リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ
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| 名前 | |||||||
| 本名 | Ricardo Izecson Dos Santos Leite | ||||||
| 愛称 | カカー、リッキー | ||||||
| カタカナ | リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイテ | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1982年4月22日(29歳) | ||||||
| 出身地 | ブラジリア | ||||||
| 身長 | 186cm | ||||||
| 体重 | 82kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | |||||||
| ポジション | MF、FW | ||||||
| 背番号 | 8 | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2009年5月31日現在。 2. 2010年7月11日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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カカー(Kaká、本名:リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ、Ricardo Izecson Dos Santos Leite、1982年4月22日 - )はブラジル、ブラジリア出身の同国代表サッカー選手。2007年2月にはイタリア国籍も取得した[1]。 ポジションは主にミッドフィールダー(オフェンシブハーフ・トップ下)だが、セカンドトップなどフォワードのポジションもこなす。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 誕生~サンパウロFC時代
ブラジルの首都ブラジリアで生まれ、生後すぐにクイアバに移り、7歳の時にサンパウロへ移る。父がサンパウロFCのクラブ会員だったことから、9歳でサンパウロFCのクラブ会員用のチームに加入。当時から技術面では優れたものを持っていたが、他の子たちに比べて線が細く、補欠に甘んじていた。その後クラブでのトレーニングの成果でビルドアップに成功、弱点を克服した。
17歳の頃、クラブの深刻な財政難からトルコのクラブ、もしくはCSKAモスクワに売却されそうになった。だが本人は「あの時に移籍していても今のように素晴らしいキャリアを築くのは難しかっただろう」と語っている[2]。18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打し頸椎を損傷する重傷を負い[3]、あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、極度の近視となった以外は幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。カカーは、これを神のおかげであるとし、十分の一税を行った[4]。 なお、本人は「あの事故を契機に人生観が変わった」と語っている[2]。また、事故からわずか4ヶ月後には2001年2月のボダフォゴ戦でサンパウロFCのトップチームデビューを果たした。途中出場ながら2得点を決める活躍を見せると、以降サンパウロFCのトップチームに定着する。
[編集] ACミラン時代
2003年、850万ユーロ(約12億円)の移籍金でセリエA・ACミランへ移籍。サンパウロFCでは背番号8番を、2002 FIFAワールドカップでは23番をそれぞれ着けていたが、ミランでは既にジェンナーロ・ガットゥーゾとマッシモ・アンブロジーニがそれぞれの背番号を着けていたため、自身の誕生日の日付にちなんで22番を背負うことになった[2]。移籍初年度、当初はチームのトップ下ポジションにいるマヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフ、リバウドらのバックアッパーとしての働きを期待されていたが、開幕戦から驚異的な活躍をみせ、リーグ戦2試合目にして完全にスタメンの座を確立。移籍初年度にはセリエAで30試合に出場し、チームのスクデット、UEFAスーパーカップ獲得に大きく貢献した。
続く2004-05シーズンはアンドリー・シェフチェンコの後ろの位置でプレーし、36試合で7得点を決めた。この年、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝でリヴァプールにPK戦の末敗れたものの、カカーは投票による大会最優秀ミッドフィールダーに選ばれた。決勝戦におけるリバプール戦の敗北(イスタンブールの悲劇)について、「たとえこの先何度優勝できたとしてもあの敗北を忘れることは出来ない」と語っている[2]。また、2004年には国際連合世界食糧計画における最年少大使となった[5]。
ACミランとは当初2009年6月までの契約であったが、2005-06シーズン終了後にはACミランの八百長疑惑によりクラブのセリエB降格の危機が報じられ、カカーのもとにも複数のクラブから移籍のオファーが舞い込んだ。プレミアリーグのチェルシーから7000万ポンド(約152億6000万円)という超破格のオファーが来たが、ミラン側が首を縦に振らなかった。このとき本人も「ACミランが降格しないなら、クラブに忠誠を誓う」と発言。その後2006年7月15日にミランは降格を免れる判決を下された。
2006-07シーズンは、チャンピオンズリーグにて10得点を決めブラジル人としてはリバウド以来の得点王となり、チャンピオンズリーグ優勝の原動力となった。また、FIFAクラブW杯では1得点3アシストの大活躍を見せ、大会MVPに輝くと共に、欧州勢として初となるクラブW杯優勝、ミランとして1990年トヨタカップ以来4度目となる世界一に導いた。これらの活躍を評価され、2007年はバロンドール、FIFA年間最優秀選手賞、FIFPro年間最優秀選手賞、英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手賞(いずれも初受賞)と4つの栄誉を手にすることになった。
2007年、リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードから8000万ユーロ(約130億円)の移籍金と手取り1200万ユーロ(約20億円)のオファーがあったが、それでも移籍しなかった。また、レアル・マドリードへの移籍報道に関して、本人は「レアルは僕が欲しいなら、ベルルスコーニ会長の首を縦に振らせればいい」と言い、パオロ・マルディーニ引退後にキャプテンを継ぎたいと語った[6]。そして、2008年には2013年までACミランとの契約を延長した[7]。
2008年5月、アメリカのタイム誌による「世界で最も影響力のある100人」に選出された。アメリカという決してサッカー人気が高いとは言えない国による選出には本人も大変感動し、それと同時に正しい価値観を伝えていく責任や義務も感じたという。なお、この100人の中で彼は唯一のサッカー選手である。また、2009年にも同じく選出された。
2009年1月、プレミアリーグのマンチェスター・シティがカカー獲得にサッカー界史上最高額の移籍金1億ユーロ(約120億円)以上ともいわれる移籍金をミランに提示したことによる移籍騒動が勃発。カカーにも年俸1500万ユーロ(約20億円)を提示[8]し、ミランもカカーの移籍を容認(実際は説得)したものの、本人は残留を希望し、同月19日、ミランに残留することが決まった[9]。また、多くのサポーターは移籍に大反対し、中にはカカーの自宅周辺などに集結したサポーターもおり、カカーは窓からユニホームを掲げ、笑顔で応えた。 このときのカカのミラン残留により翌日の練習で監督のカルロ・アンチェロッティは、「今冬の補強はカカがこのミランというクラブに残留したことだ」 と語った。
[編集] レアル・マドリード時代
かねてから移籍の噂が絶えなかったが、2009年、フロレンティーノ・ペレスが会長に復帰したレアル・マドリードの最初の新加入選手として移籍金6800万ユーロ(約92億円)の6年契約で移籍。なお、この移籍金は2001年にジネディーヌ・ジダンが同じくレアル・マドリードに移籍したときの7696万ユーロ(約103億円)に次いで当時史上2番目に高額な移籍金となった[10][11]。 紆余曲折の末の移籍であり、カカー本人はこの移籍について会見で「(裏口ではなく)玄関から去る」と語った[12]。また、レシフェで行われた会見では、あくまで最高の形はミランへの残留であったとしながらも、移籍は財政難に苦しむミランのことを思えばこそであり、移籍をするのであればレアル・マドリードしかないと語った[13]。
入団発表では5万人のサポーターがエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウに集まった。レアル・マドリードでは当初、かつてジネディーヌ・ジダンが着けていた背番号5番を着けることが噂され、ジダン自身もカカーが5番を背負うことに好意的な発言をしたものの[14]、最終的には本人の希望で8番を背負うことになった[15]。親善試合のトロント戦でレアル・マドリードでのデビューを飾り、同じく親善試合のボルシア・ドルトムント戦で初ゴールを決め、更に2009年9月23日、ビジャレアル戦でペナルティーキックからレアル・マドリードでの公式戦初ゴールを記録した。しかし、恥骨炎の影響もあってか、かつてのような活躍は出来ておらず[16]、goal.comその年のリーガワースト移籍ランキングで10位に選ばれ[17]、更に2010 FIFAワールドカップ後には半月板の手術を行い、4ヵ月程度の離脱が発表された[18]。
翌年1月3日のヘタフェ戦で238日ぶりに招集を受け[19]、後半77分にカリム・ベンゼマとの交代でピッチに立った。翌週のビジャレアル戦でも71分から途中出場すると、復帰後初ゴールを挙げ、4月23日のバレンシア戦では2ゴール2アシストを挙げた。しかし、新加入のメスト・エジルの台頭などもあってレギュラーの座を奪うまでには至らず、シーズン終了後には移籍報道が加熱し、スペイン紙アスが行ったアンケートでは、78%が「カカを放出すべき」と答えた。しかし、カカ自身は一貫してレアル・マドリード残留を明言した[20]。2011-12シーズンは序盤こそベンチを温めていたが、徐々に本来のパフォーマンスを見せるようになっている。しかし一方で移籍の噂も絶えず、古巣ACミランやパリ・サンジェルマンなどが話題に登っている。
[編集] 代表での実績
2002年のボリビアとの試合で代表戦初出場を果たす。2002 FIFAワールドカップのメンバーにも選ばれ、出場機会はコスタリカ戦での25分のみと少ないながらも優勝を経験した。翌年のCONCACAFゴールドカップではU-23ブラジル代表のキャプテンを務め、3得点を挙げて準優勝に貢献した。FIFAコンフェデレーションズカップ2005でブラジルは優勝し、アルゼンチンとの決勝で得点も決めた。
2006 FIFAワールドカップではロナウジーニョ、ロナウド、アドリアーノと共にカルテット・マジコ(「魔法の4人」)を形成し世界中で話題となった。しかしチームは機能せず、個々の選手がバラバラに活躍するのみで優勝候補筆頭といわれた前評判を見せられぬまま、準々決勝でフランスに敗れベスト8で敗退した。
FIFAコンフェデレーションズカップ2009では背番号10を背負い、ブラジルの優勝に貢献すると共に大会最優秀選手(ゴールデンボール)に輝いた。
2010 FIFAワールドカップでは、前回大会のカルテット・マジコから唯一代表に選出された。しかし、結果は前回大会と同じベスト8でオランダに逆転負けを喫し、カカーは大会アシスト王となるも無得点に終わった。南アフリカW杯以降は代表に招集されず、コパ・アメリカ2011でもプレーすることはなかった。親善試合の11月10日のガボン戦、同14日のエジプト戦で南アフリカW杯以来となる代表招集を受けたが、ふくらはぎの負傷により代表復帰は見送られた[21]。
[編集] 人物
ブラジル人サッカー選手に多い貧困層出身ではなく、どちらかというと中流階級の育ちであるが、その事を鼻にかけたりせず誰とでも気さくに付き合うようで人間的にも評価が高くチームメイトの信頼も厚い。彼自身、白人であるが人種の坩堝であるブラジル育ちということもあり黒人や黄色人種への人種差別には強固に反対し発言もしている。しかし、2008-09シーズンはクラブにおいて監督の戦術などを批判することもあった[22]。
2005年12月、長年の遠距離恋愛を経て5つ下のブラジル人女性カロリーネ・セリコと母国ブラジルにて結婚した。彼女の母親はディオールのブラジル支社の幹部。2008年6月10日に長男ルーカスが、2011年4月23日に長女イザベラが誕生した。実弟のロドリゴも2005年にACミランへ入団、ジゴン(Digão)の名で選手登録されている。ジゴンは2007年夏にレンタル終了でミランに復帰し、兄と共にプレーしていた。また、呂比須ワグナーとは仲がよく、オフの時はゴルフに行く。カカーにとってのアイドルは、ブラジル代表やサンパウロFCなどでプレーしたライー[2]。
プロテスタントのクリスチャンであり、特に敬虔なクリスチャンとして知られている。愛読書は聖書、好きな音楽はゴスペル、座右の銘は聖書の言葉の「神に忠実なれ」。無人島に3つ物を持っていくとすればサッカーボール、聖書、iPodを持っていきたいと語っている。FIFAクラブワールドカップ2007決勝戦のボカ・ジュニアーズ戦などの試合でゴールを決めた後に「私はイエスのもの」という意味の「I BELONG TO JESUS」という文字が書かれたシャツを見せた他、The Prizeというクリスチャンのサッカー選手の話を集めたDVDに出演[23]した際に、「SEXは結婚してからの祝福」と発言し、結婚するまで童貞だった事も告白している。同性愛についても否定的に考えており、ブラジルのゲイ雑誌が彼のそっくりさんのヌードを掲載すると知った際には、「その企画に何らかの形で「カカー」の名前が載った場合、名誉毀損で雑誌を告訴する」と強く主張した[24]。
前述の事故の影響で近視になったカカーは、試合中はコンタクトレンズを使用し、普段は度の強いメガネをしていたが、2007年6月に極秘でレーシック手術を受けた模様。
用具等はアディダス社と契約している。アルマーニの広告モデルを務めたこともある。また、エレクトロニック・アーツのゲームソフト、FIFA11のカバーにも選ばれた[25]。
[編集] 名前について
「カカ(Kaká)」という名前は、幼い弟が本名の「リカルド」を発音できずに「カカ」と呼んでいたことに由来する[2]。そのため何の意味も込められたものではない。しかし、イタリアやポルトガルなどのラテン語圏において、「カカ」と言う呼び名は発音によっては汚物(CACCA)を意味するため、ACミランへ移籍する際は愛称を変えなくてはならないというような議論もされたようで、またミランより先にオファーしていたユヴェントスがこのような理由で獲得を断念したという。「Kaká」は2番目の「á」にアクセントをつけて発音するため、「カ(ッ)カァ」という感じで聞こえることが多い。なお、イタリア語などでは、そのアクセントの表記法に従いKakàとなることがある。ミランでは「リッキー」という愛称で呼ばれていたとのこと。
[編集] エピソード
- ACミランからの移籍金は自分の取り分も含めて全額をサンパウロFCへお世話になったお礼にと渡してしまった。これを知ったミラン経営陣は感激してもう一度カカの取り分を支払った。
- 「もがみ国際交流協会」を通した、サンパウロFCのジュニアチームと地元少年サッカー少年団との国際親善試合の第1回の招待チームの一員として1993年10月に訪日。山形県最上町に滞在したことがある[26]。当時11歳だったカカは、この試合で最優秀選手に選ばれ、賞金5千円を獲得[27]。このお金は、「初めてのギャラだ」としてブラジルの実家で大切に保管してあるとのこと。またこのときホームステイした家庭及び協会の事務局長を務めた人物とは今もなお親交があり、カカのことを「日本人以上に律儀な子」と語っているほか、FIFAクラブワールドカップ2007出場のため来日した際には2007年12月6日に放送された同大会の特番の番組内で再会を果たしている。なお、事務局長夫婦とのその後の交流を描いた物語が、「日本のお父さん、お母さん」というタイトルで平成20年度の日本の小学校の道徳の副読本に掲載された。
- FIFAクラブワールドカップ2007出場のため来日していた2007年12月8日、パオロ・マルディーニやカフー、クラレンス・セードルフらACミランのチームメイト及びスタッフと共に横浜アリーナで開催されたK-1 WORLD GP 2007 FINALの観戦に訪れ、同大会の中継でも観戦している様子が流された。
- FIFAクラブワールドカップ2007の大会MVP受賞で獲得した賞金約2050万円(12万8000ユーロ)を、ACミランが運営する基金に全額寄付した[28]。
- 2010年5月28日に配信された週刊トロ・ステーション第三十号にビデオレターで出演(PlaystationとVAIOの連携によるワールドカップ企画のプロモーションの為)。「トロ・ステーションを見ているみんな こんにちは!カカです。」と挨拶した。
[編集] 脚注
- ^ イタリア国籍を取得するには先祖にイタリア人がいるかどうか様々な証明書や書類が必要。
- ^ a b c d e f 『ワールドサッカーダイジェスト』第258号のインタビューにて発言。
- ^ Brazil Travelv-brazil.com
- ^ SOCCER : Kaka able to see beyond dollar signsnytimes.com、2004年12月1日
- ^ Soccer star Kaká puts the floodlights on global hungerWorld Food Programme、2004年11月30日
- ^ カカ、ミランひと筋を明言livedoor.com、2007年12月18日
- ^ Kaka will not leave Milanskysports、2008年2月29日
- ^ “118億円提示、熱帯びるカカ移籍騒動=狙うマンC、交渉進展も”. 時事通信. (2009年1月16日). オリジナルの2009年1月21日時点によるアーカイブ。
- ^ “サッカー=カカ、ACミランに残留”. ロイター. (2009年1月20日) 2011年2月17日閲覧。
- ^ なお、レアル・マドリードは同年夏の移籍市場で前述のジダン獲得を上回る移籍金9400万ユーロ(約128億円)でマンチェスター・ユナイテッドからクリスティアーノ・ロナウドを獲得しており、現在は史上3番目の記録となる。
- ^ “サッカー選手の高額移籍金ランキング”. AFPBB News (2009年6月12日). 2009年10月9日閲覧。
- ^ デイリースポーツオンライン (2009年6月10日). “カカ“円満移籍”92億6年契約でレアルに”. 2009年9月19日閲覧。
- ^ “カカ レアル・マドリードへ移籍”. AFP BB News (2009年6月10日). 2009年11月23日閲覧。
- ^ カカーの加入を待ちわびるジダンlivedoor.com、2009年6月5日
- ^ カカーの入団時、8番はフェルナンド・ガゴが着けており、結果的にはそのガゴが5番を背負うことになった。
- ^ “恥骨炎に苦しめられるカカー”. livedoor.com (2010年1月12日). 2010年7月12日閲覧。
- ^ “Goal.com Special: 10 Worst La Liga Transfers Of 2009-10”. Goal.com (2010年4月14日). 2010年7月12日閲覧。
- ^ “モウリーニョ・レアルに痛手! カカが半月板損傷で全治4カ月に…”. biglobeニュース (2010年8月6日). 2010年8月31日閲覧。
- ^ “レアル・マドリーのカカ、238日ぶりの招集メンバー入り”. スポーツナビ (2011年1月3日). 2011年1月4日閲覧。
- ^ “長いトンネルから抜け出したカカ”. スポーツナビ (2011年11月18日). 2011年11月18日閲覧。
- ^ “カカー、代表復帰ならず”. Goal.com (2011年11月8日). 2011年11月8日閲覧。
- ^ なおこの際、メディカルスタッフへの批判も報じられたが、それは当時のブラジル代表監督を務めていたドゥンガがしたことであり、カカーがしたというのはメディアの捏造であることが後に発覚した。
- ^ カカ以外の出演者はルシオ、マルコス・セナなど。
- ^ http://news.livedoor.com/article/detail/3516960/
- ^ Kaká is the new FIFA 11 cover starinside World Soccer、2010年8月6日
- ^ 2010年6月12日に放送された情報7days ニュースキャスター及び山形の“パパとママ”カカ弾に興奮/F組より
- ^ この親善試合の対戦相手の中に、のちにJリーガーとなる佐々木勇人が出場していた。
- ^ 日刊スポーツ (2007年12月18日). “カカが美人妻と離日「来年も」”. 2009年2月18日閲覧。
[編集] 個人成績
| クラブ | シーズン | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 欧州カップ戦 | 期間通算 | ||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |||
| サンパウロ | 2001 | 8 | 27 | 12 | 7 | 1 | 5 | 0 | 39 | 13 |
| 2002 | 8 | 22 | 9 | 9 | 6 | - | - | 31 | 15 | |
| 2003 | 8 | 10 | 2 | 5 | 0 | - | - | 15 | 2 | |
| 通算 | 59 | 23 | 21 | 7 | 5 | 0 | 85 | 30 | ||
| ACミラン | 2003-04 | 22 | 30 | 10 | 4 | 0 | 10 | 4 | 44 | 14 |
| 2004-05 | 22 | 36 | 7 | 1 | 0 | 13 | 2 | 50 | 9 | |
| 2005-06 | 22 | 35 | 14 | 2 | 0 | 12 | 5 | 49 | 19 | |
| 2006-07 | 22 | 31 | 8 | 2 | 0 | 15 | 10 | 48 | 18 | |
| 2007-08 | 22 | 30 | 15 | 0 | 0 | 9 | 3 | 39 | 18 | |
| 2008-09 | 22 | 31 | 16 | 1 | 0 | 4 | 0 | 36 | 16 | |
| 通算 | 193 | 70 | 10 | 0 | 63 | 24 | 266 | 94 | ||
| R・マドリード | 2009-10 | 8 | 25 | 8 | 1 | 0 | 7 | 1 | 33 | 9 |
| 2010-11 | 8 | 14 | 7 | 3 | 0 | 3 | 0 | 20 | 7 | |
| 通算 | 39 | 15 | 4 | 0 | 10 | 1 | 53 | 16 | ||
| 総通算 | 291 | 108 | 35 | 7 | 78 | 25 | 404 | 140 | ||
[編集] 代表歴
- 1999年 : FIFA U-17世界選手権大会 - 優勝
- 2001年 : FIFAワールドユース選手権 - ベスト8
- 2002年1月31日 : ボリビア戦でブラジルA代表デビュー
- 2002年 : FIFAワールドカップ日韓大会 - 優勝
- 2005年 : FIFAコンフェデレーションズカップ - 優勝
- 2006年 : FIFAワールドカップドイツ大会 - ベスト8
- 2009年 : FIFAコンフェデレーションズカップ - 優勝
- 2010年 : FIFAワールドカップ南アフリカ大会 - ベスト8
[編集] 獲得タイトル
- 代表
- 1999年 : FIFA U-17世界選手権大会 - 優勝
- 2002年 : FIFAワールドカップ日韓大会 - 優勝
- 2005年 : FIFAコンフェデレーションズカップ - 優勝
- 2009年 : FIFAコンフェデレーションズカップ - 優勝
- クラブ
- サンパウロFC
- 2001年 : ヒオ・サンパウロ杯- 優勝
- ACミラン
- 2003年-2004年 : セリエA - リーグ優勝
- 2004年 : イタリア・スーパーカップ - 優勝
- 2006年-2007年 : UEFAチャンピオンズリーグ - 優勝
- 2007年 : UEFAスーパーカップ - 優勝、FIFAクラブワールドカップ - 優勝
- 個人
- 2002年 : ボーラ・ジ・オーロ(ブラジル全国選手権MVP)
- 2003年 - 2004年 : オスカル・デル・カルチョ(セリエAリーグMVP、最優秀外国人選手賞)
- 2004年 - 2005年 : UEFAチャンピオンズリーグ最優秀MF
- 2005年 - 2006年 : オスカル・デル・カルチョ(セリエA最優秀外国人選手賞)
- 2006年:
- 2006年 - 2007年:
- UEFA年間最優秀選手(UEFAチャンピオンズリーグMVP)
- UEFAチャンピオンズリーグ得点王、最優秀FW
- オスカル・デル・カルチョ(セリエAリーグMVP、最優秀外国人選手賞)
- 2007年:
- 2007年 - 2008年 : FIFAクラブワールドカップ大会MVP
- 2009年 - FIFAコンフェデレーションズカップ大会MVP(ゴールデンボール)
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1 カシージャス | 2 カルヴァーリョ | 3 ペペ | 4 S・ラモス | 5 シャヒン | 6 ケディラ | 7 C・ロナウド | 8 カカ | 9 ベンゼマ | 10 エジル | 11 グラネロ | 12 マルセロ | 13 アダン | 14 X・アロンソ | 15 コエントラン | 16 アルトゥントップ | 17 アルベロア | 18 アルビオル | 19 ヴァラーヌ | 20 イグアイン | 21 カジェホン | 22 ディ・マリア | 24 ディアッラ 監督: モウリーニョ |
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