中田英寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中田 英寿
名前
愛称 ヒデ
カタカナ ナカタ ヒデトシ
ラテン文字 NAKATA Hidetoshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 1977年1月22日(31歳)
出身地 山梨県甲府市
身長 175cm
体重 72kg
血液型 O型
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
代表歴
1997-2006 日本 77試合(11得点)


Template(ノート 解説)サッカー選手pj

中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - 山梨県甲府市出身)は、元サッカー選手。元日本代表。愛称はヒデ。現FIFA親善大使東ハトの執行役員。現在は世界各地を旅している[1] [2]

ワールドカップ3大会連続出場。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府より爵位受章。

目次

[編集] 人物

[編集] ユース時代~Jリーグデビュー

小学3年、8歳の時『キャプテン翼』の影響でサッカーを始める。幼少期から高校・ユースまではFWとしてプレー。甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15(15歳以下日本代表)に選出され、U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出す。以後、全ての年代別日本代表に選出され、全ての年代別の世界大会(U-17世界選手権U-19アジアユースワールドユースアトランタオリンピックシドニーオリンピック)において飛び級で出場し存在感を見せる。

また韮崎高校時代、2年時に高校選手権に出場している。そこで圧倒的な存在感を放った中田は1995年Jリーグ全12クラブ中ヴェルディ川崎以外の11クラブからオファー[3] を受け、ベルマーレ平塚に入団。翌年、ゲームメイク能力を買われてトップ下にコンバートされる。1996年シーズンオフ、イタリアセリエAの名門、ユベントスに短期留学[4]。中田の目は海外に向いていることが伺えた。

各年代別日本代表において主力として戦ってきた中田は、1997年前園真聖の離脱により日韓親善試合で日本代表デビュー。ワールドカップ・アジア最終予選で苦しむ日本代表をワールドカップ初出場へと導く原動力となっていく。

日本代表の中心選手のポジションを勝ち取ると、同年12月の『ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜』に選出され、弱冠20歳でアジアの顔となる。引退までに計8回も世界選抜試合に招かれ、引退後も各国各人から世界選抜試合[5] や親善マッチ[6]への招待が続いている。

[編集] 初のW杯出場、イタリアでのキャリアスタート

1998年、日本初出場となるフランスワールドカップではチームの核としてグループリーグの全3試合にフル出場。チームは全敗し国内では酷評されたが、そのプレーは海外のクラブに認められ、同年7月、中田獲得の名乗りをあげた11クラブからの移籍リスト[7] の中から交渉の結果、21歳の若さで世界3大リーグ[8]の一つ、イタリアのセリエA・ペルージャに5億2000万円で完全移籍した。

開幕戦でユヴェントス相手に2ゴールを奪いセリエAでの鮮烈なデビューを飾ると、この1998-1999シーズンはリーグ戦合計10得点(うちPK4得点)を挙げるという、ミッドフィールダーとしての当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立てる目覚しい活躍を見せ、イタリア有力スポーツ誌であるグエリン・スポリティーボ選出のセリエA・外国人選手MVPに選ばれた。

1999-2000シーズン途中に、約18億円で名門・ASローマに移籍。これは当時監督であった、ファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初は中盤の底で起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場して高いパフォーマンスを発揮した。しかし、生粋のローマ育ちでチームの象徴的存在になりつつあったトッティが復帰すると再び中盤の底で起用され、シーズン半ばから途中出場が多くなり、トッティの交代要員としてトップ下でプレーした。このような状況下でも、腐らずに与えられた時間の中で質の高いプレーを見せ、出場時間を徐々に増やしていった。中でも2000-2001シーズン終盤の第29節ユヴェントス戦での、途中出場ながら引き分けに持ち込むゴールを叩き出した活躍は、ロマニスタに称えられ、語り草となっている(パルマ移籍以降も、ローマのホームスタジアムであるオリンピコにおいては、中田をコールする前に「SHOGUN(将軍)」のキャッチフレーズが付けられていた)。ASローマはこの試合をきっかけに、一時は遠ざかりかけたスクデットを再び手繰り寄せていった。

2001年のコンフェデレーションズカップでは、セリエAの首位を走っていたASローマと日本代表監督フィリップ・トルシエとの間で、中田の召集を巡って軋轢が起こった。「予選リーグ3試合のみ参加」という条件で日本に帰国参戦、その後日本代表が予選を突破したため、トルシエとの話し合いで「準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻る」ことに。準決勝では激しい雨の中、直接フリーキックを叩き込んでチームをフル代表初の国際大会決勝に導いたが、約束通り決勝には出場せずにイタリアへ戻り、スクデット獲得の瞬間に居合わせることとなった。セリエAでは90年代からACミランとユベントスの2強がスクデットを独占していたが、ASローマが18シーズンぶりにスクデットを獲得。日本人初のセリエA優勝という快挙と合わせ、世界的なビッグクラブと代表チームの間で綱引きが起こるほどにまでに中田の存在感が強まっていたのである。

[編集] 2度目のW杯、クラブでの浮沈

2001年、アジア人最高額の約33億円でパルマに移籍。レンツォ・ウリヴィエリ監督の信頼の下、トップ下でプレーしたが、高額な移籍金に見合うパフォーマンスを発揮したとは言い難く、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリ監督の更迭後は指揮官が次々と変わり、レギュラー争いの日々となっていった。

2002年、25歳で記念すべき地元開催の日韓ワールドカップに出場。精神的にもチームを牽引する中心選手として、グループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。グループリーグのチュニジア戦では、ヘディングによる自身ワールドカップ初ゴールを記録している。

2002-03シーズンから指揮を執ったチェーザレ・プランデッリ監督には右サイドハーフでレギュラーとして起用された。アドリアーノアドリアン・ムトゥを生かす徹底したチーム戦術は、中田を加えて「トリデンテ」と呼ばれ奏功。敵地でのユベントス戦でゴールを決めるなど攻撃の中心として活躍した。しかし、シーズン後半になると守備的なチーム戦術への変更により、中田の動きを右サイドに張り付くように厳しく制約。無尽蔵の運動量を見せ評価もされたが、ポジションチェンジをしながら相手を崩す中で自分の持ち味が発揮されると考える中田とは確執が生まれた。この起用法についてはイタリアのメディアでも議論が起こり、ペルージャ時代の恩師マッツォーネが「ナカタはサイドの選手ではない」と苦言を呈したこともあった。また、当時のアドリアーノとムトゥは単独での突破が多く、チャンスの場面でも他の選手にパスを出さないなどエゴイスティックなプレーになりがちで、中田は何度も苦言を呈していた。プランデッリと話し合ったものの、翌シーズンになっても改善されない状況に、自分のスタイル(中盤の中央で自由に動く)を貫くことを選択。その結果ポジションを失ったため、2003-04シーズンの冬のマーケットで、中田に甚大な信頼を寄せるカルロ・マッツォーネ監督率いるボローニャへ半年間のレンタル移籍を決断。センターハーフを任された中田は移籍初戦から2試合連続でアシスト、チームメイトの信頼を得るとかつての輝きを取り戻し、以後セリエAと日本代表戦で全ての試合にフル出場する過密日程をこなし、ついにはグロインペイン症候群を発症するも、クラブのセリエA残留に貢献し恩師の期待に応えた。シーズン末、パルマは子会社の粉飾決算により破産。マッツォーネは中田の完全移籍を熱望したが、ボローニャ側はレンタル元であるパルマ側の破産管財人が要求した金額と年俸を工面できず頓挫した。

2004-05シーズン前にフィオレンティーナへ完全移籍。今まで大きな故障をしてこなかった中田だったが、シーズン前合宿までの2ヶ月あまり、日本においてグロインペインの治療に専念。しかし結局痛みを抱えたまま低調なプレーに終始する非常に苦しいシーズンとなり、現地ファンから酷評される。回復には1年を要し、その間にクラブと日本代表の両方の出場機会を失った。完治後、サテライトの試合で結果を出すと、早速ドイツワールドカップアジア最終予選に招集され、実力の均衡してきた厳しい戦いを支えて予選を突破した。クラブにおいても来季に向けての決意を新たにした直後、2005-06シーズンから新監督としてパルマ時代に確執があったプランデッリが就任することを知り、急転直下、移籍先を模索することとなる。

[編集] イングランドでの挑戦、さらに3度目のW杯にて

2005年、28歳で7年間住んだイタリアを離れ、イギリスのFAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。加入後すぐにレギュラーとして出場していたが、間もなく日本代表の親善試合に招集されると、サム・アラダイス監督はコンディションを憂慮して招集に難色を示した。しかし中田は代表戦の招集には全て参加。やがてアラダイス監督の信頼を失い、リーグ戦の途中出場とカップ戦での出場になっていったが、そこでのパスを繋ぐプレーが徐々に認められ、リーグ戦の終盤には5試合連続してスターティングメンバーに名を連ねてチームの勝利に貢献。ドイツワールドカップに向けての試合勘に対する不安視を払拭した。

2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツワールドカップのグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントへの進出を阻まれたが、第2戦のクロアチア戦では灼熱の試合の中で抜群の運動量、仕事量を見せてチームを牽引、引き分けながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。また敗退国から選ぶベストイレブンにも選出されている。ブラジル戦では力の違いを見せ付けられ、疲弊させられて手も足も出ない状況に陥る中、中田はそれでも何かできる事はないかと考え、「もう走る事しか出来ない」と思ったそうだが、終了の笛が鳴るまで走り抜いてピッチに倒れ込んだ姿は、今まで倒れない事を信条としてきた中田とは相反するものであり、人々の記憶に残った。

[編集] 現役引退~現在

2006年7月3日自身の公式HP上で現役引退を表明。現在は世界各地を旅しており、見聞を広めながら自分にできることを探したいという趣旨の発言をしている。また、サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし貢献もしたい」と繰り返し語っている。

2007年12月、日本で開催されたクラブワールドカップの記者会見に出席、引退後初めての公式会見となった。その席でFIFAブラッター会長は、中田が世界50カ国、150都市以上を旅しながらサッカーを通じて社会貢献活動を続けていることを高く評価し、世界で16人目となるFIFA親善大使への就任を要請したことを発表。中田は今後FIFAとともに様々な活動をしていく考えを述べ、要請を受諾した。

[編集] 略歴

[編集] 経歴

[編集] 受賞

[編集] タイトル

[編集] プレースタイル

瞬時に周囲を見渡せる視野の広さと抜群のスタミナと強靭な精神力、一瞬にして試合の流れを変えることができるパスを持つ。

「論理的に考えること」が中田の突出した能力である。戦術理解、状況分析と修正、コーチング、スペースメイキングの様に、目に見えない「考える」プレーのクオリティが非常に高い。90分を通して集中を途切れさせることなく豊富な運動量でチームを牽引しながら攻撃を組み立てる。[12]自分の考えを明示する中田は試合中に大声で要求や指示を出すが、日本代表の試合では特にチームメイトを鼓舞し、叱責し、檄を飛ばす。自らは悪質なファウルを受けてもすぐに立ち上がり、淡々とプレーを続ける。

フィジカルコンタクトの巧さ[13]や優れたボディバランスでボールキープ[14]、相手選手はファウルで中田を倒すことが多いため、フリーキックを多く獲得する。パススピードが非常に速く、『キラーパス』と称されたことも。自身が狙ったところから、その「パススピードを極度に落とす」という特殊なパスをすることができた。つまり、「パススピードをコントロールできる」パスを蹴ることができた。このため、セリエAのディフェンダーでさえ、中田のパスを防ぐことが難しかった。常に人の裏をかくプレーを狙っており、ディフェンスを切り裂くスルーパスや裏へのパス、ドリブルを展開し相手ディフェンスを引き付けておいて空いたスペースに出すスルーパス、楔と言われる前衛への縦パス、縦方向へのサイドチェンジなど、縦への速いビルドアップが中田の特徴的なプレーである。パスに関してはいくつかの種類のパスを蹴れることでも知られている。前述した、パススピードをコントロールできるパス-最初はパススピードがものすごく速いが、あるところからその速度が急激に落ちるというパス。この他に、パススピードがほとんど落ちないパス、わざとワンバウンドさせるスルーパス(ディフェンダーはタイミングがつかみにくい)、曲がるパス、精度の高いロングパスなどすばらしいボールを前線に供給できた。

ドリブルに関しても強いフィジカルとスピードを生かした力強いドリブルをする。スペースの見つけ方がとてもうまく、空いてるスペースにボールをコントロールして抜いていくことが多い。トリックをして抜いていくということは基本的にない。また、「論理的に考える」という突出した能力を生かし、その内空くであろうと思われるスペースを即座に判断し、そこにボールをコントロールしながら抜いていく。しかし、ドリブラーと評されることは少なく、かなり突出したパス能力から「すばらしいパサー」と評されることが多かった。

得点力もあり、ペルージャ移籍後のデビュー戦ではユベントス相手に2ゴールをあげ最終的にそのシーズンで10ゴールを記録した。ミドルシュートやボレーシュートに加え相手ゴールキーパーの位置を見て正確に蹴り込むシュートも多く、それ故セカンドトップに限りなく近い位置でプレーすることもあった。

プレイスキックの名手でもあり、壁の足元を抜ける地を這うような低い弾道が得意。「よっしゃ!」と両腕を上げてガッツポーズを見せた、コンフェデレーションズカップ2001オーストラリア戦におけるフリーキックでのゴールが印象的である。

[編集] 逸話

[編集] 個人として

  • 高校生の時からセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強をしており、今ではほとんどの訛りも分かる程イタリア語を身につけている。また、イタリアにいるころから英語の家庭教師に付き、英語のインタビューには英語で応対していたが、プレミアリーグへの移籍会見で初めて全て英語で応答している姿が放映され、いつの間に英語も習得したのかと驚かれた。さらに、映画『GOAL!』の主演男優とはスペイン語で話している映像も見られたが、スペイン語やポルトガル語・フランス語も簡単な会話が出来、ますます語学力を広げている。
  • ファッションアイコンとして海外でも有名。2007年、米誌『バニティ・フェア』誌上で第68回ベストドレッサー男性部門の第8位に選ばれた。「洋服が好き」と公言しており、ミラノやパリのファッションショーによく出没している。現役時代は帰国する際のファッションがファンやマスコミの注目を集め「成コレ」(成田コレククションの略)と呼ばれた。ファッション批評家のピーコは、「中田くんを見ていると勇気ですね。ファッションは勇気です。」とコメントしている。GQ[15]に10ページに渡って特集されたこともある。
  • Jリーグデビュー当時、前園真聖とともに、日清ラ王のCMに出演、、中田はコメディリリーフ的な役割であった。どちらかといえば一連のラ王のCMシリーズはメインは前園であり前園がサッカー選手として絶頂の時期であり、中田はまだ知名度的に前園に及ばない時期であったためである。
  • マスコミとの激しい確執は広く知られるところである。1996年のナビスコカップの際に会見の言葉尻だけを捉えた日刊スポーツの報道などをはじめとし、1998年フランスワールドカップ時の一連の出来事(朝日新聞が「『君が代』ダサい」と発言したと報じたが中田側は「歪められた」と否定。これにより右翼から家族を巻き込んだ嫌がらせを受ける)を契機に「真実を伝えない」としてマスコミとの軋轢が絶えなくなった。一時期は日本における生放送以外のメディア出演は一切拒否する姿勢をとり、自身のホームページで情報・メールを発信。これはスポーツ選手のホームページの先駆けとなった。また、本人があまりテレビの前で見せないような素の口調で綴っているメール、は現在のBlogMIXIで定着しているスタイルの先駆けともいえる。ワールドカップ日韓大会終了時あたりからは録画放送には出演するようになった。さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画作成し、自らが主体となってメディアを利用するようになっていった。
  • 上述の「君が代事件」に端を発する右翼団体からの圧力を警戒し、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードが付いていた事がある。その中の一人は、2001年のK-1 JAPANで優勝した経験を持つニコラス・ペタス選手であった。
  • メディアとの接触を極力避けてきたため無愛想で寡黙な性格だと思われがちだが、ドーハ世代やアトランタ世代である中山雅史三浦知良川口能活らは「非常に礼儀正しい」「人懐っこく、明るく、普通の若者」としている。逆に、シドニー世代以降の選手は近寄りがたく思う選手が多かったようで、代表の晩年には、和気藹々とした代表に馴染まない厳しい態度によって、敬遠される存在になってしまった。プライベートで連絡を取り合う前園真聖は、「(ドイツワールドカップメンバーに)自分がいたら、プレー以外の事でフォローが出来たはず。もしかするとヒデも引退を先延ばしにしたかもしれない」と歯がゆそうに語った。中山もそれ以前から「彼は年上にかわいがられるタイプで、今後リーダータイプに変われるかどうかですね」とコメントしていたことがある。
  • 29歳の若さで電撃引退し世間を驚かせたが、韮崎高校時代、「サッカーしか知らない人間になりたくない」とメディアのインタビューで答えており、30歳ぐらいには引退して他の道に進むのではないかという青写真をそのころから持っていた。
  • 野菜は形が残っていると食べられず、中国の孤児院で子供達と一緒に作った餃子も食べるマネをしてしのいだ。
  • ホワイトバンドプロジェクトに参加した。なお、このプロジェクトの日本版の企画に中田をマネジメントするサニーサイドアップが協力していた。

[編集] サッカー選手として

  • バロンドールの候補に3回選出されたのはアジア選手で最多。FIFA最優秀選手賞の候補には4回選出され、アジア選手で最多である。
  • U-17世界選手権(現在のU-17ワールドカップ)、ワールドユース(現在のU-20ワールドカップ)、オリンピック・コンフェデレーションズカップ、ワールドカップ・ナショナルチームの、以上主要な世界大会すべてでゴールをあげている唯一のアジア選手である。
  • 様々な世界選抜試合やジーコジダンロナウドフィーゴらの招待でチャリティーマッチに出場している。若干20歳で「世界選抜」に選出された際、選抜チームの主将はロナウドであった。後半、ロナウドが途中交代となりそのキャプテンマークをロナウドは中田英寿に渡した。このとき、この数十分間を20歳日本人の中田英寿が「世界の主将」としてプレーしたことになる。8年間に及んで欧州でプレーし、社交的な性格もあって世界のスーパースター選手との交流がある。デルピエロとは一緒に買い物に行き、揃いで靴を購入。カンナバーロとはクルージングでバカンス。ジーコの息子の結婚式に出席。ドイツワールドカップでは、対ブラジル戦、試合直前の入場通路でロナウド、ロナウジーニョカカらと談笑。試合後は倒れている中田を元同僚のアドリアーノが慰めるシーンが見られた。
  • サッカーに対する真摯な態度とそのひたむきさから、他チームに移籍後も古巣との試合では相手サポーターからも拍手が送られた。 パルマ時代のチームメートであり、友人であるファビオ・カンナバーロに「ヒデは一人で頑張りすぎるところがある」と言われたが、元日本代表監督のジーコは、どんな状態、状況でも全ての力を注ぐことができるのは大きな才能だと評価した。
  • 名波浩西澤明訓城彰二などが海外移籍→国内の元所属チームに戻ると言う、いわゆる「出戻り組」が目立つ中、中田も「ベルマーレに戻る日が来るのか」と言った質問に、「それは無いです。だって僕は(ベルマーレの)スポンサーですよ?」と笑いながら答えた。
  • 引退後は、フィリピンスラム街の子供たちとサッカーを楽しんだり、チベットの僧侶達にはサッカーのコーチをする約束をするなど、各国各地でサッカーを通じての交流を行っている。インタビューなどでもサッカーは世界共通の言葉だということを実感しているとのコメントを残している。
  • 2007年モンゴルではこの年を「日本年」としており、モンゴルサッカー協会主催のサッカーイベントに大相撲横綱朝青龍と共に招待され、笑顔でサッカーの試合に参加している姿が日本で放映されたが、朝青龍は腰の疲労骨折と肘の靭帯損傷により夏巡業の休場を決めたばかりであったため、国内世論の批判が大きくなり、日本相撲協会は朝青龍に対し長期の謹慎と出場停止、減俸等の処分を科した。この件について日本サッカー協会川淵三郎キャプテンは、中田は海外を拠点に活動していたために朝青龍が故障で夏巡業を休場していた事を知らなかったと擁護した。

[編集] 実業家として

  • フランス・フットボール誌が毎年、発表しているサッカー選手長者番付で99年に9位、00年に8位、01年に4位、02年に6位、03年に11位にランクインしている。
  • 日本のサッカー界へ様々な貢献をしている。
    • 故郷の山梨で中学時代の恩師が監督をしている「フォルトゥナSC」のクラブサポートをしており、会員No.0001である。出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府がJ1に昇格した際、スポンサーを紹介している。また、山梨県にユニフォームを贈呈するなど、故郷への思いが伺える。
    • ローマ在籍時より、J2に降格し、資金的に窮したベルマーレのクラブスポンサーを務め、自身のHPの"nakata.net"を広告で出しており、ユニフォームの背中に出した年もある。平塚競技場の7番ゲートは"Hideゲート"と名づけられている。2004年にはベルマーレジュニアユースの公式戦用ユニフォームをデザインし、一式をプレゼントしている。
    • なでしこリーグと個人的親交のあった「株式会社モック」の山田納生房代表取締役社長兼CEOスポンサー契約の橋渡し役となった。
    • 2002年と2006年には、ワールドカップに合わせて営業した『nakata.net cafe』で使用された家具をチャリティーオークションで販売し、その収益でJリーグアカデミーへミニゴール等を寄贈している。
  • 2005年ニューヨークにビルを購入。リフォームを手がけるのは安藤忠雄である。アンドリー・シェフチェンコが「部屋を借りたい」と申し出たらしい。
  • 2003年7月9日より、菓子メーカー株式会社東ハトの非常勤の執行役員CBO(Chief Branding Officer=チーフ・ブランディング・オフィサー)に就任。
  • 2006年7月 東ハトが山崎製パンに買収されたが、山崎製パン側より「買収後も継続して中田を起用していく」と回答、契約を継続している。

[編集] 所属クラブ

  • 1986年 - 1988年 北新サッカースポーツ少年団
  • 1989年 - 1991年 甲府北中学校
  • 1992年 - 1995年 山梨県立韮崎高等学校
  • 1995年2月 - 1998年 6月 ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)日本の旗
  • 1998年7月 - 2000年 1月 ACペルージャイタリアの旗
  • 2000年1月 - 2001年 6月 ASローマイタリアの旗
  • 2001年7月 - 2003年 12月 ACパルマ(現パルマFC)イタリアの旗
  • 2004年1月 - 2004年 6月 ボローニャ(レンタル)イタリアの旗
  • 2004年7月 - 2005年 7月 フィオレンティーナイタリアの旗
  • 2005年8月 - 2006年 6月 ボルトン・ワンダラーズ(レンタル)イングランドの旗

[編集] クラブにおける個人成績

国内大会 国際大会 通算
年度 クラブ NO. リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算 UEFA杯 CL予選
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1995 平塚 - J 26 8 - 2 1 28 9 - 28 9
1996 平塚 - J 26 2 12 2 3 0 41 4 - 41 4
1997 平塚 7 J 21 3 6 1 3 0 30 4 - 30 4
1998 平塚 7 J 12 3 - - 12 3 - 12 3
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
1998-99 ペルージャ 7 セリエA 33 10 0 0 - 33 10 - 33 10
1999-00 ペルージャ 7 セリエA 15 2 4 1 - 19 3 - 19 3
1999-00 ローマ 8 セリエA 15 3 1 0 - 16 3 - 16 3
2000-01 ローマ 8 セリエA 15 2 0 0 - 15 2 7 1 - 22 3
2001-02 パルマ 10 セリエA 24 1 6 2 - 30 3 6 1 2 0 38 4
2002-03 パルマ 10 セリエA 31 4 2 0 - 33 4 4 0 - 37 4
2003-04 パルマ 7 セリエA 12 0 2 0 - 14 0 4 1 - 18 1
2003-04 ボローニャ 16 セリエA 17 2 0 0 - 17 2 - 17 2
2004-05 フィオレンティーナ 10 セリエA 20 0 3 0 - 23 0 - 23 0
イングランド リーグ戦 FLカップ FAカップ 期間通算
2005-06 ボルトン 16 プレミア 21 1 2 0 3 0 26 1 6 0 - 32 1
通算 日本 J 85 16 18 3 8 1 111 20 - 111 20
イタリア セリエA 182 24 18 3 - 200 27 21 3 2 0 223 30
イングランド プレミア 21 1 2 0 3 0 26 1 6 0 - 26 1
総通算 288 41 38 6 11 1 337 48 27 3 2 0 366 51

[編集] 代表歴

[編集] 出場大会など

[編集] 日本代表における個人成績

   国際Aマッチ その他 年度通算
年度 NO. 出場 得点 NO. 出場 得点 出場 得点
1997 8 16 5 8 1 0 17 5
1998 8 10 1 8 1 2 11 3
1999 8、28 3 0 - - - 3 0
2000 8、7 4 0 - - - 4 0
2001 7 7 1 - - - 7 1
2002 7、27 8 2 - - - 8 2
2003 7 11 1 - - - 11 1
2004 7 2 0 - - - 2 0
2005 7 10 0 - - - 10 0
2006 7 6 1 - - - 6 1
通算 77 11 - 2 2 79 13

[編集] 関連項目

[編集] 関連作品

[編集] VHS

  • 中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.1
  • 中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.2

[編集] DVD

  • NAKATA
  • Grande NAKATA-グランデ・ナカタ-
  • HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 1
  • HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 2
  • HIDETOSHI NAKATA 2004-2005 FIORENTINA VOLUME.7
  • HIDETOSHI NAKATA 2005-2006 BOLTON VOLUME.8
  • HIDETOSHI NAKATA-THE JOURNEY2枚組
  • HIDETOSHI NAKATA [THE JOURNEY] Vol.3 ベルマーレ平塚

[編集] 書籍

[編集] 執筆書籍

[編集] 関連書籍

[編集] CD

  • 2005年 FREE STYLE VOL.1 R&B COLLABORATIONS~nakata.net music
  • 2005年 FREE STYLE VOL.2 DANCE&SOUL~nakata.net music 
  • 2006年 FREE STYLE VOL.3 Special edition for nakata.net cafe

[編集] 出演

[編集] CM・広告

「Eau+(オー・プラス)」(1998年)
「Eau+Ⅴ(オー・プラス Ⅴ)」
「SWITCH」(1999年)
プレオ(1988年)
レガシィ」(1998年)
「デジタルカメラ・IXY」(2001年)
「プリンター・PIXUS」(2001年)


[編集] テレビ・ラジオ番組

[編集] 脚注

  1. ^ http://edition.cnn.com/CNNI/Programs/revealed/nakata/
  2. ^ http://www1.ntv.co.jp/zero/nakata/
  3. ^ 鹿島アントラーズ浦和レッドダイヤモンズジェフユナイテッド市原横浜マリノス横浜フリューゲルスベルマーレ平塚清水エスパルスジュビロ磐田名古屋グランパスエイトガンバ大阪サンフレッチェ広島
  4. ^ 期待したトップチームではなく下部での練習だったため落胆したらしい。nakata.net tv 最終回において、ベルマーレ平塚が気持ちよく留学に送り出してくれたことを感謝の念をもって語っている。
  5. ^ (1)1997年12月・20歳 - ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜 (2)1998年12月・21歳 - イタリアサッカー協会100周年記念試合 イタリア代表対世界選抜 (3)2000年 8月・23歳 - 世界選抜チャリティーマッチ フランス対世界選抜 (4)2000年10月・23歳 - ジュビレオ杯(イタリア聖年記念試合) イタリア対セリエA外国人選抜 (5)2002年12月・25歳 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』レアル・マドリード対世界選抜 (6)2003年12月・26歳 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』(ロナウドチーム) (7)2004年11月・27歳 - 世界エイズデー 国際慈善試合 バルセロナ対世界選抜 (8)2005年 2月・28歳 - スマトラ沖地震チャリティーマッチ 世界選抜対欧州選抜 (9)2007年 6月・30歳 - ルイス・フィーゴチャリティーマッチ2007 フィーゴチーム対世界選抜(フィーゴチーム) (10)2007年7月・30歳 - 香港返還10年記念試合 中国・香港代表対FIFA選抜(キャプテン)
  6. ^
    • 2007年 6月・30歳 - (1)元ミャンマー代表同士の試合(2)ミャンマー代表同士の試合 以上2試合にキャプテンでフル出場
    • 2007年 12月・30歳 - ジーコチャリティーマッチ
  7. ^ 以下の11クラブ
  8. ^ スペインのリーガ・エスパニョーラ、イタリアのセリエA (サッカー)、イングランドのFAプレミアリーグ
  9. ^ 後半8分間の出場。しかしルーキーにもかかわらずいきなりPK戦キッカーの4人目として登場、PKを止められる。
  10. ^ 初戦のブラジルに対する勝利は『マイアミの奇跡』と呼ばれている
  11. ^ジョホールバルの歓喜』イラン戦に3-2の逆転勝利、全得点をアシスト。第3代表に決定した。
  12. ^ ドイツワールドカップでは、プレス、チェックを怠らず非常によく走り、ベンゲルから「まさしくプレミアリーグの中盤」と評されている。
  13. ^ 決して身体に恵まれているわけではなく、負けたくないという気持ちが強いからだと語っている
  14. ^ 「中田は銀行。中田に預ければ安心」とボローニャ時代チームメイトから言われた
  15. ^ [1]

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


先代:
尾崎将司
日本プロスポーツ大賞受賞者
1997年
次代:
佐々木主浩
先代:
コダダド・アジジ
アジア年間最優秀選手賞
1997,1998
次代:
アリ・ダエイ
日本の旗 日本代表 - 2006 FIFAワールドカップ