フィリッポ・インザーギ

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フィリッポ・インザーギ Football pictogram.svg
Filippo Inzaghi.jpg
名前
本名 Filippo Inzaghi
愛称 ピッポ、スーペル・ピッポ
カタカナ フィリッポ・インザーギ
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 1973年8月9日(38歳)
出身地 ピアチェンツァ
身長 181cm
体重 74kg
選手情報
在籍チーム イタリアの旗 ACミラン
ポジション FWCF
背番号 9
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
1991-1995
1992-1993
1993-1994
1995-1996
1996-1997
1997-2001
2001-
イタリアの旗 ピアチェンツァ
イタリアの旗 レッフェ
イタリアの旗 ヴェローナ
イタリアの旗 パルマ
イタリアの旗 アタランタ
イタリアの旗 ユヴェントス
イタリアの旗 ACミラン
39 (15)
21 (13)
36 (13)
15 0(2)
33 (24)
122 (58)
190 (71)
代表歴 2
1993-1996
1997-2007
イタリアの旗 イタリア U-21
イタリアの旗 イタリア
14 (3)
57 (25)
1. 国内リーグ戦に限る。2010年9月5日現在。
2. 2007年9月8日現在。
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フィリッポ・インザーギ(Filippo Inzaghi, 1973年8月9日 - )は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州ピアチェンツァ出身のサッカー選手セリエAACミラン所属。元イタリア代表

目次

[編集] 来歴

[編集] 流浪時代

当時セリエBに所属していた ピアチェンツァ下部組織で本格的に競技生活をスタートさせ、1991年に見事トップチームへ昇格を果たす。翌年に当時セリエC1に所属していたレッフェレンタル移籍し、21試合に出場し13得点を記録。その翌年に今度は当時セリエBに所属していたヴェローナに渡り、36試合に出場し13得点を記録した。

この活躍で1994年に開催されたU-21の欧州選手権のイタリア代表にも選出され、後の代表でも共に戦うクリスティアン・ヴィエリアレッサンドロ・デル・ピエロと出場している。

2クラブへのレンタル移籍を経て、1994-95シーズンにピアチェンツァに戻り、37試合に出場し15得点を記録。クラブはセリエBを優勝しセリエAに昇格した。この活躍により当時の強豪パルマに引き抜かれ、ピアチェンツァを後にする。

パルマというセリエAで優勝争いを繰り広げる強豪の一員に加わったが、当時の攻撃陣には黒豹と評されたファウスティーノ・アスプリージャや闘将フリスト・ストイチコフ、そしてジャンフランコ・ゾラがおり、1995-96シーズンは完全に控えに回り、途中出場で15試合に出場、僅かばかりの2得点を稼ぐのがやっとであった。またシーズン終盤には足首を骨折して、ベンチにも座れない日々が続いた。

1995-96シーズン終了後にはパルマから放出され、奇しくもセリエAデビューを飾った際の対戦相手、アタランタに移籍した。活躍の場を与えられたインザーギは、シーズン序盤から得点を着実に重ねチームを牽引、気がつけばリーグ最多の24得点を挙げ、セリエAの得点王に輝き一躍注目の点取り屋となった。

[編集] ユヴェントス時代

アタランタBCでの活躍により、予てから入団を熱望していたユヴェントスに(推定)移籍金200億リラ、(推定)年俸20億リラ、5年契約で入団[1]。当時のユヴェントスのエースはアレッサンドロ・デル・ピエロ、そしてクリスティアン・ヴィエリアレン・ボクシッチがいたが、後者の2人がインザーギと入れ代わりで退団し、当然デル・ピエロとインザーギの2トップが形成された。

迎えた1997-98シーズン、開幕当初はチーム自体が波に乗れず、インザーギとデル・ピエロのコンビ(後に「デル・ピッポ」と評される)は、前シーズンまで所属したヴィエリ、ボクシッチの2人に比べてあまりにもCFとしての重厚感の乏しさを指摘される一幕もあったが、インザーギは18得点を記録し(デル・ピエロは21得点)、またジネディーヌ・ジダンという圧倒的な存在の輝きもあり、結果的にユヴェントスはリーグ2連覇を達成した。

1998-99シーズン、W杯出場選手の疲労からチームは低調が続き、インザーギ自身も前シーズンの終わり頃から抱えていた内転筋の炎症に悩まされ[2]、またデル・ピエロが長期離脱を余儀なくされ、更に年明けに当時ローマの指揮を執っていたズデネク・ゼーマンによるユヴェントスの選手を中心としたドーピング疑惑の告発により、インザーギ自身も参考人としてトリノ検事局で証言するなど[2]、ごたごたシーズンの中でチームは6位の成績に終わった。

ユヴェントスがトレゼゲを獲得、そして彼がフィットしていくに連れて出場機会が減っていったために2001年ACミランへ移籍金約27億円で移籍した。

[編集] ACミラン時代

2002-03シーズンはセリエAにおいてチームトップの17得点を挙げた。またチャンピオンズリーグでは準々決勝アヤックス戦2ndレグにおいて、自らの先制ゴールをはじめとした全得点に絡む獅子奮迅の活躍を見せるなどして、チームの6度目のビッグイヤー獲得に貢献した。

その後2シーズンは怪我に苦しみ、2004-05シーズンに至っては無得点に終わるなど、満足な活躍を見せられなかった。 2005-06シーズンも当初は欠場を余儀なくされたが、怪我を癒して迎えた第8節パレルモ戦にて、ブランクを感じさせない執念のダイビングヘッドを決めてみせた。やがて調子を上げたインザーギは、このシーズンから加入したアルベルト・ジラルディーノからレギュラーを奪い、セリエAにおいては12得点を挙げた。この復活劇は当時のイタリア代表監督マルチェロ・リッピの目に留まり、ドイツW杯メンバーに名を連ねることにもつながった。 またチャンピオンズリーグにおいても、ベスト16のバイエルン・ミュンヘン戦2ndレグ、準々決勝のリヨン戦2ndレグでそれぞれ2ゴールを挙げるなど好調を維持していた。しかし、準決勝直前に風邪をひきFCバルセロナ戦の1stレグは欠場、2ndレグの出場は叶ったが精彩を欠き、クラブも敗戦し決勝進出を逃した。ちなみに、2006年3月8日には欧州カップでの通算50ゴール目を決めている。

2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ予備戦レッドスター・ベオグラード戦でホーム・アウェイ共にゴールを決めミランを本戦出場の原動力となるなど滑り出しこそ好調だったが、途中怪我もあり満足な活躍が出来なかった。しかし、チャンピオンズリーグ決勝リヴァプール戦では「らしさ」をフルに発揮、全2得点を叩き出して勝利への原動力となり、試合後にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(この時のユニフォームはチャリティオークションに出品し、200万円以上の値が付いたと言われる)。チャンピオンズリーグでの相性の良さ(この時点で66試合38ゴール、歴代3位)を見せつけ、殊に予備戦という最初と決勝という最後で大仕事をやってのけた。この2ゴールをキャリアでのベストゴールと本人も話している。負けたイギリスの新聞には、インザーギの最初の得点がハンドではないかという疑惑に引っ掛けて、「インザーギの腕に負けた」と書きたてたものもあったが、2005年のリヴァプールの奇跡に対するリベンジ(イスタンブールの悲劇を参照。この試合にインザーギは出場していない)を止められなかったと敗戦は認めた。なお、手が体に密着していたのでハンドではないとする見方が一般的である。ちなみにファビオ・カンナヴァーロは最初の得点を見て、「運ではない。これがインザーギだ。」と呟いたという[3]

2007年11月6日時点で予備予選を含むCLでは45ゴール、欧州カップでは97試合62ゴールを記録している。欧州カップでは現役首位、過去を含めてもゲルト・ミュラーと並ぶ最多得点者であったが、2007年12月4日、チャンピオンズリーグ、グループステージ第6節(対セルティック戦)の後半25分にゴールを決め、ゲルト・ミュラーの持つ欧州カップ戦における最多得点記録を抜いた。そしてFIFAクラブワールドカップ2007決勝ボカ・ジュニアーズ戦でも2得点で優勝に貢献。CL、UEFAスーパーカップ、CWCと3つの決勝戦で5得点と大舞台での勝負強さを発揮して、2007年を非常に実りのある年とした。2007-08シーズンは怪我もあり欠場も多かったが、シーズン終盤には5試合連続ゴールを含む9ゴールを挙げた。

2009年3月15日、アウェーのシエナ戦で2ゴールを決め、キャリア300ゴールを達成。シルヴィオ・ピオラ(364)、ジュゼッペ・メアッツァ(338)、ロベルト・バッジョ(318)に次ぐイタリア人においては4番目の同記録達成者となった。試合前日に背番号300INZAGHIというユニフォームを用意しており、それを使うこととなった[4]

2010年11月3日、ホームでのCLレアル・マドリード戦で2ゴールを決めたが、ゲルト・ミュラーラウル・ゴンサレスが挙げた欧州カップ通算69得点を追い越す70得点目という歴代最多得点記録となった[5][6](現時点ではラウルがさらに追い抜いている)。またミランにおいてはマルコ・ファン・バステンの記録124得点を追い抜く通算125得点の記録を打ち立てる得点となった[5] 。キャリア300ゴール達成時のように、背番号70INZAGHIというユニフォームを用意してその喜びを示した。対戦前にも彼を警戒するコメントを発していた敵将ジョゼ・モウリーニョからも祝福を受けた[7]

上記のゴールでキャリア315得点に達しR.バッジョの記録が射程圏内に入った矢先の11日、パレルモ戦で負傷退場、そして左ひざの前十字靭帯及び外半月板の損傷により全治6-9ヶ月と診断された[8][9]

[編集] イタリア代表

イタリア代表としては1997年6月8日にフランスリヨンで行われたブラジルとの親善試合で代表デビューを飾り、1998 FIFAワールドカップUEFA欧州選手権20002002 FIFAワールドカップUEFA欧州選手権20042006 FIFAワールドカップを始め、国際Aマッチ57試合に出場し25得点を記録した。

2004年の欧州選手権後に負傷し、代表からは遠ざかっていたが、クラブで好調を維持した事もあり、ドイツ大会のイタリア代表に再び名を連ねる事となった。そして、決勝トーナメント進出のかかったチェコ戦でキーパーのペトル・チェフをドリブルでかわしゴールを決め、W杯3回目の出場にしてついに初ゴールを決めた。その後イタリア代表は、トーナメントを勝ち進み24年ぶりのワールドカップ優勝を決めた。

[編集] 特徴・評価

インザーギの通算300ゴール達成時点での内訳は、カテゴリーではセリエA145、B28、C1で13。代表25、アンダー21代表3。コッパ・イタリア15、欧州カップ66、(伊、欧)スーパーカップ3、クラブワールドカップ2。内容は右足123、左足79、頭63、PK17、「脚」14、FK3、肩1。ヒザや太ももなど「脚のどこか」で泥臭く14点も取っているのが特徴的である[10]。欧州カップ戦でも史上最多の70得点を誇る。

ファビオ・カンナヴァーロは自身が作成した優秀なフォワードベスト3にインザーギを挙げ、理由については「抜群に鼻(得点感覚)が利くからさ。ACミランというビッグクラブで長年にわたって得点を量産することは並大抵のことではない…。脱帽だよ」と語っている[10]マンチェスター・ユナイテッドFC監督のアレックス・ファーガソンは、オフサイドラインを上手く突破するインザーギについて「オフサイドポジションで生まれた男」とコメントしている[11]。またヨハン・クライフは「彼はサッカーをまったくしていない。ただ常に的を射た場所にいるだけだ」、ゲルト・ミュラーは「彼がしている事の全てはゴールを決めることだ」とのコメントを残している[11]

[編集] エピソード

  • プレイボーイとしても知られ、よくイタリアのタブロイド紙を賑わせている。
  • 実弟のシモーネ・インザーギは元サッカー選手である。
  • クリスティアン・ヴィエリとは非常に仲が良い。
  • フリーの時にボールがこないと「なんでくれないの!」というような大袈裟なパフォーマンスをする。
  • 数字やランキングに非常にこだわる性格で、上記300ゴール時点での内訳でどのカテゴリーで何点取ったかを暗記しており、インタビューですらすらと答えてみせている[要出典]。そこで200ゴール目を決めた瞬間から300ゴールを目指していた、またR・バッジョ越えも狙っているとも話している。
  • 子供の頃はリネカーが憧れの選手であった。セリエAでは9番を好んで付けているが、その頃はリネカーの10番を付けてたくさんのゴールを決めていたと話している。そのため上記チームメイトからの称賛では、特にベッカムからのものを喜んでいた。

[編集] タイトル

[編集] クラブ

  • セリエA
    • 1996-97、ユベントス
    • 1997-98、ユベントス
    • 2003-04、ACミラン
  • UEFAチャンピオンズリーグ
    • 2002-03、ACミラン
    • 2006-07、ACミラン
  •  FIFAクラブワールドカップ
    • 2007、 ACミラン

[編集] 個人

  • セリエA最優秀若手選手、1996-97
  • セリエA得点王、1996-97

[編集] 所属クラブ・成績

クラブ シーズン リーグ イタリア杯 UEFACL・EL その他 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
ピアチェンツァ 1991-92 2 0 1 0 - - - - 3 0
レッフェ 1992-93 21 13 - - - - - - 21 13
ヴェローナ 1993-94 36 13 1 1 - - - - 37 14
ピアチェンツァ 1994-95 37 15 4 2 - - - - 41 17
パルマ 1995-96 15 2 1 0 6 2 - - 22 4
アタランタ 1996-97 33 24 1 1 - - - - 34 25
ユヴェントス 1997-98 31 18 4 1 10 6 1 2 46 27
1998-99 30 14 1 0 10 6 1 0 42 20
1999-00 33 15 2 1 8 10 - - 43 26
2000-01 28 11 - - 6 5 - - 34 16
通算 122 58 7 2 34 27 2 2 165 89
ミラン 2001-02 20 10 1 2 7 4 - - 28 16
2002-03 30 17 3 1 16 12 - - 49 30
2003-04 14 3 3 2 9 2 2 0 28 7
2004-05 11 0 2 0 2 1 - - 15 1
2005-06 23 12 2 1 6 4 - - 31 17
2006-07 20 2 5 3 12 6 - - 37 11
2007-08 21 11 - - 6 5 2 2 29 18
2008-09 26 13 - - 6 3 - - 32 16
2009-10 24 2 2 1 7 2 - - 33 5
2010-11 6 2 0 0 0 0 - - 1 1
通算 190 71 18 10 71 39 4 2 283 122
生涯通算 460 196 33 16 111 68 6 4 606 284

※所属リーグは2009-10シーズンまでレガ・カルチョ、2010-11シーズンよりレガ・セリエA

[編集] 背番号

  • 9(1997年 - )

[編集] 脚注

  1. ^ 金子義仁 『ワールドサッカーすごいヤツ全集』 フットワーク出版、1999年、p.147-153。ISBN 4-87689-330-6
  2. ^ a b 金子義仁 『ワールドサッカーすごいヤツ全集 2005~2006』 フットワーク出版、2004年、p.18-26。ISBN 4-87689-509-0
  3. ^Sports Graphic Number誌より[要出典]
  4. ^ ミランFWインザーギ300得点” (2009.3.17付ニュースリリース). 2009.03.17 8:13 (UTC)..閲覧。
  5. ^ a b フィリッポ、ヨーロッパの王様” (2010.4.11付ニュースリリース). 2010.11.6 14:12 (UTC)..閲覧。
  6. ^ UEFA主催クラブ大会の最多得点者は? http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=1563813.html
  7. ^ インザーギ、欧州70ゴールに到達
  8. ^ ミランのインザーギ、じん帯損傷で今季絶望「決してあきらめはしない」 スポーツナビ 2010.11.12付記事 (アーカイヴ)
  9. ^ Inzaghi se rompe el cruzado y se pierde el resto de temporada (スペイン語) マルカ 2010.11.11付記事
  10. ^ a b ワールドサッカーダイジェスト誌の記事およびインタビューより
  11. ^ a b Rob Bagchi (2009年3月18日). “Inzaghi finds greatness in greed” (英語). ガーディアンスポーツブログ. 2010.5.24 05:26 (UTC)..閲覧。

[編集] 外部リンク

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