの誰よりも痛がり屋で、原監督から「あいつはちょっとした事ですぐ痛がるから・・・」と言われ続けた。
  • JOMOオールスターサッカー2006で回りに誰も居ないことを確認してから意味のないまたぎフェイントを行った。後日、前日練習でふざけてやったところパウロ・アウトゥオリ監督や小野伸二が気に入り、試合でもやるように促されたからだとコメントしている[6]
  • 肉離れを「ミートグッバイ」という。この他にも日本語を直訳した不思議なカタカナをよく使う。また、ベルマーレユース時代に「キャプテンマークって日本語でなんて言うんだ?」と言うチームメイトの疑問に「大将印だろ」と真顔で答えた。
  • 2007年、「今年は絶対怪我をしないでフル出場」と宣言していたが、開幕前に肩を脱臼し早々に目標が崩れてしまった。

[編集] 所属クラブ

ユース経歴
  • 000000 - 1993年 厚木ゴールプランダーズ (厚木市立依知南小学校)
  • 1994年 - 1996年 ベルマーレ平塚ジュニアユース (厚木市立依知中学校)
  • 1997年 - 1999年 ベルマーレ平塚ユース (神奈川県立大秦野高等学校)
プロ経歴

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1999 平塚 24 J1 11 0 1 0 1 0 13 0
2000 2 J2 12 0 2 0 0 0 14 0
2001 22 29 0 2 0 2 0 33 0
2002 FC東京 2 J1 19 0 1 0 1 0 21 0
2003 27 0 7 0 1 0 35 0
2004 22 1 6 0 1 0 29 1
2005 32 0 6 0 2 0 40 0
2006 24 0 4 0 0 0 28 0
2007 17 0 3 0 3 0 23 0
2008 22 0 7 0 2 0 31 0
2009 9 0 3 0 0 0 12 0
2010 C大阪 3 34 0 6 0 3 0 43 0
2011 33 0 1 0 5 0 39 0
2012
通算 日本 J1 250 1 45 0 19 0 314 1
日本 J2 41 0 4 0 2 0 47 0
総通算 291 1 49 0 21 0 361 1
  • 1999年は平塚ユース所属。
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFC ACL
2011 C大阪 3 8 0
通算 AFC 8 0

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 試合数

  • 国際Aマッチ 9試合 1得点(2003-2006)


日本代表 国際Aマッチ
出場 得点
2003 2 0
2004 1 0
2005 4 1
2006 2 0
通算 9 1

[編集] ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2005年8月3日 韓国大田 中華人民共和国の旗 中国 △ 2-2 東アジアサッカー選手権2005

[編集] 個人タイトル

  • 2005年 - Jリーグフェアプレイ個人賞

[編集] 脚注

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  1. ^ a b WEBサッカーマガジン 選手データベース
  2. ^ 2010年シーズン中盤以降は本来キャプテンである羽田が主にベンチスタートだったため実質のゲームキャプテンを務めていた。
  3. ^ 茂庭が緊急帰国「実感がない」 日刊スポーツ 2006.05.31
  4. ^ アンチドロップアウトVol.10茂庭照幸 エリートDFを襲った転機 web Sportiva (小宮良之)
  5. ^ FC東京ファンブック
  6. ^ FC東京 選手インタビュー ジョブポケット、2008年

[編集] 外部サイト

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