フィリッポ・インザーギ

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フィリッポ・インザーギ
名前
愛称 ピッポ、スーペル・ピッポ、ワンタッチストライカー
ラテン文字 Filippo INZAGHI
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 1973年8月9日(35歳)
出身地 ピアチェンツァ
身長 181cm
体重 74kg
選手情報
在籍チーム イタリアの旗 ACミラン
ポジション FW
背番号 9
利き足 右足
代表歴
1997-2007 イタリア 57 (25)
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

フィリッポ・インザーギFilippo Inzaghi1973年8月9日 - )は、イタリアピアチェンツァ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。愛称は「ピッポ」「スーペル・ピッポ」(「スーペル」とは、イタリア語でスーパーの意。よって、ACミラン日本語公式サイト等、翻訳者によっては「スーパー・ピッポ」と表記される事もある)。

目次

[編集] 経歴

[編集] クラブ

1996-97シーズン、アタランタ所属時に24ゴールでセリエAの得点王に輝く。その活躍が認められ、翌シーズンユヴェントスに移籍。コンスタントにゴールを量産し続けた。しかしユベントスがトレゼゲを獲得、そして彼がフィットしていくに連れて出場機会が減っていったために2001年ACミランへ移籍。ちなみにこの時の移籍金は約27億円である。2002-03シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ制覇の原動力になった。 2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは好調を維持していたが準決勝直前に風邪をひき欠場、クラブも決勝進出を逃した。 近年怪我に悩まされ、引退まで考えていた程であったが、復帰試合でブランクを感じさせない執念のダイビングヘッドを決めてみせる。また、2006年3月8日に欧州カップでの通算50ゴール目を決めた。

2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ予備戦レッドスター・ベオグラード戦でホーム・アウェイ共にゴールを決めミランを本戦出場の原動力となるなど滑り出しこそ好調だったが、途中怪我もあり満足な活躍が出来なかった。しかしチャンピオンズリーグ決勝リヴァプール戦では「らしさ」をフルに発揮、全2得点を叩き出して勝利への原動力となり、試合後にはマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた(この時のユニフォームはチャリティオークションに出品し、200万円以上の値が付いたと言われる)。チャンピオンズリーグでの相性の良さ(この時点で66試合38ゴール、歴代3位)を見せつけ、殊に予備戦という最初と決勝という最後で大仕事をやってのけた。この2ゴールをキャリアでのベストゴールと本人も話している。負けたイギリスの新聞には、インザーギの最初の得点がハンドではないかという疑惑に引っ掛けて、「インザーギの腕に負けた」と書きたてたものもあったが、2005年のリヴァプールの奇跡に対するリベンジ(イスタンブールの悲劇を参照。この試合にインザーギは出場していない)を止められなかったと敗戦は認めた。ちなみにカンナヴァーロは最初の得点を見て、「運ではない。これがインザーギだ。」と呟いたという[1]。また、手が体に密着していたのでハンドではないとする見方が一般的である。

2007年11月6日時点で予備予選を含むCLでは45ゴール、欧州カップでは97試合62ゴールを記録している。欧州カップでは現役首位、過去を含めてもゲルト・ミュラーと並ぶ最多得点者であったが、2007年12月4日、UEFAチャンピオンズリーグ、グループステージ第6節(対セルティック戦)の後半25分にゴールを決め、ゲルト・ミュラーの持つ欧州カップ戦における最多得点記録を抜いた。そしてFIFAクラブワールドカップ2007決勝ボカ・ジュニアーズ戦でも2得点で優勝に貢献。CL、UEFAスーパーカップ、CWCと3つの決勝戦で5得点と大舞台での勝負強さを発揮して、2007年を非常に実りのある年とした。2007-08シーズンは怪我もあり欠場も多かったが、シーズン終盤には5試合連続9ゴールを含む怒涛のゴールラッシュを見せ、健在振りをアピールした。

2009年3月15日、アウェーのACシエナ戦で2ゴールを決め、キャリア300ゴールを達成した。シルヴィオ・ピオラ(364)、ジュゼッペ・メアッツァ(338)、ロベルト・バッジョ(318)に次ぐイタリア人4番目の偉業である。奇しくもレッフェ所属時のプロ初ゴールもシエナ戦だった。試合前日に背番号300INZAGHIというユニフォームを用意したが、早速それを使うこととなった。

[編集] イタリア代表

イタリア代表としては1997年6月8日にフランスリヨンで行われたブラジルとの親善試合で代表デビューを飾り、1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会、2000年のUEFA欧州選手権2000、2002年のFIFAワールドカップ・日韓大会、2004年のUEFA欧州選手権2004、2006年のFIFAワールドカップ・ドイツ大会を始め、国際Aマッチ57試合に出場し25得点を記録した。

2004年の欧州選手権後に負傷し、代表からは遠ざかっていたが、クラブで好調を維持した事もあり、ドイツ大会のイタリア代表に再び名を連ねる事となった。そして、決勝トーナメント進出のかかったチェコ戦でキーパーのペトル・チェフをドリブルでかわしゴールを決め、W杯3回目の出場にしてついに初ゴールを決めた。その後イタリア代表は、トーナメントを勝ち進み24年ぶりのワールドカップ優勝を決めた。

[編集] プレースタイル

特別なフィジカルや目を見張る技術は持ち合わせていないが、「他のFWの選手と自分の違いは得点感覚」と自負するようにポジショニングセンスや飛び出しの巧さ、高い反応速度でピンポイントでボールに合わせゴールを奪う。フィニッシュ以外は殆どプレーに携わらず、ラストパスにだけ抜群の反応を見せてワントラップでシュートを決めるその姿は、「ワンタッチの天才」と称されることもある。相手ディフェンスのスペースを見付けて入り込む才能は現代サッカーを代表するストライカーとしては異端、異能とすら言われる。

美味しいところを掻っ攫うイメージが強いが、そのゴールは何本もの動き出しや、相手DFとの駆け引き小競り合いなどの「仕込み」あってのもので、「彼1人見ているだけでも面白い」という意見もあるほど。実際名手揃いのACミランにおける試合中は常に周囲の動きを注視し、彼のスタイルを最大限に生かせるスペースを探っているようにも見える。

これは裏を返せば彼がいる時といない時とで若干ながら全体のプレーに違いがあるということでもある。普段ならカカセードルフが切り込んだ後にシュートを放つことで得られる得点が、インザーギがいることで不意のワンタッチやセンタリングから入る可能性があり、すると当然のことながら相手DFも必然的にドリブル突破だけでなくインザーギのふとしたポジショニングにまで気を使わなくてはならなくなるため、特異なその存在感は非常に大きな影響力を持っていると言える。

オフサイドラインを抜け出しての独走とこぼれ球を押し込む、というゴールのイメージがステレオタイプとしてあるが、強くはなくとも上手いヘッドやスキをついたミドルなど、そのゴール数に見合ったバリエーションも持っている。オフサイドの数が多いほど調子が良いと言われ、何回オフサイドを取られても1点を決める事に全力を注ぐ。アレックス・ファーガソン曰く「オフサイドポジションで生まれた男」。上記300ゴール達成時点での内訳は、カテゴリーではセリエA145、B28、C1で13。代表25、アンダー21代表3。コッパ・イタリア15、欧州カップ66、〈伊、欧)スーパーカップ3、クラブワールドカップ2。内容は右足123、左足79、頭63、PK17、「足」14、FK3、肩1。ヒザや太ももなど「足のどこか」で泥臭く14点も取っているのも特徴的である[2]。また、300ゴールの内296ゴールが「ペナルティエリア内からのシュート」というのも、彼がいかにゴール前でのポジショニングが優れているかを裏付けるデータだろう。

またファウルを貰うことを常に狙っており、故意に相手を苛立てて攻撃的に振舞わせたり、自ら体をぶつけて相手DFが応戦してきた瞬間に大袈裟に倒されたりと徹底されており、不意に足でも出してしまえば「待ってました」とばかりにダイブしてくる。 それ故、DFはインザーギのプレー以外での執拗な攻撃に耐えながら一際マークに集中しないという破目になり、一つ集中を切らしてしまえばインザーギの術中に陥ってしまう。

フランス代表マルセル・デサイーは「インザーギとの対戦はまるで悪夢だった」と発言している。チームメイトではファヴァッリは「ペナルティエリアの王様」、カカは「ロマーリオの再来」、ベッカムは「あのゲーリー・リネカーを彷彿させるストライカーだ」と称えている。

[編集] エピソード

  • プレイボーイとしても知られ、よくイタリアのタブロイド紙を賑わせている。ただし夜遊び好きとはいえ自己管理節制とも両立させており、長く活躍を続けているのもそのおかげだと話している。
  • 実弟のシモーネ・インザーギもサッカー選手である。
  • クリスティアン・ヴィエリとは非常に仲が良い。
  • フリーの時にボールがこないと「なんでくれないの!」というような大袈裟なパフォーマンスをする。また、ゴールを決めた後の発狂したかのような形相と倒れ方は、そのまま死んでしまいそうな程の激しさを持つ。
  • 数字やランキングに非常にこだわる性格で、上記300ゴール時点での内訳でどのカテゴリーで何点取ったかを暗記しており、インタビューですらすらと答えてみせている。そこで200ゴール目を決めた瞬間から300ゴールを目指していた、またR・バッジョ越えも狙っているとも話している。
  • 子供の頃はリネカーが憧れの選手であった。セリエAでは9番を好んで付けているが、その頃はリネカーの10番を付けてたくさんのゴールを決めていたと話している。そのため上記チームメイトからの称賛では、特にベッカムからのものを喜んでいた。
  • セリエAのDFからのアンケートで、アンドレイ・シェフチェンコダヴィド・トレゼゲズラタン・イブラヒモビッチを抑えて「最も対峙したくないFW」と統計されたことがある。
  • 佐藤寿人のプレースタイルはインザーギのそれを模範としている。
  • ミランの副会長ガッリアーニは、ピッポの父親に自分のチームに将来入るだろうと予言していた。
  • 元ドイツ代表・元バイエルン・ミュンヘン所属GKオリバー・カーンが、バイエルン・ミュンヘンでキャリアを終えた後に「対戦した中で最も素晴らしかったフォワードは誰か?」と聞かれた際、「最も素晴らしいと思ったフォワードはロナウド、でも対戦していて最も嫌だったフォワードはインザーギだ。あいつは大事な試合ではいつも俺からゴールを奪う。」と語っている。
  • 一部のサッカーファンからは「ワンタッチストライカー」と賞賛されている。

[編集] タイトル

[編集] クラブ

  • セリエA
    • 1996-97、Juventus
    • 1997-98、Juventus
    • 2003-04、AC Milan
  • UEFAチャンピオンズリーグ
    • 2002-03、AC Milan
    • 2006-07、AC Milan
  •  FIFAクラブワールドカップ
    • 2007、 AC Milan

[編集] 個人

  • セリエA最優秀若手選手、1996-97
  • セリエA得点王、1996-97

[編集] 所属クラブ・成績

シーズン クラブ リーグ リーグ戦 UEFACL・カップ コッパ・イタリア その他 合 計
1991-1992 ピアチェンツァ B 2試合 0得点 - 1試合 0得点 - 3試合 0得点
1992-1993 レッフェ C1 21試合13得点 - - - 21試合13得点
1993-1994 ヴェローナ B 36試合13得点 - 1試合 1得点 - 37試合14得点
1994-1995 ピアチェンツァ B 37試合15得点 - 4試合 2得点 - 41試合17得点
1995-1996 パルマ A 15試合 2得点 6試合 2得点 1試合 0得点 - 22試合 4得点
1996-1997 アタランタ A 33試合24得点 - 1試合 1得点 - 34試合25得点
1997-1998 ユヴェントス A 31試合18得点 10試合 6得点 4試合 1得点 1試合 2得点 45試合25得点
1998-1999 ユヴェントス A 28試合13得点 10試合 6得点 1試合 0得点 1試合 0得点 39試合19得点
1999-2000 ユヴェントス A 33試合15得点 8試合10得点 2試合 1得点 - 43試合26得点
2000-2001 ユヴェントス A 28試合11得点 6試合 5得点 - - 34試合16得点
2001-2002 ACミラン A 20試合10得点 7試合 4得点 1試合 2得点 - 28試合16得点
2002-2003 ACミラン A 30試合17得点 16試合12得点 3試合 1得点 - 49試合30得点
2003-2004 ACミラン A 14試合 3得点 8試合 2得点 3試合 2得点 3試合 0得点 25試合 7得点
2004-2005 ACミラン A 11試合 0得点 2試合 1得点 2試合 0得点 - 15試合 1得点
2005-2006 ACミラン A 23試合12得点 6試合 4得点 2試合1得点 - 31試合17得点
2006-2007 ACミラン A 20試合 2得点 11試合 4得点 5試合 3得点 - 36試合 9得点
2007-2008 ACミラン A 21試合11得点 5試合 4得点 - - 26試合15得点
通算 - - 403試合179得点 95試合60得点 31試合15得点 5試合 2得点 529試合254得点

※所属リーグは全てレガ・カルチョ

[編集] 脚注

ウィキメディア・コモンズ
  1. ^Sports Graphic Number誌より)
  2. ^ ワールドサッカーダイジェスト誌の記事およびインタビューより
先代:
イゴール・プロッティ
セリエA得点王
1996-1997(24得点)
次代:
オリバー・ビアホフ